第22話「製造の壁」
臨床試験から二日が経過した。解析室の壁一面のモニターには、100名の被験者の経過データが流れている。すべてが「緑色(安定)」を示していた。記憶の断片化は止まり、崩れかけていた自我の輪郡は鮮明さを取り戻している。人類が初めて「忘却の雪」に対して掲げた勝利の旗印だった。
画面の端には被験者たちからの感謝のメッセージが流れている。「家族のことを思い出せました」「希望をくれて感謝します」。洋子は朝一番にその画面を見るのが習慣になっていた。だが、その勝利の余韻に浸る余裕は、今の研究チームにはなかった。
カンファレンスデスクには「製造報告書」の山が積み上げられている。赤いインクで書かれた「生産遅延」「不良品率85%」「設備故障」。理論と現実の間に横たわる深い谷だった。
浩は昨夜もほとんど眠っていない。工場からの報告書をめくりながら、舌打ちを繰り返した。
「どう考えても、このままでは間に合わない」
沈黙を破ったのは、村上だった。
彼は眼鏡を外し、疲労で充血した目をこすりながら、呻くように言った。
「理論は完璧だ。臨床結果も申し分ない。だが『物』として作れないんじゃ、絵に描いた餅だ」その声には悔しさが滲んでいた。村上の設計した完璧な分子構造が、量産という現実の壁の前で無力だった。
岸本が険しい表情でタブレット端末を見つめている。「政府からは一時間おきに催促が来ています。自衛隊機も待機済み。散布ルートも確定している。なのに、肝心の『弾』がない」彼女の声には焦燥が滲んでいた。
政府の期待は重い。メディアは臨床試験の成功を報じ、国民は希望を抱き始めている。「もうすぐ治療が始まる」「救われる」と。けれど、現実はその期待からあまりにも遠かった。
岸本は顔を上げ、スクリーンに工場の稼働状況を映し出した。
そこには、無情な赤いアラートと、低い稼働率を示すグラフが表示されていた。
「全国の製薬工場をフル稼働させていますが、歩留まりが悪すぎる。不良品の山です」グラフには各工場の生産状況が示されている。どの工場も目標値の10%にも満たない。
「ワクチンの複合構造が複雑すぎるんです」岸本は唇を噛み締めた。「単一の化学物質なら話は早い。でも、このワクチンは違う。異なる神経伝達物質の揺らぎを特定の比率で同調させ、あえて『不完全な構造』として安定させなければならない」塩と砂糖と酢を絶妙なバランスで混ぜ合わせ、しかもそのバランスが常に変動し続けるような調合だ。
「工場のラインは『完璧』を求めるように設計されています。誤差0.1%以内で同一規格に揃える」岸本は製造工程図を表示した。「でも、このワクチンは『完璧』であってはいけない。揺らぎが必要で、その判定基準自体が確立されていない」
浩が腕を組み、深く息を吐き出した。
彼はこの二日間、工場のエンジニアと怒号が飛び交うような調整を続けていた。その疲労が、声のトーンを低くさせていた。
「皮肉な話だ。洋子を救った『揺らぎ』が、今度は足を引っ張っている」浩は天井を仰いだ。「機械は正確すぎる。『きっちりとした六角形』は作れるが、『曖昧な構造』はエラーとして弾く。このワクチンは『生き物』に近すぎるんだ」彼は壁の分子構造図を見つめた。
洋子は身を切られるような思いで座っていた。自分の体には浩が調整してくれたワクチンが流れている。けれど、モニターの向こうの人々は、今この瞬間も記憶が流れ出し、恐怖に震えている。自分だけが救われた不公平さが、胸に重くのしかかる。
「ボトルネックはどこ?」洋子は震える声で尋ねた。「情動誘導成分の生成工程の最終段階です。分子レベルでの『ゆらぎ比率』を定着させるには、一本のワクチンに数十分の精密露光が必要になります」「数十分……」洋子は絶句した。職人が一つ一つ手作りする工芸品の領域だ。
洋子は手元の資料をめくった。そこには、製造工程のフローチャートが描かれている。原料の調達から、精製、混合、安定化、充填、検査。通常なら自動化されているはずのすべての工程に、「手作業調整必要」の赤い印が付けられていた。
「工場の技術者は限界だと言っています」岸本が続けた。「彼らは製薬のプロですが、このワクチンには経験則が通用しない。一本一本、試行錯誤しながら作っている状態です」村上が資料を取り上げた。「この工場では三十本作って二十八本が不良品。合格品は二本だけで、なぜ合格したのか本人にも分からない」
「一日あたり何本?」洋子は核心を突いた。浩が視線を落とした。「全国のラインを動かして、日産七百本だ」「七百……?」洋子の思考が停止した。「前兆を訴えている人は、この街だけで数万人、全国なら……」「数百万人はいる」浩は無情な数字を口にした。「七百本じゃ、砂漠にスポイトで水を垂らすようなものだ」
洋子は震える指で計算した。日産七百本。一ヶ月で二万一千本。一年で二十五万本余り。前兆症状のある人が三百万人なら、全員に届くまで十二年。その間にも新たな患者は増え続け、症状の進んだ人々は数日で消失する。計算が合わない。
重い沈黙が落ちた。窓の外では雪が降り続けている。七百本。七百人しか助けられない。残りの何百万人を見捨てて。
洋子の頭の中に臨床試験の光景が蘇った。受付に並ぶ人々。虚ろな目をした老女。メモを握りしめていた男性。彼らは百人の枠に入れた。でも、その列の外にいた人々は? 今日、明日、消失していく無数の人々は?洋子は拳を強く握りしめた。自分は救われた。でも、フェンスの向こう側では、今この瞬間にも恐怖に震えている人々がいる。
母親の顔を忘れかけた子供。
愛する人の名前を呼べなくなった恋人たち。
彼らを見捨てるのか。
「選別」という、残酷な言葉が脳裏をよぎる。
誰を生かし、誰を「空席」にするか。それを私たちが決めることになるのか。
洋子は立ち上がり、窓際に歩いた。ガラスに額を押し当てる。冷たい感触が、熱くなった頭を少しだけ冷やしてくれた。
外の雪は、相変わらず美しかった。一粒一粒が光を反射し、きらきらと輝いている。まるで世界を祝福するかのように。
でも、その美しさの裏で、無数の人生が消えていく。
誰かの笑顔が。誰かの涙が。誰かの怒りが。誰かの愛が。
すべてが、雪に埋もれて消えていく。
村上の拳が震えていた。彼の目には、悔しさと焦燥の涙が浮かんでいた。
研究者として、技術者として、人間として。すべてを賭けて挑んだ戦いで、こんな形で敗北するわけにはいかない。
村上が机を叩いた。
彼は悲鳴のような声を上げた。
「人間の感情は『個別的』で『状況依存』だ! それを一律の工業規格に押し込めようとしている時点で無理がある! だが、やらなきゃならん!」
村上の拳が震えていた。彼の目には、悔しさと焦燥の涙が浮かんでいた。
研究者として、技術者として、人間として。すべてを賭けて挑んだ戦いで、こんな形で敗北するわけにはいかない。
浩もまた、歯を食いしばっていた。
「工場の責任者に、もう一度話をする。何か、何か方法があるはずだ……」
「でも、もう二日間やり続けて、この結果なんですよ」
岸本が冷静に、しかし絶望的な現実を突きつけた。
「技術的限界です。今の製造技術では、これ以上の効率化は……」
行き詰まっていた。
理論は正解にたどり着いたのに、現実という物理的な壁に阻まれている。
この「製造の壁」を突破しない限り、ムネモシュネ・レインは幻の雨に終わる。
そして世界は、静かに、確実に白く埋め尽くされていく。
会議室の時計が、無情に時を刻んでいる。カチカチという音が、やけに大きく聞こえた。
一秒ごとに、誰かの記憶が薄れていく。
一分ごとに、誰かの存在が揺らいでいく。
一時間ごとに、誰かが消失していく。
時間がない。絶望的に、時間がない。
洋子は深く息を吸い込んだ。
諦めるわけにはいかない。
私の中に流れているこの「希望」を、独り占めにしたまま終わるなんて、絶対に嫌だ。
彼女は顔を上げ、三人の顔を見渡した。
「……ねえ。発想を変えられないかな?」
「発想を変える……?」
浩が怪訝そうに眉を寄せた。
洋子は立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み寄った。彼女の目には、先ほどまでの絶望の色はなく、研究者としての鋭いひらめきが宿っていた。
「うん。私たちは今、ワクチンの『ゆらぎ成分』を、機械を使ってゼロから合成しようとしている。……だから時間がかかるのよね? 自然界には存在しない複雑なバランスを、無理やり計算で作り出そうとしているから」
洋子はボードに描かれた製造ラインの図式に、赤ペンで大きなバツ印をつけた。
そしてその横に、シンプルな細胞の絵を描いた。
「機械に『不完全さ』を作らせるのは難しい。でも……『生き物』なら、それは得意分野なんじゃない?」
「生き物?」
村上が眼鏡の位置を直しながら問い返す。
「どういうことだ、洋子くん。ワクチンを生物に作らせるとでも?」
「そうです」
洋子は力強く頷いた。
「工業的な『化学合成』じゃなくて、生物学的な『培養』に切り替えるの。……パンの発酵種と同じよ。最初に完璧な『種』さえあれば、それを栄養豊富な培地に混ぜるだけで、菌が勝手に増殖して、同じ成分を無限にコピーしてくれる」
洋子はさらに図を描き加えた。中央に小さな円、そこから放射状に広がる無数の円。増殖のイメージ図だ。
「インフルエンザワクチンだって、鶏卵を使って培養する方法があるわ。生物の体内で増やす方が、複雑な分子構造を維持しやすいの。機械は『作る』けど、生物は『育てる』。この違いが決定的なのよ」
室内が静まり返った。
あまりにも原始的で、しかし盲点を突いた提案だった。
浩は目を見開き、洋子の描いた図を凝視していた。彼の脳内で、無数の理論とデータが高速で結びついていく。
「待てよ……確かに、抗体医薬品の製造では、哺乳類細胞を培養する方法が主流だ。複雑なタンパク質の立体構造を保ちながら大量生産できる」
村上も立ち上がり、ホワイトボードに近づいた。
「だが、この『記憶抗体』は普通の抗体とは違う。感情による揺らぎまで含んだ、極めて特殊な構造だ。それを培養できる『種』なんて……」
彼の言葉が途中で止まった。
浩がハッとして顔を上げた。
「……種。そうか、俺たちにはもうあるんだ」
彼は震える声で言った。
「この世で唯一、雪に対抗できる完璧な抗体を持った『生きた工場』が」
三人の視線が、同時に一点に集まった。
洋子は深く頷き、壁の向こう――臨床試験を終えた100人の被験者たちがいる方向を見つめた。
「臨床試験をクリアした100人の方々の血液には、すでに安定化した『Mnemosyne Ver.2.0』の結晶構造が定着しています。……彼らの血液から『記憶抗体』を抽出し、それを種として培養タンクに入れれば……」
「……連鎖反応が起きる」
岸本が立ち上がり、猛烈な勢いで計算を始めた。
「彼らの生体反応を利用して、ベースとなる薬液を一気に『ワクチン化』させる。……これなら量子制御なんて必要ない。生物が本来持っている自己複製能力を利用すれば、製造スピードは……現在の数千倍、いや、指数関数的に跳ね上がる!」
彼女の指が、タブレット端末の画面を高速でタップしていく。数式が次々と展開される。
「一人あたり200ミリリットルの血液を提供してもらえば、そこから抽出できる抗体は約10グラム。それを培養タンクに投入すれば……48時間で一万倍に増殖する。つまり、100人から……」
岸本の目が見開かれた。
「一トンだ。一トンの原液が作れる」
村上が息を呑んだ。
「一トンあれば、希釈して……数百万本のワクチンになる」
浩は拳を握りしめた。理論は完璧だった。計算も合っている。
理論は繋がった。
だが、そこには新たな、そして重い倫理的な壁があった。
「……つまり」
村上が低い声で言った。
「救ったばかりの彼らに、血を提供してくれと頼むのか? やっと日常を取り戻したばかりの彼らを、今度は『材料』として利用すると?」
その言葉が、室内の興奮を一瞬で冷やした。
それは残酷な願いだった。
彼らは被害者であり、保護されるべき対象だ。科学の都合で搾取していい存在ではない。
洋子もそれは分かっていた。彼女自身が被験者第一号だったからこそ、あの恐怖を知っている。ワクチンを打つ前の不安。投与中の緊張。その後の検査の苦痛。
やっと解放された彼らに、また針を刺すのか。また痛い思いをさせるのか。
岸本が厳しい表情で言った。
「倫理委員会を通さなければなりません。強制はできない。……インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)が絶対条件です」
「リスクもあります」
村上が付け加えた。
「200ミリリットルの献血は、健康な成人なら問題ない量です。でも、彼らはまだ完全に回復したわけじゃない。記憶は安定しましたが、体力的には消耗している可能性がある」
浩は黙って腕を組んでいた。彼の表情は険しかった。
科学者として、これは最良の解決策だ。
でも、人間として、これは正しいのか。
沈黙が続いた。
洋子は、ホワイトボードに描いた増殖の図を見つめていた。小さな円から広がる、無数の円。希望の連鎖。
彼女は思い出していた。臨床試験の日のことを。受付で祈っていた少女。妻の名前を思い出して泣いた男性。娘の手を握った老人。
彼らの目には、何があっただろう。
恐怖だけではなかった。確かに、希望もあった。
そして、助けられた者の――感謝があった。
「……私が頼みます」
洋子は迷わず言った。
「事情を話して、頭を下げます。強制はしません。でも……彼らなら分かってくれると信じています。記憶を失う恐怖を知っている彼らだからこそ……」
浩が洋子の顔を見た。
「洋子……」
「私だって、もし逆の立場だったら、きっと協力すると思う。自分が受け取った希望を、他の人にも届けたいって思うはずだから」
洋子の目には、強い決意があった。
それは、科学者の冷徹な判断ではなく、一人の人間としての信念だった。
数十分後。
隔離区画のホールに、洋子の声が響いた。
100人の被験者とその家族たちが、静まり返って彼女の言葉を聞いていた。
ワクチンの生産が間に合わないこと。
このままでは、壁の外にいる何百万人もの人々が見捨てられること。
そして、それを救えるのは、ここにいる「生還者」たちの血液だけであること。
洋子は隠さず、飾らず、全てを話した。そして最後に深く頭を下げた。
「お願いします。……あなた方の体にある『希望』を、分けてください」
彼女の声は震えていた。目には涙が浮かんでいた。
「決して強制ではありません。断られても、誰も責めません。あなた方は十分に苦しまれました。これ以上、負担をかける権利は私たちにはありません」
洋子はさらに深く頭を下げた。
「でも……もし、もし協力していただけるなら……」
長い沈黙が落ちた。
誰かが咳払いをする音が聞こえた。
洋子は顔を上げることができなかった。自分たちの無力さのせいで、彼らに新たな負担を強いることが情けなくて、涙がこぼれそうだった。
科学は万能じゃない。理論だけでは人を救えない。結局、人を救えるのは、人の善意だけなのか。
そんな無力感が、洋子の胸を締め付けていた。
ホールの隅で、浩と岸本、村上が固唾を飲んで見守っていた。彼らもまた、祈るような思いで被験者たちの反応を待っていた。
時間が止まったように感じられた。
壁にかけられた時計の秒針だけが、カチカチと無情に時を刻んでいる。
「……先生」
不意に、声がかかった。
顔を上げると、最前列にいたあの中年男性――妻の名前を思い出し、涙していた男性が立っていた。彼は袖をまくり上げ、太い腕を差し出していた。
「俺の血でいいなら、いくらでも持って行ってくれ」
「え……?」
洋子は驚いて顔を上げた。男性の目には、迷いがなかった。
「俺は、あんたたちに救われた。妻の名前も、出会った日のことも、全部思い出せた」
彼は、隣に寄り添う妻の肩を抱きながら、穏やかに笑った。
「この喜びを、俺たちだけで独り占めにするなんてバチが当たる。……外にはまだ、昨日の俺みたいに泣いてる奴らがたくさんいるんだろ? なら、助けなきゃ男じゃない」
妻も頷いた。
「主人がいなくなるかと思って、本当に怖かった。でも、こうして戻ってきてくれた。……だから、今度は私たちが誰かを助ける番です」
「私もやるわ!」
若い母親が手を挙げた。「娘との思い出を守ってくれた薬だもの。……他のママたちにも届けてあげて」
彼女の隣で、少女が母親の手をぎゅっと握っていた。
「お母さん、痛い?」
「大丈夫よ。ちょっとチクッとするだけ」
母親は娘の頭を撫でた。
「これで、他のお友達のママも、お友達のことを忘れなくて済むのよ」
「僕も!」「私もお願いします!」
次々と手が挙がった。
老人も、若者も、誰もが袖をまくり、笑顔で洋子を見つめていた。
あの杖をついた老人も、娘に支えられながら立ち上がった。
「わしの血が役に立つなら、いくらでも」
「お父さん、無理しないで」
娘が心配そうに声をかけるが、老人は首を横に振った。
「無理じゃない。……わしは、お前の名前を忘れてしまった。あかり。大切な娘の名前を。それがどれだけ恐ろしいことか、身をもって知った。……同じ苦しみを、他の誰かに味わわせたくない」
そこにあったのは、自己犠牲の悲壮感ではなかった。
かつて助けられた者が、今度は誰かを助ける側に回れるという、誇りと喜びに満ちた「善意の連鎖」だった。
ホールは、温かい空気に包まれていた。
100人全員が、手を挙げていた。
家族たちも、涙を浮かべながら頷いていた。
洋子の視界が涙で滲んだ。
「……ありがとう。……本当に、ありがとうございます」
何度頭を下げても足りなかった。
浩も、村上も、岸本も、深々と頭を下げていた。
人間は弱い。雪の結晶一つで記憶を失ってしまうほど脆い。
けれど、こうして手を取り合い、想いを繋ぐことができる強さも持っている。
その「結合力」こそが、雪に対する最強の武器なのだ。
それからの展開は、劇的だった。
100人のボランティアから提供された「記憶抗体」は、直ちに全国の製薬工場へ空輸された。
洋子たちは、その一部始終を管制室のモニターで見守っていた。
画面には、工場の培養タンクがリアルタイムで映し出されている。巨大な銀色のタンクの中に、透明な培地が満たされ、そこに「種」が投入される瞬間が近づいていた。
「第一工場、準備完了」
「第二工場、培地温度、最適値に到達」
「第三工場、投入準備完了」
次々と報告が入る。
岸本が、マイクに向かって指示を出した。
「全工場、一斉投入。……カウントダウン開始。10、9、8……」
洋子は息を詰めて画面を見つめた。浩の手が、そっと彼女の手を握った。
「3、2、1……投入!」
画面の中で、小さなバイアルの内容物が、巨大なタンクへと注がれた。
最初は、何も起きないように見えた。
透明な液体の中に、わずかな青みがかった液滴が溶け込んでいく。
そして――。
培養タンクの中で、生命の神秘とも言える反応が起きた。
ベースとなる薬液に「種」が投下された瞬間、液体は温かな光を帯びて発酵を始め、わずか数時間でタンク一杯のワクチンへと変貌を遂げたのだ。
「増殖率、予測値の5000倍をマーク!」
工場の技術者の興奮した声が、通信機から響いた。
「信じられない! これは……まるで生き物だ! 自己増殖している!」
「品質、安定しています! これは……機械で作ったものより純度が高い!」
別の工場からも同様の報告が入る。
画面の中で、液体がゆっくりと青みを帯びていく様子が見えた。それは、まるで夜明けの空が徐々に明るくなっていくような、神秘的な光景だった。
工場からの報告が入るたびに、研究室には歓声が上がった。
「第五工場、タンク満杯! 増殖完了!」
「第七工場、品質検査完了! 全ての基準をクリア!」
「第九工場、第二バッチ投入開始!」
七百本という絶望的な数字は、一晩で七百万本、そして数千万本へと膨れ上がっていった。
村上が、涙を拭いながら笑った。
「やったぞ……やったんだ……!」
岸本も、珍しく笑顔を見せていた。
「これで、間に合います。全国民に行き渡る量が、確保できます」
浩は洋子を抱きしめた。
「お前の発想が、世界を救ったんだ」
洋子は浩の胸に顔を埋めて、静かに泣いた。
嬉し涙だった。
そして、作戦決行の夜。
気象研究棟の屋上ヘリポート。
凍てつくような強風の中、洋子と浩は並んで夜空を見上げていた。
分厚い雲の向こうから、重低音が響いてくる。
自衛隊の大型輸送機編隊のエンジン音だ。
彼らの機体には、大量生産された『Mnemosyne Ver.2.0』と、それを雨に変えて降らせるための人工降雨装置が搭載されている。
「……いよいよだな」
浩が、防寒着のポケットに手を突っ込んだまま言った。
「ああ。長かったね」
洋子は白い息を吐き、隣に立つ浩の横顔を見た。
「浩くん。……私たちが作ったのは、ただの薬じゃないね」
「ん?」
「あれは、みんなの『想い』そのものだよ。教授の執念、私の願い、そして100人の人たちの善意。……全部が溶け合って、雨になる」
通信機から、岸本の凛とした声が響いた。
『全機、散布ポイントへ到達。……作戦名、ムネモシュネ・レイン。発動!』
その瞬間。
夜空の雲が、内側から淡く発光したように見えた。
やがて、冷たい雪に混じって、温かい雨粒が地上へと降り注ぎ始めた。
ポツリ、ポツリと、アスファルトを濡らす音。
それは、雪の静寂を破る、生命の音だった。
洋子は掌を空に向けた。
冷たい雪片と、生暖かい雨粒が同時に触れる。
雨は雪を溶かし、透明な水へと変えていく。
「……見て、浩くん」
洋子は街を見下ろした。
白い雪に覆われた街並みが、雨に打たれ、少しずつ本来の色を取り戻していく。
それは、世界中の人々の脳内でも同じことが起きている証拠だった。
凍りついていた記憶が溶け、温かい血が通い始める。
「……勝ったな」
浩が洋子の肩を抱き寄せた。
「ああ。俺たちの勝ちだ」
雨は降り続いた。
それは、長く厳しい冬の終わりを告げる、涙のように優しい雨だった。
二人は寄り添いながら、いつまでもその雨音を聞いていた。




