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雪の哲学  作者: 唯野眠子
25/29

第25話「予期せぬ副作用」

世界的供給網の稼働と「オープンソース化」によって、第二世代ワクチン『Mnemosyne Ver.2.0』は地球規模で流通し始めた。

研究棟の世界地図は、ここ数週間で劇的に変化していた。都市部を中心に広がっていた警戒色の赤が、オセロの駒をひっくり返すように、安全を示す穏やかな緑色へと塗り替えられていく。

急増していた消失前兆者のグラフは、各地で明らかな下降線を描き、パニックに陥っていた街の風景には、ようやく"日常"と呼べるものが戻りつつあった。

人々は再び、昨日の夕食を思い出し、愛する人の名前を呼び、明日への約束を交わすことができるようになったのだ。

ワクチン普及率は世界全体で60%を超えた。一ヶ月前は8%だった。配給センターの列は整然とし、暴動も略奪も闇市場も、ほぼ消滅した。

ニュース番組では、笑顔で家族と再会する人々の姿が報道されている。「記憶を取り戻しました」「家族の顔を思い出せました」。喜びの声が、世界中から届いている。

洋子は、マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、壁の地図を見上げていた。

「……やっと、息ができるようになったみたい」

彼女の言葉通り、世界は長い窒息状態から解放され、深呼吸を始めたようだった。

浩もまた、隣でコーヒーを啜りながら、安堵の表情を浮かべていた。

「ああ。闇市場も壊滅した。誰でも自宅で培養できるとなれば、高値で売りつける意味がないからな。……我々の"反則技"が功を奏したわけだ」

彼は窓の外を見た。

街には、人々の姿が戻ってきている。

カフェで談笑する人々。公園で遊ぶ子供たち。バス停で順番を待つ通勤者たち。

ほんの数週間前まで、これらの光景は失われつつあった。記憶を失った人々が街を彷徨い、社会機能が麻痺しかけていた。

でも今は、違う。

人々は記憶を保ち、日常を取り戻している。

研究室には、ここ数ヶ月忘れていた穏やかな空気が流れていた。

窓の外ではまだ雪が降っているが、それはもう恐怖の象徴ではなく、ただの季節外れの天候として受け入れられ始めていた。

村上がコーヒーカップを持って入ってきた。

「おはよう。……今朝のデータを見たか? 消失者数、前日比でマイナス15%だ。減少傾向が続いている」

「ええ。見ました」

岸本が答える。

「供給も安定しています。各国の生産ラインが順調に稼働している。このペースなら、来月中には世界人口の80%をカバーできます」

洋子は、その言葉に小さく微笑んだ。

80%。ほとんどの人類が、記憶を守られる。

長い戦いだった。でも、ようやく終わりが見えてきた。

だが――。

薄まりゆく赤色の裏側で、地図には表示されない"別の色"が、静かに、そして確実に滲み始めていたことに、まだ誰も気づいていなかった。


その不吉な報告が最初に届いたのは、南米の共同研究拠点からだった。

午後二時過ぎ。穏やかな午後。

「……ん?」

岸本の手が止まる。眼鏡の位置を直し、メールの文面を凝視する。

最初は誤送か翻訳ミスを疑ったのだろう。しかし臨床データをスクロールするにつれ、顔から血の気が失せ、能面のように硬直していった。

洋子は、岸本の様子に気づいた。

普段は冷静で、どんな状況でも動じない岸本が、明らかに動揺している。

それは、ただ事ではない。

「……岸本さん? どうしたの」

異変を感じ取った洋子が声をかける。

岸本はすぐには答えなかった。何度か息を飲み込み、喉の渇きを潤すようにしてから、絞り出すような声で言った。

「……報告が入っています。ブラジル、サンパウロ市内の指定病院から。……長期投与者の一部に、"異常な記憶固定"が確認されたそうです」

その言葉に、洋子の心臓が跳ねた。

異常な記憶固定。

嫌な予感が、背筋を駆け上る。

「異常な固定……?」

浩が怪訝そうに眉を寄せ、デスクに歩み寄る。

「どういうことだ? 結晶が安定しているなら、それはワクチンの効果そのものだろう。記憶が定着している証拠じゃないか」

村上も、コーヒーカップを置いて岸本の方を見た。

「そうだな。安定化こそが、我々の目指した効果だ。何が問題なんだ?」

「ええ。最初は現地の医師たちもそう判断しました」

岸本は震える指でキーボードを叩き、観測データをメインモニターに投影した。

そこには、ある患者の脳内における六花結晶のモデルが映し出されていた。

それは、あまりにも「完璧」すぎた。

洋子は息を呑んだ。

画面に映る結晶は、美しかった。完璧な対称性を持ち、一切の歪みもない。まるで、教科書に載っているような理想的な形。

でも、何かが違う。

本来、六花結晶――すなわち人間の記憶構造――は、常に微細に揺れ動き、形を変え続けるものだ。風にそよぐ柳のように、あるいは水面に浮かぶ波紋のように。その「ゆらぎ」こそが、新しい情報を受け入れ、古い情報を整理するために必要な柔軟性だった。


だが画面の結晶は違った。

琥珀の中の昆虫のように、極低温のダイヤモンドのように、微動だにせず凝固していた。

洋子は、自分の記憶結晶を思い出した。

ワクチンを投与された直後、モニターに映し出された自分の結晶。あれは、確かに安定していた。でも、完全には止まっていなかった。微かに、呼吸をするように揺れていた。

でも、この患者の結晶は――。

完全に静止している。

生きているのに、死んでいるような。

「六花結晶の安定化が、本来の予測値を遥かに上回るレベルで起きています」

岸本の声が、静まり返った研究室に響く。

「揺れが完全に停止し、"固定化"しています。これでは、記憶の更新アップデートが行われません。……新しい記憶が積み重なる隙間がなく、古い記憶だけが岩のように鎮座している状態です」

浩が画面を凝視した。

「待て……つまり、この患者は新しい記憶を作れないということか?」

「その可能性があります」

岸本が頷いた。

「脳は常に情報を処理し、記憶を更新しています。昨日の記憶、今朝の記憶、そして今この瞬間の記憶。それらが積み重なって、人間の『今』が形成される。でも、結晶が固定されてしまうと……」

「それは……」

洋子は言葉を探した。

「……もしかして、改善とは言えない状態なの?」

「改善どころではありません」

岸本は残酷な事実を告げた。

「問題は、固定される記憶が"良いものだけではない"という点です」

彼女はデータを切り替えた。それは患者の問診記録だった。

画面には、ポルトガル語から翻訳された文章が表示されている。

『患者A(40代男性):交通事故の瞬間が、今の出来事のように鮮明に蘇り続ける。起きている間もフラッシュバックが止まらない』

『患者B(20代女性):失恋のショックが癒えない。時間が経てば薄れるはずの悲しみが、今まさに振られた瞬間のように胸をえぐり続ける』

洋子は、その文章を読みながら、胸が締め付けられるのを感じた。

交通事故。失恋。

誰もが経験する、辛い記憶。

普通なら、時間とともに薄れていく。痛みは残るけれど、日常生活を送れるレベルにまで和らいでいく。

でも、この患者たちは――。

『患者C(60代男性):妻の葬儀の光景が、毎日、毎時間、頭の中に再生される。五年前の出来事なのに、まるで今日起きたことのように。悲しみが一向に薄れない』

『患者D(30代女性):幼少期に受けた虐待の記憶が、鮮明に蘇り続ける。封印していたはずの記憶が、まるでビデオテープのように繰り返し再生される。夜も眠れない』

研究室の空気が、一瞬にして凍りついた。

村上が、震える声で言った。

「これは……PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状じゃないか」

「ええ。しかし、通常のPTSDとは異なります」

岸本が説明を続けた。

「PTSDは、トラウマ体験の記憶が強く残り、フラッシュバックを引き起こす疾患です。でも、通常は治療や時間の経過で症状が軽減します。……しかし、この患者たちは違う。記憶が固定化されているため、時間が経っても症状が改善しない」

「……まさか」

浩が呻くように言った。

「第二世代ワクチンの原理は、感情を模倣した『結合力』だ。……強い絆や愛着が記憶を守るように、化学的に記憶を結びつける。……だが、その結合力が強すぎたのか?」

「……その通りです」

岸本が肯定する。

「私たちは、雪による崩壊を防ぐために、結晶の『揺れ』を『結束』へと変換する構造を組み込みました。ですが、長期的に投与し続けた結果、その結束が強固になりすぎて……"何もかも強く結びつけてしまう"状態に陥ったようです」

洋子は胸元を握りしめる。自分の体にも、同じワクチンが流れている。いつか、自分もこうなるのだろうか。

「……忘れるという行為まで、奪ってしまったのね」

洋子の呟きは、悲痛な響きを帯びていた。

「人は、嬉しいことだけを覚えているわけじゃない。……悲しいことや、辛いことを、時間と共に少しずつ薄れさせ、忘れていくことで、生きていける。……それが『癒し』なのに」

その自然な治癒プロセスを、自分たちの作った薬が阻害している。

「忘却」という機能を奪われた脳は、過去のすべての痛みを、永遠に続く「現在」として受け止め続けなければならない。それは、精神にとって拷問にも等しい苦しみだ。

浩はスクリーンに並ぶ症例データを睨みつけながら、拳を固く握りしめた。

「……なんてことだ。雪が記憶を奪う『白紙の恐怖』だとするなら、俺たちが作ったのは……記憶が消えない『刻印の地獄』か」

村上が、壁にもたれかかった。

「これは……予想外だった。安定化させすぎると、こんなことになるなんて」

「危険ね」

洋子が続ける。

「トラウマを抱えている人ほど、苦しみが増す。……戦争、事故、虐待、喪失。そういった記憶を持つ人々にとって、このワクチンは毒にもなる」

人類の歴史は、トラウマの歴史でもある。

戦争を経験した人。愛する人を失った人。暴力を受けた人。事故に遭った人。

数え切れないほどの人々が、辛い記憶を抱えて生きている。

でも、時間が癒してくれる。少しずつ、痛みは和らいでいく。

それが、人間の持つ回復力だった。

でも、ワクチンはそれを奪ってしまった。

モニターの通知音が、再び鳴った。

今度は一通ではない。南米だけでなく、北米、アジア、欧州からも。

同様の症例報告が、雨あられのように届き始めていた。

岸本が、次々と届くメールを開いていく。

「カナダから……」 「ドイツから……」 「韓国から……」 「オーストラリアから……」

すべて、同じ内容だ。

長期投与者の一部に、記憶の固定化。トラウマの再燃。

「……トラウマの再燃リバイバル

岸本が青ざめた顔で呟く。

「世界中で、封印されていたはずの『過去の亡霊』たちが、一斉に目覚め始めています」


午後、緊急招集された国際会議は通夜のような重苦しさに包まれていた。

南米拠点のアルバレス博士が映る。背後には頭を抱える患者たちの姿が小さく映り込んでいた。

博士の顔には、深い疲労の影が刻まれている。目の下のクマ、乱れた髪、しわくちゃの白衣。彼がどれほど患者たちに寄り添ってきたかが、その姿から伝わってくる。

『……状況は深刻だ』

博士の声は、疲労と苦悩で枯れていた。

『トラウマを抱えた患者たちが、次々と精神的恐慌パニックを来たしている。彼らは訴えている。「あの時の痛みが消えない」「死んだ子供の泣き声が、耳元で永遠に響いている」と』

彼は眼鏡を外し、涙を拭った。

その仕草に胸が詰まる。

科学者は客観的であることを求められる。感情を排し、データで判断する。

でも、苦しむ患者を見続けていれば、誰だって泣きたくなる。

『ある患者は、こう言った。「雪に飲まれたほうがマシだった」と。……我々は彼らを「無」から救い出したつもりだったが、その代わりに「無限の苦痛」という檻に閉じ込めてしまったのかもしれない』

博士は画面越しに、洋子たちを見つめた。

その目には、責めるような色はない。ただ、助けを求める切実な眼差しがあった。

「……そんな」

洋子は口元を手で覆い、言葉を失った。

「雪に飲まれたほうがマシ」――それは、記憶を守るために戦ってきた自分たちに対する、最も残酷で、しかし切実な否定の言葉だった。

浩が、洋子の肩に手を置いた。

彼もまた、ショックを受けている。でも、洋子を支えようとしている。

その手の温かさが、かろうじて洋子を支えていた。

続いて、戦禍の爪痕が残る中東地域の代表が発言した。

画面には、中年の女性研究者が映っている。彼女の背後には、爆撃で半壊した建物が見える。

『我々の地域では、さらに深刻です。空爆や家族の死を経験した子供たちが、その恐怖を"昨日のこと"として永遠に反芻し続けている。……PTSD(心的外傷後ストレス障害)の比ではありません。時間が解決するという、人間の防衛本能そのものが機能していないのですから』

彼女の声は、怒りではなく、深い悲しみに満ちていた。

洋子は、画面の向こうの子供たちを想像した。

爆撃の音。崩れる建物。血まみれの家族。

それらが、永遠に繰り返される悪夢として、小さな心に刻み込まれている。

時間が癒してくれるはずだった。

でも、ワクチンがそれを阻んでいる。

会議室の空気は窒息しそうなほど重かった。

各国の代表たちが、暗い表情で画面を見つめている。

誰もが、同じ問題を抱えている。誰もが、解決策を見つけられずにいる。

村上が頭を抱えて呻く。

「我々は、神の領域に土足で踏み込んでしまったのか……。『忘却』という機能は、進化の過程で人間が手に入れた、最大の防御システムだった。それを、我々が壊してしまった」

彼は資料を握りしめた。

「記憶を守ることばかりに集中して、忘れることの大切さを見落としていた」

岸本もまた、唇を噛み締めていた。

生存サバイバルのために、とにかく記憶を繋ぎ止めることだけを優先しました。……その結果、脳の代謝機能とも言える『忘れる力』を、ワクチンの強力な結合力が阻害してしまった。……完全に、設計ミスです」

彼女の声は、いつもの冷静さを失っていた。

自分たちの作ったものが、人を苦しめている。

その事実が、科学者としてのプライドを打ち砕いていた。

「……設計ミスで済む話か!」

浩が机を叩いた。その音は怒りというより、自分自身への激しい苛立ちだった。

「今この瞬間も、世界中で何万人もの人が、過去の悪夢にうなされ続けているんだぞ! ……すぐに供給を止めるか? だが止めたら、今度は雪に食われて消滅する。……進むも地獄、戻るも地獄だ」

彼の言葉に、誰も反論できなかった。

それが、現実だった。

ワクチンを止めれば、消失が再び増加する。 ワクチンを続ければ、トラウマが固定化される。

どちらを選んでも、誰かが苦しむ。

行き詰まる議論の中で、洋子は静かに目を閉じた。

彼女の血管にも、同じワクチンが流れている。

意識を集中させ、自分自身の内側にある記憶の棚を探ってみる。

幸せな記憶。浩との出会い。研究の成功。被験者たちの笑顔。

そして――。

辛い記憶。長谷川教授の死。

(……痛い)

鋭い痛みが走る。長谷川教授が息を引き取った瞬間の記憶。

あの日流した涙の熱さ、教授の冷たくなっていく手の感触、絶望的な喪失感。それらが、まるで「たった今」起きたことのように、鮮烈な色彩を持って蘇る。本来なら、時間と共にセピア色の「哀悼」へと変わるはずの悲しみが、鮮血のような「激痛」として保存されている。

洋子は、思わず胸を押さえた。

息が苦しい。心臓が痛い。

これが、副作用。

(……これが、副作用)

洋子は理解した。自分は、浩への愛や使命感というポジティブな感情で上書きしていたから耐えられていただけだ。

もし、守るべき愛がなく、ただ悲しみだけを抱えている人だったら?

それは、終わりのない拷問に等しい。


洋子は目を開け、マイクに向かって静かに語りかけた。

「……止めましょう、今のままでは」

その言葉に、全員の視線が集まる。

浩が、驚いたように洋子を見た。

「洋子……?」

村上も、岸本も、画面の向こうの各国代表も、皆が洋子に注目している。

「ワクチンの供給を止めるという意味ではありません。……今の『第二世代』を、完成形だと思い込むのを止めるんです」

洋子は、モニターの向こうの苦悩する科学者たちを見据えた。

「私たちは、『雪』=『悪』、『記憶』=『善』という単純な二元論で戦ってきました。でも、違った。……雪がもたらす『白』も、私たちには必要だったんです」

画面の向こうで、何人かが困惑した表情を浮かべた。

雪が必要? あれだけ戦ってきた敵が?

「必要……?」浩が問う。

彼の声には、疑問と同時に、洋子の考えを理解しようとする真摯さがあった。

「ええ。真っ白に消えてしまうのは怖い。でも、真っ黒に塗りつぶされて動けなくなるのも怖い。……私たちが目指すべきなのは、その間にある『灰色グレー』の領域。……適度に覚えていて、適度に忘れることができる、あの曖昧で優しい状態です」

洋子の言葉に、会議室の空気が変わり始めた。

絶望の重さが、少しだけ軽くなったような気がする。

洋子は立ち上がり、ホワイトボードの『Mnemosyne Ver.2.0』の文字の横に、新しい文字を書き加えた。

『Ver.3.0』

その文字を見て、浩の目が輝いた。

洋子は、まだ諦めていない。

新しい道を、見つけようとしている。

「『結合』だけじゃない。『代謝』を組み込むの。……記憶を結びつけつつ、不要になった感情の棘だけを、雪に溶かして流すような仕組み。……記憶の『新陳代謝』を促すワクチンを作る」

それは、今まで以上に困難な道のりだった。

「記憶する」ことと「忘れる」こと。相反する二つの現象を、一つの薬の中で同居させ、制御しなければならない。それはまさに、神の技を模倣するごとき難題だ。

村上が、ホワイトボードを見つめた。

「記憶の新陳代謝……か。理論上は可能かもしれない。でも、どうやって『必要な記憶』と『不要な感情』を区別する? それを薬が判断できるのか?」

「脳は、すでにその機能を持っているはずです」

岸本が、タブレット端末を操作しながら言った。

「睡眠中、脳は記憶を整理し、不要な情報を削除しています。グリンパティック系という老廃物除去システムもある。……ワクチンが、その自然なプロセスを妨げないように設計し直せば」

「そうだ」

洋子が頷いた。

「雪と戦うんじゃなくて、雪と共存する。記憶の核心は守りつつ、感情の鋭さだけを雪に削ってもらう。……痛みは残るけど、刺さらない程度に丸める」

だが、もう後戻りはできない。

会議の画面が、再び動き始めた。

画面の向こうで、アルバレス博士が深く息を吐き、そして小さく頷いた。

『……困難だ。だが、やるしかない。……私の患者たちに、「安心して忘れていいんだよ」と言ってあげるために』

彼の目には、再び希望の光が宿っていた。

疲労は消えていない。でも、諦めの色は消えている。

中東の代表も、力強い眼差しを返してきた。

『子供たちの笑顔を取り戻すためなら、どんな協力も惜しまない。……我々の持つ、天然ハーブ由来の鎮静成分のデータを提供する』

彼女は、背後の半壊した建物を見つめた。

『戦争は、多くのものを奪った。でも、私たちには植物の知識がある。何千年も前から、人々は薬草で心の傷を癒してきた。……その知恵を、ここで活かせるなら』

次々と、各国から声が上がり始めた。

『ドイツからは、神経伝達物質の代謝を促進する技術を提供します』

『カナダの先住民族が伝えてきた、トラウマ治療の知見があります』

『日本の漢方医学のデータも使えるかもしれません』

会議室の空気が、再び熱を帯びてきた。

絶望から、希望へ。

一人では無理でも、世界が協力すれば可能になる。

「やりましょう」

岸本が眼鏡を押し上げ、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

「結合力の『半減期』を調整するアルゴリズムを構築します。……結合を永続的なチェーンではなく、着脱可能な結びノットに変えるイメージで」

彼女の指が、画面上で複雑な数式を描いていく。

「時間経過とともに、結合力が徐々に弱まるように。でも、大切な記憶は残るように。……そのバランスを、精密に制御する」

村上も資料を広げ直した。

「脳内の不要物質を排出する『グリンパティック系』の活性化も鍵になるかもしれん。……睡眠中に、悲しみだけを洗い流すように」

彼は過去のデータを検索し始めた。

「睡眠時の脳波パターン、レム睡眠とノンレム睡眠の周期。……自然な記憶の整理プロセスを、ワクチンがサポートする形で」

浩は、ホワイトボードの前に立つ洋子の背中を見て、ふっと肩の力を抜いた。

「……敵わないな、君には」

彼は歩み寄り、洋子の隣に立った。

「俺たちは、記憶を守ることに必死すぎて、記憶の『重さ』を忘れていた。……その重荷を背負わせた責任、俺たちで取ろう」

洋子は、浩の横顔を見た。

彼もまた、責任を感じている。苦しんでいる。

でも、前を向いている。

「うん」

洋子は浩を見上げ、微笑んだ。その瞳の奥には、教授の死の悲しみも宿っている。けれど、それはもう絶望の色ではなかった。

「行こう、浩くん。……今度こそ、本当の『人間らしさ』を取り戻すために」

洋子は、ホワイトボードに新しい図を描き始めた。

記憶の結晶。その周りを取り囲む雪。

でも今度は、雪は敵ではない。

共存するパートナーとして描かれている。

窓の外では、まだ雪が降っている。

その雪は、記憶を奪う敵であると同時に、悲しみを埋めてくれる救い手でもあった。

雪と戦い、雪と共存する。

新たな答えを求めて、研究室の明かりは再び、夜を徹して灯り続けることになった。

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