第18話「第二世代ワクチン」
洋子が奇跡的な回復を見せた翌朝。
気象研究棟の研究室には、これまでの数日間に漂っていた、窒息しそうな絶望や徹夜続きの疲労感とは、明らかに異質の空気が流れていた。窓の外では、相変わらず感情を持たない雪が降り続いている。世界を白く均一に塗り潰そうとするその光景は変わらない。だが、部屋の内側にある熱量は、昨日とは決定的に違っていた。
研究室の中は、朝の光で明るく照らされていた。窓から差し込む光は白く冷たいが、室内の照明が温かみを加えている。その光の中で、研究者たちの表情は生き生きとしていた。
希望。それも、単なる願望ではなく、確かなデータに裏打ちされた科学的な希望が、サーバーの駆動音と共に部屋の隅々まで満ちていた。
机の上には、コーヒーカップや資料が散乱している。しかし、それは混乱の証ではなく、活発な議論の痕跡だった。ホワイトボードには、新しい数式や構造図が次々と書き加えられている。
昨夜、洋子の脳内で起きた現象――「強い感情が記憶結晶の結合力を強め、雪の干渉を弾き返す」という事実は、研究チームに衝撃を与えた。それは、彼らの研究の方向性を根本から変える発見だった。
これまで彼らは、雪の「秩序」に対抗するために、同じような「秩序(数式)」で対抗しようとしてきた。完璧な計算。精密な理論。それらが答えだと信じていた。だが、勝機は全く逆の場所にあったのだ。
科学よりも不確かで、数値化できないはずの"心"こそが、最強の防壁になる。その発見は、物理法則の敗北ではなく、新たな領域への扉だった。科学と感情の融合。それが、人類を救う鍵となる。
村上はメインモニターの前で腕を組み、昨夜記録された洋子の脳波ログを何度も再生していた。画面上で、崩れかけた波形が、浩の呼びかけと共に力強く再構築されていく様は、何度見ても圧巻だった。
村上は眼鏡を外し、目を擦った。一晩中このデータを見続けていたが、飽きることがない。むしろ、見れば見るほど、その奇跡的な変化に感動を覚える。
「……奇跡じゃない。これは、再現可能な構造的反応だ」
村上は独り言のように、しかし確信を込めて呟いた。科学者として、彼は「奇跡」という言葉を信じない。全ての現象には、必ず原因がある。そして、原因が分かれば、再現できる。
「浩くんの声に含まれる特定の周波数と、洋子さんの脳がそれに反応して分泌した情動物質。この二つがトリガーとなって、記憶結晶の揺らぎに強力な『逆同調』を与えたんだ。つまり、愛や絆といった抽象的な概念は、脳内では極めて物理的なエネルギーとして機能している」
村上の説明は、詩的な感情を冷徹な科学に翻訳していた。しかし、それは感情の価値を貶めるものではない。むしろ、感情が物理的な力を持つことを証明していた。
岸本が、湯気の立つコーヒーを片手に歩み寄ってきた。彼女の表情からも、昨日までの険しさが消え、研究者としての鋭い知性が戻っている。睡眠不足の跡は残っているが、その目は輝いていた。
岸本は一口コーヒーを飲み、画面を見た。そして、小さく頷いた。データは明確だ。解釈の余地はない。
「ええ。脳内の感情経路……特に、視床下部から大脳辺縁系へ至るオキシトシンやセロトニンの活性化パターンが鍵になります。これらの物質が、六花結晶の結合性を変化させるための"化学的足場"として働いた可能性が高い」
岸本の説明は専門的だが、明確だった。彼女は政府の代表として、また神経科学の専門家として、この現象を理解していた。
彼女は画面上のグラフを指でなぞった。その指の動きは慎重で、データの一つ一つを確認している。
「見てください。情動が活性化した瞬間、結晶の結合角がわずかに変化しています。雪の『硬い六角形』ではなく、外部からの衝撃を吸収して分散させる、柔軟な多面体へと構造シフトしている」
岸本が指し示すグラフには、確かに構造の変化が記録されていた。六角形が、より複雑な形へと変化する。その変化は微細だが、決定的だった。
その会話の少し横で、浩はパイプ椅子に座り、隣にいる洋子の様子をじっと見守っていた。昨夜の今日だ。まだ顔色は少し蒼白く、体調が万全でないことは明らかだった。
浩は洋子の横顔を見つめた。彼女は生きている。昨夜、失いかけた命が、今ここにある。その事実が、まだ信じられないような気がした。
だが、浩の視線は、もはやデータをチェックする科学者の目ではなく、大切な人を二度と手放したくないと願う、一人の男の目だった。時折、彼女が消えてしまわないかを確認するように、そっと彼女の白衣の袖に触れる。
その仕草は無意識のものだった。しかし、その度に、洋子の存在を確認できる。温もりがある。重さがある。呼吸がある。彼女は、確かにここにいる。
洋子は、そんな浩の不器用な優しさを感じながら、自身の手元の端末を見つめていた。頭の中はクリアだった。昨日の恐怖が嘘のように、思考の霧は晴れている。
洋子は深呼吸をした。空気が肺に入り、体中に酸素が行き渡る。生きている実感。それが、今は何よりも尊く感じられた。
画面には、自分の脳波データが表示されている。昨夜、自分がどれほど死に近づいていたか。そのデータが、冷徹に記録されている。しかし、同時に、そこから回復した軌跡も残っている。
「……感情を、化学的に模倣する」
洋子は噛み締めるように呟いた。その言葉には、驚きと、そして一抹の戸惑いが込められていた。
「そんなこと、本当に可能なの? 浩くんが私を呼んでくれた時の、あの胸が焼けるような必死さや……私が感じた安心感。それを、薬で再現するなんて」
彼女の声には、わずかな戸惑いがあった。人間の尊厳に関わる領域に、科学が踏み込むことへの畏れ。感情は、人間を人間たらしめる最も本質的なものだ。それを人工的に作り出す。そのことに、倫理的な葛藤を感じないわけにはいかない。
だが、その瞳の奥には、すでに研究者としての探究心が灯り始めていた。洋子は科学者だった。未知の領域への好奇心を、抑えることができない。
岸本が振り返り、静かに頷いた。彼女は洋子の葛藤を理解していた。自分も、同じ問いと向き合ってきたのだから。
「厳密な意味で、人間の心を完全に再現することは不可能です。それは神の領域でしょう。……ですが、私たちが目指すのはそこではありません」
岸本の言葉は、慎重に選ばれていた。科学の限界を認めながらも、可能性を示す。そのバランスが重要だった。
彼女はホワイトボードに向き直り、マーカーを走らせた。カツカツという音が、静かな室内に響く。
「私たちが再現すべきなのは、感情そのものではなく、"感情が動いたときに脳内で発生する電気的・化学的な反応プロセス"です。結晶が安定化するときに発生する『特異な振動数』さえコピーできれば……愛を知らない脳にも、愛と同じ防御力を与えることができる」
岸本が書いた図は、複雑だが美しかった。脳内の神経回路と、化学物質の流れ。そして、それらが生み出す振動パターン。全てが、一つの調和を作り出している。
洋子は立ち上がり、ホワイトボードに近づいた。その図を見つめ、自分の中で理解を深めていく。感情をコピーするのではない。感情の「効果」をコピーする。その違いは、決定的に重要だった。
研究チームの目的は明確化された。それは、浩と洋子の間にあったような「特別な関係性」を持たない人々――孤独に震え、誰も名前を呼んでくれない人々――をも救うための、"第二世代ワクチン"の開発だ。
世界には、愛されていない人がいる。孤独な人がいる。そうした人々にも、記憶を守る権利がある。たとえ誰も彼らの名を呼ばなくても、彼らの存在は尊いのだ。
第一世代(試作品)が失敗したのは、雪の秩序に対抗しようとして、脳内の結晶をガチガチに固定化してしまったからだ。硬すぎる結晶は、新しい記憶を受け入れられず、ラットを廃人にした。
洋子は、あのラットのことを思い出した。同じ動作を延々と繰り返していた、小さな体。あれは、決して繰り返してはならない失敗だった。
「硬度ではなく、結合力。……そして柔軟性」
浩が呟き、洋子の手を離して立ち上がった。彼もまた、科学者としての顔に戻っていた。しかし、その目には、昨夜の経験が刻まれている。理論だけではない、生きた知識。
「つまり、目指すべきは……『揺れながらも崩れない平衡状態』か」
浩の言葉は、本質を突いていた。完璧な安定ではない。動的な平衡。それこそが、生命の本質だ。
「その通りだ」
村上がパチンと指を鳴らした。その音が、室内に小気味よく響く。
「柳の枝のようなものだ。雪の重みを受けてもしなり、決して折れない。感情が作用したとき、脳内の記憶結晶はその状態になる。この『しなやかな安定性』を、化学的に誘導する」
村上の比喩は、分かりやすかった。自然界には、既に答えがある。柳は、硬い木よりも強い。しなやかさこそが、真の強さなのだ。
「……過剰固定ではなく、動的安定を与える」
洋子が言葉を引き継いだ。科学用語が、自然に口から出てくる。思考が、再び自由に流れている。
「それができれば……記憶を更新する機能を残したまま、雪の侵食だけを防げるはず」
洋子の声には、確信があった。これは、可能だ。難しいが、不可能ではない。理論は見えている。後は、実現するだけだ。
岸本はホワイトボードに大きく円を描き、その中心に新たな構造式を書き加えた。その手の動きは流れるようで、迷いがない。
「オキシトシンの完全再現ではなく、複数の神経伝達物質を組み合わせた"複合的な情動神経活性パターン"を模倣します。……特に、結晶密度指数の上昇を検知した瞬間にだけ反応する、能動的な防御システムとして」
岸本が描いた構造式は複雑だった。しかし、その複雑さこそが、生命の本質を捉えている。単純な答えでは、複雑な問題は解けない。
浩は岸本の横に立ち、その構造式を見つめた。脳内で、計算が走る。可能性を検証し、問題点を探す。しかし、致命的な欠陥は見当たらない。
洋子もまた、構造式を見つめていた。美しい、と思った。科学的に正しいだけでなく、美的にも調和している。それは、良い理論の証だった。
研究室の空気が、再び熱を帯び始めた。それは焦燥感ではなく、正解への道筋が見えた者たちが放つ、静かで力強い情熱だった。
四人は、互いを見た。言葉を交わさずとも、同じ想いを共有している。やれる。やらなければならない。そして、やり遂げる。
外では雪が降り続いている。だが、もう誰もその白さに怯えてはいなかった。
それから三日間、研究室の明かりが消えることはなかった。
長谷川教授が遺した最期の思考ログから抽出された「執着の波形」と、洋子が回復した瞬間の「安堵の波形」。この二つの感情データを、数千通りの組み合わせでシミュレーションし、脳内化学物質の分泌パターンへと翻訳していく作業は、気の遠くなるような精密さを要求された。
研究室は、まるで時間が止まったかのようだった。窓の外では昼と夜が繰り返されているが、室内の蛍光灯は常に点灯し、時間の感覚を失わせている。机の上には、食べかけのサンドイッチやコーヒーカップが積み重なっていた。
モニターには、絶え間なくデータが流れている。波形、数値、グラフ。それらを一つ一つ確認し、調整し、また確認する。その繰り返しが、何日も続いていた。
少しでもバランスが崩れれば、再び「過剰固定」による廃人化を招くか、あるいは効果のないただの水になってしまう。浩と洋子、そして村上は、顕微鏡とモニターの間を往復し、岸本は政府からの矢のような催促を一身に受け止めながら時間を稼いだ。
浩は目を擦りながら、画面を見つめていた。視界が霞み、文字が二重に見える。しかし、休むわけにはいかない。一刻も早く、このワクチンを完成させなければならない。
洋子もまた、疲労の色を濃くしていた。しかし、彼女の目には強い意志が宿っている。自分が救われた奇跡を、他の人々にも届けたい。その想いが、彼女を支えていた。
村上は何度も計算式を見直していた。間違いはないか。見落としはないか。完璧を期すために、何度も何度も確認する。その慎重さが、今は何よりも重要だった。
岸本は電話とメールの対応に追われていた。政府の上層部は、結果を求めている。しかし、焦って失敗するわけにはいかない。彼女は、研究チームを信じて、できる限り時間を稼いでいた。
そして、四日目の夜明け前。
遠心分離機が回転を止め、静かな電子音を鳴らした。その音が、研究室に響き渡る。全員が、一斉にその機械を見た。
「……できた」
浩が、震える手で精製されたばかりのバイアル(小瓶)を取り出した。その手は疲労で震えていたが、同時に興奮でも震えていた。
照明にかざすと、中の液体は無色透明でありながら、光の加減でわずかにオーロラのような揺らぎを帯びて見えた。それは美しく、そして神秘的だった。
第二世代ワクチン、『Mnemosyne Ver.2.0』。論理という骨格に、感情という血液を通わせた、人類最後の希望。
洋子はそのバイアルを見つめた。この小さな瓶の中に、何千時間もの研究が凝縮されている。長谷川教授の想い、浩の愛、そして自分の生への執着。それら全てが、この液体に込められている。
村上は深く息を吐いた。緊張が、ようやく解ける。しかし、まだ安心はできない。これから、最も重要なテストが待っている。
「成分分析、クリア。……構造上の欠陥は見当たりません」
村上が、祈るように分析結果を読み上げた。画面には、完璧なデータが表示されている。理論値との誤差は、許容範囲内だ。
「理論上は、これで脳内の記憶結晶に適度な『遊び』が生まれ、雪からの干渉を柔軟に受け流せるはずだ」
村上の声は冷静だったが、その奥に期待が隠されている。理論は完璧だ。しかし、それが現実でも機能するかどうかは、別問題だ。
だが、それはあくまでシミュレーション上の話だ。実際に生きた人間の脳で、しかも複雑な感情を持つ人間でどう作用するかは、打ってみなければわからない。ラットでの実験は成功した。しかし、人間は遥かに複雑だ。
研究室に、重い沈黙が落ちた。誰が最初の被験者になるのか。その決断が、今、必要だった。
「俺がやる」
浩が迷わず袖をまくり上げた。その動作は素早く、躊躇がない。
「浩くん……」
洋子が止めようとする前に、彼は注射器に液体を吸い上げ、自分の左腕の静脈に針を刺した。ためらいのない、一息の動作だった。
洋子は息を呑んだ。浩の勇気に、感動と恐怖が混ざり合う。もし失敗したら。もし副作用が起きたら。しかし、今は止められない。
薬液が体内に押し込まれていく。透明な液体が、シリンジから消えていく。全員が固唾を飲んで見守る中、浩は一度深く目を閉じ、そして数秒後にゆっくりと開いた。
その数秒が、永遠のように長く感じられた。洋子は呼吸を止め、浩の様子を見守った。村上は拳を握りしめ、岸本は祈るように手を組んでいた。
浩の表情が、ゆっくりと変化していく。驚き、そして安堵。その変化を、洋子は見逃さなかった。
「……どう?」
洋子が恐る恐る尋ねる。その声は小さく、震えていた。答えが怖い。しかし、知らなければならない。
浩は自分の掌を見つめ、何度か握りしめた。その動作を、全員が息を詰めて見守っている。浩の表情を読み取ろうと、必死に観察している。
「……不思議だ」
彼は静かに言った。その声には、驚きと安堵が混ざっていた。
「頭の中が、すごく静かだ。さっきまで頭蓋骨の裏側にへばりついていた、あの嫌な圧迫感が消えた。……でも、思考はクリアだ。昨日の夕飯の味も、教授の笑顔も、全部鮮明に思い出せる」
浩の言葉に、洋子の顔がぱっと明るくなった。成功だ。ワクチンは、機能している。記憶は保たれ、副作用もない。
彼は洋子を見て、力強く頷いた。その目には、確信が宿っている。
「いける。……これは、ただの盾じゃない。記憶を『生き生きと保つ』ための薬だ」
浩の言葉は、このワクチンの本質を突いていた。守るだけではない。記憶を、より鮮明に、より豊かにする。それが、このワクチンの真の力だった。
村上は安堵の息を吐き、椅子に座り込んだ。緊張が解け、全身から力が抜けていく。成功した。何日もの努力が、報われた。
岸本は目頭を押さえた。感動で涙が溢れそうになる。しかし、彼女は涙を堪えた。まだ、やるべきことがある。
「次は私ね」
洋子は浩から注射器を受け取り、自分の腕を差し出した。その動作には、迷いがなかった。
「洋子、無理は……」
浩が心配そうに声をかける。洋子は、つい数日前に死の淵から戻ってきたばかりだ。まだ体調が万全ではないかもしれない。
「ううん、私たちが証明しなきゃ。この薬が、雪に一度囚われかけた人間にも効くってことを」
洋子の声は、確固たるものだった。彼女は、自分が最も適切な被験者であることを理解していた。消失現象を経験した者として、このワクチンの効果を証明する責任がある。
洋子は自ら針を刺した。痛みが走るが、それは一瞬だった。冷たい液体が血管を巡り、脳へと達する。
一瞬、視界が揺らぐような感覚があったが、すぐにそれは温かい安定感へと変わった。まるで、嵐の海で小舟に乗っていた自分が、しっかりとした錨を下ろしたような。波はあるけれど、もう流されることはないという絶対的な安心感。
洋子は目を閉じ、自分の記憶を辿った。母の顔。父の声。友人たちとの思い出。そして、浩との時間。全てが、鮮明に残っている。白い霧は、もうない。
洋子は微笑んだ。成功だ。自分は、取り戻された。そして、これから多くの人々も、取り戻されるのだ。
「……行きましょう」
洋子は白衣の上に厚手のコートを羽織り、防寒ブーツを履いた。その動作は素早く、決意に満ちていた。
「どこへ?」岸本が問う。
「外へ。……実験室の中じゃ意味がないわ。本物の雪の中で、この効果を試さないと」
洋子の提案に、浩は頷いた。その通りだ。管理された環境では、真の効果は分からない。実際の雪の中で、ワクチンが機能するかを確認しなければならない。
二人は重装備に身を包み、屋上へと続く階段を登った。階段を上る足音が、静かな建物に響く。一段一段、上へ。外の世界へ。
鉄の扉を開けた瞬間、轟音と共に猛烈な吹雪が襲いかかってきた。視界のすべてを白く塗り潰す、圧倒的な雪の嵐。気温は氷点下二桁。肌を刺すような寒気が全身を包む。
風が咆哮し、雪が乱舞する。その光景は、まるで世界の終わりのようだった。白一色の世界。それは、数日前までの二人にとって、恐怖そのものだった。
以前の二人なら、この光景を見ただけで脳が共鳴を起こし、激しいめまいや記憶の混濁に襲われていただろう。雪の結晶構造が、視神経を通じて脳をハッキングし、強制的に「白」で上書きしようとしてくるあの感覚。
だが、今は違った。
洋子は強風の中で目を見開き、舞い狂う雪の一粒一粒を見つめた。その一つ一つが、完璧な六角形を描いている。美しい、と心から思った。
(……きれい)
純粋にそう思えた。恐怖はない。頭の中に入り込んでくる不快なノイズもない。目の前の雪は、ただの自然現象であり、自分という存在を脅かすものではなかった。
脳内の記憶結晶が、柳の枝のようにしなやかに揺れながら、雪からの干渉信号をさらりと受け流しているのがわかる。それは、まるで音楽のようだった。調和のとれた、美しいリズム。
洋子は両手を広げ、雪を受け止めた。冷たい。しかし、それはただの物理的な冷たさであり、心を凍らせるものではない。
「浩くん!」
風の音に負けないように、洋子は叫んだ。その声は、喜びに満ちていた。
「平気! 全然、怖くない! 私、私が私のままでいられる!」
洋子の言葉は、勝利の宣言だった。自分を取り戻した。そして、それを守り続けることができる。
隣に立つ浩も、ゴーグル越しに力強い視線を送ってきた。その目は輝き、自信に満ちている。
「ああ! 俺もだ! 教授の記憶も、君との思い出も、何一つ欠けてない!」
浩は空を仰ぎ、降り注ぐ雪に向かって拳を突き上げた。その姿は、戦士のようだった。
「聞こえるか、雪たちよ! もうお前たちの思い通りにはさせない! 人間は、思い出を武器にして戦えるんだ!」
その叫びは、吹雪にかき消されることなく、確かに夜明けの空へと響いた。二人は顔を見合わせ、頷き合った。ゴーグルの奥で、二人の瞳は勝利の確信に燃えていた。
これで戦える。このワクチンがあれば、世界中の人々を「空席」の恐怖から解放できる。そして、すでに消えてしまった人々を――認識の檻から救い出すことができる。
無線機から、岸本の震える声が届いた。
『バイタル、および脳波データ……オールグリーン。記憶保持率、100パーセントです。……やりましたね、あなたたち』
岸本の声は、感動で震えていた。データは完璧だ。ワクチンは、期待以上の効果を発揮している。
『ああ』
浩は無線機のスイッチを押し、冷静に、しかし熱を込めて告げた。
『実験は成功だ。直ちにワクチンの量産と、散布計画フェーズへ移行してくれ。……今日中に、この街の雪を全部溶かすぞ』
浩の言葉は、宣言だった。戦いは終わらない。むしろ、これから本当の戦いが始まる。
空が白み始め、分厚い雲の切れ間から、薄日が差し込んでくる。その光を受けて、二人の周りの雪がキラキラと輝いた。それはもはや、呪いの結晶ではなく、ただの美しい冬の風景だった。人間が、世界を取り戻した瞬間だった。
「戻ろう、洋子」
浩が手を差し出す。その手は、力強く、温かい。
「うん」
洋子はその手をしっかりと握り返した。その手の温もりは、どんな雪よりも強く、二人の記憶を繋ぎ止めていた。




