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雪の哲学  作者: 唯野眠子
19/29

第19話「臨床試験の倫理」

季節という概念が死に絶えてしまったかのような、曖昧で灰色の朝だった。窓の外では、今日も変わることなく白い雪が降り続き、世界の輪郭を静かに削り取っている。気象研究棟の最上階にある大会議室だけが、外界から隔絶された密室のように、重苦しく淀んだ空気を抱え込んでいた。

会議室は広く、天井も高い。しかし、その空間は圧迫感に満ちていた。窓から差し込む灰色の光が、室内を冷たく照らしている。暖房は効いているはずなのに、どこか冷え切っているように感じられた。

机の上に並べられたのは、『第二世代ワクチン・臨床試験申請書』と記された分厚いファイルだ。ここ数日の不眠不休の作業を経て、動物実験では驚くべき成果が出た。マウスの脳内における記憶結晶の安定化、副作用の欠如、そして何より、外部からの強制的な六花結晶化圧力に対する柔軟な防御反応。

そのファイルには、無数のグラフと数値が記載されている。何百時間もの実験データ。何千回もの測定結果。全てが、このワクチンの有効性を証明していた。

科学的なデータは、これ以上ないほど完璧だった。しかし、それを人間という複雑怪奇なシステムへ適用するための扉――「倫理委員会」という名の扉は、予想以上に重く、冷たく閉ざされていた。

科学と倫理。データと人権。その二つは、時として相容れない。今、その矛盾が、この会議室に集約されていた。

重厚なドアが静かな音を立てて閉まると、室内は一瞬、冬の外気よりも冷たい沈黙に包まれた。その音は終わりを告げる鐘のようで、もう後戻りはできないという現実を突きつけた。

長い楕円形のテーブルを挟んで、この国の科学行政を握る委員たちが座っている。彼らの表情は一様に硬く、その目は書類の数字よりも、その背後にある「責任」という文字を睨みつけていた。

委員は五人。全員が白髪混じりで、長年の経験を積んだ専門家たちだ。医学、倫理学、法学、社会学。それぞれの分野から選ばれた、この国の知性の代表。しかし、その知性が今、障壁となっている。

中央の席には、開発チームの代表として村上、岸本、そして浩。三人は背筋を伸ばし、委員たちと向き合っている。その表情は緊張しているが、同時に強い決意も滲んでいた。

村上は手元の資料を何度も確認している。データに間違いはないか。説明に不備はないか。完璧を期すために、最後の確認を繰り返す。

岸本は冷静な表情を保っているが、その目には鋭い光がある。政府の代表として、そして科学者として、彼女は最善を尽くす覚悟を決めていた。

浩は拳を握りしめている。焦りと苛立ちが、その手に現れている。時間がない。一刻も早く、ワクチンを人々に届けなければならない。しかし、その前に、この壁を越えなければならない。

洋子は少し離れた補助席に身を置き、白い照明の下で静かに姿勢を正していた。彼女の膝の上で組まれた手は、白衣の布地を強く掴んでいる。

洋子は委員たちを見つめていた。彼らは真剣だ。人命を預かる責任を、深く理解している。だからこそ、簡単には承認できない。その気持ちは、理解できる。しかし、それでも――。

洋子は自分の胸に手を当てた。ここに、心臓がある。鼓動がある。生きている証がある。それは、ワクチンによって守られた。その事実を、どうやって伝えればいいのか。

「……報告書は読ませてもらった」

沈黙を破ったのは、白髪の委員長だった。彼は老眼鏡の位置を直し、手元の資料を指先で叩いた。その乾いた音が、室内の緊張をさらに高める。

委員長の声は低く、重かった。長年の経験が、その声に権威を与えている。この人物の判断が、全てを決める。開発チームは、それを理解していた。

「第二世代ワクチン、『Mnemosyne Ver.2.0』……。確かに、画期的な前進だ。第一世代のような脳機能の凍結ロックダウンは見られず、マウスの認知機能も正常に保たれている。観測データも極めて安定していると言えるだろう」

委員長の言葉は、一定の評価を示していた。データは認められている。科学的には、問題ない。しかし、その後に続く言葉を、浩たちは予感していた。

そこまで言って、彼はゆっくりと顔を上げ、浩たちを見据えた。その目は厳しく、妥協を許さない。

「だが、人体への投与となれば、次元が違う話だ。君たちも分かっているはずだ。脳というブラックボックスに、化学的に手を加えることの意味を」

委員長の言葉は、核心を突いていた。マウスと人間は違う。動物実験の成功が、人体での成功を保証するわけではない。特に、脳という最も複雑な器官については。

浩は唇を噛んだ。分かっている。その通りだ。しかし、時間がない。完璧なデータを待っていたら、手遅れになる。


「分かっています」

浩が身を乗り出すようにして答えた。その声は力強く、確信に満ちていた。

「ですが、このワクチンは従来の向精神薬とは根本的に異なります。脳の化学組成を変えるのではなく、記憶結晶という『構造』に対し、物理的な柔軟性を与えるものです。リスクは最小限に抑えられています」

浩の言葉には熱がこもっていた。なぜなら、彼は知っているからだ。数日前、自分と洋子の体を使って実証したあの感覚――雪の中で感じた、あの鮮烈なほどの思考の明瞭さと、守られているという安心感。あの成功体験が、彼の背中を押していた。

浩の脳裏には、あの日の記憶が鮮明に蘇る。屋上で、吹雪の中に立った瞬間。恐怖がなかった。頭がクリアだった。洋子が笑顔で手を握ってくれた。その全てが、ワクチンの効果を証明していた。

しかし、公式には「未承認の自己実験」は伏せられている。あくまで動物実験のデータとして説得しなければならないもどかしさが、彼の焦りを加速させた。

浩は歯がゆさを感じていた。最も説得力のある証拠を、提示できない。自分たちの体験こそが、何よりの証明なのに。それを言えないジレンマが、彼を苦しめていた。

「構造に柔軟性を与える、か」

別の委員、神経科学の権威である初老の男性が、疑わしげに眉を寄せた。彼の名札には「田中教授」と書かれている。日本の脳科学をリードしてきた人物だ。

「聞こえはいいが、それは『記憶の変質』を許容するということではないのかね? 記憶結晶の構造は個体差が極めて大きい。マウスでは安定していても、人間のような複雑な情動を持つ個体において、予期せぬ"揺らぎ"が発生する可能性は否定できない」

田中教授の指摘は、科学者としての慎重さから来るものだった。彼は何十年も脳の研究に携わってきた。その経験が、楽観を許さない。

彼は眼鏡を外し、疲れたように目をこすった。その仕草に、長年の研究の重みが感じられた。

「十年後、二十年後……このワクチンを打った人々の記憶がどう変化するか。あるいは、人格そのものが変容してしまうリスクはないのか。誰にも保証できないはずだ」

田中教授の言葉は、重かった。時間軸の問題。それは、誰も答えられない問いだった。未来は、誰にも分からない。

その指摘はもっともだった。科学者として、彼らの慎重さは正しい。村上も、その点については理解していた。彼自身、同じ懸念を抱いていたのだから。

だが、岸本は冷静さを保ちつつ、鋭い口調で切り返した。彼女は立ち上がり、会議室の空気を一変させた。

「おっしゃる通り、長期的な影響についてのデータは存在しません。未来を予言することは科学ではありませんから」

岸本の声は明瞭で、妥協しない強さがあった。彼女は委員たちを一人一人見回した。

彼女は立ち上がり、プロジェクターに映し出された地図を指し示した。赤いエリアが、虫食いのように広がっている。消失現象の分布図だ。

その地図は、衝撃的だった。赤い点が、日本中に散らばっている。そして、その密度は日に日に増している。データは、容赦なく現実を突きつけていた。

「しかし、私たちには『十年後』を心配する時間すら残されていないのです。見てください。消失現象は指数関数的に加速しています。昨日まで隣にいた人が、今日には『いなかったこと』になる。このまま手をこまねいていれば、副作用を懸念する対象者そのものが、この世界から消え失せてしまう」

岸本の指が地図を指す。その一つ一つの赤い点が、消えた人々を表している。何千、何万という人々が、既に失われている。

岸本の言葉は、会議室の空気を鋭く切り裂いた。委員たちは、その地図を凝視していた。否定できない現実が、そこにある。

「私たちは今、完璧な安全性を議論している場合ではありません。座して滅びを待つか、リスクを承知で生存の道を探るか。……これは、種の存亡をかけたトリアージなのです」

岸本の言葉は、極限の選択を突きつけた。完璧を求めて全てを失うか、不完全でも生き延びる道を選ぶか。その二択しかない。

委員たちは沈黙した。誰も反論しなかったが、誰も賛同の声を上げなかった。責任という重石が、彼らの唇を封じていた。もしこのワクチンが薬害を引き起こせば、承認した彼らの名は歴史に汚点として残るだろう。しかし、承認しなければ人類が消えるかもしれない。

委員長は顔を伏せていた。その肩が、重い責任に押し潰されそうになっている。彼の手は震え、資料を握りしめている。

他の委員たちも、それぞれに葛藤していた。正しい選択とは何か。その答えが、見つからない。

その天秤の釣り合いは、あまりにも残酷だった。どちらを選んでも、誰かが犠牲になる。完璧な答えなど、存在しない。

重苦しい停滞が場を支配する中、浩は拳を握りしめた。

(俺たちは、大丈夫だった。洋子も、俺も、記憶を保ったままここにいる。それが何よりの証拠じゃないか……!)

喉まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。言いたい。叫びたい。しかし、それはできない。

今ここで「無許可の人体実験を行いました」と告白すれば、倫理委員会は即座に解散し、研究そのものが凍結される恐れがある。それは、世界を見捨てることと同義だ。

浩は唇を噛んだ。血の味がする。しかし、その痛みで、辛うじて冷静さを保っている。

委員長が深いため息をつき、顔を上げた。その表情には、深い疲労と苦悩が刻まれていた。

「……議論は平行線だ。君たちの危機感は理解する。だが、我々は国家の医療倫理を預かる身だ。『時間がないから』という理由だけで、未知の領域へアクセルを踏み込む許可は出せない」

委員長の声は、決定的だった。拒否。それが、彼の結論だった。

彼は冷徹に言い放った。

「より確実な、そして長期的な安全性を担保できる追加データが必要だ。……例えば、特殊な条件下での、限定的なモニタリング観察などだ」

その言葉は、事実上の却下を意味していた。追加データ。それを集めるには、何ヶ月も、あるいは何年もかかる。その間に、どれだけの人が消えるのか。

「そんなことをしている間に!」

浩が耐えきれず叫び声を上げた。椅子を蹴って立ち上がり、テーブルに手をついた。

「今この瞬間にも、誰かの大切な記憶が、名前が、顔が消えているんです! 追加データなんて待っていたら……」

浩の声は、感情で震えていた。怒り、悲しみ、焦燥。全てが混ざり合い、言葉となって溢れ出る。

「では、誰が責任を取るんだ!」

委員長もまた、声を荒らげて机を叩いた。その音が、会議室に響き渡る。

「もし被験者の人格が崩壊したら? 記憶が二度と戻らなくなったら? その人生を、君が背負えるのかね!」

委員長の叫びも、また真実だった。責任。その重さは、計り知れない。

怒号が響き渡り、そしてふっつりと途切れた。あとに残ったのは、空調の低い唸り音と、絶望的なまでの隔絶感だけだった。壁にぶつかった。論理と倫理の壁。それを突破するためには、データの束ではない、もっと根源的な「覚悟」を提示する必要があった。

その時だった。

今まで石像のように動かなかった補助席の人物が、静かに立ち上がったのは。白衣の衣擦れの音が、静寂の中でやけに大きく響いた。


「……私が、やります」

その声は、会議室の空気を一瞬にして凍りつかせた。

洋子はまっすぐに委員長を見据えていた。その瞳には、恐怖も迷いもなく、ただ透き通った冬の湖面のような静けさだけがあった。その表情は穏やかで、しかし揺るぎない決意に満ちていた。

会議室の全員が、一斉に洋子を見た。驚き、困惑、そして畏敬。様々な感情が、委員たちの表情に浮かんでいる。

「洋子!」

浩が弾かれたように立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。その手は力強く、洋子を引き留めようとしている。

「何を言ってるんだ! 君はまだ回復したばかりだぞ。またあんな……記憶が崩れる恐怖を味わうつもりか!」

彼の悲痛な叫びが室内に響く。浩の手は震えていた。ようやく地獄の淵から引き戻した大切な人を、再び実験台に乗せるなど、到底受け入れられることではない。

浩の目には涙が浮かんでいた。あの日の恐怖が、鮮明に蘇る。白い世界に沈んでいく洋子。消えかける命。それを、もう一度経験するなど、考えただけで胸が締め付けられる。

村上も立ち上がり、洋子に歩み寄った。その表情には、心配と困惑が混ざっている。

「洋子さん、落ち着いて。これは君一人で背負うべき問題じゃない。他の方法を――」

しかし、洋子は静かに浩の手を解いた。その動作は優しかったが、確固たるものだった。誰にも止められない。その意志が、その動作に表れていた。

「浩くん。……だからこそ、私がやるしかないの」

彼女は諭すように、穏やかな声で言った。その声には、迷いがない。既に決めたことなのだ。

「私は一度、向こう側の景色を見た。記憶が雪に溶けていく感覚を知っている。……そして、そこから戻ってくる方法も知っている。この世界で唯一、私だけがワクチンの効果を『内側』から正確に実証できるサンプルなの」

洋子の言葉は、論理的だった。しかし、それは冷たい論理ではない。温かい、人間的な論理だった。自分にしかできないことがある。だから、やる。それだけのことだ。

浩は言葉を失った。洋子の言っていることは、正しい。科学的に、最も合理的な選択だ。しかし、感情が、それを認めたくない。

洋子は再び委員たちに向き直った。その背中は小さいが、揺るぎない強さがあった。

「あなた方が恐れているのは、未知のリスクでしょう。被験者が廃人になり、責任を問われることでしょう。……なら、私がそのリスクをすべて引き受けます」

洋子の声は、会議室に響き渡った。委員たちは、その言葉を一言一句、逃さずに聞いている。

彼女は胸元のIDカードを握りしめた。そこには、彼女の名前と所属が記されている。研究者としての証明。

「私は被験者であると同時に、このワクチンの開発者の一人です。自分の体に何を投与し、その結果どうなるか。その全てを観察し、記録し、たとえ失敗してもデータとして残す。……それが私の、科学者としての最後の仕事です」

洋子の言葉は、覚悟に満ちていた。「最後の仕事」――その言葉が、彼女の決意の深さを物語っている。失敗すれば、死ぬかもしれない。それでも、やる。

その言葉の重みに、委員たちは言葉を失った。それは単なる自己犠牲ではない。科学者としての凄まじい矜持プライドだった。自分の命さえも、真実を解明するための道具として使い切るという覚悟。

委員長は、洋子を見つめていた。その目には、複雑な感情が浮かんでいる。驚き、敬意、そして深い葛藤。

田中教授も、眼鏡を外して目頭を押さえていた。長年の研究生活の中で、これほど純粋な科学者の魂を見たことはなかった。

沈黙が続く中、岸本がゆっくりと口を開いた。

「……合理的です」

その声は冷徹だったが、浩には分かった。それが彼女なりの、洋子への最大限の敬意と援護射撃であることを。岸本は、洋子の決意を無駄にしないために、論理で支える。

「被験者第1号に求められる条件は、自身の脳内状態を客観的にモニタリングでき、かつ緊急時に自ら判断を下せる専門知識を持っていること。……彼女以上の適任はいません」

岸本の説明は、明快だった。感情を排した、純粋な論理。しかし、その奥には、洋子への深い信頼がある。

岸本は委員長を見据え、畳み掛けた。その目は鋭く、妥協を許さない。

「彼女が自ら志願し、リスクに対する同意書にも署名する。それでもなお、あなた方は『倫理』を盾に承認を拒みますか? ……彼女の覚悟を無駄にして、座して人類の滅亡を待つことが、あなた方の言う倫理ですか」

岸本の言葉は、委員たちに突き刺さった。倫理とは何か。誰を守るためのものなのか。その根本的な問いが、突きつけられた。


委員長の眉間には深い皺が刻まれていた。彼は洋子の瞳を長い間見つめ、その奥に宿る決意を確かめようとしている。

その沈黙は、永遠にも感じられた。会議室の時計の秒針が、カチ、カチ、と音を立てる。その一秒一秒が、途方もなく長い。

委員長は深く息を吸い込んだ。そして、決断の時が来た。

やがて深く、重い息を吐き出した。

「……特例だ」

彼は苦々しい顔で言った。その声には、葛藤の痕が残っている。簡単な決断ではなかった。しかし、決めるしかなかった。

「第二世代ワクチンの臨床試験を、限定的条件下において承認する。被験者は開発者である彼女一名のみ。……その結果次第で、拡大試験の可否を判断する」

委員長の言葉は、条件付きの承認だった。洋子一人だけ。その結果を見て、次を決める。慎重な、しかし前進する決断。

他の委員たちも、重い表情で頷いた。誰も喜んではいない。しかし、これが最善の選択だと、理解している。

「ありがとうございます」

洋子が深く頭を下げた。その声は、感謝に満ちていた。道が開かれた。それだけで、充分だった。

浩は拳を握りしめ、天を仰いだ。止められなかった。いや、止めてはいけなかったのだ。彼女はもう、守られるだけの存在ではない。共に戦う同志として、最前線に立つことを選んだのだから。

浩は目を閉じた。感情が溢れそうになる。しかし、今は冷静にならなければならない。洋子を支えるために。

村上も深く息を吐いた。緊張が、ようやく解ける。承認された。これで、先に進める。しかし、同時に新たな責任が生まれた。

岸本は小さく頷いた。勝利ではない。しかし、敗北でもない。前進できる。それが、今は重要だった。

「……分かった」

浩は洋子の肩に手を置き、低く告げた。その手は震えていたが、強い意志を持っていた。

「でも、条件がある。モニタリングは俺がやる。……24時間、一瞬たりとも目を離さない。もし少しでも異常が見られたら、俺の判断で実験を中止する。いいな?」

浩の声は、譲れないという強さがあった。洋子を実験台に乗せることは認める。しかし、その安全は、自分が守る。それが、浩にできる唯一のことだった。

洋子は顔を上げ、浩を見て微笑んだ。その笑顔は、安心と信頼に満ちていた。

「うん。……頼りにしてるよ、浩くん」

洋子の言葉は、シンプルだった。しかし、その短い言葉に、全ての想いが込められていた。浩がいれば、大丈夫。その確信が、彼女を支えていた。

二人は互いを見つめ合った。言葉はもう、必要なかった。信頼と絆が、二人を繋いでいる。

会議室を出ると、廊下の窓からは変わらず雪が降り続いていた。だが、その白さはもう、ただの絶望の色ではなかった。

窓の外の景色は、数時間前と変わらない。しかし、見え方が変わった。雪は、もう敵ではない。乗り越えるべき障害だ。そして、その方法が、見えてきた。

「すぐ始めましょう」

村上が早足で歩きながら、タブレットを操作する。その指の動きは素早く、既に準備を始めている。

「ワクチンの調整にはあと二時間。……これが最終決戦だ」

村上の声には、覚悟が込められていた。もう後戻りはできない。前に進むしかない。

「ええ。ドローン部隊への通達も済ませておきます」

岸本が携帯端末を取り出し、どこかへと電話をかけ始めた。その声は冷静で、的確に指示を出している。既に次の段階を見据えている。

四人は並んで廊下を歩いた。その足音は、力強く響いている。迷いはない。恐怖もない。ただ、やるべきことをやる。それだけだ。

洋子と浩は並んで歩いた。言葉は少なかった。けれど、二人の足音は力強く揃っていた。

二人は、互いの存在を感じていた。隣にいる温もり。一緒に歩む安心感。それが、何よりも大きな支えだった。

これから始まるのは、たった一人の人体実験だ。けれどそれは、世界中の人々の記憶を守るための、最初の一歩となる。

洋子は、自分の役割を理解していた。自分が成功すれば、道が開ける。失敗すれば、全てが終わる。その重圧は、計り知れない。しかし、それでも前に進む。

浩もまた、自分の役割を理解していた。洋子を守る。それが、今の自分にできる全てだ。どんな犠牲を払っても、彼女を失うわけにはいかない。

「痛くないといいな」

浩がわざと明るく振る舞うように言った。緊張をほぐすための、不器用な優しさだった。

「大丈夫だよ。……浩くんが手を握っててくれれば」

洋子は悪戯っぽく笑い、そして窓の外を見つめた。その横顔は、穏やかで美しかった。

洋子の心の中で、想いが渦巻いている。恐怖もある。不安もある。しかし、それ以上に、希望がある。

(待ってて。……まだ見ぬ誰かさんたち)

心の中で呼びかける。消失した人々へ。まだ見ぬ被害者たちへ。そして、これから救われる全ての人々へ。

(もうすぐ、この冷たい檻を壊してあげるから)

洋子の決意は、揺るぎなかった。自分が道を開く。その使命感が、彼女を前に進ませていた。

四人は階段を下り、研究棟の深部へと向かった。廊下は静かで、足音だけが響いている。その音が、まるで戦いへ向かう行進のように聞こえた。

研究棟の最深部、臨床実験室の明かりが灯る。雪に閉ざされた世界で、そこだけが赤々と燃える心臓のように、熱く脈打ち始めていた。

その光は、希望の灯だった。人類が、まだ諦めていない証。戦い続ける意志の証。そして、必ず勝つという決意の証。

扉が開かれる。その向こうには、準備の整った実験室が待っていた。機器が並び、モニターが起動している。全てが、洋子を待っていた。

洋子は深呼吸をした。いよいよだ。ここから、本当の戦いが始まる。

浩は洋子の手を握った。その手は温かく、力強い。離さない。絶対に、離さない。

二人は顔を見合わせ、頷き合った。もう、言葉はいらない。

洋子は、実験室へと足を踏み入れた。その一歩が、人類の運命を変える一歩となる。

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