第24話「世界的供給網」
インターネットの海に放たれた「Mnemosyne」のレシピは、瞬く間に世界を駆け巡った。家庭のキッチンで、町の醸造所で、人々が自らの手で「希望」を培養し始めた。だが、巨大な「忘却の雪」を押し返すには至っていない。
個人レベルでの防御は可能になっても、都市機能や国家インフラ、物流網といった巨大なシステムを維持するためには、規格化されたワクチンの安定的かつ爆発的な供給が必要不可欠だったからだ。
レシピ公開から三日が経過していた。
その間、洋子たちの元には無数のメッセージが届いていた。
「ワクチンを作ることができました。ありがとう」 「家族全員が助かりました」 「闇市場の価格が暴落しています」
喜びの声が、世界中から寄せられている。
しかし同時に、別の種類のメッセージも増えていた。
「培地の材料が手に入りません」 「工場が停止して、砂糖すら届きません」 「電力が不安定で、温度管理ができません」
個人が作れるようになっても、その材料を供給するシステムが崩壊しつつある。それが新たな問題として浮上していた。
翌朝、洋子が気象研究棟のメインルームに入ると、壁一面に投影された巨大な世界地図が、まるで警告灯のように明滅していた。
地図上には各国主要都市の「六花結晶」不安定化指数が表示されている。
かつて青や緑だった安全圏は見る影もなく、北半球全域がどす黒い赤に染まっていた。
ニューヨーク、ロンドン、上海、そして東京。
文明の象徴であった都市群が、雪という名の静かな浸食によって、記憶と機能を奪われつつある。その赤い光が増殖するたびに、洋子の胸の内側が、薄い氷で覆われていくような冷たい痛みに襲われた。
地図の隅には、リアルタイムで更新される数値が表示されている。
消失者数:二億三千万人 前兆症状:十億人 ワクチン普及率:8.7%
数字は、容赦なく現実を突きつけてくる。
八割以上の人類が、まだワクチンにアクセスできていない。
「……酷い」
洋子は呻くように呟いた。
地図の前で、岸本が苦渋の表情でデータを読み上げる。
「レシピの公開でパニックは沈静化しましたが、根本的な解決には程遠い状態です。……見てください。この速度では、一国が単独で何をしても追いつきません。南半球への侵食も始まっています」
彼女の指が示す先、赤道を超えた地域にも、不気味な白いノイズが広がり始めていた。
オーストラリア、ブラジル、南アフリカ。これまで比較的安全だと思われていた地域にも、雪の影響が広がっている。
「物流が滞れば、培養に必要な培地すら届かなくなる。……文明というシステムそのものが、機能不全を起こしかけています」
岸本は別のデータを表示した。
そこには、世界の主要な物流ルートが線で示されている。海運、空路、陸路。かつては太く力強かった線が、今は虫食いのように途切れ途切れになっている。
「港湾労働者が消失して、コンテナ船が停泊したまま動けない」 「パイロットが記憶を失い、フライトがキャンセルされ続けている」 「トラック運転手が足りず、物資が倉庫に山積みされている」
村上が、腕を組んで地図を睨んでいた。
「悪循環だ。物流が止まれば物資が届かない。物資が届かなければワクチンが作れない。ワクチンが作れなければさらに消失が進む。……まるで、システム全体が死のスパイラルに入り込んでいる」
浩が歩み寄り、地図上のいくつかのポイントに光るマーカーを打ち込んだ。
それは、まだ辛うじて機能を維持している各国の主要研究機関の位置だった。
「ああ。だからこそ、ここからは総力戦だ」
浩の声には、徹夜明けの疲労よりも、燃え上がるような使命感が勝っていた。
「個人が身を守るフェーズは終わった。次は、世界という巨大な有機体を蘇生させる。……そのためには、国境なんて線を引いている場合じゃない。世界全体が一つの『巨大な工場』として連携するしかないんだ」
彼は地図上に線を引き始めた。
日本から中国、韓国へ。ヨーロッパの各国を結ぶ線。南米と北米を繋ぐルート。
「技術を持つ国が、材料を持つ国を支援する。生産設備がある国が、人材を持つ国と組む。……一国では無理でも、百か国が連携すれば可能になる」
洋子は、その線を見つめながら頷いた。
これは、もはや日本だけの問題じゃない。人類全体の生存をかけた戦いだ。
その言葉は、すでに現実の予定として動き出していた。
日本チームが開発した第二世代ワクチンの実績は、WHO(世界保健機関)を通じて全世界に共有され、緊急の国際連携会議が招集されていたのだ。
午前十時。
大型モニターに国際オンライン会議が接続される。
十数か国の研究者たちの顔がタイル状に並んでいく。。
背景には各国の国旗や、散らかったラボが映り込んでいた。段ボール箱が山積みの部屋、慌ただしく走り回る人影。中国のチームの画面は、時折ノイズで途切れる。電力供給が不安定なのだろう。
英語、フランス語、中国語、スペイン語。
飛び交う言語は違えど、その声のトーンに込められた焦燥感と、藁にもすがるような必死さは共通していた。彼らの瞳は一様に充血し、その奥には「自国の民を救いたい」という悲痛な叫びがあった。
画面の下部には、各国の現状を示すテロップが流れている。
「米国:消失者数4500万人、ワクチン普及率12%」 「英国:医療従事者の30%が前兆症状」 「インド:物流網の60%が麻痺」 「ブラジル:首都機能が一部停止」
どの国も、限界ギリギリで持ちこたえている状態だ。
会議の議長を務めるのは、WHOの技術代表である老齢の科学者だった。
彼は重々しく口を開いた。
『状況は極めて深刻だ。第二世代ワクチンの成功は人類にとって福音だが、サプライチェーンはズタズタに寸断されている』
画面共有された資料には、原材料不足、工場停止、燃料枯渇といった絶望的なリストが並ぶ。
胸が締め付けられる。砂糖の生産国では労働者の消失で収穫が滞り、アミノ酸工場では技術者が足りない。培養容器を生産するプラント施設では、原料のプラスチック樹脂が届かない。
一つ一つは小さな問題に見える。でも、それらが連鎖すると、システム全体が崩壊する。
『我々は今、限られたリソースを最適化し、最も効率的に、かつ公平にワクチンを分配するための"世界的供給網"を構築しなければならない。……その第一歩として、六花結晶の揺らぎに最も晒されている地域――すなわち"最前線"から優先的に供給を開始する。これが今回の合意内容だ』
議長は地図を表示した。
そこには、最優先地域が赤く塗られている。北欧、カナダ北部、ロシアの極東地域。雪の影響が最も強い、高緯度の寒冷地だ。
『これらの地域では、気温の低下とともに六花結晶の活性が急激に上昇しています。放置すれば、一週間以内に社会機能が完全崩壊する可能性があります』
画面の向こう側で、研究者たちが真剣な表情で頷く。
だが、その目には不安の色も濃い。
自国の生産能力だけでは限界がある。技術的な格差もある。
フランスの代表が手を挙げた。
『我が国では、培養技術は確立しましたが、初期シードの供給が追いつきません。日本のような高品質なシードをどう確保すればいいのか……』
インドの科学者が続けた。
『インフラの問題もあります。安定した電力供給がなければ、培養温度の管理ができません。都市部では何とかなっても、農村部では……』
次々と、各国の困難が報告される。
技術はある。でも、材料がない。 材料はある。でも、設備がない。 設備はある。でも、人材がいない。
それぞれが、何かを持っていて、何かが足りない。
『そのために、日本チームには要請したい』
議長の視線が、カメラ越しに洋子たちへと向けられた。
『貴国が開発した、ワクチン生成工程の"根幹モデル(マスター・プロトコル)"。……その全データを、各国の環境に合わせてカスタマイズ可能な状態で、即座に共有していただきたい』
視線が一斉に日本側へ集まる。
それは単なる技術供与の要請ではない。国家機密レベルの最重要データを、無条件で世界に差し出せという要求だ。
画面の中で、各国の代表たちが固唾を飲んで待っている。
一瞬の静寂。
洋子は、浩と目を合わせた。彼は小さく頷いた。
岸本も、村上も、同じように頷いている。
もう、迷いはなかった。
洋子に迷いはない。背筋を伸ばし、マイクに向かって身を乗り出す。
「もちろんです」
声は澄んで、力強い。
通訳を介してその言葉が世界に届く。
「私たちの研究は、誰か一人のものでも、一つの国のものでもありません。雪に怯える全ての人のものです」
彼女は浩と目配せをする。
「六花結晶の安定化モデル、プロセス認識アルゴリズム、揺らぎの中心比率、情動誘導成分の培養生成法……すべて提供します」
画面の向こうで研究者たちが目を見開く。
『本当に……全てを? 特許も、制限も、条件もなしに?』
「ええ。全てです」
洋子は断言した。
「ただし、一つだけお願いがあります。……このデータを受け取った国は、それをさらに他の国へ共有してください。独占しないでください。知識は、共有されて初めて力になります」
浩もまた、洋子の隣で力強く頷いた。
「隠し事はなしだ。特許も権利も関係ない。……供給網の整備が一日遅れれば、それだけ多くの歴史が消える。消失の波は待ってくれない」
彼はモニターの向こうの同志たちを見据えた。
「データの共有も、改良も、私たち全員で同時に進める必要がある。……俺たちが持っているのは『種』だけだ。それを世界という大地で育て、巨大な樹にするのは、あなたたちの力だ」
会議の空気が、わずかに熱を帯びたのが分かった。
それは、絶望的な状況下で初めて灯った、連帯という名の熱源だった。
画面の向こうで、ドイツの研究者が眼鏡を拭い、インドの代表が掌を合わせ、アメリカのチームが親指を立てた。
フランスの女性研究者が、涙を拭いながら頷いている。
ブラジルの科学者が、力強く拳を握りしめた。
中国の代表が、深々と頭を下げた。
言葉を超えた、「共闘」の意思確認。
この瞬間、世界は一つの目的に向かって動き出した。
国際会議の通信が切断された瞬間、気象研究棟は戦場のような喧騒に包まれた。
「全データの共有」を宣言したことは、ゴールではなく、途方もない作業のスタートラインに過ぎなかったからだ。
日本チームが提供した「マスター・プロトコル」は、あくまで日本の気候と設備を基準に設計されたものだ。これを、熱帯のジャングルにある簡易ラボや、極寒のシベリアにある古い工場、あるいは設備の乏しい途上国の施設でも再現できるように、一つ一つカスタマイズして送り届けなければならない。
会議終了と同時に、研究室のすべてのモニターが点灯した。
各国からの問い合わせが、洪水のように押し寄せてきていた。
メール、チャット、ビデオ通話。あらゆる通信手段が、同時に鳴り響いている。
「質問が三百件を超えました!」
若手研究員が悲鳴を上げる。
「温度管理について」「培地の代替案について」「シードの輸送方法について」――。
一つ一つに答えていたら、何日かかるか分からない。
「優先度をつけろ!」
浩が指示を飛ばす。
「まずは生産ラインが止まっている国から! 次に人口の多い国! それ以外は自動応答テンプレートで対応だ!」
研究員たちが一斉にキーボードを叩き始める。カタカタカタという音。
「インド、ニューデリー支部より緊急入電!」
岸本が叫ぶ。
「現地の気温が40度を超えています! 日本仕様の培養株では、発酵熱で酵素が失活してしまうとのこと。……冷却設備の増設は間に合いません!」
洋子が画面を確認する。
インドからの映像には、汗だくになった研究者たちが映っている。培養タンクの温度計は、45度を示していた。これでは、酵素が壊れてしまう。
「耐熱性株の遺伝子コードを送れ!」
浩が即座に指示を飛ばす。
「以前、失敗作として廃棄した『H-7株』のデータだ。あれなら高温下でも結晶構造を維持できる。……培養速度は落ちるが、死滅するよりマシだ!」
村上が古いデータベースを検索する。
「見つけました! H-7株、二年前のプロジェクトで不採用になったやつですね。当時は『効率が悪い』と判断されましたが……」
「今なら『安定性が高い』と評価される」
浩が苦笑した。
「失敗作が役に立つ日が来るとはな」
データ送信。数分後、インドから歓声。
『働いています! 温度が安定しました!』
だが次の問題がすぐに入る。「次はブラジルです!」
村上が別のモニターに張り付く。
「アマゾン流域の物流が寸断されています。都市部の精製工場まで『種』を運べない! ……現地にある機材で、どうにか初期培養を行いたいと」
「現地にあるのは?」
「……サトウキビの精製プラントと、古い醸造タンクのみです」
洋子が画面を見つめる。
映像には、ジャングルに囲まれた小さな集落が映っている。確かに、精密な設備はなさそうだ。でも――。
「十分だ!」
洋子が身を乗り出して叫んだ。
「糖蜜を培地に使って! 糖分濃度が高いほうが、初期増殖の爆発力は上がる。……精製度は落ちるけど、飲むワクチンとしては機能するわ!」
彼女は手元の資料を引っ張り出し、計算を始めた。
「糖蜜の濃度は60%以上。これにアミノ酸を添加すれば……いける。むしろ、精製された砂糖水より栄養価が高い」
「レシピを送ります!」
岸本が即座にデータを転送する。
ブラジルの研究者が、画面越しに親指を立てた。
『オブリガード! さっそく試してみます!』
時間は容赦なく過ぎる。窓の外が夜になり、また白々と明ける。
睡眠不足とカフェインで限界を超え、奇妙な高揚感の中にいた。
休憩室のコーヒーメーカーは、二十四時間フル稼働している。空になったカップが、机の上に山のように積み上げられていく。
誰も眠ろうとしなかった。
眠っている間にも、世界のどこかで誰かが消失していく。その事実が、彼らを突き動かしていた。
地球の裏側が夜になれば、こちらが朝になる。世界中がリレーのように時間を繋ぎ、止まることなくデータを交換し続けている。
その感覚は、まるで巨大な一つの脳みそになったようだった。
70億人の人類が、一つの生命体として、侵入してきた「雪」という病原体と戦っている。
洋子は、ふとモニターから目を離し、研究室を見渡した。
岸本は、三つのモニターを同時に操作している。 村上は、ヘッドセットをつけて、英語でどこかの国と話している。 浩は、ホワイトボードに化学式を書き殴っている。
みんな、疲労困憊のはずだ。でも、誰の目にも諦めの色はない。
そして、その光景は、世界中の研究室で同じように繰り広げられているのだろう。
ロンドンで、ニューヨークで、北京で、ムンバイで。
時差によって昼と夜は入れ替わるが、戦いは決して止まらない。
地球という惑星全体が、一つの研究室になっている。
そして、潮目が変わったのは、二日目の昼過ぎだった。
一方的に送るだけだった通信回線に、逆方向からの「応答」が次々と着弾し始めたのだ。
『……こちら、ドイツ・ハンブルク研究所』
メインモニターに、髭面の研究者が興奮した様子で映し出された。
『日本から送られたプロトコルを解析し、改良を行った。……我々の持つ精密濾過技術を応用すれば、情動成分の歩留まりをさらに15%向上できる。この改良パッチを共有する』
洋子は目を見開いた。
画面には、複雑な濾過装置の設計図が表示されている。ドイツが誇る工業技術の結晶だ。
「これは……すごい」
村上が図面を見ながら唸った。
「我々の方法より、遥かに効率的だ」
『こちら、南アフリカ』
色鮮やかな民族衣装を白衣の下に着た女性が、白い歯を見せて笑っている。
『そちらの指示通り、キャッサバ由来の培地で培養に成功したわ! ……見て、この美しい琥珀色を。これなら、電気がなくても常温で保存できる!』
彼女が試験管を掲げる。その中の液体は、確かに美しい琥珀色に輝いていた。
洋子は驚嘆した。
「キャッサバ……そうか、熱帯地域では主食だから、どこでも手に入る」
「しかも常温保存可能」
浩が感心したように頷いた。
「冷蔵設備がない地域でも使える。これは革命的だ」
『アメリカ、CDCより』
画面が切り替わる。
『我々は、大量生産のための自動化ラインを開発しました。一時間あたり一万本の生産が可能です。設計図を共有します』
『中国、上海交通大学より』
若い中国人研究者が現れる。
『AIを使った品質管理システムを構築しました。リアルタイムで結晶構造を分析し、不良品を自動検出します。オープンソースとして公開します』
『オーストラリア……』
次々と、画面が切り替わっていく。
カナダからは、極寒地域用の凍結保護技術。 フランスからは、効率的な輸送容器の設計。 インドからは、低コストでの大量培養法。 イタリアからは、品質を保つための包装技術。
世界中から届くのは、悲鳴ではなく、歓喜の報告と、新たな技術革新の提案だった。
日本の技術を種として、それぞれの国が得意分野で花を咲かせ、さらに強力な種を世界へ還流させる。
それは、かつて「社会の分断」によって寸断されていた人類の英知が、再び太いパイプで繋がり始めた瞬間だった。
研究室のホワイトボードには、各国からの改良案が次々と書き込まれていく。
それはもはや、日本だけの技術ではなかった。
ドイツの精密さ、アメリカの効率性、中国のAI技術、南アフリカの創意工夫。すべてが融合し、進化し続けている。
「……すごい」
洋子の声が震える。
「これが……集合知」
一人の天才が世界を救うのではない。
無数の人々が手を取り合い、知恵を出し合うことで、雪に対抗する。
その事実に、胸が熱くなった。
洋子は思い出していた。中谷宇吉郎の本を読んだ時のことを。雪の結晶一つ一つは小さく、儚い。でも、それが無数に集まれば、山をも覆う力を持つ。
今、人類は同じことをしている。
一人一人は小さな存在かもしれない。でも、70億人が繋がれば、惑星規模の問題にも立ち向かえる。
画面には、各国の成功事例が次々と表示されている。
ケニアの小さな村で、ワクチンの培養に成功。 アラスカの研究所で、極寒地域用の改良株が完成。 タイの漁村で、海水から抽出したミネラルを使った培地の開発。
どれも、その土地ならではの工夫が凝らされている。
そして、それらの知恵が、また世界中に共有されていく。
「見ろ」
浩が壁面の世界地図を指差す。
絶望的な赤色に染まっていた北半球。
その中心に、ぽつり、ぽつりと「緑色」の光が灯り始めた。
ワクチンが行き渡り、六花結晶の濃度が下がり始めた地域だ。
緑の光は、最初は頼りない点だったが、やがて線となり、面となり、赤い領域をじわじわと押し返し始めた。
洋子は息を呑んだ。
地図が、リアルタイムで変化していく。
赤い部分が縮小し、緑が広がっていく。
それは、まるで春が冬を駆逐していくような、生命力の勝利の光景だった。
国境を超えて輸送ルートが繋がり、空輸で、陸路で、あるいは人力で、希望の小瓶が運ばれていく。
供給網は、血管のように地球を巡り、瀕死の文明に酸素を送り込んでいた。
モニターには、各地からのライブ映像が流れている。
ニューヨークの接種センターで、笑顔で帰っていく人々。 ロンドンの病院で、家族と抱き合う患者。 上海の広場で、記憶を取り戻した老人が孫の名を呼ぶ姿。
世界中で、人々が記憶を取り戻している。
「……つながった」
岸本が眼鏡を外してデスクに突っ伏す。肩が小刻みに震える。
「物流シミュレーション……オールグリーン。需要と供給のバランスが逆転しました」声が涙で震える。
「……ああ」
村上が天井を仰ぎ、深いため息をついた。
「間に合ったんだ。……我々は、世界を繋ぎ止めたんだ」
彼も、涙を拭っている。
研究室にいる全員が、安堵の表情を浮かべていた。
若手研究員たちが、抱き合って泣いている。
データ解析チームが、静かに拍手をしている。
長い、長い戦いだった。
洋子と浩は、並んでモニターを見上げていた。
地図上の緑色は、まだらで、完全ではない。
けれど、それは確かに「回復」の兆しだった。
「……ありがとう、洋子」
浩が、不意に言った。
「君が『オープンソースにする』と言い出さなかったら、こうはならなかった。……君が、世界中の科学者のプライドに火をつけたんだ」
洋子は首を振った。
「ううん。……みんなが、誰かを守りたかっただけよ。私たちと同じように」
彼女は、画面の向こうにいる、会ったこともない何千人もの同志たちを思った。
言葉も肌の色も違う。けれど、彼らもまた、大切な人の名前を忘れたくないと願い、徹夜で顕微鏡を覗き込んだのだ。
その「想い」の総量が、雪の質量を上回ったのだ。
「……でも、まだ終わりじゃない」
洋子は地図の「極北」を睨む。緑が増える一方で、北極圏を中心とした一点だけは不気味な紫色――計測不能なほどの高濃度領域――を示していた。
「雪の発生源。……あそこを叩かない限り、この供給網もいつかは限界が来る」
浩もまた、鋭い視線をそこに向けていた。
「ああ。防御フェーズはこれで完了だ。……次はいよいよ、元凶を断つ旅になる」
世界は繋がった。
後ろには、70億人のバックアップがいる。
もう、何も怖くはなかった。




