第27話「大規模接種の開始」
改良版ワクチン『Mnemosyne Ver.3.0』の試作から十日。
研究チームにとって、これまでの数ヶ月にも匹敵する濃密で張り詰めた時間だった。自分たちが生み出した「二層構造」の理論が、多様な人種、環境、そして「心の痛み」を持つ人々に等しく救いをもたらすのか。その答えを待つ間、洋子たちは祈るような心地で世界中のリアルタイム・データを監視し続けていた。
研究室の壁には、世界地図が投影されている。
その地図上に、次々とマーカーが点灯していく。
緑のマーカーは、Ver.3.0の投与に成功した地域。
黄色のマーカーは、投与中の地域。
赤のマーカーは、まだ到達していない地域。
最初は、緑のマーカーはほんの数個だった。
でも、時間が経つにつれて、緑が増えていく。
一つ、また一つと。
そのたびに、研究員たちの間に小さな歓声が上がった。
でも、まだ安心はできない。
本当に効果があるのか。
副作用は出ないのか。
その不安は、消えることがなかった。
だが届いた答えは、彼らの不安を鮮やかに塗り替えるものだった。
世界各地の研究拠点、医療現場から着弾する観測データは、同じ力強い方向を示していた。
〈副作用の抑制、極めて良好。トラウマの再燃報告、前週比98%減〉
〈中心核の結晶密度指数、120時間連続安定。長期変動の兆候なし〉
〈自然な忘却機能の保持を確認。被験者は日常的な忘却と新しい記憶の定着を両立〉
洋子は、それらのデータを一つ一つ確認していた。
数字は、嘘をつかない。
98%減。120時間連続安定。忘却機能の保持。
すべてが、理想的な値を示している。
「本当に……うまくいってる」
若手研究員の一人が呟く。
「ええ。本当に」
洋子は小さく頷く。
でも、まだ油断はできない。
これから、さらに多くの人に投与される。
その中には、予想外の反応を示す人がいるかもしれない。
だから、監視を続けなければならない。
モニターに並ぶ無数の緑色のチェックマーク。それは、人類がようやく「雪」という病魔を飼い慣らし、共存するための術を手に入れたことを証明していた。
各国の倫理委員会と専門委員会による、異例の速さでの最終審査。そしてついに、その瞬間が訪れた。
ある朝のこと。
洋子が研究室に入ると、岸本が興奮した様子で駆け寄ってきた。
「洋子さん! 来ました!」
「何が?」
「承認です! 大規模接種の承認が降りました!」
洋子の心臓が、高鳴った。
「改良版ワクチン:大規模接種を承認する」
WHOおよび各国政府連名によるその公式通知が、研究室のメインモニターに大きく表示された。
その知らせが届いた瞬間、研究棟全体を包んだのは割れんばかりの歓声ではなかった。
ふう、と誰かが深く長い溜息をつく。暗いトンネルを抜け、ようやく光の差す場所へ辿り着いた者だけが知る、魂の底からの安堵の沈黙。
岸本はキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く体を預けて目を閉じる。
村上は眼鏡を外し、何度もレンズを拭う。
浩は天井を仰いで大きく息を吐く。
若手研究員たちは、互いに肩を抱き合っている。
誰も言葉を発しない。
でも、その沈黙は、重苦しいものではなかった。
それは、長い戦いを終えた者たちの、静かな勝利の時間だった。
「……始まるわね」
洋子は、画面上の承認通知の文字をじっと見つめていた。その瞳には、窓から差し込む朝の光が反射し、小さな、しかし消えることのない希望の灯火のように揺れていた。
浩が隣に立ち、彼女の肩をそっと抱き寄せた。その手のぬくもりが、現実のものとして伝わってくる。
「ああ。ここまで本当に長かった。……でも、まだ終わりじゃない。ここからが、自分たちの作ったものが世界を癒していく、本当の勝負だ」
洋子は、浩の顔を見上げた。
彼の目にも、同じ決意があった。
承認は、ゴールではない。
スタートラインだ。
ここから、世界中の人々にワクチンを届けなければならない。
そして、その効果を見守り続けなければならない。
「大規模接種は、各自治体の学校区、職場、主要な公共施設から一斉に開始されます」
岸本が眼鏡をかけ直し、最新のロジスティクス・データを指差す。
画面には、全国の接種会場の地図が表示されている。
小学校、中学校、高校、大学。
市役所、区役所。
企業のオフィス、工場。
無数の拠点が、地図上に点在している。
「私たちが構築した世界的供給網が、完全に機能しています。かつてのような『選別』も、不当な高騰ももうありません。"必要なところに必要なだけ届く"、かつて当たり前だった物流の平穏が、ようやく戻ってきたんです」
岸本の声には、誇りが滲んでいた。
オープンソース化。世界的供給網の構築。
それらすべてが、今この瞬間に結実している。
村上も、モニターの端に表示されたニュース速報を見て、満足げに口角を上げた。
「闇市場の取引も、ここ数日で急激に減少しているそうだ。正規の供給スピードが圧倒的になりすぎて、法を犯してまで偽物や高価な横流し品を買う必要がなくなった。……欲に目がくらんだ連中も、この連帯の速度には勝てなかったということだな」
画面には、闇市場の取引件数のグラフが表示されている。
一ヶ月前には、毎日何千件もあった取引が、今では数十件にまで減少している。
正義が勝ったわけではない。
ただ、正規のルートの方が、速くて安くて確実になったというだけだ。
でも、それでいい。
結果として、人々が公平にワクチンを受けられるようになったのだから。
研究室には、静かな熱気が満ちていた。
かつての崩壊を食い止める「焦燥」の熱ではなく、未来を再構築する「生命」の熱。
六花結晶を巡る絶望と混乱の数か月。その底をようやく抜け出し、人類は再び、"明日を語る権利"を取り戻しつつあった。
洋子は、窓の外を見た。
街には、人々の姿がある。
歩いている人、自転車に乗っている人、バス停で待っている人。
ごく普通の、日常の風景。
でも、数ヶ月前は、これが失われかけていた。
人々が記憶を失い、街から消えていく。
そんな悪夢のような日々が、確かにあった。
でも今は、違う。
日常が、戻ってきている。
大規模接種開始の初日。
街には、久しぶりに人々が外へ踏み出す「活気」が戻っていた。
それは、以前の街並みとは少し違っていた。皆、どこか慎重で、けれどその足取りには確かな意思が宿っている。
人々は、記憶を失う恐怖を知っている。
大切な人を忘れてしまう苦しみを、身をもって経験した。
だから、慎重になっている。
でも同時に、希望も持っている。
ワクチンがある。救いがある。
その確信が、人々の足取りを前に進ませていた。
洋子たちが視察に訪れたのは、近隣の小学校の体育館に設けられた臨時接種会場。
かつて子供たちの歓声が響いていたその場所には、今は整然とパイプ椅子が並べられ、保護者に手を引かれた子供たちが順番を待ちながら落ち着かない様子で座っている。
洋子は体育館の入り口で立ち止まる。
この場所で、かつて運動会が行われていたのだろう。
子供たちが走り、笑い、転んで泣いて。
そんな当たり前の光景がここにはあったはずだ。
でも今は、接種会場になっている。
体育館の空気は、春を予感させるように少しだけ温かかった。
高く開け放たれた窓からは、柔らかい風が入り込み、床に落ちた太陽の光をゆらゆらと揺らしていた。
洋子は、その光を見つめた。
春の光。
長い冬が、終わろうとしている。
「次の方、こちらへどうぞ」
白衣を着た医療スタッフの穏やかな声が響く。
列に並ぶ親子連れの中には、少し前まで「記憶が消えること」に怯え、夜も眠れなかったであろう人々もいただろう。だが、いま並んでいる彼らの瞳には、以前のような濁った不安の色はなかった。
洋子は、その列を見つめた。
母親が、子供の手を握っている。
父親が、子供の肩に手を置いている。
祖父母が、孫を見守っている。
家族の絆。
それが、ここにはあった。
記憶を失う恐怖の中で、人々は家族の大切さを再認識した。
そして今、その家族を守るために、ここに来ている。
接種を終えた子供たちは別室の観測ブースへと案内される。
そこで簡易的な結晶スキャン。モニターに映し出される六花結晶は、洋子たちが設計した通り、わずかに揺れながらも中心核は宝石のような強固な安定を保っていた。
洋子は、そのモニターを見た。
美しい。
生きている結晶。
呼吸をしている結晶。
Ver.2.0の時のような、完璧だが死んだような結晶ではない。
Ver.3.0の結晶は、生命を感じさせる。
「大丈夫だよ、痛くないからね。もう怖くないよ」
スタッフの優しい声に、緊張で強張っていた子供たちの肩が、ふっと下がる。その小さな安堵の瞬間が、体育館のあちこちで連鎖していた。
洋子は、その光景を見ながら、胸が温かくなるのを感じた。
子供たちの笑顔。
親たちの安堵の表情。
スタッフの優しい声。
それは、一人の英雄が世界を救った光景ではない。
科学と、信頼と、平穏な日常を取り戻そうとする人々の意志が、一つの会場を作り上げているのだ。
浩が、洋子の隣に立った。
「いい光景だな」
「ええ。……本当に」
洋子は、小さく微笑んだ。
これが、自分たちが目指していたもの。
人々が笑顔で、安心して、日常を取り戻すこと。
それが、ようやく実現しつつある。
中学校、高校、大学、そして各地域のオフィスビル。
至る所で同じ風景が広がっていた。校舎の廊下には整然とした列ができ、人々は互いに適切な距離を保ちながら、静かに、しかし着実に前へと進んでいる。
少し前まで世界を支配していた、「自分だけが助かればいい」「誰が取り残されるのか」という疑心暗鬼の暗雲は、この春の光の中で、霧散しつつあった。
洋子たちは、次に高校の接種会場を訪れた。
そこでは、生徒たちが教室で順番を待っていた。
ある生徒は、スマートフォンを見ている。
ある生徒は、友人と小声で話している。
ある生徒は、窓の外を眺めている。
普通の高校生の姿。
それが、そこにはあった。
教師が、生徒たちに声をかけている。
「大丈夫だからね。すぐ終わるから」
生徒たちは、少し緊張した表情で頷いている。
でも、パニックはない。
落ち着いている。
それは、Ver.3.0への信頼があるからだ。
職域接種が始まった工場地帯でも、熱気は変わらなかった。
巨大な機械が並ぶ工場では、生産ラインを一時的に停止し、従業員全員が順に接種を受けていた。
洋子たちは、その工場も訪れた。
工場の食堂が、接種会場になっている。
作業着を着た従業員たちが、列を作っている。
若い従業員も、ベテランの従業員も。
男性も、女性も。
みんな、同じように並んでいる。
「これでようやく、家族の顔を忘れる心配をせずに仕事に打ち込める」
休憩室で接種を終えた年配の工員が、同僚と肩を叩き合って笑っている。その当たり前の光景が、どれほど貴重なものだったかを、洋子たちは身に沁みて知っていた。
洋子は、その笑顔を見て、涙が溢れそうになった。
この人たちは、記憶を失う恐怖の中で、どれほど苦しんだだろう。
家族のことを忘れてしまうかもしれない。
自分が誰なのか、分からなくなるかもしれない。
そんな恐怖の中で、毎日を過ごしていた。
でも今は、笑っている。
安心して、笑っている。
それが、何よりも嬉しかった。
大規模接種の波は瞬く間に国境を越え、地球上のあらゆる場所に届き始めた。
研究棟のメインモニターには、世界中の提携拠点からのライブ映像や、SNSで発信される人々の記録が映し出されている。画面は、次々と切り替わっていく。
ニューヨークの接種会場。 ロンドンの病院。 上海の学校。 ムンバイの市民ホール。
世界中で、同じことが起きている。
人々が列を作り、ワクチンを受け、笑顔で帰っていく。
その光景が、画面の向こうに無数に広がっている。
洋子は、その画面を見つめていた。
これが、自分たちが目指していたもの。
世界中の人々が、記憶を守られること。
それが、今、実現している。
かつて「社会の分断」に揺れた大都市の広場では、臨時の接種テントを囲むようにして、見知らぬ者同士が静かに言葉を交わしていた。
画面には、ある広場の様子が映っている。
二人の男性が、話をしている。
一人は中年、もう一人は老人。
「……覚えていますか? ここで以前、一緒に雪かきをしましたね」
「ああ。あの時は、自分の名前さえ忘れかけていて、お礼も言えなかった」
二人は、握手をした。
そして、互いに微笑んだ。
そんな会話が、世界中のあちこちで生まれていた。
Ver.3.0がもたらしたのは、単なる記憶の保持ではない。過去の「痛み」を穏やかな「経験」へと昇華させ、他者との繋がりを再び結び直すための、心の余裕だった。
人々は、辛い記憶を抱えている。
でも、その辛さは和らいでいる。
痛みは残っているが、刺さらない。
だから、前を向ける。
だから、他者と繋がれる。
別の画面には、子供たちが遊んでいる様子が映っている。
公園で、鬼ごっこをしている。
笑い声が聞こえてくるようだ。
その子供たちの親が、ベンチに座って見守っている。
親たちの表情は、穏やかだ。
不安の色はない。
子供たちの笑顔を、ただ見守っている。
「……見てください。消失指数のグラフが、ついにゼロ付近で安定しました」
岸本が、震える声で報告した。
モニターには、数ヶ月前には絶望的な上昇を続けていた「忘却の波」のグラフが、凪いだ海のように平坦な線を描いているのが映っていた。
洋子は、そのグラフを見つめた。
かつては、急激に上昇していた線。
毎日、何万人もの人が消失していた。
グラフは、まるで崖を登るように、垂直に近い角度で上昇していた。
でも今は、違う。
線は、ほぼ水平になっている。
ゼロ付近で、安定している。
消失は、ほぼ止まった。
「各国の通信網も、物流も、教育機関も……すべてが再稼働を始めています。人類という巨大なシステムが、再び『記憶』という潤滑油を得て、回り始めました」
岸本の声は、感慨深げだった。
彼女は、データを切り替えた。
画面には、各種インフラの稼働率が表示される。
電力供給:98% 物流網:95% 通信網:97% 教育機関:92%
すべてが、ほぼ正常に戻っている。
数週間前までは、これらの数値は50%を下回っていた。
労働者が消失し、システムが崩壊しかけていた。
でも今は、回復している。
人々が記憶を取り戻し、職場に戻り、社会が動き始めている。
村上が、深い皺の刻まれた顔を綻ばせ、コーヒーカップを置いた。
「闇市場の連中も、今頃は商売上がったりだろうな。……無料、あるいは極めて安価に、しかも最高の品質の薬がどこでも手に入る。資本の論理を超えた『連帯』が、強欲を打ち負かしたんだ」
彼は窓の外、遠くにそびえるビル群を眺めた。
ビルの窓には、明かりが灯っている。
オフィスが、再び稼働している。
人々が、働いている。
日常が、戻ってきている。
「……長谷川教授にも、この光景を見せてやりたかった」
村上の呟きに、研究室の空気が一瞬静まった。
その呟きに、研究室にいた全員が静かに頷いた。彼らの勝利は、多くの犠牲と、引き継がれた意志の上に成り立っていた。
洋子は、教授のことを思った。
あの穏やかな笑顔。
優しい声。
一緒に研究をした日々。
教授は、もういない。
でも、教授の意志は、ここにある。
洋子たちが、引き継いでいる。
そして、その意志が、今、世界を救っている。
洋子は、自らの手元の端末を眺めていた。そこには、一つの動画が再生されていた。
それは、南米の小さな町で撮影されたものだった。
副作用でトラウマの再燃に苦しんでいた老人が、Ver.3.0の接種を受け、数日ぶりに庭に出てきた場面だ。
老人は、ゆっくりと歩いている。
庭には、花が咲いている。
春の花。
老人は、その花を見つめた。
そして、ベンチに座った。
老人は、かつて事故で亡くしたはずの息子の写真を手にしていた。以前は、その写真を見るたびにパニックに陥っていたという。だが今の彼は、写真に向かって優しく微笑み、その額をそっと撫でていた。
悲しみが消えたわけではない。けれど、その悲しみと共に生きていく力を、彼は取り戻したのだ。
動画は、そこで終わる。
でも、その最後の表情が、洋子の心に深く刻まれた。
老人の微笑み。
それは、痛みを乗り越えた人の、穏やかな笑顔だった。
「……よかった」
洋子の目から、一筋の涙がこぼれ、端末の画面に落ちた。
救いたかったのは、記憶そのものだけではない。記憶を抱えて生きていく「人間の尊厳」だったのだと、彼女は改めて確信していた。
夕暮れ時。
接種のピークが一段落した頃、洋子と浩は、研究棟の屋上へと上がった。
冷たい風が二人の頬を撫でるが、それはもう、すべてを奪い去る死の風のようには感じられなかった。
洋子は、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が、肺に満ちる。
でも、その冷たさは心地よい。
生きている実感がある。
浩も、同じように深呼吸をした。
「いい風だな」
「ええ。……本当に」
二人は、手すりに寄りかかった。
空からは、再び雪が舞い始めていた。
「六花結晶」を含んだ、あの白く輝く雪だ。
洋子は、手を伸ばした。
雪の結晶が、掌に落ちる。
冷たい。
そして、美しい。
かつては、この雪が恐怖だった。
記憶を奪う、白い死神だった。
でも今は、違う。
ただの雪だ。
美しい、冬の景色だ。
だが、眼下に広がる街の光は、以前よりもずっと力強く、温かかった。
街灯が灯り、家々の窓からは家族の団欒を思わせるオレンジ色の光が漏れている。
人々はもう、空から降る白に怯えてはいなかった。
洋子は、その光景を見つめた。
一つ一つの窓に、家族がいる。
リビングで、夕食を食べている家族。
子供部屋で、宿題をしている子供。
寝室で、本を読んでいる老人。
それぞれの人生が、そこにはある。
そして、その人生は、もう消失の恐怖に脅かされていない。
「明日、何をしようか」
どこかから、そんな声が聞こえてきた気がした。
「週末には、あの公園へ行こう」
別の声。
そんな、何気ない、けれど最も贅沢な「未来の約束」が、雪の降る街のいたるところで交わされているのが、風に乗って聞こえてくるようだった。
洋子は、目を閉じた。
耳を澄ます。
風の音。
雪の音。
そして、遠くから聞こえてくる、街の音。
車の走る音。
人々の話し声。
笑い声。
それらすべてが、生きている証だった。
「……終わったんだね、浩くん」
洋子が、隣に立つ浩を見上げて言った。
浩は、降ってくる雪を掌で受け止め、それが溶けていくのをじっと見つめていた。
「ああ。……いや、『始まった』と言うべきかもしれないな。雪が消えたわけじゃない。これからも俺たちは、この六花結晶が舞う世界で、記憶を繋ぎ止めて生きていくんだから」
彼は、掌の上の水滴を見つめながら、穏やかに続けた。
「でも、もう大丈夫だ。俺たちは、忘れることも、覚えていることも、自分たちで選べるようになった。……この雪を、ただの冬の景色として愛でる自由を取り戻したんだ」
洋子は、浩の言葉を噛み締めた。
終わりではなく、始まり。
そうだ。
雪は、まだ降っている。
六花結晶は、まだ空気中に漂っている。
でも、人々はそれと共存できるようになった。
恐れるのではなく、受け入れる。
そして、必要な記憶は守り、不要な痛みは手放す。
それができるようになった。
洋子は浩の手を、そっと握った。
二人の間に流れる時間は、もはや消失の恐怖に脅かされることのない、確かな厚みを持っていた。
共有した苦しみ、流した涙、そして辿り着いたこの平穏。
そのすべてが、二人の六花結晶の中心核に、決して消えない「絆」として刻まれている。
洋子は、浩の横顔を見た。
強い横顔。
でも、優しい目をしている。
この人と一緒に、ここまで来られた。
それが、何よりも嬉しかった。
「ねえ、浩くん。……私、さっき思ったの」
洋子は、遠くの地平線を見つめながら言った。
「この雪は、私たちに教えてくれたのかもしれない。……当たり前の日常が、どれほど奇跡のようなバランスの上に成り立っているのかを。……そして、人が人を想う気持ちが、どれほど強いエネルギーを持っているのかを」
浩は頷き、彼女の手を握り返した。
「そうだな。……俺たちは、この雪と戦って、そして学んだ。大切なものを守るために、何が必要なのかを」
二人は、しばらく黙って雪を見つめていた。
沈黙は、重くない。
むしろ、心地よい。
言葉にする必要のない、理解が、そこにはあった。
「……そうだな。……行こうか。みんなが待っている」
浩が、静かに言った。
洋子は頷いた。
「うん」
二人はゆっくりと歩き出した。
背後の研究室では、岸本や村上が、次なる「復興」のための準備を始めている。
ワクチンの改良、記憶を失った人々への長期的なケア、そして、この現象そのものの解明。
道はまだ続いている。けれど、その足取りは驚くほど軽やかだった。
洋子と浩は、屋上のドアに向かって歩いていく。
その背中は、もう迷いがない。
前を向いている。
未来を見つめている。
屋上のドアを閉める直前、洋子はもう一度だけ、夜空を仰いだ。
降り積もる雪は、もう、何かを奪い去るための白ではなかった。
それは、傷ついた世界を優しく包み込み、新しい明日を迎えるための、真っ白なキャンバスのようだった。
洋子は、その雪を見つめた。
美しい。
本当に、美しい。
この美しさを、ようやく素直に感じられるようになった。
恐怖ではなく、感動として。
街には、人々の笑い声が満ちている。
かつて消えかけていた言葉が、名前が、物語が、この雪の下で再び力強く芽吹こうとしていた。
人々はもう、「明日」を疑っていない。
洋子はドアを開ける。温かい空気が中から流れてくる。
研究室の明かり。
仲間たちの声。
それらが洋子を迎えてくれる。
浩が洋子の背中を優しく押す。
「行こう」
「うん」
二人は、研究室へと戻っていった。
ドアが閉まる。
屋上には、雪だけが残された。
静かに、優しく、降り続ける雪。
それは、新しい世界の始まりを祝福するかのように、街を白く染めていった。




