第21話「臨床試験の開始」
洋子の回復は、停滞していた研究室の空気を一変させた。これまで指の間から零れ落ちていた砂を、ようやく掬い上げられるかもしれない――「時間の残酷さに抗う術」がついに形になったのだという実感が、研究員たちの瞳に灯っていた。
洋子の成功から四十八時間。研究棟の各フロアは、それまでの沈鬱な雰囲気から一転して、戦場のような緊迫感に包まれていた。廊下を行き交う研究員たちの足取りは早く、誰もが資料やタブレット端末を抱えて駆け回っている。
「第二世代ワクチンの量産ラインは?」
「工場から連絡がありました。明後日までに第一ロット五百本が完成予定です」
「被験者のスクリーニングは?」
「医療チームが最終確認中です。候補者は三百名。そこから最も症状が進行している百名を選定します」
会議室からは切迫したやり取りが絶え間なく聞こえ、研究棟全体が不眠不休で動き続けていた。
しかし同時に、これまでとは比較にならないほど鋭利な緊張感が、全員の胸に重くのしかかっていた。
窓の外を見れば、世界は依然として白い絶望に包まれている。消失現象は止まるどころか、加速度的にその範囲を広げていた。ニュース映像には、昨日まで賑わっていたはずの街角がゴーストタウンのように静まり返り、主を失った車や、誰も座ることのない公園のベンチが雪に埋もれていく様子が映し出されている。
テレビでは、キャスターが神妙に告げていた。「確認された消失者は国内だけで推定三万人を超えました。実際の数は、その数倍に上る可能性があります」画面には空席だらけのオフィス、誰もいない教室、家族の写真を見て泣き崩れる母親の姿が映し出される。
症状を訴える人々の数は、今や幾何級数的に増え続けていた。
「昨日の夕食が思い出せない」「妻の名前が出てこない」「自分の家の場所がわからない」――記憶の揺らぎを抱えた者たちが、まるで白い霧の中を彷徨う亡霊のように、救いを求めて病院やシェルターへと押し寄せている。
その"揺れ"を止め、彼らを「こちら側」に繋ぎ止めるための最終防衛戦、大規模臨床試験がついに開始されようとしていた。
試験の舞台となるのは、気象研究棟に隣接する敷地に、突貫工事で増設された特別隔離区画だ。
無機質なプレハブと強化プラスチックで覆われたその広いホールには、朝早くから長い列ができていた。
仕切りの向こうでは、防護服に身を包んだ医療スタッフたちが、事務的かつ慎重に被験者の受付を行っている。
その列に並ぶ人々の表情は、一様に暗く、そして脆かった。
顔を伏せて震える中年男性。
虚ろな目で宙を見つめ、何かをブツブツと呟き続ける老女。
そして、まだ若い娘の手を痛いほど強く握りしめ、泣きそうな顔で付き添っている母親。
彼らが抱えているのは、病気への恐怖ではない。「自分という存在が消えてなくなること」への根源的な恐怖だ。
列の中ほどに立つ若い男性は、手にメモ用紙を握りしめていた。そこには殴り書きで、「妻の名前:美咲」「息子の名前:翔太」「自宅の住所:」と書かれている。彼は数分おきにそのメモを見つめ、何かを確認するように唇を動かしている。記憶が崩れていく恐怖の中で、せめて大切な人の名前だけは忘れまいと、必死に抵抗しているのだ。
別の列では、杖をついた老人に娘が声をかけていた。「お父さん、大丈夫?」「ああ。それより、お前は……誰だったかな」「お父さん! 私よ、あかりよ!」「……ああ、そうか。あかり」娘は涙を拭い、父の手を強く握った。
今回の第一次臨床試験の対象となるのは、厳正なスクリーニングを経て選ばれた100名。
全員がすでに深刻な"消失の前兆症状"を呈しており、脳内の記憶結晶密度指数が危険域に達している者たちだ。
彼らは皆、記憶の断片化、親しい人物名の欠落、あるいは一時的な認知の喪失といった症状に苛まれている。彼らの頭の中では、すでに雪が降り始め、人生という名の足跡を白く塗り潰しかけているのだ。
受付のテーブルでは、医療スタッフが一人一人に問診票を渡し、最終確認を行っている。
「こちらにサインをお願いします。臨床試験には一定のリスクが伴うことをご理解いただいた上で……」
「構いません」
中年男性が、震える手でペンを握った。
「このままじゃ、俺は消える。家族も俺を忘れる。……それよりはマシです。どんなリスクでも、受け入れます」
その言葉には、静かな覚悟があった。消えるという恐怖よりも、存在し続けることへの執着の方が、遥かに強いのだ。
洋子は研究棟の管制室で、白衣を羽織り、受付の様子を映し出すモニターを見つめていた。
画面越しに見る彼らの姿は、数日前の自分そのものだった。
「……これが、現実なのね」
洋子の声は、かすかに震えていた。
自分の血管には、すでにワクチンが巡り、思考はクリアだ。浩の名前も、ここにある危機も、鮮明に認識できている。
けれど、モニターの向こうにいる彼らは違う。今この瞬間も、大切な記憶が雪解け水のように流れ出し、恐怖に震えている。
洋子の手が、無意識に自分の腕をさすっていた。まだ注射の痕が残っている。あの時の恐怖を、彼女は忘れていない。クリーンルームで横たわり、自分という存在が溶けていくような感覚に怯えた、あの時間を。
「私の成功が、たまたまの適合だったら」科学者としての冷静さが、逆に不安を煽る。人間の体は一人一人違う。もし被験者に副作用が出たら、記憶が固定化されすぎたら、あるいは結晶が崩壊したら――。その責任を、自分は負えるのだろうか。
「洋子」
隣に立った浩が、短く、しかし力強く名前を呼んだ。
彼は洋子の肩に手を置き、モニターではなく、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「『たまたま』じゃない。俺たちはこの数日間、死に物狂いで調整してきた」浩は銀色のアタッシュケースを握りしめた。「君の脳内で起きた『動的平衡』――あの揺らぎが、雪に対抗する唯一の鍵だ。そして何より、彼らは君を信じてここに来た」
洋子は浩の顔を見上げた。その目には、迷いがなかった。
「……浩くん」
「俺たちにできるのは、最善を尽くすことだけだ。結果がどうなるかは、誰にも分からない。でも、何もしなければ、彼らは確実に消える。それだけは分かってる」
浩の言葉は、いつもより重かった。彼もまた、同じ重圧を背負っているのだ。洋子一人の命を救ったのとは違う。今日から、彼らは百人の命を、百人の記憶を、百人の人生を預かることになる。
モニターの中で、少女が受付を済ませ、祈るように胸の前で手を組んでいた。洋子は深呼吸をし、頬を両手で叩いた。「行きましょう。始めなきゃ」「ああ」
二人は管制室を出て、消毒された空気が流れる長い廊下を渡り、臨床試験エリアへと足を踏み入れた。
廊下の両脇には、医療機器や点滴スタンドが整然と並べられている。床には、動線を示す色付きのテープが貼られ、スタッフたちが慌ただしく行き交っている。
「第1グループ、誘導を開始してください」
インカムから岸本の声が聞こえてきた。
被験者は十名ずつの小グループに分けられ、順不同でクリーンルームへと案内されていく。
浩と洋子は、最も症状が進行している「第1グループ」のモニタリング室に入った。
室内は薄暗く、無数のモニターとコンピューターが青白い光を放っている。数名の研究員とデータ解析の専門家が、すでに持ち場についていた。
分厚いガラスの向こうには、十台のリクライニングチェアが並び、そこに十名の被験者が横たわっている。
彼らの頭部には無数のセンサーが取り付けられ、背後の巨大なメインモニターには、彼らの脳内における「六花結晶」の状態が、十個の複雑な幾何学模様として映し出されていた。
「ひどい……」
洋子が息を呑む。
映し出された結晶は歪み、激しく明滅していた。中心核が薄れ、枝が折れていく様子がリアルタイムで可視化されている。特に深刻なのは003と007だ。結晶の輪郭が薄い霧のようにぼやけ、時折完全に消失しかけている。
「あと数時間もすれば……」
村上が、眼鏡の奥の目を細めて呟いた。
「彼らは消えます。誰の記憶からも」
洋子は拳を握りしめた。絶対に、そんなことはさせない。
「準備、完了しました」
マイクを通じて、クリーンルーム内にいる岸本の低い声が響いた。彼女はいつもの冷静な表情で、トレイに並べられた十本の注射器を確認している。
その中には、薄く青みがかった透明な液体――『Mnemosyne Ver.2.0』が充填されている。
「これより、第1グループへの一斉投与を開始します」
モニタリング室の空気が、張り詰めた糸のように硬直した。
村上がキーボードに指を添え、数値を読み上げる。
「バイタル、安定。脳内温度、正常。……いつでもいける」
浩がガラスに手をつき、強く頷いた。
「頼む……!」
岸本の合図で、スタッフたちが一斉に動き出した。アルコール綿が当てられ、針先が皮膚を貫く。希望と恐怖が入り混じった液体が、静脈へと流れ込んでいく。洋子の呼吸が浅くなった。
モニターの数字が一斉に動き始めた。
被験者の神経活動、血中濃度、そして結晶密度指数。
全てのデータが奔流となって画面を埋め尽くす。
洋子は祈るように胸元を握りしめ、画面中央の「結晶構造図」を凝視した。
最初は何も起きない。むしろ結晶の揺れが激しくなった。不安がよぎった瞬間――「変化あり!」スタッフの一人が叫んだ。
「被験者番号003、および007の脳波パターンに変化! 結晶の振動数が……同調を始めました!」
全員の視線が一点に集中する。
崩れかけていた結晶の輪郭が、ふわりと光を帯びた。破壊の輝きではない。何かが内側から支え、包み込んでいくような――。
「……数値、安定域に入ります!」
モニタリングスタッフの声が、興奮で裏返った。
メインモニターに映し出された十個の六花結晶のグラフ。そのすべてが、まるで春の訪れを告げる蕾のように、ふわりと柔らかく開き始めていた。
それまで無秩序に崩れ、あるいは硬直して死にかけていた結晶構造が、ワクチンに含まれる「情動模倣パターン」を受け入れ、しなやかなリズムで脈打ち始めたのだ。
それは、雪の冷たさに凍えていた記憶が、再び体温を取り戻していく過程そのものだった。
洋子は目を見開き、モニターに映し出される変化を凝視した。結晶の枝が、まるで呼吸をするかのように伸縮している。崩れかけていた中心核が、徐々に輪郭を取り戻していく。
「オキシトシン濃度、上昇中!」「セロトニンも同様。神経伝達物質のバランスが急速に改善中!」「記憶結晶密度指数、003で四十二から六十五パーセントへ! 上昇が止まりません!」
村上が003の脳内映像を拡大した。画面いっぱいに広がった結晶は、美しい対称性を取り戻しつつある。「信じられない……たった五分で」
浩は固唾を飲んで見守った。理論上は予測していた反応だが、実際に目の当たりにすると、喜びと畏怖が入り混じる。人間の脳は、こんなにも強靭なのか。
「全被験者、バイタル安定!」
岸本の声がインカムから響いた。
「心拍、血圧、体温、すべて正常範囲内です。拒絶反応の兆候は見られません!」
その報告に、モニタリング室内に小さなどよめきが起きた。安堵と、期待と、まだ信じ切れない驚きが入り混じった空気。
ガラスの向こう、クリーンルームの中に変化が現れたのは、それから数分後のことだった。
最初に反応したのは、虚ろな目をしていた老女だった。彼女はゆっくりと瞬きをし、周囲を見渡した。しわくちゃの掌を見つめ、震える唇を開く。「……あ……」次の瞬間、視線が洋子たちへ向けられた。「……思い出したわ。孫の誕生日プレゼントを、買いに来たんだった」その瞳には、確かな意思と愛情の光が宿っている。「赤いマフラーを。あの子が寒くないように」
洋子の目に涙が溢れた。それを拭う暇もなく、次の変化が起きる。
その言葉を皮切りに、奇跡の連鎖が始まった。
隣で頭を抱えていた中年男性が、顔を上げた。その目から涙がこぼれる。「……洋子。そうだ、妻の名前は洋子だ。なんで忘れてたんだ」彼は何度も妻の名前を呼んだ。「洋子……すまない……」
若い母親に付き添われていた少女も、不安げな表情を消し、母親の手を握り返して笑顔を見せた。
「お母さん。……私、お腹すいた」
「ええ……ええ、そうね」母親が泣き崩れる。「帰ったら、温かいもの食べようね」
母親は娘を抱きしめ、その小さな頭を何度も撫でた。娘の体温が、確かにそこにあることを確かめるように。娘が自分を覚えていてくれることに、ただただ感謝するように。
別のシートでは、杖をついていた老人が、目を覚ましたように周囲を見回していた。付き添っていた女性――娘が、恐る恐る声をかける。
「お父さん……?」
「ああ」
老人は穏やかな表情で娘を見た。
「あかり。……心配かけたな」
「お父さん!」
娘は父の手を握り、号泣した。その涙は、もう不安の涙ではなく、喜びの涙だった。
モニタリング室は静かな感動に包まれた。洋子は口元を手で覆い、嗚咽を堪えた。自分の脳内で起きた現象が、他人の脳内でも再現された。このワクチンが「個人の奇跡」ではなく、「人類共通の希望」になった瞬間だった。
スタッフたちも、皆一様に目を潤ませていた。データを打ち込む手が震えている者もいた。冷静であるべき科学者たちが、今は一人の人間として、この奇跡に心を動かされていた。
「見たか、洋子」浩が濡れた瞳でモニターを見つめたまま言った。「これが人間だ。雪がどれだけ降り積もろうと、きっかけさえあれば記憶は熱を取り戻す」彼はガラスに掌を押し当てた。
「おかえりなさい」
その言葉は、モニタリング室にいる全員の心を代弁していた。
岸本から通信が入る。『第1グループ、全員改善。副作用なし。第2、第3グループへの投与を開始します』彼女の声は、隠しきれない喜びで震えていた。『あなたたちの勝利です』「まだ勝ったわけじゃない。でも、ありがとう」
洋子も頷いた。勝利という言葉は、まだ早い。けれど、確かに一歩前進した。大きな、確実な一歩を。
その後の数時間は、まるで早回しの映画を見ているようだった。
次々と運び込まれる被験者たち。
投与。
そして訪れる、劇的な覚醒の瞬間。
第2グループ、第3グループと進むにつれて、スタッフたちの動きにも余裕が生まれてきた。最初の恐怖と緊張は、確信と希望に変わりつつあった。
村上が各グループのデータを統合している。「第2グループ、有効率99.1パーセント。第3グループ、98.5パーセント。驚異的だ」彼は画面を見つめた。「これほどの有効率は、他に類を見ない」
ある者は失っていた職場の記憶を取り戻して安堵し、ある者は忘れていた約束を思い出して慌て出し、ある者はただ静かに、自分の存在がここにあることを噛み締めていた。
第5グループの中に、スーツ姿の若い会社員がいた。彼は目を覚ますと、すぐにポケットから手帳を取り出し、ページをめくった。
「そうだ……明日、プレゼンがあるんだった。資料は……確か、デスクの左の引き出しに」
彼は安堵の表情で手帳に何かを書き込み始めた。仕事という日常が、彼にとっての生きる証だった。
第7グループの中年女性は、付き添いの家族に抱きついて泣いていた。
「ごめんなさい……あなたたちのこと、忘れるなんて。本当にごめんなさい」
「いいんだよ、お母さん。もう大丈夫だから」
息子が母の背中を優しく撫でる。家族の絆が、再び繋がった瞬間だった。
隔離区画のホールは、いつしか「病院」というよりは、長い旅から帰還した人々を迎える「空港の到着ロビー」のような、温かく、少し騒がしい喜びに満ちていた。
そこにあるのは、死への恐怖ではなく、生への執着と感謝だった。
洋子は廊下を歩きながら、その光景を目に焼き付けていた。泣いている人、笑っている人、ただ呆然としている人。百人百様の反応があった。けれど、その全員に共通しているのは、「戻ってこられた」という安堵だった。
「洋子さん」
岸本が近づいてきた。彼女の白衣には、長時間の作業で生じたしわが刻まれていたが、その表情は晴れやかだった。
「お疲れ様でした。あなたの勇気が、この結果を生んだんです」
「いえ……私だけじゃありません。みんなで」
洋子は首を横に振った。
「浩くんも、村上さんも、岸本先生も。ここにいる全員が、この奇跡を起こしたんです」
岸本は微笑み、洋子の肩を軽く叩いた。
「謙虚ですね。……でも、その通りです。これは、チームの勝利です」
夕刻。
100名全員への投与が完了し、すべてのデータが出揃った頃、窓の外はすでに暗くなっていた。
だが、研究室のメンバーの誰も、疲れを感じてはいなかった。
村上が集計データをスクリーンに投影する。
「有効率、98.7パーセント。……驚異的な数字だ。残りの数名も、回復傾向にある。これはもう、臨床試験の域を超えている」
彼は眼鏡を外し、充実感に満ちた顔で言った。
「これは『治療』だ。我々はついに、雪に対する完全な対抗策を手に入れたんだ」
スクリーンには、被験者全員の回復曲線が表示されていた。どのグラフも、投与後に急激な上昇を示している。記憶結晶密度指数、認知機能スコア、神経伝達物質のバランス。すべてが正常範囲へと回帰していた。
浩はその数値を見ながら、深く息を吐いた。
「次は量産だ。この結果を政府に報告し、緊急承認を得る。そして……」
彼は窓の外を見た。
「この国中に、いや、世界中に届ける」
洋子は浩と共に、窓辺に立った。
外は夜の闇に包まれ、相変わらず白い雪が降り続いている。
街灯の光に照らされたその雪は、美しくもあり、そして恐ろしくもあった。
この壁一枚隔てた外側では、まだ何百万人もの人々が、記憶を失う恐怖に怯えながら夜を過ごしているのだ。
東京だけでも数百万の人口がある。日本全体では一億人以上。そして世界には七十億を超える人々が暮らしている。この臨床試験で救えたのは、たった百人。大海の一滴にも満たない。
けれど、その一滴が、やがて大河になる。洋子はそう信じていた。
「……浩くん」
洋子は静かに言った。
「ここだけで終わらせちゃダメだよね」
「ああ」
浩は力強く頷いた。
「100人を救っただけじゃ、勝ったことにはならない。……この雪に覆われた全ての人を救い出して、初めて俺たちの研究は終わる」
二人の決意は、もはや揺るぎないものになっていた。
その時、ドアが開き、岸本が入ってきた。
彼女の手には、政府高官との通話を終えたばかりの端末が握られている。
「承認が降りました」
彼女は短く告げた。その瞳は、もはや迷いなく未来を見据えていた。
「国家非常事態宣言に基づく、ワクチンの緊急大量生産および広域散布計画……通称『ムネモシュネ・レイン』。自衛隊と連携し、明日未明より開始します」
「ムネモシュネの……雨」
洋子がその名を繰り返す。
記憶の女神の雨。それは、忘却の雪を溶かし、地上に降り注ぐ慈愛の滴。
「空から撒くのか?」浩が問う。
「ええ。人工降雨装置を搭載した大型機で、成層圏からワクチン成分を含んだ雨を降らせます」
岸本は窓の外の雪を睨みつけた。
「雪が空から降ってくるなら、私たちも空から対抗する。……この国のすべての空を、私たちの色に塗り替えるのです」
浩は洋子の肩を抱き、ニヤリと笑った。
「最高じゃないか。……科学者冥利に尽きる大実験だ」
洋子も微笑み返した。
「うん。……忙しくなるね、浩くん」
二人は窓ガラスに手を触れた。
冷たいガラスの向こうにある白い世界。
そこへ向かって、二人の体温を伝えるように。
戦いは、守る戦いから、取り戻す戦いへ。
人類の反撃の狼煙は、静かに、しかし確実に上げられた。




