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雪の哲学  作者: 唯野眠子
26/29

第26話「改良版の開発」

第二世代ワクチン『Mnemosyne Ver.2.0』の予期せぬ副作用――「過剰な記憶固定」が明らかになってから数日。

気象研究棟は、鈍く重い沈黙に包まれていた。

窓の外では吹雪が鎮まり、空には薄い雲の切れ間さえ覗いている。街には消失現象の収束を祝うニュースが流れ、人々の往来も戻っていた。

だが研究室の空気は、これまでで最も冷たく、鋭利に張り詰めていた。それは「敵」が外にある雪ではなく、自分たちが生み出した「薬」の中に潜んでいたという事実がもたらす、逃げ場のない閉塞感だった。

研究員たちの表情は、一様に暗かった。

誰もが黙々と作業をしているが、その動きには活気がない。まるで、重い鎖を引きずりながら歩いているような、緩慢で疲れ切った動作。

コーヒーカップは冷め切っている。誰も飲もうとしない。

窓際では、若手研究員が外を眺めながら、小さく溜息をついていた。

勝利だと思っていた。

消失現象を止め、世界を救ったと信じていた。

でも、それは幻想だった。

問題は、形を変えて残っていた。むしろ、より深刻になっていた。

洋子のデスクには、世界中から送られてくる「副作用報告書」が山積みだった。

一通一通が、助けようとした人々からの悲鳴。洋子はその中の一枚を手に取る。

『30代女性。火災で失ったペットの鳴き声が、24時間耳元で再生され続けている』

洋子はその女性を想像する。

愛していたペット。何年も一緒に暮らしていたのだろう。

火災。助けられなかった後悔。それが永遠に繰り返される。

別の報告書を開く。

『元兵士の男性。戦場での恐怖体験が、昨日のことのように鮮明なまま固定され、不眠とパニック発作を繰り返している』

戦場。銃声。仲間の死。

それらが、時間が経っても薄れない。

癒えることのない傷として、心に刻まれ続ける。

彼らの脳内では、時間は経過しない。悲しみは風化せず、痛みは瘡蓋かさぶたになることもなく、常に鮮血を流し続けている。

洋子は報告書を握りしめる。紙が皺になる。

「……これじゃ、本当の意味で救ったとは言えない」

指先に力を込め、震える息を吐く。

記憶を守るための盾が、内側から所有者を締め上げる拘束衣になった。その罪悪感が、心臓を冷たい手で掴む。

浩は、洋子の様子を見ていた。

彼女の肩が、小刻みに震えている。

声をかけるべきか、迷った。

でも、今は何を言っても慰めにならないだろう。

彼自身も、同じ罪悪感を抱えている。

「……悔しいが、現実は残酷だ」

隣のデスクで、村上が眼鏡を外し、疲れたように目をこすった。

「我々は『忘却』を敵だと定義した。だが、忘却こそが、人間の精神を守るための安全弁セーフティだったんだ。……それを塞いでしまった今、脳は圧力鍋のように悲鳴を上げている」

彼は眼鏡をかけ直し、デスクの上の論文を見つめた。

そこには、記憶のメカニズムについての研究が記されている。

記憶は、時間とともに変化する。

鮮明な記憶は、徐々に曖昧になっていく。感情的な強度は薄れ、客観的な情報だけが残る。

それが、正常な記憶の老化プロセスだ。

でも、ワクチンはそれを阻害してしまった。

「でも、結合力を弱めれば、今度はまた雪につけ込まれます」

岸本がモニターを見つめたまま、焦燥感を露わにする。

「シミュレーションを行いましたが、現在の結合パラメータをわずかでも下げると、結晶構造全体が脆くなり、再び消失現象のリスクが跳ね上がります。……『強く結ぶ』か『解く』か。0か1かの選択しかありません」

彼女の画面には、無数のグラフが表示されている。

結合力を横軸に、安定性を縦軸に取ったグラフ。

理想的な値は、その中間にあるはずだ。

でも、どのシミュレーションでも、その中間点は存在しない。

強くすれば固定化される。弱くすれば崩壊する。

二つの極端の間に、安全な領域がない。

行き詰まっていた。

あちらを立てればこちらが立たず。完全なディレンマ(板挟み)だった。

研究室には、キーボードを叩く音だけが響いている。

でも、それは進展の音ではない。

同じシミュレーションを、何度も何度も繰り返しているだけだ。

答えが見つからない。

洋子は立ち上がり、ラボの中央に投影された巨大なホログラム――脳内六花結晶の拡大モデル――の前へと歩み寄った。

青白く光るその結晶は、今の設定ではダイヤモンドのように硬く、一切の揺らぎを許さない形状をしている。

美しい。完璧な対称性を持っている。

でも、生きていない。

(……硬すぎる。だから、痛みを弾けない)

洋子は、かつて長谷川教授が言っていた言葉を思い出していた。

『記憶とは、川のようなものだ』

教授の穏やかな声が、耳元で蘇る。

流れ続けるからこそ、清らかでいられる。堰き止めてしまえば、水は淀み、やがて腐る。今のワクチンは、この川を凍らせて止めてしまったに等しい。

洋子は、結晶を見つめながら考えた。

川を凍らせるのではなく、流れを守りながら、清らかさを保つ方法。

それは、あるのだろうか。


「……ねえ、みんな」

洋子は静かに口を開いた。その瞳は、ホログラムの光を反射して強く輝いていた。

「発想を変えましょう。……『全体』を同じ強度で守る必要なんて、最初からなかったのかもしれない」

その言葉に、浩が顔を上げた。

村上も、岸本も、作業の手を止めて洋子を見た。

彼女の声には、何かが宿っている。

諦めではない。新しい何かを見つけた時の、あの響き。

彼女は手を伸ばし、空中に浮かぶ六花結晶モデルの中心核に触れた。

ホログラムの光が、彼女の指先で波紋を広げる。

「人間のアイデンティティ、つまり『私が私である』ための核となる記憶。……これは絶対に守らなきゃいけない。だから、ここはダイヤモンドのように硬く固定する」

洋子は、結晶の中心を指差した。

自分の名前。家族のこと。大切な人たちとの思い出。

それらは、絶対に失ってはいけない。

そして彼女は、その指をゆっくりと外側へ――結晶の枝先へと滑らせた。

「でも、日々の出来事や、一時的な感情……これらは本来、外側にある『枝葉』よ。……風に揺れ、時には折れて、また新しく生えてくる部分」

浩は、ハッとした表情で立ち上がった。

「そうか……全部を同じ強度で守ろうとしていたから、矛盾が生じていたんだ」

村上も、理解の光が目に宿った。

「核心部分は強固に。周辺部分は柔軟に。……階層構造ヒエラルキーを持たせるということか」

洋子は操作パネルに指を走らせ、結晶のパラメータを書き換えた。

ホログラムの形状が変化する。

中心核は強く輝いたまま、その周囲を覆う層が、まるでゼリー状の流体のように柔らかく波打ち始めた。

光の波紋が、結晶の表面を優しく撫でていく。

それは、まるで生きているようだった。

呼吸をしているようだった。

二層構造ダブル・レイヤー……」

背後から覗き込んだ浩が、息を呑んで呟いた。

「……そうか。全部を固めるんじゃない。……コアは強固なシェルで守り、その外側に『忘却のための余白』を持った緩衝層バッファゾーンを作るのか」

彼は洋子の肩に手を置いた。

「洋子……これは、いけるかもしれない」

「ええ」

洋子は振り返り、力強く頷いた。

「中心は『Ver.2.0』の強度を維持する。でも、外側には『代謝』の機能を持たせるの。……悲しみや痛みという毒素を、雪に溶かして外へ流すための排出口ドレインを、この柔らかい層に作る」

岸本が、画面に数式を表示し始めた。

「内層と外層の境界面……ここの設計が鍵になります」

「そうね」

洋子が頷く。

「境界面は、半透膜のようなもの。核心を守りつつ、不要な感情だけを外に逃がす」

それは、あまりにも繊細で、綱渡りのようなバランスを要求される設計だった。

内側は鋼鉄、外側は水。異なる物理特性を持つ二つの層を、一つの結晶構造の中で共存させなければならない。

村上が、懸念を口にした。

「だが、どうやって『核心の記憶』と『一時的な感情』を区別する? 脳は、それを自動的に判断できるのか?」

「できるはずです」

岸本が答えた。

「脳は、すでにその機能を持っています。海馬が短期記憶を長期記憶に変換する際、重要度を判定している。……その自然なプロセスを、ワクチンが阻害しないようにすればいい」

「そして、感情の代謝は睡眠中に行われる」

洋子が続けた。

「レム睡眠時、脳は記憶を整理し、感情の強度を調整しています。……ワクチンが、そのプロセスをサポートするように設計すれば」

浩が、ホログラムを操作した。

画面に、睡眠中の脳波パターンが表示される。

「睡眠中、外層の結合力を一時的に弱める。その間に、感情の『毒』だけが雪に溶けて流れ出す。……目覚めた時には、記憶は残っているが、痛みは和らいでいる」

「理論上は……可能かもしれない」

岸本が猛烈な勢いで計算を始めた。

「ですが、制御は至難の業です。外側の結合を緩めすぎれば、そこから浸食が始まり、核まで食い破られる恐れがあります。……外殻の強度は、絶妙な『半透膜』のような性質を持たせなければならない」

彼女の指が、キーボード上を踊るように動いている。

画面には、複雑な数式が次々と展開されていく。

結合力の時間依存性。睡眠周期との同期。境界面の透過率。

すべてが、精密に調整されなければならない。

一つでも数値が狂えば、全体が崩壊する。

「できるわ」

洋子の声には、迷いがなかった。

「私がやる。……私の中にあるこの結晶を使って、最適な『揺らぎ』の周波数を見つけ出す」

浩が、洋子を見た。

「洋子……また、被験者になるつもりか?」

「そうよ」

洋子は、浩の目をまっすぐ見つめた。

「私が最初にVer.2.0を受けた。だから、私が最初にVer.3.0を試すべきよ。……それに、私の中には教授の死という、測定可能な悲しみがある」

彼女は胸に手を当てた。

「この痛みが和らぐかどうか。でも、教授の記憶は失わないかどうか。……それを確かめられるのは、私だけ」

研究室の空気が、再び熱を帯び始めた。

それは絶望的な沈黙ではなく、困難な壁に挑む科学者たちの、静かで熱い闘志だった。

若手研究員たちが、デスクから顔を上げた。

その目には、再び希望の光が宿っている。

冷めたコーヒーを誰かが飲み干した。

キーボードを叩く音が、リズムを取り戻した。

「……よし」

浩が白衣の袖をまくり上げ、洋子の隣に立った。

「やろう。神様が人間に『忘れる』という機能をつけた理由……その設計思想デザインを、俺たちの手で再実装するんだ」


理論は立った。だが、それを現実の化学式へと落とし込む作業は、針の穴を通すような精密さと、狂気じみた忍耐を要求された。

研究室の時計は深夜二時を回り、三時を過ぎても、誰も席を立とうとはしなかった。

窓の外は真っ暗だ。街灯だけが、寂しげに光っている。

研究室の蛍光灯は、冷たい白色光を放ち続けている。

その光の下で、研究員たちの顔は青白く見えた。

目の下には深いクマ。乱れた髪。しわくちゃの白衣。

でも、誰も文句を言わない。

誰もが、この作業の重要性を理解している。

「……ダメだ。外縁部の結合が緩すぎる」

岸本が髪をかきむしる。

「代謝機能を高めると、中心核への保護圧力が低下して、記憶の維持率が90%を割り込む。嫌なことは忘れるけど、大切な人の名前まで忘れてしまう」


彼女の画面には、赤い警告マークが点滅している。

シミュレーションが、失敗を示している。

何度目の失敗だろうか。

もう数えるのも嫌になるほど、繰り返している。

「逆に、保護圧力を強めると……今度はまた『固定化』が始まる」

村上が充血した目でモニターを睨みつける。

「0.01マイクログラム単位の調整でも、バランスが崩壊する。……まるで、氷の上でコマを回し続けるような無理難題だ」

彼はコーヒーカップを手に取ったが、すでに中身は空だった。

何杯目のコーヒーだろう。

もう、カフェインも効かなくなっている。

浩は、ホワイトボードに無数の数式を書き連ねていた。

消しては書き、書いては消す。

その繰り返し。

答えは、どこにあるのか。

本当に、見つかるのか。

洋子は、自らの腕に無数のセンサーを取り付け、アジャストルームの椅子に座っていた。

彼女は、自身の脳波データをリアルタイムで提供し続ける「生きた羅針盤」となっていた。

腕には、すでに何本も注射の痕がある。

試作品を試すたびに、新しい痕が増えていく。

痛みはもう、慣れてしまった。

それよりも、この実験を成功させることの方が重要だ。

「……もう少し、セロトニン系の抑制を強めてみて」

洋子はマイク越しに指示を出した。

「私の感覚だけど……今のままだと、記憶が『粘っこい』の。もっとサラサラと流れるように、粘度を下げるイメージで」

彼女は目を閉じて、自分の内側を感じ取ろうとしている。

記憶の流れ。感情の重さ。

それらを、言葉にするのは難しい。

でも、科学者としての直感が、何かを感じ取っている。

浩がメインコンソールで数値を入力する。

「粘度を下げる……。よし、結合剤の分子鎖を短くしてみるか」

彼の指が、キーボードを叩く。

シミュレーションが再起動される。

画面に、新しい結晶モデルが表示される。

でも、またダメだった。

今度は、結合が弱すぎて、結晶全体が崩壊してしまう。

「くそ……」

浩が舌打ちした。

試行錯誤は数百回に及んだ。

結晶モデルが生成されては崩れ、崩れては固まる。

窓の外が白々と明け始めた頃。

東の空が、薄く明るくなってきている。

夜が明ける。

でも、答えはまだ見つからない。

研究員たちの疲労は、限界に達しつつあった。

若手研究員の一人が、机に突っ伏して眠ってしまっている。

もう一人は、壁にもたれかかって目を閉じている。

でも、洋子、浩、岸本、村上の四人は、まだ諦めていなかった。

不意に、モニター上の結晶が奇妙な動きを見せた。

中心核は強く輝いたまま、その周囲の半透明の層が、呼吸をするようにゆっくりと収縮と膨張を始める。

今までのどのモデルとも違う、生き物のような有機的なリズム。

岸本が画面に釘付けになる。

村上が椅子から立ち上がる。

浩が息を呑む。

洋子もアジャストルームのモニターでその変化を見る。

これは――。

「……これだ」

岸本が息を呑んだ。

「安定しています。中心核の強度はVer.2.0と同等。しかし、外縁部の流動性は……自然状態の脳とほぼ同じ。……完璧な『二層構造』です」

彼女の声は、興奮で震えていた。

画面に表示される数値は、すべてが理想的な範囲内にある。

記憶の維持率:98.5% 感情の代謝率:正常 結晶の安定性:高 副作用リスク:低

すべてのパラメータが、奇跡的なバランスを保っている。

村上が、データを確認した。

「信じられない……これほど完璧な数値は……」

浩が、洋子の方を見た。

アジャストルームのガラス越しに、洋子と目が合う。

彼女は、小さく頷いた。

「試す」

洋子は迷わず言う。


「洋子、まだシミュレーション段階だぞ。いきなり実投与は……」

浩の声に心配が滲む。彼は洋子を止めたかった。

でも、同時にその決意も理解していた。

彼は、洋子を止めたかった。

でも、同時に、洋子の決意も理解していた。

「私の体が一番、この『痛み』を知っているから」

洋子は自分の胸に手を当てた。そこにはまだ、教授の死や、副作用による鋭い記憶の棘が刺さったままだ。

「この棘が抜けるかどうか。……私が確かめたい」

彼女の目には、強い意志があった。

恐怖はない。

ただ、前に進みたいという決意だけがあった。

浩は数秒間、洋子の瞳を見つめ、そして覚悟を決めたように頷いた。

「……分かった。信じるよ、君の感覚を」

彼は、洋子を信じることにした。

彼女なら、大丈夫だ。

これまでも、ずっとそうだった。

岸本が、試験管を手に取った。

その中には、淡い桜色の液体が入っている。

生成されたばかりの『Mnemosyne Ver.3.0』――試験管の中で淡い桜色に輝くその液体が、洋子の静脈へと注入された。

針が刺さる。

冷たい液体が血管を巡り、脳へと到達する。

洋子は目を閉じ、その瞬間を待った。

研究室の全員が、固唾を飲んで見守っている。

モニターには、洋子の脳波がリアルタイムで表示されている。

心拍数、血圧、体温。

すべてのバイタルサインが、監視されている。

最初は、何も変わらなかった。

相変わらず、脳の奥にはチリチリとした焦燥感と、過去の悲しみが張り付いている。

洋子は、自分の内側を見つめていた。

教授の死。その痛み。

まだ、そこにある。

鋭く、深く、刺さったままだ。

でも――。

だが、数分後。

ふと、肩の荷が下りたような感覚が訪れた。

それは、ゆっくりと、優しく訪れた。

(あれ……?)

洋子は心の中で問いかけた。

さっきまで、あんなに胸を締め付けていた教授の死の記憶。

「死んでしまった」という事実への絶望。冷たい遺体の感触。

それらが、ゆっくりと輪郭をぼやけさせ、遠ざかっていくのが分かった。

記憶が消えたわけではない。

教授の顔は覚えている。

声も覚えている。

一緒に過ごした時間も、すべて覚えている。

「教授はもういない」という事実は覚えている。

けれど、それに付随していた「耐え難い痛み」や「後悔」といった鋭利な感情だけが、雪解け水に洗われるように、さらさらと溶け落ちていく。

まるで、傷口から棘が抜けていくように。

まるで、重い荷物を降ろしていくように。

代わりに残ったのは温かいもの。

教授の笑顔。かけてくれた言葉。一緒に研究をした日々の楽しさ。

それらの「愛おしい記憶」だけが、磨き上げられた宝石のように中心核で輝きを増す。

痛みは去った。

でも、愛は残った。

悲しみは薄れた。

でも、感謝は残った。

(……そうか。これが、本来の『忘れる』ってことなんだ)

忘れることは、失うことじゃない。

悲しみを濾過して、思い出を純化させるための、心の浄化作用なんだ。

洋子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

それは苦痛の涙ではなく、深い癒しの涙だった。

「……洋子?」

浩が心配そうに覗き込む。

彼は、洋子が泣いているのを見て、一瞬不安になった。

でも――。

洋子はゆっくりと目を開け、涙に濡れた笑顔で彼を見た。

「……大丈夫。……すごく、楽になった」

彼女は深く息を吸い込んだ。肺の中に入ってくる空気が、久しぶりに美味しかった。

「痛くないの。……悲しいけれど、もう痛くない。……教授のことが、ただ懐かしくて、温かい」

その笑顔は、本物だった。

長い間失われていた、心からの笑顔。

浩は、その笑顔を見て、涙が溢れそうになった。

その言葉を聞いた瞬間、全員が糸が切れたように脱力する。

村上が眼鏡を外して顔を覆い、岸本が椅子に座り込んで天井を仰ぐ。

若手研究員たちが抱き合って泣いている。

長い、長い戦いだった。

でも、ついに終わった。

「……やったな」

浩が、洋子の手を強く握りしめた。その手は震えていた。

「俺たちはついに……神様の設計図に追いついたんだ」

洋子は、浩の手を握り返した。

「うん。……ありがとう、浩くん。みんな、ありがとう」


『Ver.3.0』のレシピは即座に世界中へ配信された。

「トラウマからの解放」「優しい記憶の守り手」

効果は劇的だった。

副作用に苦しんでいた人々は、次々とその苦痛から解放され、安らかな眠りを取り戻していった。

戦争の記憶に怯えていた子供は、兵士の銃声ではなく、母親の子守唄を思い出して笑顔を見せた。

失恋に苦しんでいた若者は、涙を拭い、新しい恋へと歩き出す勇気を取り戻した。

世界中から、感謝のメッセージが届いた。

「痛みが消えました」 「眠れるようになりました」 「笑顔を取り戻しました」

一つ一つのメッセージが、研究チームの心を温めた。

数週間後。

研究棟の屋上に洋子と浩が立つ。

空は驚くほど青く澄み渡っている。

分厚い雲は消え去り、柔らかな春の日差しが降り注ぐ。

地面にはまだ薄く雪が残っていたが、それはもう脅威ではなかった。

Ver.3.0を接種した人々にとって、雪はただの美しい自然現象に戻っていた。

六花結晶の干渉を受け流し、時にはその儚さを愛でる余裕さえ、人々は取り戻していた。

「……綺麗だな」

浩が、手すりに積もった雪を指先で掬い上げた。

手のひらの上で、雪の結晶がキラキラと光り、そして体温で溶けて水になる。

「ああ。……本当に」

洋子は微笑んだ。

「私たち、この雪のおかげで気づけたのかもしれないね。……記憶の儚さと、強さに」

二人は並んで、眼下に広がる街を見下ろした。

そこには、当たり前の日常があった。

誰かが誰かの名前を呼び、笑い声が響き、新しい思い出が生まれては、古い悲しみが消えていく。

その循環こそが、生きている証だった。

六花結晶は、記憶であり、人生そのもの。

守られるべき記憶と、そっと手放すべき記憶。

その境界をどう扱うかという問いに、人類が初めて向き合う瞬間だった。

そして洋子たちは、その境界を越えて進むための一歩を、確かに踏み出した。


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