表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の哲学  作者: 唯野眠子
23/31

第23話「社会の分断」

かつて、夜空から降り注いだ「ムネモシュネの雨」は、確かに多くの人々を救った。しかし、それは長い冬の終わりを告げるものではなく、より過酷で冷徹な「生存競争」の幕開けに過ぎなかった。

ワクチンの製造工程は、洋子の提案した生体培養方式によって劇的に改善されていた。

全国の製薬工場に加え、食品工場や醸造所のタンクまでもが徴用され、フル稼働でワクチンを含んだ培養液が生産されている。巨大なタンクの中で、人々の善意から生まれた「種」が増殖し、琥珀色の希望が次々とバイアルに詰められていく光景は、人類の底力そのものだった。

工場のラインは二十四時間体制で動き続けていた。夜勤の作業員たちが交代で機械を監視し、出荷用のトラックが絶え間なく工場の前に列を作っている。

統計によれば、現在の生産量は日産で三百万本を超えていた。一週間前の数字から見れば、四百倍以上の増産だ。科学の力と人間の善意が結びついた、奇跡と呼ぶべき成果だった。

だが、それでもなお、世界を覆う「忘却」の速度には追いつけなかった。

製造ラインを一つ立ち上げ、数万本を出荷する間に、どこかの街では新たな前兆者が数十万人規模で発生する。

供給は常に需要の遥か後方を走り、その絶望的なタイムラグの間に、数え切れないほどの記憶が雪に埋もれていった。

推計では、全世界で一日に百万人以上が消失現象の前兆症状を訴えている。日本国内だけでも十万人単位だ。三百万本のワクチンは、確かに多い。しかし、待っている人の数はその何十倍もいる。

そして、待っている間にも、消失は進行する。

昨日まで名前を覚えていた人が、今日は思い出せない。今朝まで自分の家を知っていた人が、夕方には道に迷っている。時間は、容赦なく人々の記憶を奪っていく。


研究棟の休憩スペースで、洋子は冷めきったコーヒーを手に、壁面の大型モニターを見上げていた。

ニュース番組の画面には、気象予報図の代わりに、日本列島を染める「白」と「赤」の分布図が映し出されている。

白い部分は、消失現象が進行し、社会機能が麻痺した地域。

赤い部分は、ワクチン接種を求めて暴動やパニックが発生している地域だ。

地図を見ると、白い部分が徐々に広がっているのが分かる。北海道の一部、東北の過疎地、四国の山間部。人口密度の低い地域から、じわじわと白く染まっていく。

赤い部分は、都市部に集中していた。東京、大阪、名古屋。人が多く、情報が集まる場所ほど、混乱も激しい。

キャスターの声が、淡々と事実を告げる。

『本日未明、北関東エリアの配送センターに群衆が押し寄せ、ワクチン輸送車の一部が横転する事故が発生しました。……現在、政府は自衛隊に対し、輸送ルートの警備強化を要請しています』

画面が切り替わり、横転したトラックの映像が映し出される。散乱したバイアル。割れたガラス。地面に広がる青みがかった液体。それは、誰かの希望だったはずのものが、無駄に失われていく光景だった。

『また、SNS上では偽ワクチンの販売情報が拡散されており、警察が注意を呼びかけています。中には、一本百万円で取引されているケースも確認されています』

画面の端には、白いノイズのような波紋が常に揺らめいている。それは電波障害などではない。カメラ越しにさえ観測されるほど、世界の大気中に「六花結晶」の密度が増している証拠だった。

洋子は波紋を見つめながら、「……足りない」と独り言のように呟いた。

「いくら作っても、砂漠に水を撒いているみたい」

隣に座る浩もまた、険しい表情で腕を組んでいた。

「ああ。物理的な限界だ。……そして、物が足りなくなれば、次に始まるのは『奪い合い』だ。人間は、記憶を失う恐怖の前では、どこまでも利己的になれる」

彼は画面を睨みつけた。

「もう始まってる。闇市場、暴動、略奪。ワクチンを巡る犯罪が、毎日何百件も報告されている」

洋子は何も言えなかった。

彼女が提案した生体培養方式は、確かに生産量を劇的に増やした。でも、それでも足りない。

そして、足りないものは奪い合いになる。

人間の本性が、むき出しになっていく。

画面には、接種会場で順番を巡って争う人々の姿が映し出されていた。怒鳴り合い、掴み合い、泣き叫ぶ。誰もが必死だった。誰もが、自分や家族の記憶を守りたいだけだった。

でも、その必死さが、社会を壊していく。


その日の午後。

気象研究棟の大会議室には、重苦しい空気が澱んでいた。

政府の対策本部から派遣された厚労省の官僚たち、国立感染症研究所の専門家、そして法曹界や経済界から招集された倫理委員会のメンバーたち。

彼らの手元には、『第二世代ワクチン・優先接種ガイドライン(案)』と記された分厚い資料が置かれている。

それは、行政文書という形をした「命の選別リスト」だった。

暖房が効いているはずなのに、会議室は冷蔵庫のような寒さだった。議論の冷酷さが、空気を凍らせていた。

長テーブルの両側に座る委員たちの表情は、一様に硬かった。誰もが資料に目を落とし、誰もが何かを言いたげで、しかし口を開くのをためらっていた。

洋子と浩は、テーブルの端に座っていた。研究者として、技術的な質問に答えるために呼ばれたのだが、この場にいることが苦痛でならなかった。


「では、優先順位の最終決定に入ります」

司会進行役の官僚が、抑揚のない声で切り出した。

洋子は手元の資料に視線を落とし、小さくため息をついた。そこに列挙された項目の一つ一つが、鋭利な刃物のように胸を刺す。

〈カテゴリーA:国家機能維持に必須な職務従事者〉 電力、ガス、水道、通信インフラ、治安維持、医療従事者、政府中枢機能。

〈カテゴリーB:重症化リスクの高い前兆者〉 すでに記憶の断片化が始まり、放置すれば24時間以内に自我崩壊に至る者。

〈カテゴリーC:次世代を担う若年層および妊婦〉

〈カテゴリーD:65歳以上の高齢者、および基礎疾患を有する者〉

文字にしてしまえば、それは合理的な分類に見える。

しかし、現実には「誰に先に打ち、誰を後回しにするか」を決めることは、「誰を見捨てるか」を決めることと同義だった。今の生産ペースでは、カテゴリーAとBの一部に行き渡るのがやっとで、CやDに順番が回ってくる頃には、彼らの多くはすでに「空席」になっている可能性が高い。

洋子は資料の隅に書かれた数字を見つめた。

カテゴリーA:約二百万人、B:約五百万人、C:約三千万人、D:約四千万人。合計約一億人。

合計で、約一億人。

現在の生産ペースで、全員に行き渡るまでに必要な日数:約三十日。

でも、三十日後には、カテゴリーBの大半は消失している。カテゴリーCやDにも、新たに前兆症状が現れる人が続出しているだろう。

追いつけない。永遠に追いつけない。

「異議があります」

口火を切ったのは、小児医療を代表して参加していた女性委員だった。

「カテゴリーAの範囲が広すぎます。『政府中枢機能』や『経済界の要人』までを最優先とする根拠は何ですか? 未来ある子供たちよりも、今の政治家や経営者を優先しろと言うのですか」

彼女の声は震えていた。

「私のクリニックには、毎日何十人もの母親が子供を連れて来ます。『うちの子が私のことを忘れそうなんです』と泣きながら訴えるんです。でも、順番待ちのリストは数万人。いつ回ってくるか分からない。その間に、子供たちの記憶は……」

彼女は言葉を詰まらせた。

それに対し、厚労省の担当者が冷ややかに眼鏡の位置を直して答えた。

「感情論で語らないでいただきたい。インフラが停止すれば製造も配送も止まり、共倒れになる。これは数理的な判断なのです」彼はタブレットを操作し、複雑なフローチャートをスクリーンに映した。電力供給が止まれば製造ラインが停止し、物流が止まればワクチンは届かず、治安が崩壊すれば配送すらできなくなる。すべてが連鎖している。

「感情で判断すれば、すべてが崩壊します。冷徹に見えるかもしれませんが、これが現実なのです」

「システムのための人間ですか!」

女性委員が机を叩く。

「子供たちの記憶が消えれば、教育も文化も断絶します。親の顔を忘れた子供が溢れる世界に、何の意味があると言うんです!」

「意味のある世界を維持するために、システムを守る必要があるんです」

厚労省の担当者は、一歩も引かなかった。

議論は紛糾した。

「高齢者を軽視するのは憲法違反だ。彼らは長年、社会に貢献してきた」

法律学者が声を荒げる。

「しかし、生産年齢人口を確保しなければ、復興は不可能です」

経済学者が反論する。

「警察や自衛隊だけ先に打つのか? 市民を見殺しにして、誰を守るつもりだ!」

人権団体の代表が立ち上がった。

「市民を守るために、警察と自衛隊が必要なんだ! 順序が逆だ!」

治安関係者が怒鳴り返す。

飛び交う怒号と、飛び交う正論。

誰もが正しいことを言い、誰もが残酷なことを言っていた。

胃の腑が鉛のように重い。私たちが作ったのは争いのための薬じゃなかった。愛する人を忘れないための「希望」だったはずなのに。それが今、権力者たちが自分たちの正当性を主張するための「特権」として切り刻まれている。

テーブルの上には、カテゴリーごとの詳細な職業リストが広げられていた。

カテゴリーAには、「国会議員」「中央省庁の局長以上」「大企業の役員」といった文字が並んでいる。

一方で、カテゴリーCには「一般市民」「子供」という、あまりにも漠然とした表記しかない。

数字で見れば平等だ。でも、実際には権力者が優先され、弱者が後回しにされる構造が透けて見える。

「……浩くん」洋子は囁いた。「私、怖い。六花結晶よりも、人間の方が」浩は机の下で洋子の手を強く握りしめた。

「……ああ。需要と供給のバランスが崩れた瞬間、倫理なんてものは消し飛ぶ。……『選別トリアージ』なんて綺麗な言葉を使っているが、結局は『椅子取りゲーム』だ」

浩は会議の進行を見据え、低い声で続けた。

「だが、もっと恐ろしいのは……このリストにさえ載らない場所で、別のルールが動き始めていることだ」

「別のルール……?」

洋子が聞き返そうとした時、会議室の扉が乱暴に開かれた。

入ってきたのは、血相を変えた村上だった。彼は息を切らせ、手にはタブレット端末を握りしめている。

「中断してください! ……優先順位の議論など、無意味かもしれません」

村上の叫び声に、激昂していた委員たちが一斉に静まり返った。

「何事だ、村上君」

議長が不快そうに眉を寄せる。

「会議を中断するほどの緊急事態か?」

「見てください。……これが、今の社会の裏側で起きている『現実』です」

村上は端末を会議室のスクリーンに接続した。

そこに映し出されたのは、公式のニュース映像ではない。

暗視カメラやスマートフォンの隠し撮りで捉えられた、粗い画質の動画群だった。


スクリーンには、高級クラブの地下駐車場と思われる薄暗い空間が映し出された。粗い隠し撮りの映像だが、欲望と絶望が渦巻いている。

高級車のトランクが開かれ、そこには見覚えのある銀色のアタッシュケース――政府管理下にあるはずの正規のワクチン輸送ケース――が積まれている。

身なりの良い男たちが、分厚い封筒と引き換えに、そのケースを受け取っていく。

画面の隅には、タイムスタンプが表示されている。撮影されたのは、わずか昨夜のことだ。場所は都内某所。

「……一本、五百万だ」

音声が、男たちの会話を拾う。

「高いな。先週は三百万だったぞ」

「嫌なら他を当たれ。……欲しがってる奴は山ほどいる。政治家の愛人、大企業の重役……記憶を失いたくない金持ちは、金に糸目はつけない」

男の声は冷淡だった。まるで、野菜か何かを売っているかのような口調。そこには、人の命を救うものを扱っているという自覚など微塵もない。

取引を終えた男たちは、ケースを抱えて高級車に乗り込んでいく。外国製の高級セダンばかりだ。どれも新車らしい光沢を放っている。

会議室の委員たちは、息を呑んでその光景を見つめていた。

「これは……いつ、どこで撮影されたものだ?」

議長が、震える声で尋ねた。

「昨夜です。都内の高級クラブです」

村上が答えた。

「情報提供者によれば、こうした取引は毎晩行われているとのことです。政府の配給ルートから横流しされたワクチンが、闇市場に流れている」

厚労省の官僚が、蒼白な顔で立ち上がった。

「そんな……輸送は厳重に管理しているはずだ!」

「管理する人間が、金で買収されているんです」

村上は冷ややかに言った。

「一本五百万。十本横流しすれば五千万です。……人間は、そのぐらいの金で簡単に魂を売ります」

村上が画面を切り替える。

今度は、どこかの路地裏だ。薄汚れた男が、震える老婆に小さなバイアルを売りつけている。

「特効薬だ。これを飲めば、孫のことも忘れずに済む」

老婆はなけなしのしわくちゃな紙幣を渡し、その小瓶を震える手で受け取る。そして、祈るように中身を飲み干す。

だが、次のカットでは、その老婆が路上に座り込み、虚ろな目で宙を見つめている姿が映っていた。

彼女の手は震え、口からは泡が漏れている。明らかに異常な反応だ。

「……中身はただの水、あるいは粗悪な興奮剤です」

村上の声が、怒りで震えていた。

「効果がないどころか、脳神経にダメージを与え、崩壊を早めるケースも報告されています。……これが、今の社会の裏側で起きていることです」

画面がさらに切り替わる。

今度は、SNSのスクリーンショットだ。

「本物のワクチン売ります。一本三百万」 「偽物注意! 私が買ったのは効きませんでした」 「家族が消失しました。もっと早くワクチンが手に入れば……」

無数の投稿が、人々の絶望と混乱を映し出している。

会議室は水を打ったように静まった。洋子は拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。あの老婆の姿が、目に焼き付いて離れない。彼女は、きっと年金暮らしだったのだろう。貯金を全て使って、藁にもすがる思いで偽物を買った。そして、騙された。

浩は、握りしめた拳をデスクに叩きつけた。

「ふざけるな……ッ!」

その音だけが、空虚に響いた。

「俺たちは、こんなことのために血を吐く思いで作ったんじゃない! 洋子が、被験者たちが、命がけで繋いだ希望を……奴らは金儲けの道具にしてやがる!」

彼の怒りはもっともだった。

善意の結晶として生まれたワクチンが、希少価値がついた瞬間に「投機商品」へと堕落した。

需要が供給を上回る限り、この醜悪な取引はなくならない。政府がどれだけ取り締まろうと、命を惜しむ人間の欲望は、必ず抜け道を見つけ出す。

小児科医の女性委員が、涙を拭った。

「私の患者の中にも……偽物を買って、症状が悪化した子がいます。両親は全財産を使って買ったのに……」

彼女は言葉を詰まらせた。

「……システムのエラーですね」

岸本が、冷徹に、しかし悔しさを滲ませて呟いた。

「中央集権的に管理し、配給しようとするから、そこに『権限』という価値が生まれ、腐敗が生じる。……私たちが作った『ムネモシュネ』は、あまりにも強力すぎた。だからこそ、独占しようとする力が働く」

彼女は画面を見つめながら、冷静に分析を続けた。

「経済学の基本です。希少な資源には必ず価格がつく。そして、価格がつけば市場が生まれる。合法的な市場で手に入らなければ、違法な市場が形成される」

村上が頷いた。

「その通りだ。禁酒法時代のアメリカと同じだ。取り締まれば取り締まるほど、闇市場は肥大化する」

洋子は、黙ってスクリーンを見つめていた。

老婆の絶望した顔が、目に焼き付いて離れない。

あのおばあさんは、きっと誰よりも深く家族を愛していたはずだ。それなのに、金がないというだけで、偽物を掴まされ、記憶を奪われた。

そして、高級車に乗った金持ちたちは、本物のワクチンを手に入れて安全な場所に逃げ込む。

不公平だ。あまりにも不公平だ。

(……間違ってる)

洋子の胸の奥で、静かな、しかし強烈な炎が燃え上がった。

それは、六花結晶による侵食よりも熱く、彼女の魂を突き動かす原動力だった。

これは、私たちが目指した世界じゃない。

記憶という、人間にとって最も大切なものが、金で売買される世界なんて。


「……ねえ、みんな」洋子の低い声が会議室を裂いた。

「このワクチンの『価値』を、なくしてしまえばいいんじゃない?」

全員の視線が集まる。

議長が怪訝な表情で眉を寄せた。

「価値をなくす? どういう意味だ?」

「希少だから、高値で売れる。管理されているから、横流しが起きる」

洋子は立ち上がり、かつて「生体培養」のアイデアを描いたホワイトボードの前に立った。

「なら、空気や水と同じにすればいい。……どこにでもあって、誰でも作れて、奪い合う必要さえないものに」

洋子はマーカーを手に取り、大きく文字を書いた。

『Open Sourceオープンソース

会議室に、驚愕のどよめきが広がった。

「ワクチンの製造レシピ、培養プロトコル、そして初期シード(種菌)の生成方法……そのすべてを、インターネット上に無償公開するの」

その提案は、あまりにも過激で、そして常識外れだった。

厚労省の官僚が顔色を変えた。

「馬鹿な! 国家機密に等しい情報を公開するだと? それは……」

「国家の管理権限を放棄するということですか!」

別の官僚が声を荒げる。

村上が息を呑む。

「正気か、洋子くん! そんなことをすれば、特許も、政府の管理も、すべて吹き飛ぶぞ! ……それに、素人が勝手に培養すれば、変異のリスクだって……」

「変異リスクは、初期シードの遺伝子ロックで防げます」

洋子は即座に切り返した。

「パン酵母やヨーグルトと同じよ。適切な温度と、砂糖水のような培地さえあれば、誰でも自宅のキッチンでワクチンを増やせるように設計し直す。……そうすれば、もう誰も密売人から五百万で買う必要はなくなる」

彼女はホワイトボードに、簡単な図を描いた。

家庭の台所。鍋。温度計。そして、増殖していくワクチン。

「培養温度は37度。お湯で維持できます。培地は砂糖水とアミノ酸。どちらもスーパーで買える。初期シードは……」洋子は会議室を見渡した。

「臨床試験を受けた100人の方々が、すでに持っています。彼らの血液から抽出したシードを、地域ごとに分配すれば、そこから無限に増やせる」

岸本が、タブレット端末で計算を始めた。

「理論上は……可能です。一人のシードから、一週間で一万人分のワクチンが作れる。100人のシードがあれば……」

「百万人分です」

洋子が続けた。

「そして、その百万人がまたシードになれば、次の週には一億人分。指数関数的に広がっていきます。もう、工場も、輸送トラックも、警備も必要ない」

会議室が沈黙に包まれた。中央集権的な管理システムを破壊し、製造と配布を完全に分散化する。誰もが生産者になり、供給者になる。

「国家反逆罪ものだぞ」

浩が、しかしその口元に微かな笑みを浮かべて言った。

「政府は激怒するだろうな。自分たちの管理権限を奪われるんだから」

「そうね。……でも、政府の顔色を窺っている間に、何人が消えるの?」

洋子は浩を真っ直ぐに見据えた。

「浩くん。私たちは科学者よ。……誰かの許可がなきゃ、人を救っちゃいけないの?」

その言葉は、浩の胸の真ん中を射抜いた。

そうだ。俺たちは何のために研究をしてきた。

偉くなるためじゃない。金持ちになるためでもない。

ただ、目の前の大切な人が消えてしまうのを止めたかった。それだけだ。

洋子の目を見て、浩は思い出していた。初めて彼女と出会った日のこと。雪の結晶について語り合った夜のこと。そして、彼女が被験者第一号として横たわったあの日のこと。

すべては、人を救うためだった。

浩はゆっくりと立ち上がり、洋子の隣に並んだ。

「……いや。科学は、万人のためにあるべきだ」

彼はニヤリと笑った。かつての、怖いもの知らずの研究者の顔に戻っていた。

「やろう、洋子。……パンドラの箱を開けるんだ」

岸本がため息をつき、そしてPCのキーボードを叩き始めた。

「……共犯者になるのは癪ですが、論理的にはそれが最短の解決策です。闇市場を壊滅させるには、市場価格をゼロにするのが一番ですから」

彼女の手元で、膨大な研究データが暗号化され、アップロード用のパッケージへと変換されていく。

画面には、数千ものファイルがリスト化されている。製造プロトコル、品質管理基準、培養温度の調整方法、シード抽出の手順。すべてが、素人でも理解できるように平易な言葉で書き直されていく。

村上もまた、苦笑しながら眼鏡を直した。

「やれやれ。……これで我々は、ノーベル賞候補から一転、国際指名手配犯かもしれないな」

「いいじゃないですか」浩が笑う。「人類を救った犯罪者なら、勲章より価値がある」

会議室の官僚たちは、呆然と三人を見つめていた。

「待て……本気なのか? 君たちは……」

議長が、震える声で言った。

「本気です」

洋子が振り返った。

「もう、誰も見殺しにしたくありません。金持ちだけが助かって、貧しい人が偽物を掴まされる世界なんて、間違ってる」

「でも、秩序が……」

「秩序より命です」

洋子は言い切った。


数時間後。

メインコンソールに送信ボタンが表示された。宛先は全世界のニュースサイト、研究機関、SNS、ダークウェブ。

添付ファイルは『Mnemosyne_Recipe_v3.0_Public』。

そこには、家庭にある材料でワクチンを培養する方法と、最寄りの協力者(臨床試験を終えた人々)から「種」を分けてもらうためのネットワーク情報が記されている。

四人が画面を見つめる。

「……準備はいい?」

洋子がマウスに手を添える。震えはない。

窓の外では雪が降り続いている。

だが、このボタンを押せば、世界中で炎が一斉に灯る。管理された「雨」ではなく、野火のように広がる「生命力」の爆発。

「押せ、洋子」

浩が彼女の手の上に、自分の手を重ねた。

「世界を、解放するんだ」

「ええ」

洋子は深く頷き、そしてクリックした。

《Upload Complete》

その文字が表示された瞬間、世界が変わった。

情報という名の種が、光の速度で地球を駆け巡り、あらゆる境界線を飛び越えて拡散していく。

もう、誰も独占できない。

もう、誰も奪えない。

記憶は、再び人々の手に戻ったのだ。

遠くでサイレンの音。二人は顔を見合わせて微笑む。窓の外の雪景色が、来る変革を前に息を潜めている。

ところどころに白く淡い光が浮かんで見える。あれは六花結晶が揺らぎ始めた人々の気配だ。かつては雪のように美しいと感じたその光が、今は街を蝕む霧のように見える。

「私たちは……正しい方向に進めているのかな」洋子がぽつりと呟く。

「正しいよ」浩は言い切った。「ただ、世界が追い付いていないだけだ。僕たちが歩みを止めなければ、きっと間に合う。まだ……遅くない」

風が吹き抜け、洋子の髪が揺れた。その揺れは、かつて六花結晶の安定を取り戻したときのように、かすかに光を帯びていた。

社会は分断されていく。しかし、彼らの決意はその裂け目を越えて進もうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ