表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の哲学  作者: 唯野眠子
17/23

第17話「記憶の結合力」

洋子の意識は、重力のない白い海の中を、ゆっくりと沈んでいった。上も下もなく、時間という概念さえ溶けてしまった純白の空間。そこは恐ろしいほど静かで、寒ささえ感じなかった。ただ、自分を構成していたはずの「私」という要素が、砂の城が波にさらわれるように、さらさらと崩れ落ちていく感覚だけがある。

この空間には音がなかった。いや、音という概念そのものが存在しないかのようだった。洋子は自分の心臓の音さえ聞こえないことに気づいた。生きているのか、死んでいるのか。その境界さえ、もはや曖昧だった。

(……名前は、なに?)

思い出せない。自分の名前。それは、自分を自分たらしめる最も基本的な情報のはずだった。しかし、その音が、文字が、意味が、全て霧の中に消えている。

(昨日は、何を食べた?)

わからない。食事をした記憶そのものがない。いや、食事という行為を、自分がしていたのかどうかさえ定かでない。口に何かを運ぶ動作。咀嚼する感覚。それらが、遠い昔の誰かの記憶のように感じられる。

(大切な人が、いた気がする)

その人の顔を思い浮かべようとすると、白い霧が視界を覆い、輪郭をぼかしてしまう。誰か温かい存在。一緒にいると安心できる誰か。その人の名前を呼ぼうとすると、喉が凍りついたように動かない。

洋子は必死に記憶を辿ろうとした。しかし、辿るべき道が見つからない。記憶の糸が、端から順に解けていく。いや、糸そのものが消えていく。繋がりが失われ、全てが断片化していく。

まるで、精緻に組み上げられた六花結晶の枝が、端から順にポキポキと折れ、空中に散っていくようだ。記憶が物理的な形を失い、意味のない光の粒へと還っていく。

洋子は自分が何者だったのかを思い出そうとした。学生? 研究者? 誰かの娘? しかし、どの役割も、今は自分のものとして実感できない。ただの概念として、遠くに浮かんでいるだけだ。

これが「昇華」なのだろうか。痛みはない。苦しみもない。ただ、自分が世界から切り離され、透明な背景の一部になっていく自分が世界の色彩から切り離され、透明な背景へと塗り潰されていく空虚だけが、そこにあった。

孤独――それだけが、唯一感じられる感覚だった。誰もいない。何もない。自分さえも、もうすぐなくなる。その予感が、静かに洋子を包み込んでいた。

白い空間は、どこまでも続いているように見えた。果てがない。境界がない。全てが均質で、全てが同じ。この中では、個というものが存在する意味がない。全てが溶け合い、混ざり合い、最後には一つの白い無に還っていく。

(……これで、いいのかな)

洋子は思った。抵抗する気力さえ、もう失われかけていた。このまま消えてしまえば、楽になれる。苦しみも、不安も、全てが終わる。それは、ある意味で救済なのかもしれない。

しかし、その思考の底に、何か引っかかるものがあった。何か大切なものを忘れている。何か、絶対に手放してはいけないものがあったはずだ。それが何なのか、思い出せない。でも、確かにあった。

「洋子!! 聞こえるか!!」

不意に、その白い膜を切り裂くように、声が響いた。深い水の底に、遥か水面から投げ込まれた石のように、その音は鈍く、しかし強い振動となって洋子の鼓膜を揺らした。

洋子は驚いた。音。この空間に、音が存在した。いや、外から侵入してきた。その音は、この白い世界とは異質のものだった。温かく、荒々しく、生命力に満ちていた。

(……だれ?)

誰かが私を呼んでいる。必死で、喉が裂けんばかりに叫んでいる。その声には聞き覚えがあった。懐かしく、少しぶっきらぼうで、けれど何よりも温かい声。

その声を聞いた瞬間、洋子の中で何かが動いた。凍りついていた感情が、僅かに溶け始める。この声を、知っている。大切な人の声だ。

それが「浩」という名前を持つ存在だと認識するまでに、永遠にも似た時間がかかった気がした。名前という概念を取り戻し、その音を意味と結びつけ、そして記憶の断片を拾い集める。その全ての過程が、途方もなく困難だった。

浩。その名前を認識した瞬間、洋子の意識に小さな光が灯った。それは微かな光だったが、確かにそこにあった。真っ白な世界の中で、唯一の色を持つ光。

音が遠い。視界の端が白く点滅し、世界が薄い膜で覆われていく。自分が人間の形を保てなくなり、一枚の薄い雪片になって、冷たい風の中へと溶けていくイメージが脳裏をよぎる。

洋子は抵抗しようとした。消えたくない。まだ、ここにいたい。しかし、体が動かない。声も出ない。ただ、意識だけが、かろうじて残っている。

(……だめ……)

消えかけていた自我が、最後の力を振り絞って抵抗した。それは本能的なものだった。生きたいという、原始的な欲求。

(……消えたく……ない……)

声になっているのかさえ、わからなかった。口を動かす神経さえ、もう雪に埋もれて凍りついているようだった。しかし、その想いだけは、確かに存在していた。消えたくない。浩のそばにいたい。その想いが、最後の抵抗となって、白い世界に抗っていた。


現実の研究室では、制御不能の警告アラームが鳴り響いていた。その音は甲高く、容赦なく、鼓膜を削るようなその高音は、生存の領域が刻一刻と削り取られていく秒読みの音だった。

モニターに映し出された洋子の脳波データは、見るも無惨な形に乱れていた。かつては美しい六角形を描こうとしていた波形が、今は外部からの強烈な「秩序圧」に押し潰され、中心から粉々に砕け散ろうとしている。

画面上のグラフは暴走していた。赤い警告ラインを何度も突き破り、異常値を示し続けている。それは、一つの生命が消滅しようとしている瞬間を、冷徹に記録していた。

「ダメだ、止まらない!」

村上が頭を抱えて叫んだ。彼の声は悲鳴に近かった。長年の研究経験の中でも、これほど絶望的な状況は初めてだった。

「記憶結晶の揺らぎが限界値を超えた! 中心核の崩壊が始まってる。このままじゃ、彼女の自我はあと数分で完全に霧散する!」

村上の指がキーボードを叩く。しかし、どんな操作も、状況を変えることはできない。暴走する数値を前に、村上の指先はキーボードの上で凍りついた。知識という武器をすべて奪われた、敗残者の指だった。

画面上のグラフは、赤い危険域を突き抜け、乱高下を繰り返している。それは、一人の人間の精神が死を迎えるカウントダウンそのものだった。数字が一つ減るたびに、洋子という存在が薄れていく。

岸本もまた、血の気の引いた顔で端末を操作していた。彼女の手は震え、普段の冷静さは完全に失われている。国家の危機管理を担う彼女でも、目の前で一人の命が消えようとしている現実には、動揺を隠せなかった。

逆同調カウンター・シンクの出力、最大! ……ダメです、弾かれる。結晶密度指数が高すぎて、ワクチンの信号が届かない!」

彼女の声に焦燥が滲む。端末のディスプレイには、拒絶を示す赤い表示が点滅している。開発したばかりのワクチンは、この状況では全く役に立たない。

「崩壊を止めるには、揺れ動く記憶の断片を強力に繋ぎ止める『凝固剤』のような力が必要ですが……そんなもの、今の科学では……!」

岸本の言葉は、諦めの響きを帯びていた。科学の限界。それが、今ここに突きつけられている。人類の叡智を結集しても、一人の命を救えない。

科学的な手段は、すべて尽きた。理論も、計算も、彼女を救う役には立たなかった。モニターは冷徹に、洋子の死を予告し続けている。

その絶望的な状況の中で、浩だけはモニターを見ていなかった。彼は椅子から転げ落ちるようにして洋子のそばに膝をつき、ぐったりと垂れ下がった彼女の両手を、自分の両手で強く握りしめた。

浩の視界は熱い膜に滲んでいたが、彼は瞬きさえ拒み、洋子の瞳の奥に潜むはずの光を凝視し続けた。今は、洋子に呼びかけることだけに集中しなければならない。

「洋子……!」

彼女の手は、死人のように冷たかった。体温が失われ、まるで氷の彫刻を握っているかのようだ。その冷たさが、浩の心臓を締め付ける。

だが、浩は諦めなかった。自分の体温の全てを注ぎ込むように、痛いほど強く握りしめる。手のひらが痛む。しかし、その痛みが、今は現実との繋がりを保つ唯一の手段だった。

「聞こえるか。……俺だ、浩だ!」

浩は、彼女の耳元に口を寄せて叫んだ。その声は震え、掠れていた。しかし、そこには強い意志が込められている。

「思い出せ! 昨日の夜、ここで約束しただろ! 俺たちは最後の砦になるって。お前がアイデアを出したんだ、俺たちがチームだって言ったのはお前だろ!」

浩は必死に言葉を紡いだ。二人の思い出を、一つ一つ声にしていく。それが洋子の記憶を繋ぎ止める糸になることを願って。

科学的なデータではなく、生の言葉を。論理ではなく、感情を。浩はなりふり構わず、彼女の魂に直接呼びかけた。機械では届かない場所に、人間の声なら届くかもしれない。その一縷の望みに賭けて。

「俺は、君が必要なんだ。……研究パートナーとしてだけじゃない。君がいない世界なんて、俺には耐えられない!」

その声は、震えていた。感情が溢れ出し、もはや抑えることができない。浩は自分の心の全てを、この言葉に込めた。

だが、その震えこそが、均一化された雪の世界には存在しない、人間特有の「揺らぎ」だった。六花結晶の枝のように細く、しかし決して折れることなく、まっすぐに彼女の意識の深淵へと伸びていく命綱。

完璧な雪の結晶にはない、不完全さ。その不完全さこそが、人間らしさだった。浩の声は、計算されたものではない。感情のままに、言葉を選ばず、ただ必死に叫んでいる。その生々しさが、白い世界への抵抗となった。

村上と岸本は、浩の姿を見ていた。科学者として、彼らは何もできない。しかし、一人の人間として、浩の想いを信じることはできる。二人は黙って、祈るように浩を見守った。

──

洋子の意識の底に、その声は熱を持った塊となって落ちてきた。

(……俺は、君が必要なんだ)

白い光の向こう側で、何かが揺れた。冷たく凍りついていた思考の海に、一滴の熱湯が落ちたかのように、波紋が広がる。

その波紋は、ゆっくりと広がっていく。白一色だった世界に、初めて変化が生まれた。静止していた空間が、動き始める。

――わたしは……だれ?

――わたしは、必要とされている?

その問いが、洋子の意識の中で響いた。必要とされている。その言葉が、何かを呼び起こす。自分は、誰かにとって必要な存在だった。それは、確かな事実だ。

どこからか、温かい記憶の断片が泡のように浮かび上がってきた。不器用な笑顔。徹夜明けに二人で飲んだ、甘すぎる缶コーヒーの味。顕微鏡を覗き込みながら、「きれいだね」と笑い合った時間。雪の降る窓辺で交わした、孤独な約束。

記憶が、色を取り戻し始めた。白かった世界に、少しずつ色が戻ってくる。青い空。緑の木々。そして、浩の笑顔。

それら一つ一つが、バラバラになりかけていたパズルのピースを、磁石のように引き寄せ始めた。記憶が繋がり、形を成していく。洋子という人間の輪郭が、再び浮かび上がってくる。

(……浩くん)

名前が、形を取り戻す。音が、意味を持つ。そして、感情が蘇る。

(そうだ。私は、ここにいたい。この人の隣に、いたい)

その強い想いが、崩れかけた意識の中心に核を作った。それは小さな核だったが、確固たるものだった。消えたくない。浩のそばにいたい。その想いが、全ての記憶を繋ぎ止める中心となった。

「……浩……?」

洋子の口の端から、かすかに、けれど確かな音が漏れた。その声は弱々しかったが、生命の証だった。

その瞬間、脳内の白い光が一瞬だけ濃くなり、そして収束した。崩れかけた六角形の中心から、新たな線が伸び、弱々しいながらも、本来あるべき「私」という形を取り戻し始めたのだ。

──

「……あっ!」

村上が素っ頓狂な声を上げ、モニターを指差した。その声には、驚愕と歓喜が混ざっていた。

「見ろ! データが……反転してる!」

乱高下していたグラフが、奇跡的なカーブを描いて安定域へと戻り始めていた。外部からの圧力に押し潰されるのではなく、内側から押し返すような力が生まれ、波形を力強く支えている。

「記憶結晶の揺らぎが……安定してきている! 外界からの秩序圧は変わっていないのに……むしろ、その圧力に抗って、内部結合が強くなっている!」

村上の声は興奮していた。これは、理論では説明できない現象だった。科学の枠を超えた、何か別の力が働いている。

岸本は目を見開き、信じられないものを見るように画面を凝視した。

岸本は息を止めた。冷徹なデータを書き換えていく未知のエネルギーに、抗いようのない戦慄が彼女の背筋を走った。

「これは……ワクチンの効果ではありません。脳内物質の分泌パターンが、劇的に変化している」

彼女は震える手でデータを解析し、ひとつの結論を導き出した。その手は震えていたが、操作は正確だった。

「オキシトシン、ドーパミン、ノルアドレナリン……。情動に関わる神経伝達物質が、爆発的に放出されています。それらが記憶回路の隙間を埋め、雪の干渉を物理的にブロックしている」

岸本は顔を上げ、浩と洋子の姿を見た。強く握りしめられた手と手。そこに、答えがあった。

「……情動刺激による"結晶結合力の増加"。……計算外でした。強い感情は、数学的モデルよりも強固な……まるで、記憶を繋ぎ止める『接着剤』になる」

岸本の言葉は、科学者としての驚嘆と、人間としての感動が入り混じっていた。

浩はまだモニターを見ていなかった。ただひたすらに、目の前の洋子の瞳の中に、戻りつつある光を見つめていた。

「洋子……!」

彼はもう一度、祈るように彼女の手を握り直した。


「……浩くん」

その声は、雪解け水のように静かに、けれど確かに研究室の空気を震わせた。

浩は弾かれたように顔を上げ、洋子の顔を覗き込んだ。閉じられていた彼女の瞼が、ゆっくりと震え、開かれる。その瞳の奥にあった白い霧は消え去り、いつもの理知的で、少し潤んだ黒い瞳が、しっかりと浩を捉えていた。

浩は息を呑んだ。洋子の瞳に、光が戻っている。あの虚ろな、焦点の合わない目ではない。確かに、そこに洋子がいる。彼女が、戻ってきた。

「……戻ったのか?」

浩の声が震える。信じられない、という驚きと、安堵と、そして溢れ出す感情が混ざり合っていた。

洋子は小さく頷き、自分の頬に触れている浩の手を、弱々しい力で握り返した。その手は冷たかったが、確かな生命の温もりがあった。

「うん。……聞こえたよ。浩くんの声が、命綱みたいに私を引っ張り上げてくれた。……『必要だ』って言ってくれたこと、全部」

洋子の声は掠れていたが、その言葉ははっきりとしていた。記憶が戻っている。意識が明瞭だ。彼女は、本当に帰ってきたのだ。

洋子の目には涙が浮かんでいた。白い世界から戻ってきた安堵と、浩の想いに応えられた喜びが、涙となって溢れ出してくる。

浩は、糸が切れたように崩れ落ち、洋子の肩に額を押し付けた。緊張の糸が切れ、堰を切ったように感情が溢れ出す。

「よかった……。本当によかった……」

男泣きする彼の背中を、洋子は優しく撫でた。その掌には、確かな体温と、自分が自分であるという安堵感が戻っていた。浩の背中は震え、嗚咽が漏れている。洋子は何も言わず、ただ彼の背中を撫で続けた。

二人の間には、言葉では表せない深い絆があった。死の淵から引き戻された洋子と、必死に彼女を呼び戻した浩。その体験が、二人の関係をさらに深いものにしていた。

村上と岸本は、少し離れた場所から、二人の姿を静かに見守っていた。その表情には、安堵と、そして深い感動が浮かんでいる。科学者として、そして人間として、彼らは今、奇跡を目の当たりにしていた。

しばらくして、浩は顔を上げた。目は赤く腫れ、涙の跡が残っているが、その表情には安堵の色が濃く浮かんでいた。

「……信じられません」

岸本が、モニターのデータを呆然と見つめたまま呟いた。彼女の声には、驚嘆と困惑が混じっていた。

「見てください。今の洋子さんの脳内データ……。浩さんの声が届いた瞬間、バラバラになりかけていた記憶の断片が、異常な速度で再結合しています。それも、以前より遥かに強く、柔軟な構造で」

岸本は画面を凝視していた。そこに表示されているデータは、彼女の科学的知識では説明できないものだった。しかし、それは確かに起きている。

画面上の波形は、もはや雪の結晶のような硬直した六角形ではなかった。中心には強固な核がありながら、その周囲を温かな光の粒子が不規則に舞い、外部からの衝撃を受け流す「ゆらぎ」を持った、美しくも複雑な形を描いている。

それは、自然界の生命が持つ構造に似ていた。完璧ではないが、それゆえに柔軟で強靭だ。外部からの力を受け流し、しなやかに適応する。

村上は眼鏡を外し、目頭を押さえた。感動で視界が滲んでいる。長年の研究生活の中で、これほど美しいデータを見たことはなかった。

「これが……答えだ」

村上が、震える手で眼鏡の位置を直した。その声には、興奮と確信が込められていた。

「我々が求めていた『カオス』の正体は、ランダムなノイズなんかじゃなかった。……『感情』だ」

彼は浩と洋子を振り返り、興奮を隠せない様子で早口にまくしたてた。その目は輝き、科学者としての好奇心と情熱が燃え上がっている。

「論理や理性は、雪と同じ『秩序』の産物だ。だから雪に同調しやすい。だが、誰かを想う気持ち、失いたくないという執着、愛や恐怖……そういった『感情エモーション』は、計算不可能な熱量を持つ。その熱だけが、冷たい雪の結晶構造を溶かし、あるいは歪ませて、記憶を定着させる『かすがい』になるんだ!」

村上の説明は、興奮のあまり早口になっていた。しかし、その内容は明確だった。彼らが探し求めていた答えが、ここにあった。

洋子は体を起こし、まだふらつく足でモニターの前に立った。浩が慌てて彼女を支える。洋子は浩に微笑みかけ、大丈夫だという意思を示した。

そこに映る、自分の心が描いた波形。それは、雪よりも温かく、人間臭い形をしていた。完璧ではない。しかし、それが美しかった。

「……私たちが失敗したのは、きれいな数式で雪に対抗しようとしたからなんだね」

洋子は画面に触れた。その指先が、ガラスの表面をなぞる。

「雪が『忘れろ』と命じる冷徹なプログラムなら、私たちは『忘れたくない』と叫ぶ、泥臭い人間性をぶつけなきゃいけなかった」

洋子の言葉は、シンプルだが真実を突いていた。完璧さで勝負するのではない。不完全さこそが、人間の強さなのだ。


浩が涙を拭い、立ち上がった。その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。絶望から希望へ。暗闇から光へ。その転換が、彼の目に力を与えていた。

浩は洋子の目を見た。そこには、同じ決意の光が宿っている。二人は言葉を交わさずとも、互いの想いを理解していた。

「洋子。……ワクチンのコアにするデータは、もう決まったな」

浩の声は、確信に満ちていた。もう迷いはない。進むべき道が、はっきりと見えている。

「うん」

洋子は力強く頷いた。その表情には、研究者としての決意と、人間としての温かさが混ざり合っていた。

「長谷川教授の最期のログデータ。……あの中には、科学者としての論理だけじゃなく、死への恐怖と、それでも真実を残そうとした強烈な『執念』が焼き付いている。あの熱量こそが、最強の抗体になる」

洋子の言葉は、長谷川教授への敬意に満ちていた。教授は最後まで戦った。その戦いの記録が、今、人類を救う鍵となる。教授の犠牲は、決して無駄ではなかった。

浩は深く頷いた。教授の思いを、無駄にはしない。その決意が、彼の心を支えていた。

「やるぞ」

浩はコンソールに向かい、キーボードを叩き始めた。その指の動きは正確で、迷いがない。

「試作品『Mnemosyne』のアルゴリズムを書き換える。逆位相の波形に、教授の『感情ログ』をノイズとして意図的に混入させるんだ。……計算された不完全さ。論理と感情のハイブリッド結晶を作る!」

浩の声は興奮していた。科学者として、これほど革新的な試みはない。完璧を目指すのではなく、不完全さを設計する。その矛盾した行為が、今は最も理にかなっている。

画面には、プログラムコードが次々と流れていく。浩の指が止まることなく、新しいアルゴリズムを入力していく。その速度は驚異的だった。

研究室は、熱狂的な空気に包まれた。先ほどまでの絶望は消え去り、代わりに希望と興奮が満ちている。岸本も村上も、それぞれの持ち場で全力を尽くした。

岸本は通信端末を操作し、政府との連絡を取っている。その手は素早く、的確だった。

「政府への承認申請、パスしました!」岸本が叫ぶ。「最終実験の許可が降りました。散布用ドローン部隊、スタンバイ!」

岸本の声には、達成感と期待が込められていた。官僚的な手続きを、驚異的な速度で通過させた。彼女の政治的な手腕が、ここで発揮された。

村上は自分のコンソールでデータを解析している。複数のモニターが並び、それぞれに異なるグラフが表示されている。

「生成プログラム、コンパイル中……」村上がモニターを睨む。「感情データの同調率、上昇。……すごいぞ、波形が生き物みたいに脈打っている!」

村上の声は興奮していた。長年の研究生活の中で、これほど生命力を感じるデータを見たことはなかった。数字とグラフが、まるで生きているかのように動いている。

洋子は浩の隣で、生成されていくワクチンの構造図を見つめていた。画面には、リアルタイムで変化していく分子構造が表示されている。

無機質だった幾何学模様が、教授のデータを取り込み、有機的で力強い螺旋構造へと進化していく。それは美しく、そして力強かった。まるで、DNAの二重螺旋のように。

それはもはや単なる薬品ではない。「人間であること」そのものを結晶化した、希望の塊だ。科学と感情が融合し、新しい生命を生み出したかのようだった。

洋子は画面を見つめながら、長谷川教授に心の中で語りかけた。教授、あなたの想いが、今、形になろうとしています。あなたの最後の戦いが、多くの人を救います――。

時間が過ぎていく。しかし、その時間は苦痛ではなかった。希望に満ちた、創造の時間だった。研究室の全員が、一つの目標に向かって全力を尽くしている。

浩の指が、最後のコマンドを入力する。エンターキーを押す直前、彼は一瞬だけ躊躇した。これで本当に良いのか。しかし、すぐにその迷いを振り払った。信じるしかない。

「……できた」

数十分後、浩がエンターキーを叩いた。その音が、研究室に響き渡る。

画面中央に、《Mnemosyne Ver.2.0 - COMPLETE》の文字が輝く。完成したワクチンのデータは、青く、そしてどこか懐かしい暖色を帯びて光っていた。

その色は、冷たい雪の白とは対照的だった。温かく、生命力に満ちた色。人間の心の色。

「これが、俺たちの答えだ」

浩が、万感の思いを込めて言った。その声は震えていたが、力強かった。

「雪よ、見ていろ。人間の記憶は、お前たちが思うほど冷たくも、脆くもない」

浩の言葉は、挑戦状だった。雪に対する、人類からの宣戦布告。もう逃げない。もう屈しない。戦う準備はできた。

洋子は窓の外を見た。夜明けが近い。東の空がわずかに白み始め、その光の中で、相変わらず無数の雪が降り続いている。世界を白く塗り潰そうとする圧倒的な力。

その光景は、数時間前と変わらない。しかし、洋子の心は変わっていた。胸の奥を凍らせていたおりは霧散し、代わりに静かな熱が、指先の震えを確かな力へと変えていた。

けれど、もう怖くはなかった。こちらの掌には、その白さを溶かすための「熱」がある。人間の感情という、計算できない熱量が。

洋子は自分の手を見た。この手で、多くの人を救える。消失した人々を、取り戻せる。その確信が、彼女の心を満たしていた。

「行こう、浩くん」

洋子は白衣を翻し、出口へと歩き出した。その足取りは力強く、もう迷いはなかった。

「このワクチンを、雪に囚われたすべての人に届けるの。……教授にも、空席になってしまった人たちにも」

洋子の声は、決意に満ちていた。この戦いは、もう個人的なものではない。人類全体のための戦いだ。

「ああ」

浩もまた、上着を掴んで彼女に続いた。二人は並んで歩き、互いの存在を確認し合う。

「取り戻しに行こう。俺たちの世界を」

浩の言葉は、誓いだった。失われた記憶を、消えた人々を、そして人間らしさを。全てを取り戻す。

二人は重い扉を開け、朝の光が差し込む廊下へと踏み出した。その足取りは、もはや迷いなど微塵もなく、確かな未来へと向かう力強さに満ちていた。雪との最終決戦が、今、始まろうとしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ