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雪の哲学  作者: 唯野眠子
33/34

第33話「橋を架ける者たち」

倫理委員会での最初の議論から三週間。洋子たちは、世界中を飛び回っていた。

ジュネーブのWHO本部、ニューヨークの国連人権理事会、ローマのバチカン、北京の中国科学院、そしてエルサレムの宗教間対話センター。それぞれの場所で、洋子は同じ説明を繰り返し、同じ質問に答え、そして同じ批判に向き合った。

しかし、議論を重ねるごとに、風向きは少しずつ変わっていった。

成田空港の出発ロビー。早朝の冷たい空気の中、洋子は搭乗を待ちながら、手元の資料を見つめていた。今日から始まる二週間の旅程が、そこには記されている。

ジュネーブ→ローマ→パリ→ロンドン→ニューヨーク→北京→エルサレム。

七都市、十四日間。まるで外交官のようなスケジュールだ。

「大丈夫か?」

浩が、コーヒーカップを二つ持って戻ってきた。洋子は、それを受け取りながら小さく微笑んだ。

「正直に言えば、不安よ。……でも、やるしかないわ」

岸本も、タブレット端末を操作しながら合流した。

「各地の会議室の準備は整っています。通訳も、現地のコーディネーターも、すべて手配済みです」

村上が、大きな荷物を引きずりながら現れた。

「資料は全部ここに入ってる。プロジェクター、予備のバッテリー、それから……念のための鎮痛剤も」

その最後の言葉に、洋子は苦笑した。

「鎮痛剤まで必要なのね」

「ああ。……この旅は、肉体的にも精神的にも過酷になる」

村上が、眼鏡の位置を直しながら言った。

「でも、避けて通れない道だ。世界が私たちの技術を受け入れるためには、一つ一つの文化、一つ一つの価値観と、真摯に向き合わなければならない」

搭乗アナウンスが流れた。

四人は、重い荷物を手に、ゲートへと向かった。その背中は、小さく見えたが、その足取りには迷いがなかった。

窓の外には、まだ雪が降っている。しかし、その雪は、もう恐怖の象徴ではなかった。ただの季節外れの天候として、静かに舞い落ちているだけだった。


ジュネーブのWHO本部は、レマン湖を望む白亜の建物だった。国際機関らしい、厳粛で、そして冷たい空気が漂っている。

会議室には、世界中から集まった医療倫理の専門家たちが座っていた。彼らの表情は、一様に厳しかった。

議長を務めるドイツの医師、ハンス・シュミット博士が口を開いた。

「記憶の再構築技術。医療行為として認めるべきか、それとも危険な実験として規制すべきか。……本日は、この問題について議論します」

洋子は、壇上に立った。三週間前の倫理委員会とは違い、今回の聴衆はより専門的で、より技術的な質問をしてくるだろう。

「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」

洋子は、深く頭を下げた。

「私たちの技術について、医療倫理の観点から、忌憚のないご意見をいただきたいと思います」

スクリーンに、再構築プロトコルの詳細が映し出される。前回よりも、さらに技術的な内容だ。

フランスの神経学者が、すぐに質問を投げかけた。

「脳への直接的な介入を、どう正当化するのか。神経外科手術でさえ、厳格なガイドラインがある。あなた方の技術は、それよりも遥かに侵襲的ではないのか」

洋子は、その質問に答えた。

「確かに、脳に変化を与えます。しかし、それは物理的な切開ではなく、電磁的な共鳴です。神経細胞そのものを傷つけることはありません」

「しかし、シナプスの再編成が起きる」

別の神経学者が指摘した。

「それは、脳の構造を変えることだ。可逆的ではない」

「ご指摘の通りです」

洋子は、正直に認めた。

「シナプスの再編成は起きます。しかし、それは学習や記憶の形成においても、自然に起きている現象です。私たちの技術は、その自然なプロセスを、特定の方向へ誘導しているに過ぎません」

イギリスの生命倫理学者が発言した。

「『誘導』という言葉が問題だ。誰が、どの方向へ誘導するかを決めるのか。それは、神の役割ではないのか」

洋子は、その問いに、慎重に答えた。

「誘導の方向は、被験者本人と、その家族・友人が決めます。私たちは、そのプロセスを補助するだけです」

「しかし、あなた方が設計したプロトコルに従って行われる。そこには、設計者の価値観が反映されているはずだ」

その指摘は鋭かった。

洋子は、少し考えてから答えた。

「確かに、プロトコルには私たちの判断が反映されています。しかし、それはすべて公開されています。透明性を保ち、第三者が検証できるようにすることで、恣意的な操作を防いでいます」

シュミット博士が、資料を見ながら言った。

「あなた方の報告書によれば、成功率は約90%。しかし、残りの10%については、詳細が記されていない」

洋子は、その指摘を真摯に受け止めた。

「いいえ。失敗例についても詳しく記録しています。ピアニストの女性、夫婦の断絶、感情を伴わない記憶。……それらすべてを、包み隠さず公開しています」

「では、なぜ失敗したのか。その原因は特定できているのか」

「一部は特定できています。トラウマ的な記憶との関連、受容側の心理的準備不足、感情の復元速度の問題。……しかし、すべてを理解しているわけではありません」

その率直さに、何人かの専門家が頷いた。

「分からないことは、分からないと言う。それは科学者の誠実さだ」

アメリカの医療倫理学者が言った。

「しかし、分からないことがある状態で、大規模な実施を認めるべきか。それが問題だ」

洋子は、その問いに、静かに答えた。

「すべてを理解してから実施すべきだというのは、理想です。しかし、その間にも、人々は消失し続けています。……完璧を待つことと、不完全でも行動することの、どちらを選ぶか。それは、倫理的なジレンマです」

会議室に、沈黙が落ちた。

それは、答えのない問いだった。

シュミット博士が、ため息をついた。

「……確かに、ジレンマだ。しかし、医療には常にジレンマがある」

彼は、資料を閉じた。

「私たちにできるのは、リスクを最小化し、透明性を保ち、そして常に検証を続けることだけだ。……あなた方の姿勢は、その点において誠実だと認めます」

その言葉に、洋子は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

会議は、その後も数時間続いた。技術的な詳細、倫理的な懸念、実施体制の問題。一つ一つが、丁寧に議論された。

そして、最終的に、シュミット博士は言った。

「WHOとして、この技術を『実験的医療行為』として認める。ただし、厳格な監視体制の下で、限定的に実施することを条件とする」

それは、完全な承認ではなかった。しかし、一歩前進だった。

洋子は、会議室を出た後、レマン湖のほとりで立ち止まった。

湖面には、雪が降り注いでいる。しかし、その雪は、すぐに水に溶けて消えていった。

「……一つ目のハードルは越えた」

浩が、洋子の隣に立った。

「ああ。でも、まだ六つ残ってる」

二人は、湖を見つめながら、次の戦いに備えた。


ローマのバチカン。サン・ピエトロ大聖堂の荘厳な姿が、曇り空の下で静かに佇んでいた。

洋子たちが案内されたのは、バチカン図書館の一室だった。天井まで届く書架には、何世紀もの歴史を持つ古文書が並んでいる。その重厚な雰囲気は、まるで時間が止まっているかのようだった。

待っていたのは、カトリック教会の生命倫理委員会のメンバーたちだった。その中心には、枢機卿であるフランチェスコ・ロッシ師がいた。白い髭を蓄えた老人で、その目には深い慈愛と、同時に厳格さが宿っていた。

「ようこそ、日本から」

ロッシ枢機卿が、穏やかな声で言った。

「あなた方の研究については、報告を受けています。……興味深いと同時に、深い懸念も抱いています」

洋子は、深く頭を下げた。

「お時間をいただき、ありがとうございます。……私たちの技術について、率直なご意見をいただきたいと思います」

枢機卿は、ゆっくりと頷いた。

「では、まず一つ質問させてください。……あなた方は、『魂』をどう考えていますか?」

その質問は、予想していたものだった。しかし、答えるのは容易ではない。

洋子は、少し考えてから答えた。

「科学者として、私は『魂』を定義することはできません。それは、科学の範疇を超えた概念です」

枢機卿は、微笑んだ。

「正直な答えですね。……では、もう一つ。あなた方の技術は、その『定義できないもの』に触れているのではないですか?」

洋子は、その問いの重さを感じた。

「……触れているかもしれません。しかし、私たちが触れているのは、『魂』そのものではなく、『魂と魂の繋がり』だと考えています」

「繋がり?」

「はい。記憶は、個人の中だけにあるのではありません。人と人の間に流れる、目に見えない糸です。その糸が切れたとき、人は孤独になります。……私たちは、その糸を結び直そうとしているだけです」

枢機卿は、しばらく沈黙していた。そして、ゆっくりと言った。

「……聖書には、こう記されています。『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』と」

彼は、洋子を真っ直ぐに見つめた。

「あなたの言う『繋がり』とは、まさにそのことではないでしょうか。人と人が愛し合うとき、そこに神の愛が宿る。……その愛を守ることは、神への冒涜ではなく、むしろ神の意志を実践することなのかもしれません」

その言葉に、洋子は息を呑んだ。

枢機卿は、続けた。

「しかし、それでもなお、懸念があります。あなた方の技術が、『愛』のためではなく、『支配』のために使われたら?」

洋子は、その懸念を理解した。

「それは、私たちも最も恐れていることです。だからこそ、厳格な倫理ガイドラインが必要です」

別の神父が発言した。

「ガイドラインだけでは不十分です。人間の心は、弱い。誘惑に負けやすい。……技術の悪用を防ぐためには、より根本的な何かが必要ではないですか?」

洋子は、その問いに、静かに答えた。

「仰る通りです。ガイドラインだけでは不十分です。……必要なのは、『共同体の監視』です」

「共同体?」

「はい。この技術を、一部の専門家だけが管理するのではなく、社会全体で監視する。透明性を保ち、すべてのプロセスを公開し、市民が検証できるようにする。……そうすることで、悪用のリスクを減らせます」

枢機卿は、深く頷いた。

「……あなたは、技術を『民主化』しようとしているのですね」

「はい。技術は、一部の権力者のものではありません。すべての人々のものです」

その言葉に、枢機卿の表情が和らいだ。

「あなたの考えは、カトリックの『共同体の精神』に通じるものがあります。……しかし、それでも、私たちには慎重な検討が必要です」

洋子は、深く頭を下げた。

「もちろんです。どうか、時間をかけてご検討ください」

議論は、その後も続いた。魂の不可侵性、愛と支配の境界、技術の民主化。

そして、最終的に、枢機卿は言った。

「カトリック教会として、この技術を『条件付きで』認めます。ただし、以下の条件を守ることを求めます」

彼は、文書を読み上げた。

「第一に、被験者の尊厳を最優先すること。第二に、技術の透明性を保つこと。第三に、悪用を防ぐための監視体制を確立すること。……そして第四に、常に『愛』のために使うことを忘れないこと」

洋子は、涙が溢れそうになるのを堪えた。

「……ありがとうございます」

バチカンを出た後、洋子はサン・ピエトロ広場で立ち止まった。

夕暮れの光が、大聖堂を照らしている。その光景は、あまりにも美しく、そして厳かだった。

「……『愛』のために、か」

洋子が呟くと、浩が頷いた。

「ああ。それを忘れなければ、私たちは道を踏み外さない」

二人は、広場を後にした。次の目的地は、パリだった。


パリのソルボンヌ大学。石造りの古い建物が並ぶキャンパスは、何世紀もの知の蓄積を感じさせた。

洋子たちが招かれたのは、哲学科の大講堂だった。そこには、フランスを代表する哲学者たちが集まっていた。

議長を務めるのは、ジャン=ピエール・デュボア教授。現象学の権威で、その鋭い論理は多くの学者を震撼させてきた。

「記憶とは何か。自己同一性とは何か。そして、他者とは何か」

デュボア教授が、静かに言った。

「あなた方の技術は、これらの根本的な問いに、実践的な答えを迫るものです」

洋子は、壇上に立った。哲学者たちを相手にするのは、医療倫理学者や宗教家とは違う困難さがあった。彼らは、技術的な詳細ではなく、概念そのものを問うてくる。

「記憶が『個人の所有物ではない』とあなたは言いました」

デュボア教授が、洋子の言葉を引用した。

「しかし、それは矛盾ではないですか? もし記憶が個人のものでないなら、私たちの『自己』はどこにあるのですか?」

洋子は、その問いに、慎重に答えた。

「記憶は、確かに個人の中にあります。しかし、それは孤立して存在しているのではありません。他者との関係の中で、初めて意味を持ちます」

「では、他者がいなければ、記憶は意味を持たないと?」

「……そうです」

洋子の答えに、講堂がざわめいた。

デュボア教授は、さらに問いを続けた。

「では、無人島に一人で暮らす人の記憶は、意味がないと?」

「いいえ、そうではありません」

洋子は、言葉を選びながら答えた。

「その人の記憶は、過去に出会った人々との関係の中で形成されています。たとえ今、一人でいても、その記憶の中には、かつての他者が生きています」

デュボア教授は、わずかに頷いた。

「興味深い。……では、もう一つ。あなた方は、『失われた記憶を取り戻す』と言います。しかし、本当に『取り戻す』ことができるのですか? それは『新しく作る』ことではないのですか?」

その問いは、核心を突いていた。

洋子は、正直に答えた。

「……その境界は、曖昧です」

講堂が、再びざわめいた。

「私たちは、『取り戻す』ことを目指していますが、完全に同じものを再現できるわけではありません。復元された記憶は、オリジナルとは異なるかもしれません」

「では、それは『偽物』ではないですか?」

「偽物……かもしれません。しかし、私たちの日常的な記憶も、実は常に変化しています。思い出すたびに、記憶は少しずつ変わっていきます。……完全に不変の記憶など、最初から存在しないのです」

デュボア教授は、しばらく考え込んでいた。そして、言った。

「……あなたは、記憶の『真正性』を諦めているのですね」

「諦めているわけではありません。ただ、『完全な真正性』という理想が、現実には存在しないことを認めているだけです」

その答えに、何人かの哲学者が頷いた。

別の哲学者が発言した。

「しかし、それでは困ります。法廷での証言、歴史的事実の検証、すべてが記憶に依存しています。記憶が『真正ではない』なら、真実はどこにあるのですか?」

洋子は、その問いに、静かに答えた。

「真実は、一つの記憶の中にはありません。複数の記憶を照らし合わせ、外部記録と比較し、そして対話を通じて、近似的な真実に到達するしかないのです」

「近似的な真実?」

「はい。完全な真実など、誰も持っていません。私たちにできるのは、より良い近似を目指すことだけです」

デュボア教授は、深くため息をついた。

「……あなたは、哲学的な謙虚さを持っていますね」

彼は、資料を閉じた。

「私たちは、あなたの技術に完全に同意することはできません。しかし、あなたの誠実さは認めます」

その言葉に、洋子は深く頭を下げた。

議論は、その後も夜遅くまで続いた。自己同一性、他者性、記憶の真正性。哲学的な問いは、尽きることがなかった。

しかし、最終的に、デュボア教授は言った。

「フランス哲学会として、この技術を『哲学的に興味深い実験』として認めます。ただし、常に批判的な検証を続けることを条件とします」

それは、承認というより、「監視し続ける」という宣言だった。

しかし、洋子はそれを歓迎した。批判的な検証こそが、技術を正しい方向へ導くからだ。

パリの夜。セーヌ川のほとりで、洋子は立ち止まった。

川面には、街の灯りが映り込んでいる。その光景は、揺れ動き、不確かで、しかし美しかった。

「……真実は、揺れ動くものなのね」

洋子が呟くと、浩が頷いた。

「ああ。完全に固定された真実など、最初から存在しない。……私たちは、その揺らぎの中で、最善を尽くすしかない」

二人は、川を見つめ続けた。次の目的地は、ロンドンだった。


ロンドンでは、英国王立協会のメンバーたちと、科学的厳密性について議論した。

彼らは、再現性、検証可能性、そしてデータの透明性を強く求めた。洋子たちは、すべてのデータを公開し、第三者による検証を受け入れることを約束した。

ニューヨークでは、国連人権理事会で、人権の観点から議論した。

「消失者の人権」と「受容者の人権」のバランス。技術へのアクセスの公平性。途上国への技術移転。一つ一つが、複雑で、そして重要な問題だった。

北京では、中国科学院で、社会主義的価値観との整合性について議論した。

個人主義と集団主義。西洋的な「自己」の概念と、東洋的な「関係性」の概念。文化的な違いが、技術の受容に大きな影響を与えることを、洋子は学んだ。

それぞれの都市で、それぞれの文化的背景に基づいた懸念が提起された。しかし、その根底には共通する願いがあった。

「大切な人を忘れたくない」「忘れられたくない」という、普遍的な人間の祈り。


そして、最後の目的地。エルサレム。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。三つの信仰が交差するこの聖地で、洋子たちは最も困難な対話に臨むことになった。

宗教間対話センターの会議室には、三つの宗教の代表者たちが座っていた。彼らの間には、目に見えない緊張が漂っていた。

ユダヤ教のラビ、ダヴィド・レヴィ師が口を開いた。

「記憶は、私たちユダヤ人にとって、最も神聖なものです。『忘れるな』――それが、私たちに課された使命です」

彼は、洋子を見つめた。

「ホロコーストの記憶を、私たちは決して忘れてはなりません。しかし、その痛みは、世代を超えて受け継がれています。……あなたの技術は、その痛みを和らげることができますか?」

洋子は、その問いの重さに、言葉を失った。

ホロコーストの記憶。それは、決して忘れてはならない歴史であり、同時に、耐え難い痛みでもある。

「……痛みを完全に消すことはできません」

洋子は、正直に答えた。

「しかし、その痛みと共に生きていくための、支えにはなれるかもしれません」

キリスト教の司祭が発言した。

「しかし、痛みには意味があります。十字架の痛みを通じて、私たちは救済に至ります。……痛みを和らげることは、その意味を奪うことではないですか?」

イスラム教のイマームが続けた。

「アッラーは、人間に試練を与えます。その試練を通じて、私たちは成長します。……あなたの技術は、その試練を回避する手段ではないのですか?」

三つの宗教からの、三つの問い。

それらはすべて、「痛みには意味がある」という信念に基づいていた。

洋子は、その信念を否定することはできなかった。

「……確かに、痛みには意味があるかもしれません」

洋子は、慎重に言葉を選んだ。

「しかし、耐え難い痛みに押しつぶされて、生きる意志を失ってしまう人もいます。……私たちの技術は、その人たちが、痛みと共に生きていくための、小さな支えになれればと思っています」

レヴィ師は、しばらく沈黙していた。そして、言った。

「……『忘れるな』と『生きよ』。この二つは、矛盾するようで、実は同じことを言っているのかもしれません」

彼は、洋子を見た。

「記憶を守ることは、生きることです。そして、生きるためには、時に痛みを和らげることも必要です。……あなたの技術は、その手助けをするものなのですね」

洋子は、深く頷いた。

司祭も、イマームも、ゆっくりと頷いた。

そして、三人は、珍しく意見を一致させた。

「三つの信仰は、異なる道を歩んでいます。しかし、『愛する者を守りたい』という願いは、共通しています」

レヴィ師が言った。

「あなたの技術が、その願いのために使われる限り、私たちは支持します」

その言葉に、洋子は涙を流した。

エルサレムの夜。嘆きの壁の前で、洋子は立ち止まった。

無数の祈りが刻まれた、この古い石壁。何千年もの間、人々はここで祈り続けてきた。

洋子も、静かに祈った。

この技術が、正しく使われますように。

愛のために使われますように。

そして、誰も傷つけませんように。


国連での最終承認

二週間の旅を終え、洋子たちはニューヨークに戻っていた。

国連本部の大会議室。ここで、最終的な決定が下されることになっていた。

世界中の代表者が集まり、議論は最終局面を迎えていた。

議長が、分厚い文書を手に取り、厳粛な声で読み上げた。

「『記憶の再構築技術に関する国際ガイドライン』――本理事会は、以下の条件の下で、記憶の再構築技術の限定的使用を承認する」

会場に、緊張が走った。洋子は、最前列の席で、手を強く握りしめた。

「第一条:被験者本人および受容者(家族・友人)の、完全かつ継続的なインフォームド・コンセントを必須とする」

「第二条:すべての再構築プロセスは、独立した倫理委員会の監督下で実施されなければならない」

「第三条:技術の商業利用を禁止し、医療行為としてのみ認める」

「第四条:被験者は、いかなる段階においても、理由を問わず再構築を中断する権利を有する」

一つ一つの条項が読み上げられるたびに、会場からは小さなどよめきが起きた。それは厳格な条件だった。しかし、洋子にとっては受け入れ可能な、いや、むしろ必要な条件だった。

「第五条:復元された記憶の真正性について、第三者機関による検証を義務付ける」

「第六条:本技術は、消失現象による社会的死を経験した者に限定し、通常の記憶障害や認知症への適用は、さらなる研究と議論を経た後に判断する」

「第七条:各国政府は、本技術の実施機関を認定し、定期的な監査を行う義務を負う」

「第八条:技術の悪用、特に記憶の改変や偽記憶の植え付けが確認された場合、実施機関の認定を即座に取り消し、関係者を処罰する」

そして、最後の条項。

「第九条:本ガイドラインは、人間の尊厳と自由意志を最優先とし、技術はあくまで『補助』であることを再確認する。記憶の再構築は、『魂の修復』ではなく、『絆の可視化』であることを、すべての関係者は理解しなければならない」

議長が文書を置き、会場を見渡した。

「以上の条件の下で、『再認識リコグニション・プロトコル』の国際的実施を承認する。……賛成の方は、挙手をお願いします」

静寂。

そして、一つ、また一つと、手が上がり始めた。

最初は少数だった。しかし、やがてそれは波のように広がり、会場の大多数が手を挙げた。

反対する者もいた。棄権する者もいた。しかし、圧倒的多数が、この技術を――厳格な条件の下で――受け入れることを選んだのだ。

議長が、ハンマーを打ち下ろした。

「採択」

その一言が、新しい時代の幕開けを告げた。

会場には、拍手が起きた。それは歓喜の拍手ではなく、重い責任を引き受けた者たちの、静かで、しかし確かな決意の拍手だった。

洋子は、席に座ったまま、深く息を吐いた。涙が、頬を伝って流れ落ちる。それは、安堵の涙だった。

長い、長い戦いが、一つの区切りを迎えたのだ。

浩が、隣の席から洋子の手を握った。言葉はいらなかった。二人は、ただ手を握り合い、この瞬間を共有した。


承認から数日後、洋子たちは日本に帰国した。

空港には、岸本と村上が迎えに来ていた。二人とも、疲れた顔をしているが、その目には希望の光が宿っている。

「お疲れ様でした」

岸本が、静かに言った。

「ニュースで見ました。……ついに、ここまで来ましたね」

村上も、不器用に微笑んだ。

「世界が、俺たちの技術を認めてくれた。……正直、半分諦めていたよ」

洋子は、二人を見て、微笑んだ。

「ここからが、本当の始まりよ。……承認されたからといって、すべてが終わったわけじゃない。むしろ、これからが大変」

「ああ、分かってる」

浩が頷いた。

「社会実装。……これが、最も困難な段階だ」

四人は、空港を出て、研究棟へと向かった。車窓から見える街の景色は、数ヶ月前と変わらない。人々は普通に歩き、普通に笑い、普通に生活している。

しかし、その「普通」の裏側で、まだ多くの人々が、消失の痛みを抱えて生きている。

研究棟に戻ると、若手研究員たちが拍手で迎えてくれた。彼らは、洋子たちの不在の間、地道に準備を進めていた。

再構築施設の設計、スタッフの訓練、そして最初の被験者リストの作成。

「見てください」

一人の研究員が、タブレット端末を差し出した。

「世界中から、再構築の申し込みが来ています。……すでに、一万人を超えました」

洋子は、その数字を見て、息を呑んだ。

一万人。それは、一万の人生であり、一万の家族であり、一万の物語だ。

「……一人ずつ、丁寧に」

洋子は、静かに言った。

「私たちは、数を競っているわけじゃない。一人一人の人生に、真摯に向き合う。……それが、私たちの責任」

その言葉に、全員が頷いた。

数週間後。

各国で「記憶再構築センター」が設立され、訓練を受けたスタッフが配置された。プロトコルは、多言語に翻訳され、各地の文化的背景に合わせて調整された。

技術は、もはや洋子たちだけのものではなく、人類全体の財産となった。

洋子は、研究室の窓から外を眺めた。街には、人々の笑顔が戻ってきている。

ある地方都市の小さな集会所。そこでは、「記憶の読み聞かせ」というセッションが行われていた。消失者の前に、かつての友人や家族が集まり、彼との思い出を語って聞かせる。

その光景が、テレビのニュースで報道されていた。

洋子は、その映像を見ながら、微笑んだ。

技術は、「祈り」として受け入れられた。しかし、祈りを実現するためには、地道な努力が必要だ。一つ一つの症例に向き合い、一つ一つの失敗から学び、一つ一つの成功を積み重ねていく。

その夜、洋子は研究室で、完成した最終報告書を閉じた。分厚いファイル。そこには、この数ヶ月の軌跡が、すべて記録されている。

成功例、失敗例、そして学んだ教訓。それらすべてが、後世のための「道しるべ」となる。

洋子は、窓の外を見た。街の灯りは、以前よりも温かく、力強く、闇の中に浮かんでいる。

かつては恐怖の象徴だった六花結晶。けれど今、人々の胸にあるそれは、失われた絆を繋ぎ直した、ダイヤモンドよりも硬い「約束の証」へと変わっていた。

浩が、研究室に入ってきた。

「まだ起きていたのか」

「ええ。……最終報告書を、今、閉じたところ」

洋子は微笑んだ。

「明日、これを提出すれば、私たちの役目は一段落ね」

「そうだな。……でも、新しい役目が始まる」

浩は、洋子の隣に座った。

「各地の再構築センターの指導、新しいスタッフの訓練、そして常に現場からのフィードバックを受けて、プロトコルを改善し続ける。……終わりのない仕事だ」

「でも、それが私たちの仕事よ」

洋子は、浩の手を握った。

「科学者の仕事は、発見して終わりじゃない。その発見を、人々の手に届けて、そして見守り続けること」

二人は、しばらく黙って座っていた。言葉はいらない。この静かな時間が、二人にとって、何よりも大切なものだった。

やがて、洋子は立ち上がった。

「……帰りましょう。明日も、早いから」

「ああ」

浩も立ち上がり、研究室の明かりを消した。暗闇の中、モニターの緑のランプだけが、世界中の「再構築」を祝福するように、静かに、優しく明滅していた。

二人は、研究室を出た。廊下を歩きながら、洋子はふと窓の外を見た。

夜空には、星が輝いている。雪は、もう降っていない。

「……見て、浩くん。星が見えるわ」

「ああ。……久しぶりだな」

長い冬の間、空は厚い雲に覆われていた。星を見ることなど、できなかった。

しかし今、その雲は晴れ、星々が再び姿を現している。

それは、象徴的な光景だった。人々の記憶という「星」が、再び輝きを取り戻している。

その光は、まだ弱いかもしれない。でも、確かにそこにある。そして、その光は、決して消えることはない。

洋子と浩は、研究棟を出た。春の夜風が、心地よく頬を撫でる。空気は、もう冷たくない。温かく、柔らかく、そして希望に満ちている。

「……明日から、また忙しくなるわね」

「ああ。でも、もう怖くはない」

二人は、並んで歩き始めた。その背中には、迷いがない。前を向き、未来を見つめている。

技術が「祈り」となり、祈りが「行動」となり、行動が「奇跡」を生み出した。そして今、その奇跡は、日常へと溶け込もうとしている。

それは、終わりではない。新しい始まりだ。

洋子たちの旅は続く。しかし今は、確かな足場がある。共に歩む仲間がいる。支えてくれる人々がいる。そして何より、待っている人々がいる。

二人は、街の灯りの中へと消えていった。その後ろ姿は、小さく、しかし確かだった。

まるで、春の訪れを告げる、最初の一羽の鳥のように。

空には、星が輝いている。

雪は、もう降らない。

冬は、終わった。

そして、春が始まろうとしている。

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