第5話「パターンの発見」
翌朝の研究室は、昨日までの静謐な学び舎としての空気を完全に喪失していた。
ドアを開けた瞬間に肌にまとわりつくのは、熱を帯びた電子機器の匂いと、目に見えない焦燥の粒子だ。それは、物理的な匂いというよりも、空気そのものが帯びた緊張感だった。人々の不安が、空間に充満している。
部屋の隅に増設されたサーバーの冷却ファンが、獣の唸り声のような重低音を響かせている。その音は、絶え間なく続いていた。まるで、何かが呼吸をしているかのように。床には太いケーブルが黒い蛇のようにのたうち回り、段ボール箱に詰め込まれた解析機材の間を縫うようにして、大学職員や工学部の院生たちが無言で、しかし慌ただしく行き交っていた。彼らの顔は、一様に緊張していた。誰もが、何かに追われているような焦りを抱えている。
窓の外は相変わらずの雪景色だが、内側の風景は一変している。そこはもう、純粋な学術研究の場ではなく、未知の災害に対抗するための前線基地へと変貌を遂げていた。
洋子は、その変化に戸惑いを感じていた。たった一日で、こんなにも変わるものなのか。昨日までは、静かな研究室だった。自分たちのペースで、雪を研究していた。だが、今は違う。政府の管理下にある。監視されている。そして、結果を求められている。
洋子は、湯気の立つマグカップを自分のデスクに置いた。
ことり、という陶器の音が、喧騒にかき消される。
その音は、あまりにも小さかった。日常的な音が、この異常な状況の中では、まるで意味を持たない。
カップの水面には微細な波紋が走り、なかなか消えようとしない。それが建物の微振動のせいなのか、それともカップを置いた自分自身の指先が震えているせいなのか、今の彼女には判別がつかなかった。おそらく、両方だろう。建物も、自分も、震えている。
「……落ち着かないね」
独り言のように呟き、隣の席を見る。
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。ただ、声に出すことで、少しでも不安を和らげようとした。だが、効果はなかった。
浩はすでにモニターの光に顔を照らされていた。猫背気味に画面に食い入り、まるで積雪の断面を掘り進めるかのように、膨大な観測データのフォルダを一つずつ開き、チェックし、閉じるという作業を繰り返している。
その姿は、いつもの浩だった。だが、どこか違う。集中力が、異常なほど研ぎ澄まされている。まるで、何かに取り憑かれているかのように。
キーボードを叩く指の動きは速いが、その肩には石のような緊張がこびりついていた。肩甲骨が、不自然に盛り上がっている。筋肉が、常に緊張状態にある。
洋子は、そんな浩を見て、心配になった。彼は、昨夜眠ったのだろうか。目の下には、隈ができている。顔色も悪い。
「昨日の会議……頭の奥でずっと鳴り止まない感じだな」
手を止めず、浩がぽつりと漏らした。その声は乾燥して、少し掠れている。喉が渇いているのだろう。だが、水を飲む余裕もないのかもしれない。
「うん。……まさか、私たちが政府の監視下で雪を調べることになるなんてね」
洋子は努めて軽い調子で返そうとしたが、言葉の端は震えていた。軽い調子を装っても、その奥にある不安は隠せない。
昨日の会議室で突きつけられた映像。家族の顔を見ても「知らない」と答える親たちの、あの空虚な瞳。それが網膜に焼き付いて離れない。目を閉じても、その映像が浮かぶ。忘れられない。忘れてはいけない。
今は、愛飲しているコーヒーの香りさえ、安らぎをくれそうになかった。いつもなら、この香りで少しは落ち着く。だが、今日は違う。何を嗅いでも、何を飲んでも、不安は消えない。
浩のモニターには、過去数年分の降雪観測データが流れている。
無数の数字とグラフの羅列。それは一見すると無機質なデータの海だが、今の二人には、その数値の一つ一つが不吉な暗号のように見えていた。この中に、答えがある。消失現象の秘密が、隠されている。だが、それを見つけられるだろうか。
「洋子、ちょっとこっちを見てくれ」
不意に浩の手が止まった。その声には、緊張が混じっていた。何かを見つけたのだ。
「見つけたかもしれない。……数字が、変に跳ねてる場所がある」
その言葉に、洋子の心臓が跳ねた。見つけた。もしかしたら、これが手がかりかもしれない。
洋子は椅子を引き寄せ、浩の画面を覗き込んだ。
二人の顔が、モニターの青白い光に照らされる。その光は、冷たく、無機質だった。
表示されているのは、特定の降雪日における『結晶密度指数』のグラフだ。
洋子は、そのグラフを見た瞬間、息を呑んだ。
普段なら緩やかな波を描くはずの折れ線が、ある一点で異常な挙動を示していた。
滑らかな曲線ではなく、まるで心電図が異常を知らせる時のように、鋭く、垂直に近い角度で天に向かって突き刺さっている。その急上昇は、自然なものではなかった。まるで、何かが爆発したかのような。
「……なにこれ。六花結晶の密度、高すぎない?」
洋子の声に熱がこもる。科学者としての本能が、この異常さに反応している。
「そう思うだろ? 計器の故障かエラーを疑うレベルだ」
浩は画面を切り替え、別のウィンドウを並べて表示させた。その動作は、手慣れていた。彼は、すでに何度もこのデータを見ているのだろう。
それは、昨日村上から共有された『行方不明者発生リスト』のマッピングデータだった。
地図上に、赤い点が散らばっている。それぞれが、消失事件が起きた場所を示している。その数は、多い。そして、増え続けている。
「でも、見てみろ。この異常なピークが出た直後……一週間以内に、必ず周辺地域で人が"消えてる"」
浩の指が、画面を指す。グラフの突起と、地図上の赤い点。その位置が、重なっている。
洋子は息を呑んだ。
グラフの突起と、消失事件の発生マーカー。
二つのデータは、まるであらかじめ示し合わせたかのように、不気味なほど正確に連動していた。場所は北海道、新潟、北陸とばらばらだが、その瞬間の気象条件は判で押したように一致している。偶然ではない。これは、因果関係だ。
「気温は氷点下二度前後。湿度は飽和に近い高湿度。気圧は、低気圧の接近でわずかに下がり気味……」
洋子は画面上の数値を読み上げながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。その数値は、特定の条件を示していた。雪が、異常な成長をする条件。
「これって……雪が、まるで積極的に"形を作りたがっている"ような条件じゃない?」
その言葉は、科学的な表現ではなかった。だが、的確だった。擬人化された表現だが、それ以外に説明のしようがない。
「形を作りたがっている?」
浩が聞き返す。その声には、疑問と、そして興味が混じっていた。洋子の比喩的な表現を、どう理解すればいいのか。だが、その言葉には、何か真実が含まれている気がした。
「うん。大気中の水分が、ただ凍るだけじゃなくて……何か見えない力に急かされるように、猛烈な勢いで結晶化しようとしてる。結晶同士が空中でぶつかり合って、それでも構わずに枝を伸ばし続けているみたい」
彼女の言葉は、科学的な分析というよりは直感的なイメージだった。
だが、その直感は、しばしば真実を突く。洋子の感性は、データの背後にある本質を見抜く。数字だけでは見えないものを、彼女は感じ取ることができる。
だが、その言葉を聞いた浩の脳裏にも、鮮烈な映像が浮かんだ。
上空の暗闇の中で、無数の白い結晶が意思を持った生き物のように群れをなし、互いに絡み合いながら、貪欲に成長していく様。
それは美しくも、どこか狂気を孕んだ光景だ。秩序と混沌が同居している。完璧な幾何学と、制御不能な増殖。その両方が、同時に起きている。
浩は、その映像を頭の中で再生した。雪の結晶が、空中で衝突し、破壊され、それでも成長を続ける。まるで、何かに駆り立てられているかのように。目的を持っているかのように。
「……雪が群れをつくって暴走してる、か。そんな馬鹿げた見え方が、今は一番しっくりくるな」
浩は苦笑いにも似た表情を浮かべ、眼鏡の位置を直した。
その笑いは、自嘲的だった。科学者として、こんな非科学的な表現を使うとは。だが、他に言いようがない。
冗談として笑い飛ばすには、目の前のデータが示唆する事実はあまりにも重い。数字の羅列の裏側に、人間には制御できない巨大な"動き"が潜んでいる。それは、自然法則を超えた何かだ。あるいは、まだ人類が理解していない法則。
机の上には、参考資料として積み上げられた古い論文の束があった。表紙に印刷された顕微鏡写真の雪の結晶が、窓際からの薄明かりを反射して、冷たく光っている。
その光は、鋭かった。まるで、刃物のような。
洋子はその写真の一枚を指先でなぞった。
紙の感触が、指先に伝わる。その写真は、何年も前に撮影されたものだろう。色褪せ、黄ばんでいる。だが、そこに写る結晶は、鮮明だった。
六角形の完璧な幾何学模様。その先端が、鋭い針のように見えた。
美しいが、危険だ。触れれば、傷つきそうな。その印象が、洋子の心に刻まれた。
「ねえ、浩くん。これ、もし単なる自然現象じゃなくて、何かの"兆し"だとしたら……」
洋子の声は、小さかった。だが、その言葉には、重みがあった。
「兆し?」
浩が聞き返す。その言葉の意味を、測りかねている。
「うん。結晶の成長って、ある一定の条件がそろうと、爆発的に加速するでしょ? 臨界点を超えた瞬間に、一気に構造が変わってしまう。……私たちの記憶も、どこかで同じようにバランスを崩すとしたら?」
その比喩は、恐ろしいものだった。記憶が、臨界点を超える。そして、崩壊する。その想像は、洋子自身を震えさせた。
浩は軽く息を呑んだ。
まただ。彼女の独特な比喩。けれど、今の状況においてそれは、どんな論理的な仮説よりも鋭く核心を突いているように思えた。
科学的な説明では、この現象を理解できない。だが、詩的な比喩なら、その本質に迫れるかもしれない。言語化できないものを、イメージで捉える。それが、今必要なことなのかもしれない。
「記憶が……雪みたいに過密になって、自重で崩れるってことか?」
浩は、洋子の言葉を自分なりに解釈した。記憶が蓄積されすぎる。そして、その重みに耐えられなくなる。崩壊する。
「変な話だけど……そう考えると、すごく腑に落ちるの。頭の中がいっぱいになって、耐えきれなくなった瞬間に、ふっと白く塗りつぶされちゃうような」
洋子の視線は、窓の外を舞う雪に向けられていた。
その雪は、静かに降り続けている。美しく、儚く。だが、その一つ一つが、何かを奪っているのかもしれない。記憶を。存在を。
「きれいな形を保とうとすればするほど、脆くなる。……人間も、雪も」
その言葉は、真実だった。完璧であろうとすることの脆さ。秩序を保とうとすることの危うさ。それは、雪にも、人間にも、当てはまる。
浩は、その言葉を噛みしめた。洋子の洞察は、いつも深い。彼女は、物事の本質を見抜く力がある。科学者としての知識と、詩人としての感性。その両方を持っている。
二人の会話が、科学の領域を超えて哲学的な深淵に沈みかけようとした、その時だった。
その瞬間は、突然訪れた。思考が深まろうとしていたその時に、現実が割り込んできた。
研究室のドアが、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。
バンッ! という乾いた音が、重苦しい空気を切り裂く。
その音は、暴力的だった。静寂を破壊する音。二人の思考を、強制的に中断させる音。
二人が弾かれたように振り返ると、そこには村上助手が立っていた。
いつもは温和な彼が、今は目を血走らせ、肩で息をしている。その全身からは、ただならぬ緊急の気配が漂っていた。
村上の顔は、蒼白だった。額には、汗が浮かんでいる。呼吸は荒く、不規則だ。何かが起きた。重大な何かが。
洋子は、立ち上がった。その動作は、反射的だった。浩もまた、椅子から立ち上がる。
村上は、二人を見た。その目には、恐怖があった。そして、焦りがあった。
「大変だ……」
村上の声は、かすれていた。喉が渇いているのか、あるいは恐怖で声が出ないのか。
「また……消えた」
その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
また。
その一言が、すべてを物語っていた。消失現象が、再び起きた。そして、おそらく近くで。
「誰が?」
浩が聞く。その声も、緊張していた。
「学生が……この大学の」
村上の言葉は、途切れ途切れだった。だが、その意味は明確だった。
この大学で、また誰かが消えた。
洋子の手が、震えた。胸の奥が、冷たくなる。
ここで。自分たちのすぐ近くで。
「いつ?」
洋子が聞く。
「今朝……講義に出るはずだったのに、来なかった。連絡も取れない。そして……」
村上は、息を呑んだ。
「クラスメイト全員が、その学生のことを覚えていない」
その言葉が、最後の一撃だった。
記憶が、消えている。存在が、消えている。
二人は、顔を見合わせた。その目には、恐怖と決意が混じっていた。
これは、もう他人事ではない。
自分たちの世界で、起きている。
そして、止まらない。
「急いで……調査しないと」
浩の声には、切迫感があった。
時間がない。次は、誰が消えるかわからない。
洋子も、自分も。
あるいは、村上も。
誰もが、消失の候補だった。
「これ、見てくれ」
村上は挨拶もそこそこに、手に持っていた業務用タブレットを浩の目の前に突き出した。
その動作は、急いでいた。余裕がない。彼の手も、わずかに震えている。息も、まだ整っていない。廊下を走ってきたのだろう。
画面には、無機質な明朝体で記された文書が表示されている。文部科学省、そして内閣府の公印が押された、最高レベルの緊急要請書だった。
その公印を見た瞬間、浩は息を呑んだ。これは、正式な文書だ。冗談ではない。政府が、本気で動いている。
《局地的気象観測データの即時解析および提供について》
その下に並ぶ項目は、異常なほど具体的だった。
通常、このような要請書は、もっと曖昧な表現を使う。だが、この文書は違う。具体的な項目が、箇条書きで並んでいる。
《"結晶密度指数"の重点確認》
《消失現象発生前後における、大気中水蒸気の相転移速度の急変を抽出せよ》
その言葉は、専門的だった。書いた人間は、気象学の知識を持っている。あるいは、専門家の助言を受けている。政府の中に、すでに調査チームが組織されているのだろう。
文字の並びは冷たく整っているが、そこに行間から滲み出る焦燥感は隠しようがなかった。
洋子も、画面を覗き込んだ。その表情が、次第に険しくなっていく。
「……本気だな、政府」
浩の声が低く沈む。その声には、緊張が混じっていた。
「ああ。彼らはもう確信しているんだ。"六花結晶の異常増加"こそが、この不可解な現象を解く唯一の鍵だと」
村上が息を整えながら付け足した。彼は、深呼吸を何度かした。だが、まだ呼吸は乱れている。動揺している。恐怖している。
「単なるデータ収集じゃない。これは"予報"のための解析だ。次に誰かが消える場所を、雪の降り方から予測しようとしている」
予報。
その言葉が、部屋の空気を変えた。予報ということは、未来を予測するということだ。次の消失を、防ぐために。あるいは、準備するために。
洋子は画面の端をそっと指で押さえた。その指先が小さく震えているのを隠すように。
画面の文字が、わずかに揺れている。それは、彼女の手の震えのせいだ。
「だとしたら……あの消えた学生も、この結晶の異常な流れに巻き込まれたってこと?」
それは直感に近い言葉だったが、どんな論理的な説明よりも今の状況を正確に言い当てているように思えた。
雪の流れに巻かれて形を失うように、個人の記憶や存在そのものが、巨大な自然のシステムの中でポキリと折れてしまった――そんな残酷な映像が、一瞬にして脳裏に浮かぶ。
洋子は、その映像を振り払おうとした。だが、消えない。頭の中に焼き付いている。人が、雪の中に吸い込まれていく。そして、誰も覚えていない。
「……確かめてみよう」
浩は眼鏡の位置を直し、覚悟を決めたようにキーボードへ向かった。
その動作は、決然としていた。迷いがない。科学者として、この現象を解明する。それが、自分の役割だ。
「とりあえず、過去の消失事例の全データを、気象グラフの上に重ねてみる。条件が揃った瞬間、結晶の成長曲線がどう跳ね上がるのか――その"波"の立ち上がりを可視化するんだ」
浩の声には、力があった。研究者としての本能が、目覚めている。未知の現象を解明する。それは、科学者にとって最も根源的な欲求だ。
カタカタカタ、と乾いた打鍵音が室内に響き渡る。
その音は、リズミカルだった。浩の指が、キーボードの上を滑っていく。速い。正確だ。彼は、完全に集中している。
説明の代わりに、高速で動く指先がすべてを語っていた。モニターの中では、無数の線が複雑に絡み合い、唸りを上げるように再構築されていく。
グラフが、次々と表示される。データが、視覚化されていく。数字が、形になる。その過程を、洋子と村上は、黙って見守っていた。
洋子はその隣で、浩が抽出した特異点(特異データ)を手元のノートに素早く描き写していった。
彼女の手も、速い。ペンが、紙の上を滑っていく。線が引かれ、点が打たれ、数字が記される。
一本、また一本と線が重なっていく。
最初は無秩序なノイズに見えたそれらは、重ねるたびに、ある奇妙で有機的な"形"を浮かび上がらせ始めた。
洋子は、その形を見て、息を呑んだ。これは、ただのデータではない。何かを示している。何かの形だ。
それは、雪の結晶のようでありながら、どこか生物的な構造を思わせるものだった。
幾何学的な美しさと、有機的な不規則さ。その両方が、共存している。自然が作り出したものでありながら、どこか人工的にも見える。あるいは、知性を持っているかのような。
「ねえ、浩くん……」
洋子の手が止まる。ペンが、紙から離れる。彼女は、ノートを見つめたまま、動かない。
「これ、雪の結晶というより……人間の"神経の放電"に見えない?」
その言葉は、直感から出たものだった。だが、言った瞬間、確信に変わった。そうだ。これは、神経だ。
言われてみれば、確かにそうだった。
浩も、画面を見直した。洋子の言葉を聞いて、その形が別のものに見えてくる。
中心から放射状に広がる枝が、まるで脳内のシナプスのように複雑に伸び、分岐し、隣り合う枝と繋がりそうで繋がらない絶妙な距離を保っている。
その構造は、脳の神経回路そのものだった。教科書で見た図と、同じだ。
美しく整った幾何学模様ではない。もっと混沌としていて、それでいて必死に何かを伝達しようとしているかのような、生々しい電気信号の樹形図。
雪のパターンと、脳の神経回路のパターン。
本来なら交わるはずのない二つの世界が、モニターの中で不気味なほどぴたりと重なり合っていた。
その一致は、偶然ではありえない。何か、深い関連がある。雪と記憶。結晶と神経。その間に、何らかの法則が働いている。
浩は画面上のその形を指でなぞりながら、呻くように呟いた。
その指は、震えていた。恐怖からか、興奮からか。おそらく、両方だ。
「……こういう崩れ方、昔シミュレーションで見た気がする。結晶構造が過密になりすぎて、自重を支えきれずに一部が突然崩落する現象だ」
浩の声は、低かった。その言葉には、確信があった。これは、見覚えがある。大学時代に、シミュレーションで見た。結晶の崩壊過程。
彼は手を開き、指をすっと滑らせた。その動作は、まるで何かが崩れ落ちるのを示しているかのようだった。
「その瞬間、周りの結晶も連鎖して構造を失う。――"音もなく、形だけが消える"んだ」
音もなく。
その言葉が、洋子の胸に刺さった。
洋子は胸の奥に、氷の刃を突き立てられたような寒気を感じた。
その寒さは、物理的なものではなかった。もっと深い、心の底からくる寒さ。存在の根底を揺るがすような。
物理的な破壊ではない。構造的な消失。
それは、もっと恐ろしいことだった。壊されるのではなく、消える。痕跡も残さずに。最初からなかったことになる。
「ねえ、それ……誰かが世界から消える時も、同じ感じなんじゃない?」
彼女の声は、祈るように細かった。その言葉は、問いかけというよりも、確認だった。恐ろしい真実を、確認している。
「目の前で劇的に死ぬんじゃなくて、音もなく、輪郭だけが溶けていくみたいに。誰にも気づかれずに、最初からいなかったことになってしまう」
例え話のはずなのに、その言葉は今の現実そのものを指し示していた。
佐伯という学生も、そうだったのだろう。音もなく消えた。そして、誰も覚えていない。彼の存在は、雪のように溶けて消えた。
研究室の空気が、一瞬だけ絶対零度まで凍りついたような沈黙に包まれる。
三人とも、言葉を失っていた。その沈黙は、重く、長かった。時間が止まったかのように感じられた。
浩は、画面を見つめたまま動かない。村上は、机に手をついたまま、視線を落としている。洋子は、ノートを握りしめたまま、震えている。
その沈黙を破ったのは、村上だった。
彼は、顔を上げた。その目には、決意があった。無力感と戦っている目。
「政府は、その"崩落"の予兆を掴もうとしているんだ」
彼の声は冷静さを装っていたが、そこには科学者としての無力感と、人間としての哀しみが混じっていた。
科学者として、現象を観察する。だが、人間として、その犠牲者に心を痛める。その両方が、村上の中で葛藤している。
「結晶密度指数が危険域に達した時を、消失の"初期予報"として発令するために」
初期予報。
その言葉には、希望があった。予測できれば、対策が立てられる。避難させることができる。あるいは、何らかの方法で防ぐことができるかもしれない。
だが、同時に、絶望もあった。予測できたとして、どうすればいいのか。消失を、止める方法があるのか。
洋子はふと、窓の方へ視線を逃がした。
その動作は、無意識だった。考えることに疲れた。現実から、少しだけ目を逸らしたかった。
外では、相変わらず雪が舞っている。
だが、その降り方は昨日までとは明らかに違っていた。
洋子は、その違いに気づいた。気象学を専門にしていなくても、わかる。この雪は、異常だ。
粒が極端に細かく、風もないのに不規則に舞い踊り、地上へ落ちるのを拒むかのように空中で滞留している。
まるで、雪が意思を持っているかのように。落ちたくないと、抵抗しているかのように。あるいは、何かを探しているかのように。
「……雪が、ざわついてる気がしない?」
そう呟くと、浩も画面から目を離して窓を見た。
彼も、その異常さに気づいた。これは、通常の降雪ではない。
「わかる。なんだか、雪の降り方が"焦ってる"ように見えるな」
焦る雪。
ありえない比喩だ。雪は、感情を持たない。物理法則に従って降るだけだ。だが、物理法則が揺らいでいる今、その感覚的な言葉こそが真実を捉えているように思えた。
科学的な説明では、この現象を理解できない。だが、感覚的な言葉なら、その本質に迫れる。
空全体が、何かを恐れ、何かを急いで隠そうとしているような、切迫した気配。
それは、終末の予感だった。何かが終わろうとしている。世界が、変わろうとしている。
村上が机に両手をつき、二人の顔を交互に見た。
その視線は、真剣だった。もう、時間がない。急がなければならない。
「浩くん、洋子さん。今日中にこの相関データをまとめよう。これが本当に現象の鍵なら……次に人が消える前に、その場所を特定して知らせることができるかもしれない」
その言葉に、洋子の胸の奥で、昨日までぼんやりとしていた恐怖が、明確な"使命感"へと形を変えた。
恐怖だけでは、前に進めない。だが、使命感があれば、動ける。誰かを救うために。自分たちを守るために。
――誰かがまた消える。
――その前に、この雪の"変化"を読み取らなければならない。
それは、自分たちにしかできない。気象学を学んできた。雪を研究してきた。その知識を、今こそ使うときだ。
浩がバンと机を叩き、自分自身を鼓舞するように立ち上がった。
その音は、決意の音だった。もう、迷わない。やるしかない。
「やるぞ、洋子。全部の観測データを重ねて、ノイズの中から一つずつ形を拾い出す。結晶が人間に警告を出してるなら、気象屋の俺たちが読み解くんだ」
浩の声には、力があった。その目には、炎が灯っていた。研究者としての情熱。そして、人間としての責任感。
「うん。見つけよう。消失の前触れを」
洋子も立ち上がった。その顔には、決意があった。恐怖は、まだある。だが、それを超える意志がある。
研究室の空気が、再び張りつめた。
しかしその緊張は、先ほどまでの絶望的な重さとは違っていた。わずかながら、対抗するための熱と希望が混じっている。
絶望だけではない。希望もある。戦える。まだ、諦めるときではない。
窓の外の雪は、静かに、けれど激しく形を変えながら降り続いている。
枝を伸ばし、絡まり、ちぎれ、また新しい形を作る。
その動きは、生命のようだった。生まれ、成長し、死に、また生まれる。その繰り返し。
それは、人間の記憶が生まれたり、失われたりする過程そのもののようにも見えた。
記憶は、常に変化している。新しい記憶が生まれ、古い記憶が薄れていく。そして、時には、完全に失われる。
洋子は手元の手帳を開き、震える文字で短く書き記した。
その文字は、乱れていた。だが、意味は明確だった。
『雪の形は、記憶の形に似ている』
『どちらも、崩れる時は音がしない』
その言葉は、真実だった。そして、恐ろしい真実だった。
二人は夜が更けるまで研究室に残り、モニターの明かりの中で膨大なデータと格闘を続けた。
村上も、彼らを手伝った。三人で、データを分析する。グラフを作る。パターンを探す。
コーヒーを何杯も飲んだ。だが、疲れは感じなかった。集中力が、それを超えていた。
窓の外は、完全に暗くなった。だが、雪は降り続けている。その白さが、暗闇の中で浮かび上がっている。
時計は、深夜を指していた。だが、三人は止まらない。答えが近い。その予感があった。
そして深夜、ついに二人の指先は、偶然の重なりの中に潜む決定的な"あるパターン"へと同時に辿り着くことになる。
浩の画面と、洋子のノート。その両方に、同じ形が浮かび上がった。
それは、明確なパターンだった。規則性があった。消失が起きる前には、必ずこのパターンが現れる。
「これだ……」
浩の声は、震えていた。興奮と、恐怖が混じっていた。
「見つけた……」
洋子も、同じことを呟いた。
村上は、二人の画面を見比べた。そして、息を呑んだ。
それは、美しくも残酷な、消失現象の真相へと続く扉だった。
その扉を開けることで、真実が明らかになる。だが、その真実は、彼らが想像していた以上に、恐ろしいものかもしれない。
それでも、開けるしかない。
知らなければ、戦えない。
三人は、顔を見合わせた。そして、無言で頷き合った。
進もう。
真実へと。




