第32話「魂の境界線」
プロトコルが完成してから一週間。 洋子は、気象研究棟の会議室で、明日の準備に追われていた。
壁には、巨大なスクリーンが設置され、そこには明日のプレゼンテーション資料が映し出されている。再構築プロトコルの理論図、成功例のデータ、安全弁の設計図。それらすべてが、明日、世界中の倫理学者、宗教家、哲学者たちの前で披露されることになる。
「……大丈夫か、洋子」
浩が、コーヒーカップを二つ持って入ってきた。どちらもすでに冷めている。しかし、二人はそれを黙って飲んだ。冷たいコーヒーの苦味が、今の彼らにはふさわしかった。
「正直に言えば、怖いわ」
洋子は、資料から目を離さずに答えた。
「私たちがやろうとしていることは、人間の記憶を……他者の脳を書き換えることよ。それがどれほど危険で、どれほど傲慢なことか。……彼らの批判は、すべて正しいかもしれない」
浩は、洋子の隣に座った。
「でも、やらなければならない。まだ何万人もの『透明な存在』がいる。彼らを見捨てることはできない」
「分かってる。分かってるけど……」
洋子は、手元の資料を握りしめた。
「もし、私たちが間違っていたら? もし、この技術が悪用されたら? 偽の記憶を植え付けられた人々が、本当の自分を見失ったら?」
その不安は、決して根拠のないものではなかった。記憶の再構築技術は、使い方を間違えれば、恐ろしい凶器になる。人格を改変し、過去を捏造し、真実を歪めることができる。その危険性を、洋子は誰よりも理解していた。
岸本が、会議室に入ってきた。彼女の手には、分厚いファイルが握られている。
「想定問答集です。これまでに寄せられた批判や懸念を、すべてリストアップしました」
岸本がテーブルに置いたファイルを、洋子は手に取った。ページをめくると、無数の質問と批判が記されている。
「魂の侵犯ではないか」 「神の領域に踏み込むべきではない」 「偽の記憶のリスクは?」 「法的地位の曖昧化」 「技術の悪用可能性」
一つ一つが、鋭く、そして正当な指摘だった。
「これ全部に、答えなきゃいけないのね」
洋子の声は、わずかに震えていた。
村上も、会議室に入ってきた。彼は眼鏡を外し、疲れた目をこすりながら言った。
「無理に全部答える必要はない。答えられないものは、正直に『分からない』と言えばいい。科学者が『分からない』と言うことは、恥ではない」
その言葉に、洋子は少し救われた気がした。
「そうね。……完璧な答えなんて、最初から用意できるはずがない」
浩が、洋子の肩に手を置いた。
「俺たちは、神様じゃない。ただの科学者だ。……でも、科学者だからこそ、できることがある。現象を観察し、仮説を立て、検証する。そして、失敗から学ぶ」
洋子は、浩の顔を見上げた。
「……ありがとう」
四人は、深夜まで準備を続けた。想定問答の確認、プレゼンテーションのリハーサル、そして何よりも、自分たちの信念の再確認。
私たちは、何のためにこれをするのか。 誰のために、この技術を開発したのか。 その答えを、何度も何度も確かめ合った。
窓の外では、夜が深まっていく。街の灯りが、一つ、また一つと消えていく。しかし、研究室の明かりだけは、朝まで灯り続けた。
明日、洋子たちは人生で最も困難な舞台に立つことになる。世界中の倫理学者、宗教家、哲学者たちを相手に、自分たちの技術を弁護しなければならない。
それは、科学と倫理の境界線を問う戦いであり、技術と人間性の調和を探る旅の始まりだった。
翌朝、洋子は人生で最も困難な「審判」の舞台に立つことになった。
大きな講堂。天井は高く、壁には重厚な木目が施されている。かつては学術会議や式典に使われていた、格式ある空間だ。しかし今日、この場所は法廷のような緊張感に満ちていた。
世界中から集まった倫理学者、宗教家、哲学者、法律家、そして心理学者たち。彼らは、檀上に立つ洋子に向けて、鋭く、そして怯えを含んだ視線を送っている。最前列には、カトリック教会の高位聖職者、仏教の高僧、イスラム法学者の姿もあった。
洋子の背後には、巨大なスクリーンが設置されている。そこには、再構築プロトコルの理論図が映し出されていた。本人の六花結晶を増幅し、周囲の人々の脳内にある「空白」へと同期させるプロセス。青い光の粒子が、一つの結晶から別の結晶へと流れ込んでいく様子が、CGで視覚化されている。
それは、科学的には美しい図だった。しかし、倫理的には――。
洋子は、深く息を吸い込んだ。手には、昨夜準備した資料が握られている。しかし、その資料の重みは、紙の重さではなく、そこに込められた責任の重さだった。
浩、岸本、村上は、最前列の隅に座っている。彼らの表情は緊張しているが、その目には洋子への信頼が宿っていた。
議長が、厳粛な声で言った。
「それでは、『記憶の再構築技術に関する倫理審査会』を開始します。まず、技術開発チームからのプレゼンテーションをお願いします」
洋子は、壇上に立った。数百の視線が、彼女に注がれる。その視線の一つ一つが、重い。
「……本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
洋子の声は、最初は小さかった。しかし、徐々に力を取り戻していく。
「私たちは、この数ヶ月間、消失現象によって『透明な存在』となった人々を取り戻すための研究を続けてきました。そして、ようやく一つの技術にたどり着きました」
スクリーンに、再構築の成功例が映し出される。調律師の老人が、音を聞いて涙を流す瞬間。母親が、子供を抱きしめて「知ってる、この重さ」と囁く瞬間。Xさんが、友人と再会して、「僕だよ」と言った瞬間。
会場の空気が、わずかに和らいだ。成功例の映像は、確かに感動的だった。
しかし、洋子は続けた。
「しかし同時に、私たちは多くの失敗も経験しました」
スクリーンが切り替わり、失敗例のデータが表示される。ピアニストの女性の悲鳴。夫婦の間に横たわった断絶。感情を伴わない「空虚な記憶」を持つ男性。
会場は、再び緊張に包まれた。
「この技術は、完璧ではありません。リスクもあります。失敗の可能性もあります。……だからこそ、私たちは今日、皆様の前に立っています。この技術を、どう使うべきか。どう規制すべきか。そして、そもそも使うべきなのか。その答えを、皆様と共に考えたいのです」
洋子の言葉は、誠実だった。技術を押し付けるのではなく、対話を求める姿勢。その姿勢に、会場の何人かが頷いた。
しかし、沈黙は長くは続かなかった。
「……それは、魂の侵犯ではないのか」
沈黙を破ったのは、白髪の倫理学者だった。彼の名はハロルド・グレイ教授。ケンブリッジ大学で50年以上にわたり倫理哲学を教えてきた、この分野の権威だった。彼の声は低く、しかし講堂の隅々まで響いた。
「他者の記憶を、本人の同意なく書き換える。たとえそれが善意によるものであっても、私たちはその境界線を踏み越えていいはずがない」
その言葉に、会場の多くが頷いた。洋子は、その反応を静かに受け止めた。予想していた批判だった。いや、批判というより、正論だった。
グレイ教授は、立ち上がり、より力強く続けた。
「私は、長年、医療倫理を研究してきました。そして、その中で一つの確信を得ました。……人間の尊厳とは、『選択の自由』にあると」
彼は、会場を見渡した。
「患者には、治療を拒否する権利があります。たとえその選択が死を意味していても、それは尊重されるべきです。なぜなら、それがその人の『意志』だからです」
彼の視線が、洋子に向けられる。
「しかし、あなた方の技術は何をしますか? 消失者本人の意志は尊重されても、その記憶を『受け入れる側』――家族や友人の意志は、どこまで尊重されていますか?」
その指摘は、鋭かった。
「彼らの脳内に、強制的に『新しい記憶』を植え付ける。それは、彼らの精神的自律性を侵害する行為ではないのですか?」
洋子は、その批判の重さを感じた。確かに、再構築のプロセスでは、受容側(家族や友人)の脳に「共鳴波」を送り込む。それは、彼らの脳内構造に変化を与える行為だ。
「……私たちは、必ず受容側の同意を得ています」
洋子は、答えた。
「再構築を始める前に、家族や友人と面談し、彼らの心の準備を確認します。そして、もし彼らが拒否すれば、その選択を尊重します」
しかし、グレイ教授は首を横に振った。
「『同意』があれば、すべてが許されるわけではありません。たとえ同意があっても、人間の脳に干渉することには、本質的な危険が伴います」
彼は、資料を手に取り、読み上げた。
「あなた方の報告書によれば、再構築後、一部の被験者は『偽の記憶』を持つ可能性があると記されています。もしそうなれば、その人の『自己同一性』は破壊されます。それは、その人を『別人』に変えてしまう行為ではないのですか?」
会場に、重い沈黙が落ちた。
洋子は、その沈黙の中で、自分の言葉を探していた。どう答えるべきか。どう説明すれば、この正当な懸念に応えられるのか。
浩が、わずかに前のめりになった。彼は、洋子を助けたかった。しかし、これは洋子の戦いだ。彼女が、自分の言葉で答えなければならない。
「……確かに、リスクはあります」
洋子は、正直に答えた。
「偽の記憶が生まれる可能性は、ゼロではありません。だからこそ、私たちは厳格な検証プロセスを設けています。復元された記憶が、外部記録(写真、動画、証言)と一致するかを、第三者機関が確認します」
「しかし、それでも完全ではないでしょう」
グレイ教授が、畳みかける。
「人間の記憶は、もともと不完全で、曖昧なものです。写真や動画で『確認』できるのは、表面的な事実だけ。その記憶に伴う『感情』や『意味』は、検証できません」
その指摘も、正しかった。
洋子は、唇を噛んだ。グレイ教授の批判は、すべて理にかなっている。反論の余地がないように思えた。
別の席から、宗教哲学者が立ち上がった。彼女の名はマリア・サントス。フィリピン出身の神学者で、生命倫理の分野で多くの著作を持つ。
「失われたものは、失われたままにするのが、人間としての最後の尊厳ではないでしょうか」
彼女の声は、穏やかだが、深い信念に満ちていた。
「神が――あるいは自然が――その人の記憶を取り去ったのであれば、それには理由があります。私たち人間が、その摂理に逆らうべきではありません」
その言葉に、会場の何人かが頷いた。特に、宗教家たちの間で、同意の空気が広がった。
サントス教授は、続けた。
「聖書には、こう記されています。『神が与え、神が取り去る。主の御名はほむべきかな』と。……失うことは、悲しいことです。しかし、それもまた、神の計画の一部なのです」
彼女は、洋子を真っ直ぐに見つめた。
「あなた方は、その計画を覆そうとしている。それは、神への冒涜ではないのですか?」
洋子は、その問いに、すぐには答えられなかった。宗教的な問いに、科学者としてどう答えるべきか。
しかし、答えなければならない。
「……私たちは、神の計画を覆そうとしているわけではありません」
洋子の声は、慎重だった。
「私たちは、ただ、失われた繋がりを取り戻そうとしているだけです。それは、神が人間に与えた『愛する能力』を守ることではないでしょうか」
しかし、サントス教授は首を横に振った。
「愛は、執着ではありません。真の愛とは、手放すことも含まれます。……亡くなった人を蘇らせようとしないように、失われた記憶も、そのままにしておくべきなのです」
その言葉は、詩的で、そして痛烈だった。
法学者が発言した。
「法的な問題もあります」
彼の名は、田中健一。東京大学法学部の教授で、医療法の専門家だ。
「記憶の書き換えは、人格の同一性を脅かします。法的には、これは『別人を作り出す行為』と見なされる可能性があります」
彼は、資料を開いた。
「保険、相続、婚姻関係――すべての法的地位が、曖昧になります。もし、再構築された人物が『以前の自分とは別人だ』と主張した場合、法律はどう対処すればいいのでしょうか?」
その問いは、極めて実務的で、そして深刻だった。
「さらに、記憶が『証拠』として扱われる場合も問題です。裁判で、ある人の記憶が証言として用いられる。しかし、その記憶が『人工的に再構築されたもの』だとしたら、それは信頼できる証拠と言えるのでしょうか?」
会場に、どよめきが起きた。法的な問題は、多くの人が考えていなかった視点だった。
心理学者が続けた。
「心理学の観点からも、懸念があります」
彼女の名は、リンダ・ウォン。スタンフォード大学の認知心理学者だ。
「記憶は、極めて可塑的です。暗示や誘導によって、容易に変化します。……あなた方の技術は、その可塑性を利用しているのではないですか?」
彼女は、データを示した。
「偽記憶の研究では、適切な暗示を与えることで、実際には起きていない出来事を『記憶している』と信じ込ませることができます。……あなた方の『再構築』が、実は『創造』になっている可能性は、どう排除するのですか?」
その問いは、技術的な核心を突いていた。
洋子は、次々と飛んでくる批判に、圧倒されそうになっていた。グレイ教授の倫理的批判、サントス教授の宗教的批判、田中教授の法的批判、ウォン教授の心理学的批判。
すべてが、正当で、すべてが重い。
会場の空気は、次第に洋子に対して敵対的になっていった。彼女の技術は、危険だ。倫理的に許されない。法的に問題がある。科学的に不確実だ。
そんな空気が、会場を支配し始めていた。
洋子は、壇上で、孤独を感じていた。自分は、間違っているのだろうか。この技術を開発したことは、傲慢だったのだろうか。
批判の嵐が続く中、洋子は自分の心の奥底を見つめていた。
(……彼らの言うことは、すべて正しい)
グレイ教授の言う通り、他者の脳に干渉することは、魂の侵犯かもしれない。
サントス教授の言う通り、失われたものは、失われたままにすべきかもしれない。
田中教授の言う通り、法的な問題は山積している。
ウォン教授の言う通り、偽記憶のリスクは排除できない。
(でも――)
洋子の脳裏には、地下三階で出会った人々の姿が浮かんでいた。
調律師の老人が、音を聞いて涙を流した瞬間。彼は言った。「この音、狂ってる」と。五十年間、ピアノと対話してきた職人の魂が、その瞬間に蘇った。
母親が、子供を抱きしめて囁いた瞬間。「知ってる、この重さ」。彼女の腕は、子供の身体の輪郭を覚えていた。記憶が消えても、身体が覚えていた。
Xさんが、友人と再会して言った瞬間。「僕だよ」。その言葉は、どれほど切実だっただろう。自分の存在を証明するための、必死の叫びだった。
彼らは、失われたままでいることを望んでいなかった。彼らは、戻りたかった。世界と繋がりたかった。誰かに覚えていてほしかった。
(私たちは、その願いを無視していいのだろうか)
洋子は、拳を握りしめた。
(彼らは、神の摂理を受け入れろと言われても、受け入れられなかった。家族は、夫や妻や親を失う痛みに、耐えられなかった)
倫理学者は、「尊厳」を語る。宗教家は、「摂理」を語る。法学者は、「秩序」を語る。心理学者は、「リスク」を語る。
しかし、彼らは、「痛み」を語らない。
失われることの痛み。忘れられることの孤独。愛する人を取り戻したいという、人間の最も根源的な願い。
(……私は、その痛みを知っている)
洋子自身、かつて「透明な存在」になりかけた。自分の六花結晶が不安定になり、周囲の人々の記憶から滑り落ちそうになった。その時、浩だけが、最後まで自分を「見て」いてくれた。
その時の恐怖を、洋子は忘れていない。
もし浩がいなければ、自分は消えていた。誰にも認識されず、世界から切り離されたまま、孤独に彷徨っていた。
(……だから、私は彼らを見捨てられない)
洋子は、顔を上げた。
会場の視線が、再び洋子に集まる。批判的な視線。懐疑的な視線。そして、わずかだが、期待を込めた視線。
洋子は、深く息を吸い込んだ。
そして、答えることを決めた。
「……皆様のご指摘は、すべてごもっともです」
洋子の声は、静かだが、確かだった。
「私たちの技術は、完璧ではありません。リスクもあります。倫理的な問題もあります。法的な課題もあります。……そのすべてを、私は認めます」
会場が、わずかにざわめいた。彼女は、批判を認めたのだ。反論するのではなく、受け入れたのだ。
「しかし、それでも、私は言わなければなりません」
洋子は、スクリーンに新しい画像を表示した。それは、地下三階の収容室の写真だった。虚空を見つめる人々。誰にも認識されない「透明な存在」たち。
「この人たちは、今も、あの部屋にいます。誰にも見られず、誰にも声をかけられず、ただ世界を彷徨っています」
洋子の声に、感情が滲み始めた。
「彼らは、神の摂理を受け入れろと言われても、受け入れられません。家族は、夫や妻や親を失う痛みに、耐えられません」
彼女は、会場を見渡した。
「グレイ教授。あなたは、『選択の自由』が尊厳だとおっしゃいました。……では、彼らには選択の自由がありますか? 消失するか、消失するか。その二択しかない状態で、どこに自由があるのでしょうか」
グレイ教授は、黙って聞いていた。
「サントス教授。あなたは、『失われたものは、失われたままに』とおっしゃいました。……では、愛する人を思い出したいと願う心は、神への冒涜なのでしょうか?」
サントス教授の表情が、わずかに揺れた。
「田中教授。法的な問題は、確かに重要です。しかし、法律は、人々を守るためにあるのではないですか? 『法的地位が曖昧になる』ことを恐れて、人々を見捨てるのが、法の精神でしょうか?」
田中教授は、資料から目を離さなかった。
「ウォン教授。偽記憶のリスクは、確かにあります。しかし、リスクを恐れて、何もしないことが正しいのでしょうか?」
洋子の声は、次第に力を帯びていった。
「私たちは、完璧な技術を作ったと主張しているわけではありません。リスクがゼロだとも言いません。……でも、何もしなければ、彼らは確実に失われます」
彼女は、深く息を吸い込んだ。
「私たちは、選択肢を提供したいのです。消失するしかない状態から、もう一つの道を。……それが、たとえ不完全で、リスクがあっても、選べる自由があることが、尊厳ではないでしょうか」
会場に、静寂が落ちた。
それは、敵意の静寂ではなく、思考の静寂だった。人々は、洋子の言葉を咀嚼し、自分なりの答えを探している。
洋子は、続けた。
「私は、科学者です。神学者でも、倫理学者でも、法学者でもありません。……だから、答えを持っていません」
その率直さに、何人かが顔を上げた。
「でも、一つだけ、確信していることがあります」
洋子は、スクリーンを指差した。
「記憶は、個人の所有物ではありません」
洋子の声が、講堂の隅々まで響いた。その言葉は、シンプルだが、深い意味を持っていた。
もう一度静かに繰り返した。
「記憶は、個人の所有物ではありません」
会場が、微かにざわめいた。何人かが、前のめりになって洋子を見つめている。
「記憶は、人と人が触れ合い、笑い、傷つけ合ったその瞬間に、二人の間に生まれる『光の糸』です」
洋子は、調律師と友人の再会の映像を再生した。スクリーンには、二人が握手をし、涙を流す姿が映し出される。
「片方がその糸を見失ったのなら、もう片方がその糸を照らし出す。それは侵略ではなく、本来あったはずの場所へ、手を伸ばし合う行為ではないでしょうか」
その言葉に、会場の空気が変わり始めた。
洋子は、母親が子供を抱きしめる映像を再生した。
「私たちは、新しい記憶を『作って』いるのではありません。失われた糸を『照らし出して』いるだけです。その糸は、最初から存在していた。ただ、見えなくなっていただけなのです」
サントス教授が、わずかに表情を緩めた。
洋子は、会場を見渡した。
「もし、これを狂気と呼ぶのなら……愛する人の名前を呼びたいと願う心もまた、狂気だというのでしょうか」
その問いに、誰も答えなかった。
その場に、重い沈黙が降りた。それは拒絶の沈黙ではなく、誰もが自分の中にある「大切な誰か」を思い出し、その痛みと向き合うための時間だった。
洋子は、その沈黙を待った。急かさなかった。人々が、自分の心と対話するための時間を、尊重した。
やがて、最前列に座っていた高僧が、ゆっくりと立ち上がった。彼は洋子を見つめ、そして静かに口を開いた。
「……仏教では、すべては『縁起』によって成り立つと説きます。人は、独立した存在ではなく、無数の関係性の網の目の中で、初めて『人』になる」
彼の声は、穏やかで、しかし深い重みがあった。
「あなたが言う『光の糸』とは、まさに『縁』のことではないでしょうか。失われた縁を結び直すことは、自然の摂理に反するのではなく、むしろ、本来あるべき姿への回帰なのかもしれません」
その言葉に、会場のいくつかの席から、小さな拍手が起きた。
しかし、まだ多くの人々は懐疑的な表情を崩していない。
カトリックの聖職者が発言した。
「しかし、記憶を操作することは、神の領域に踏み込むことだ。人間が、他者の魂に触れる権利があるのか」
洋子は、その問いに正面から答えた。
「私たちは、魂に触れているのではありません。ただ、『繋がり』を可視化しているだけです」
彼女は、スクリーンに新しい図を表示した。それは、人間の脳のネットワークを示す図だった。無数の神経細胞が、互いに繋がり、情報をやり取りしている。
「人間の脳は、孤立した存在ではありません。他者との対話を通じて、常に変化し続けています。私たちが会話をするとき、笑い合うとき、涙を流すとき――そのたびに、私たちの脳は互いに影響を与え合っています」
洋子は、会場を見渡した。
「再構築は、その自然なプロセスを、少しだけ手助けしているに過ぎません。消失者の脳が発するシグナルを増幅し、周囲の人々がそれを受け取りやすくする。……それは、補聴器や眼鏡と同じです。失われた機能を補助するための、『道具』なのです」
その比喩は、効果的だった。何人かの倫理学者が、頷き始めた。補聴器や眼鏡を使うことは、神への冒涜とは見なされない。それと同じように、記憶の再構築も、失われた機能を補助する「医療行為」として理解できるのではないか。
しかし、まだ懸念は残っていた。ウォン教授が再び立ち上がった。
「偽の記憶のリスクは、どう対処するのか。私たちが『照らし出している』と思っているものが、実は『作り出している』ものだったら?」
洋子は、その懸念を真摯に受け止めた。
「それこそが、私たちが最も恐れていることです」
彼女は、プロトコルの「検証フェーズ」の資料を表示した。
「だからこそ、私たちは厳格な検証プロセスを設けています。復元された記憶が、外部記録(写真、動画、証言)と一致するかを、第三者機関が確認します。もし矛盾があれば、その記憶は『疑わしい』とマークされ、さらなる検証が行われます」
「それでも、完全ではないだろう」
「ええ、完全ではありません」
洋子は、率直に認めた。
「科学は、完璧ではありません。私たちにできるのは、リスクを最小化し、透明性を保ち、そして常に検証を続けることだけです。……でも、それは他のすべての医療行為と同じです。手術にもリスクはあります。薬にも副作用があります。しかし、そのリスクを恐れて、何もしないことが正しいとは思いません」
会場に、再び沈黙が訪れた。しかし今度は、敵意ではなく、深い思考の沈黙だった。人々は、洋子の言葉を咀嚼し、自分なりの答えを探している。
そして、会場の後方から、一人の女性が立ち上がった。彼女は、震える声で言った。
「私の夫は、消失しました。彼は今、施設にいます。私のことも、子供のことも、何も覚えていません」
会場の視線が、彼女に集まった。彼女の声は、震えていたが、その言葉には切実さが込められていた。
「私は……夫を取り戻したい。でも、彼を傷つけたくもない。……教えてください。私たちは、どうすればいいのですか」
その問いは、この議論の核心を突いていた。理論や倫理や哲学ではなく、現実に苦しんでいる人々の、切実な叫び。
洋子は、その女性を真っ直ぐに見つめた。
「選択は、あなたのものです」
洋子の声は、優しく、しかし確かだった。
「私たちは、道具を提供することができます。でも、それを使うかどうかは、あなたが決めることです。……そして、どんな選択をしても、私たちはあなたを支えます」
その言葉に、女性は涙を流した。そして、静かに座った。
会場に、再び沈黙が落ちた。しかし、その沈黙は、もはや敵意ではなかった。それは、深い共感と、そして慎重な理解の沈黙だった。
グレイ教授が、立ち上がった。彼の表情は、依然として厳しかったが、その目には変化が見られた。
「……あなたの言葉は、心に響きました。しかし、それでもなお、私には懸念が残っています」
彼は、資料を手に取った。
「技術の悪用です。あなた方の技術が、善意で使われる限りは、確かに救いになるでしょう。しかし、悪意ある者の手に渡ったら? 記憶を改変し、人格を操作し、真実を歪めるために使われたら?」
その懸念は、極めて現実的だった。
洋子は、その問いに、真摯に答えた。
「それは、私たちも最も恐れていることです。だからこそ、私たちは今日、ここに立っています」
彼女は、会場を見渡した。
「この技術を、どう規制すべきか。どう監視すべきか。そして、どう悪用を防ぐか。……その答えを、私たちだけで決めることはできません。世界中の倫理学者、法学者、宗教家、そして市民の皆様と共に、考えなければなりません」
洋子は、深く頭を下げた。
「だから、お願いします。……この技術を、一緒に育ててください。批判してください。監視してください。そして、正しい方向へ導いてください」
その姿勢に、会場の空気が変わった。
洋子は、技術を押し付けようとしているのではない。対話を求めているのだ。共に考え、共に悩み、共に答えを探そうとしているのだ。
田中教授が、小さく頷いた。
サントス教授が、微笑んだ。
ウォン教授が、資料を閉じた。
会場の空気は、完全に変わっていた。最初の敵意は消え、代わりに、慎重だが前向きな関心が芽生えていた。
議長が、立ち上がった。
「本日の第一セッションは、ここまでとします。次回は、一週間後、具体的な規制案について議論します」
会場から、小さな拍手が起きた。それは歓喜の拍手ではなく、一つの対話が始まったことへの、静かな承認の拍手だった。
講堂を出た後、洋子は廊下で立ち止まった。全身から力が抜けていくのを感じた。
浩が、洋子を支えた。
「よくやった」
その一言が、洋子の心に染み渡った。
岸本と村上も、駆け寄ってきた。
「素晴らしいプレゼンテーションでした」
岸本が言った。
「完全な賛同は得られなかったが、対話の糸口は掴めた。……これは、大きな一歩だ」
村上も、不器用に微笑んだ。
「お前の言葉は、彼らの心に届いたよ」
洋子は、三人を見回した。
「……でも、まだ終わりじゃないわね」
「ああ。これから、本当の戦いが始まる」
浩が頷いた。
「世界中を回って、対話を続ける。一つ一つの懸念に答え、一つ一つの文化と向き合う。……それが、これからの私たちの仕事だ」
洋子は、窓の外を見た。
空は、まだ曇っている。雪は、まだ降っている。
しかし、雲の切れ間から、わずかに光が差し込んでいた。
「……行きましょう」
洋子が言った。
「世界が、私たちを待っている」
四人は、廊下を歩き始めた。その足取りは、疲れていたが、確かだった。
第一セッションは終わった。しかし、これは始まりに過ぎない。
世界中の倫理学者、宗教家、哲学者たちと対話を続け、この技術を正しい方向へ導くための、長い旅が始まろうとしていた。
洋子は、胸のポケットに入れた小さなノートに触れた。そこには、昨夜書いた言葉が記されている。
『記憶は、個人の所有物ではない。人と人の間に流れる、光の糸である』
その言葉を、これから何度も、世界中で語ることになるだろう。
廊下の窓から、街の景色が見えた。人々が歩いている。普通の日常が、そこにある。
その日常を守るために。
その日常を取り戻すために。
洋子たちの旅は、続く。




