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雪の哲学  作者: 唯野眠子
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第16話「洋子の危機」

研究棟の長い廊下は、まるで氷河の底に穿たれたトンネルのように、青白く、静まり返っていた。窓の外から差し込むのは、太陽の暖かさを一切失った、鉛色の雪明かりだけだ。洋子はその薄暗がりの中を、資料室へ向かって歩いていた。

コツ、コツ、という自分のヒールの音が、やけに遠く、他人事のように響く。その音は廊下の壁に反響し、まるで誰か別の人間が後ろを歩いているかのような錯覚を生んだ。洋子は一度だけ振り返ったが、そこには誰もいなかった。

ここ数日の不眠不休の研究で、体は限界を超えていたはずだ。けれど、頭の中は不思議なほど静かだった。まるで、脳の皺の隙間に降り積もった雪が、あらゆる思考のノイズを吸音してしまっているかのように。

洋子は自分の体が妙に軽いことに気づいていた。足が地面を踏みしめている感覚が、どこか曖昧だ。まるで、自分が実体を失いかけているような、奇妙な浮遊感があった。

廊下の両側には、閉ざされた研究室のドアが並んでいる。その一つ一つに貼られた研究者の名前が、洋子の視界を流れていく。知っている名前、知らない名前。しかし、どれも今は等しく意味を持たない文字の羅列に見えた。

ふと、洋子は足を止めた。何かが、落ちた気がした。

物理的な音はしなかった。ポケットから物が落ちたわけでもない。けれど、脳内の風景から、パズルの一ピースが音もなく滑り落ち、暗い底へと消えていったような、胸の奥にぽっかりと穴が空き、そこをひやりとした隙間風が通り抜けたような感覚に襲われた。

それは、明確な痛みではなかった。むしろ、痛みがあるべき場所に何もない、という奇妙な感覚だった。存在していたものが、突然なくなった。その空白を、洋子の意識が必死に探ろうとしている。

「……あれ?」

洋子は立ち止まり、自分の両手を見た。手ぶらだ。白衣のポケットを探る。スマートフォン、ボールペン、IDカード。いつもの持ち物はそこにある。だが、強烈な違和感が拭えない。

何か大切なものを、忘れている。いや、忘れたのではない。持っていたはずのものが、消えた。そんな確信があった。

(私、今……何をしに行こうとしてたんだっけ?)

資料室へ向かっていたのは間違いない。廊下の突き当たりにあるドアが、目的地だということは分かっている。けれど、何の資料を取りに行くつもりだったのか。つい数秒前まで、頭の中で反芻していたはずの「目的」が、きれいさっぱりと消え失せている。

洋子は額に手を当てた。冷たい汗が滲んでいる。こんなことは、今までなかった。疲れていても、眠くても、少し考えれば思い出せた。それが、今は何も浮かんでこない。

思い出そうと意識を集中させる。いつもなら、記憶の糸を手繰り寄せればすぐに答えは見つかるはずだ。しかし今は、糸の先がぷつりと切れていて、その先が真っ白な霧に覆われている。

洋子は深呼吸をした。落ち着け、と自分に言い聞かせる。ただの疲労だ。少し休めば、思い出せる。そう信じたかった。

「……嘘」

洋子は小さく呟き、壁に手をついた。その手は震えていた。足先から感覚が凍りつき、どろりとした冷たい何かが背筋を伝って心臓へ手を伸ばしてきた。

ただのド忘れではない。疲労によるボンヤリとも違う。もっと根本的な、脳の回路そのものがショートして焼き切れたような、不可逆的な断絶の感覚。

洋子は研究者だった。自分の脳で何が起きているのか、理論的には理解していた。記憶結晶の崩壊。雪の干渉による、記憶の昇華。それは、他の誰かに起こることだと思っていた。まさか、自分に――。

(さっきまで……私は何かを持っていたはず)

コーヒーの紙コップ? それとも、浩くんに頼まれた観測データのファイル? その「何か」の輪郭さえも、急速に溶けていく。まるで、窓の外の雪が、私の頭の中にも降り込んで、記憶の凹凸を白く埋め尽くしていくようだ。

洋子は壁に寄りかかった。膝が震え、立っているのがやっとだった。視界が揺れ、廊下の景色が歪んで見える。

窓の外を見ると、雪が降っている。完璧な六角形の結晶たちが、無数に舞い落ちている。その一つ一つが、まるで洋子の記憶を吸い上げていくかのように見えた。

「……大丈夫、大丈夫……」

洋子は震える唇で、自分に言い聞かせるように繰り返した。喉の奥に、小さな痛みが灯る。紙を破く前の、ほんのわずかな裂け目のような痛み。

(疲れてるだけ。昨日、あんな残酷な実験を見たから。徹夜続きで、神経が過敏になってるだけ……)

そう思いたかった。だが、視界の端で六花結晶の幻影が揺れるたびに、現実感が波のように引いていく感覚は、ごまかしようがなかった。自分が自分であるための足場が、砂のように崩れていく。

洋子は自分の名前を心の中で呟いた。私は洋子。気象学を研究している。浩くんと一緒に、雪の結晶を研究している。その基本的な事実は、まだ残っている。しかし、それがいつまで保たれるのか、確信が持てなかった。


「洋子!」

廊下の向こう側から、切羽詰まった声が響いた。その声は、洋子の意識を現実へと引き戻す錨のようだった。

ハッとして顔を上げると、浩が小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。彼は手荒く白衣を翻し、息を切らせている。荒い呼吸を整えようともせず、強張ったまま引き攣る頬が、ただならぬ切迫を物語っていた。

洋子は浩の姿を見て、ほっとした。誰かがいる。一人じゃない。その安心感が、彼女の震える心を少しだけ落ち着かせた。

「洋子! 資料室にはいなかったけど……探してたんだ。村上さんが、ワクチンの組成データについて確認したいって」

浩は洋子の前で立ち止まり、彼女の顔を覗き込んだ。その瞬間、彼の表情が変わった。心配の色が、一気に濃くなる。

「……おい、どうした? 顔色が真っ白だぞ」

浩の声には、明らかな不安が滲んでいた。洋子の様子が、尋常ではないことに気づいている。

洋子は何か言おうとして、口を開いた。しかし、言葉が喉に引っかかって出てこない。彼の質問に答えるための単語が、見つからないのだ。言いたいことはある。でも、それを表現する言葉が、頭の中から消えている。

(ワクチンの……データ?)

その単語の意味はわかる。昨日、私たちが命がけで作ろうと決めたものだ。でも、それを私がどうするつもりだったのか。何のために、ここに来たのか。その繋がりが、見えない。

洋子は自分の記憶を必死に探った。しかし、そこにあるべきものが、ぽっかりと抜け落ちている。まるで、本の中から大事なページが破り取られたように。

「……浩くん」

やっとのことで絞り出した声は、掠れて震えていた。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。

「私……あれ? 資料……持ってたよね?」

洋子は虚空を掴むように、自分の空っぽの手を彼に見せた。その手は震え、何かを探すように宙を彷徨っている。

「さっきまで、ここに……大事なファイルを……持ってた気がするんだけど……」

洋子の声は、次第に小さくなっていった。自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。持っていた? 本当に? それとも、ただの思い込み?

浩の表情が、瞬時に凍りついた。彼は洋子の手元と、その虚ろな瞳を交互に見た。そこにあるのは、日常的な「忘れ物」への呆れではない。研究者として、もっとも恐れていた事態に直面した時の、絶望に近い認識だった。

浩の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼の目が大きく見開かれ、唇が僅かに震えている。洋子は、その表情を見て、自分の状態がどれほど深刻なのかを悟った。

「……洋子、こっちへ来い」

浩の声が低くなった。それは、平静を装おうとしているが、低く抑えられた声の端々に、張り詰めた弦が今にも千切れそうな危うさが混じっていた。彼は洋子の腕を強く、痛いほど強く掴んだ。

その手の温もりと力強さが、洋子に現実感を取り戻させた。痛い。この痛みは本物だ。自分はまだ、ここにいる。

「え、でも、資料が……」

洋子は反射的に抵抗しようとした。何か大切なものを、忘れている気がする。このまま行ってしまっては、いけない気がする。

「いいから! 戻るぞ、すぐに!」

彼は有無を言わせぬ強引さで、洋子の手を引いて歩き出した。まるで、廊下に漂う白い冷気から彼女を引き剥がし、彼女自身が霧散してしまうのを防ごうとするかのように。

洋子は引っ張られるまま、浩と一緒に廊下を走った。後ろを振り返ると、自分が立っていた場所には、何も残っていなかった。ただ、窓から差し込む白い光だけが、床を照らしている。

研究室に戻り、重い防火扉がバタンと閉められた。外の世界の音が遮断され、サーバーの低い唸り声だけが響く密室。その音が、洋子には異様に大きく聞こえた。

浩は洋子を椅子に座らせると、すぐに彼女の両肩を掴んで、正面から向き合った。その手は震えているが、同時に強い意志を持っていた。

「洋子。俺の目を見ろ」

浩の瞳は、必死な色を帯びていた。その目には、恐怖と、そして諦めない決意が混ざり合っていた。

「今から質問する。落ち着いて答えてくれ」

浩の声は、できる限り冷静さを保とうとしていた。しかし、その奥に隠しきれない焦りがある。

「……うん」

洋子は小さく頷いた。心臓の音が、耳元でうるさいほど大きく響いている。自分の鼓動が、こんなにも激しいものだったのかと、改めて気づいた。

「今日の日付は?」

「……12月、18日」

答えられた。その事実に、洋子は少しだけ安堵した。まだ全てを失ったわけではない。

「俺たちの研究テーマは?」

「雪の結晶構造と、記憶の相関性について」

これも答えられる。基本的な情報は、まだ残っている。洋子は、自分の記憶の地図を確認するように、一つ一つ答えていった。

「よし。……じゃあ、昨日の夜、俺たちがここで何をしていた?」

浩は、祈るような眼差しで洋子を見つめた。それは、ほんの数時間前、二人が希望を見出し、固い決意を交わしたばかりの出来事だ。忘れるはずがない。忘れてはいけない、魂の記憶。

浩の手に、さらに力が込められた。その手は、まるで洋子が消えてしまわないように、必死に繋ぎ止めようとしているかのようだった。

洋子は答えようとした。

(昨日の夜……)

脳裏に浮かぶのは、暗い実験室。モニターの光。ラットの異常行動。そして、その後。ホワイトボードの前で、私は何かを提案した。浩くんが賛成してくれて、私たちは新しいプロジェクトを始めた。

その記憶は、まだある。まだ、消えていない。洋子は胸を撫で下ろしかけた。

そのプロジェクトの名前は? 核となるデータは、誰のものだった?

「……ワクチンの開発、だよね?」

洋子はおずおずと答えた。その声は、自信なげだった。

浩の表情がわずかに緩む。まだ覚えている。まだ、大丈夫だ――そう思おうとしている。

「そうだ。そのワクチンのために、誰のデータを使うことになった?」

浩の質問は、核心に迫っていた。最も大切な記憶。それが残っているかどうか。

洋子は口を開きかけたまま、固まった。

(誰の……?)

大切な人。浩くんにとって、かけがえのない恩師。私にとっても、尊敬する先生。顔は浮かぶ。白髪で、柔和な笑顔で、コーヒーの香りがする人。

でも、名前が。名前の文字が、白い霧の向こうに霞んで、どうしても結べない。

洋子は必死に記憶を探った。喉まで出かかっている。舌の上に、その名前の音があるような気がする。でも、それを発音しようとすると、空白になる。

「……えっと……あの、ほら……」

洋子の視線が泳ぐ。冷や汗が背中を伝う。額にも、じっとりとした汗が滲んでいる。

「浩くんの……先生。……大事な……」

そこまで言って、洋子は絶句した。思い出せない。喉まで出かかっているのに、その名前を呼ぼうとすると、脳の一部が空白になっている。まるで、そこだけ消しゴムで消されたように。

「……洋子?」

浩の手から力が抜けていくのがわかった。浩の瞳に灯っていた火がふっと消え、代わりに奈落の底を覗き込むような暗い淀みが広がった。

「嘘だろ……。お前まで……」

浩の声は震え、絞り出すようだった。彼の顔面は、何年も風雨に晒された石像のように硬く、無残にひび割れていた。

洋子は自身の口元を手で覆った。認めたくない現実が、冷たい刃物のように突きつけられていた。私の脳みその中にも、雪が降り始めている。そして、一番大切な場所から順に、白く埋め尽くされようとしているのだ。


「洋子……」

浩の声が震えていた。彼は洋子の両肩を掴んだまま、その瞳の奥を覗き込んだ。そこには、いつもの理知的な光はなく、どこか遠くを見ているような、焦点の合わない虚ろさが漂っていた。まるで、深い雪の底に沈んでいく人を見ているようだった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、透明で分厚い氷の壁に隔たれて、声も体温も届かない。

浩は洋子の瞳を見つめ続けた。その瞳の中に、彼女の魂がまだ残っているかを確認するように。しかし、見れば見るほど、そこにいるのは知っている洋子ではないような気がしてきた。形は同じなのに、中身が少しずつ失われていく。その恐怖が、浩の心を締め付けた。

「浩くん、私……変だよね?」

洋子は泣きそうな顔で、自分のこめかみを押さえた。その手は震え、まるで頭蓋骨の中で何かが暴れているのを抑えようとしているかのようだった。

「頭の中が、白いの。吹雪いてるみたいに真っ白で……大事なことが、どんどん埋もれていくの。さっきまで覚えていたはずの『先生の名前』も、『ワクチンのこと』も……雪かきをしても追いつかないみたいに、すぐに消えちゃう」

彼女の訴えは、あまりにも切実で、そして具体的だった。それは単なる健忘ではない。脳内の神経回路が、物理的に雪の結晶構造へと書き換えられ、本来あるはずの情報が上書きされている感覚なのだろう。

洋子の説明を聞きながら、浩は科学者としての冷静さを保とうとした。しかし、それは不可能だった。目の前で起きているのは、データや数値の異常ではない。大切な人が、目の前で消えていこうとしているのだ。

浩は歯を食いしばった。

(俺のせいだ)

後悔が、鋭い棘となって胸を刺す。昨日、ワクチンの失敗に打ちのめされた時、俺は彼女に頼りすぎた。彼女の鋭敏すぎる感受性が、雪の異常を感知し、解決の糸口を見つけたことに甘えてしまった。

その感受性こそが、彼女を雪と「共鳴」させやすい状態にしていたというのに。彼女は自らの精神をアンテナにして、雪の深淵を覗き込んでいたのだ。深淵を覗く者が、深淵に見返されるように、彼女の脳もまた雪に捕捉されてしまった。

浩は拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが走る。しかし、その痛みは、今感じている罪悪感に比べれば些細なものだった。洋子を守るべきだった。彼女の異常に、もっと早く気づくべきだった。

「……怖くない、怖くないぞ」

浩は自分に言い聞かせるように、そして洋子を安心させるように、強く言葉を紡いだ。しかし、その声は震えていた。自分の恐怖を隠しきれない。

「洋子、聞いてくれ。絶対に君を手放さない。どれだけ記憶が揺らいでも、俺が全部覚えてる。君が忘れたことは、俺が何度でも教える。……だから」

彼は洋子の冷え切った手を、両手で包み込んだ。その手は驚くほど冷たく、まるで雪そのものに触れているかのようだった。浩は必死に自分の体温を伝えようとした。

「消えたりなんかしない。君はここにいる。俺の目の前に」

浩の言葉には、必死さが滲んでいた。それは、自分自身を納得させるための言葉でもあった。洋子は消えない。消えさせない。その意志を、言葉にすることで強固にしようとしている。

彼の手の温もりが、洋子の震えをわずかに止めた。確かに、ここには体温がある。浩くんの声がある。洋子はその事実にすがろうとした。

だが、同時に残酷な予感が、冷徹な計算式のように脳裏をよぎった。洋子は科学者だった。感情ではなく、論理で物事を理解してしまう。そして、その論理が、今は最も残酷な真実を突きつけてくる。

(……ダメだよ、浩くん)

洋子の瞳が揺れる。その目には、諦めにも似た悟りが浮かんでいた。

(浩くんがどれだけ「覚えておこう」としても……それは無駄なの)

なぜなら、記憶の消失は「情報の欠落」ではない。「構造の崩壊」だからだ。器そのものが壊れてしまえば、どれだけ水を注いでも溜まることはない。

洋子は自分の研究を思い出した。記憶結晶の理論。脳内の神経回路が形成する構造そのものが、記憶の基盤だ。その構造が崩れれば、情報は保持できない。何度教えても、何度思い出させても、それを受け止める器がもう存在しないのだ。

そして何より、浩くん自身だって安全ではない。彼もまた、この白い世界に囚われた観測者の一人なのだから。雪は、誰をも区別しない。科学者も、学生も、子供も、老人も。等しく、その記憶を奪っていく。

「……浩くん」

洋子は、掠れる声で言った。その声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。

「あなたの記憶だって……いつかは崩れちゃうんだよ……。私のこと、忘れちゃうんだよ……」

その言葉は、浩の心に深く突き刺さった。洋子が言っていることは、正しい。論理的には、その通りだ。しかし、それを認めることはできない。

「忘れない! 絶対に忘れない!」

浩は叫ぶように否定した。その目には涙が溜まっていた。感情が溢れ出し、もはや抑えることができない。

「前兆の兆候が見えるなら、逆に好機なんだ。今、君の脳内で起きている『雪との共鳴』をリアルタイムで解析できれば……君の記憶結晶の崩壊を止めるための、本当のワクチンの手がかりも見つかるはずだ」

それは科学者としての希望的観測だった。けれど、今の二人にはその細い糸にすがるしかなかった。論理ではなく、感情が、そう信じることを求めていた。

浩の言葉には、必死さと、そして一縷の希望が込められていた。洋子の症状を、チャンスに変える。そう考えることで、この絶望的な状況に意味を見出そうとしている。


「そう……かな……」

洋子は力なく微笑もうとしたが、頬が引きつってうまく笑えなかった。唇が震え、表情を作ることさえ困難になっている。体の制御が、少しずつ効かなくなっているような感覚があった。

「そうだよ。君は、俺たちが守る。村上さんも、岸本さんもいる。……俺たちはチームだろ?」

浩の言葉には、強い意志が込められていた。一人ではない。仲間がいる。その事実を、何度も確認するように。

「チーム……」

洋子はその言葉を口の中で転がした。懐かしい響き。温かい響き。その言葉には、共に戦ってきた仲間たちの記憶が詰まっているはずだった。

でも、その言葉に紐付くはずの「仲間の顔」が、また一つ、白い霧の向こうに霞んでいく。岸本さんって、誰だっけ? 村上さんって、どんな顔をしてたっけ?

洋子は必死に思い出そうとした。つい数時間前まで、一緒に研究していた人たち。しかし、その顔が浮かんでこない。名前は聞いたことがある気がする。でも、どんな人だったのか。どんな声だったのか。何も思い出せない。

恐怖が、再び波のように押し寄せる。記憶が失われるスピードが、加速している。さっきまで残っていたものが、今はもう消えている。この調子では、いつまで浩くんのことを覚えていられるだろうか。

洋子は目を閉じた。瞼の裏の暗闇の中で、無数の六花結晶が舞っているのが見えた。美しく、残酷な幾何学模様。それらが、私の記憶の断片――幼い頃の風景、読んだ本の行間、浩くんと飲んだコーヒーの味――を一つずつ取り込み、凍らせていく。

結晶は回転しながら、洋子の記憶を吸収していく。母の顔。父の声。友人たちとの笑い声。大学での講義。初めて雪の結晶を顕微鏡で見た時の感動。全てが、透明な結晶の中に閉じ込められ、そして消えていく。

結晶が回転するたびに、私の「色」が失われ、透明な「無」に変わっていく。洋子という人間を形作っていた、無数の記憶と経験。それらが、ひとつずつ剥がれ落ちていく。

(嫌だ、消えたくない)

(浩くんのことを、忘れたくない)

心の中で叫んでも、雪は止まらない。思考の結び目が、ゆっくりと、しかし確実にほどけていく。洋子は自分が洋子でなくなっていくのを、ただ感じることしかできなかった。

洋子は浩くんとの思い出を必死に辿った。初めて会った日。一緒に研究室で過ごした日々。深夜まで議論した夜。しかし、その記憶は次々と色褪せていく。鮮やかだった映像が、セピア色になり、そして白黒になり、最後には真っ白になっていく。

「……ねえ、浩くん」

洋子は目を開けずに、問いかけた。その問いかけが、浩にとってどれほど残酷な刃物になるかを知らずに。

「私、昨日……何を話したっけ……?」

その一言が、研究室の静寂を切り裂いた。浩の息が止まる。時間が凍りついたように感じられた。

「……え?」

浩の声は、信じられないという響きだった。まさか、そんなはずは。しかし、洋子の表情は真剣だった。

「昨日……ここで、何か大事なことを決めた気がするの。……でも、思い出せないの。ワクチンのこと? それとも、晩御飯の話?」

洋子の言葉は、あまりにも無邪気で、それゆえに残酷だった。彼女は本当に分からないのだ。昨日の夜、二人が共有した希望に満ちた時間を。

浩は言葉を失った。ほんの数時間前だ。昨日の夜、この部屋で、俺たちは希望を見つけたはずだ。長谷川教授のデータを使って、新しいワクチンを作ろうと誓い合った。

あの時の洋子の目は輝いていた。絶望から立ち上がり、新たな道を見出した喜びに満ちていた。二人で肩を並べ、ホワイトボードに向かって計画を練った。その全てが、彼女の中から消えている。

「洋子……お前が、アイデアを出してくれたんだぞ」

浩の声が震える。感情を抑えようとしているが、もはや無理だった。

「『逆同調』だ。教授のデータを使って、雪に対抗しようって……笑いながら、修正案を言い合ったじゃないか」

浩は必死に、あの時の情景を言葉にした。洋子に思い出してもらいたい。あの時間が、二人にとってどれほど大切だったかを。

「……そう、だったかな」

洋子は困ったように眉を寄せた。浩の言葉を聞いても、記憶は蘇らない。まるで、他人の話を聞いているような、現実感のなさ。

「ごめんね。……どうしても、思い出せないの。まるで、誰か知らない人が話していたみたいに……遠いの」

洋子の言葉は、悪気のないものだった。しかし、それが浩にとっては何よりも辛かった。

浩は、心臓を素手で握り潰されたような痛みを感じた。彼女の中から、「昨日の夜」が丸ごと消滅している。あんなに熱く、希望に満ちていた時間が、彼女にとっては「存在しなかった時間」になっている。

共有していたはずの歴史が、一方的に断ち切られる孤独。これが「消失」か。誰かが消えるというのは、姿がなくなることじゃない。その人と積み上げた時間が、一方的に無効化されることなんだ。

浩は、ようやく理解した。長谷川教授が消えた時に感じた孤独。世界中で自分だけが教授を覚えている、という絶望。それが今、洋子との間で起きている。

「……っ!」

浩は、行き場のない感情を叩きつけるように、机の端を強く掴んだ。ミシリ、と天板が悲鳴を上げる。指に力を込めすぎて、関節が白くなっている。

「……わかった。大丈夫だ」

彼は歯を食いしばり、涙を堪えて洋子に向き直った。泣いてはいけない。今、自分が崩れてしまったら、洋子を支えられない。

「思い出せなくてもいい。記録は残ってる。データもある。……俺が何度でも説明するから」

浩の言葉には、強い決意が込められていた。洋子の記憶が失われても、自分が覚えている。それを、何度でも伝える。そうすることで、洋子との繋がりを保ち続けることができる。

浩は立ち上がり、洋子を椅子ごと守るように抱きしめた。その腕は強く、まるで彼女が消えてしまわないように、必死に繋ぎ止めようとしているかのようだった。

「今は、何も考えなくていい。少し休め。脳を休ませるんだ」

浩の声は優しかったが、その奥には深い悲しみが隠されていた。

「……うん。ごめんね、浩くん」

洋子は彼の腕の中で、小さく頷いた。その体は、雪女のように冷たかった。体温が失われていくような、生命力が薄れていくような感覚があった。

浩は彼女の頭を撫でながら、心の中で誓った。

(間に合わせてみせる)

(洋子が完全に「空席」になってしまう前に……この雪を止める)

その誓いは、祈りにも似ていた。神にも、運命にも、この世界にも。洋子を奪わないでくれ、と。

窓の外では、依然として無慈悲な雪が降り続いている。その白さは、世界を美しく飾るものではなく、すべてを無に帰すための虚無の色だった。

研究室のモニターには、洋子の脳波を示すグラフが表示されていた。その波形は、刻一刻と、あの不気味な「六角形」のパターンへと近づきつつあった。有機的な揺らぎが失われ、機械的な規則性が増していく。それは、洋子が洋子でなくなっていく過程を、冷徹に示していた。

浩は洋子を支えながら、そのグラフを睨みつけた。敵は、彼女の頭の中にいる。そして、空の上にいる。この世界すべてが敵になろうとも、この腕の中のぬくもりだけは、絶対に奪わせない。

終わりの始まりを告げるように、風が窓ガラスを激しく叩いた。二人の長い夜は、まだ明けない。


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