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雪の哲学  作者: 唯野眠子
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第14話「ワクチン開発の着想」

気象研究棟の第一会議室は、これまでとは明らかに異なる、重く澱んだ空気を帯びていた。部屋の隅々まで満ちているのは、疲労と焦燥、そして行き場のない閉塞感だ。窓の外では、感情を持たない細い雪が静かに、しかし執拗に降り続いている。ガラス越しに見える世界は、昨日よりもさらに白く、輪郭を失っていた。建物も、木々も、空さえも、すべてが均一な「無」へと塗り潰されていくようだ。

会議室のテーブルには、過去三日間の観測データが印刷された資料が山積みになっていた。誰かがめくった跡があり、ページの端には赤いペンで書き込まれたメモが残っている。コーヒーカップもいくつか置かれていたが、中身は冷え切り、表面には薄い膜が張っていた。誰も片付ける余裕がないのだ。

壁に掛けられた時計の針は、午前十時を指していた。通常なら、朝の活気に満ちているはずの時間帯だ。しかし今、この部屋に集まった人々の表情には、夜勤明けのような疲労と緊張が刻まれていた。

洋子は、会議室の中央に置かれたホワイトボードの前に立っていた。その手には、昨夜一睡もせずにまとめ上げた資料の束が握られている。紙の端が、指先の湿気でわずかに波打っていた。喉の奥で、言葉が重たい鉛のように固まっている。これから自分が口にしようとしていることは、単なる科学的な仮説ではない。人間の精神という聖域に、土足で踏み込むような提案だ。

洋子は深呼吸をした。胸の中で、心臓が早鐘のように打っている。手のひらには汗が滲み、資料が湿っていくのが分かった。このアイデアを思いついた時、彼女は興奮と同時に恐怖を感じた。これは本当に正しい道なのか。それとも、取り返しのつかない過ちを犯そうとしているのか。

視線の先には、仲間たちが座っている。パイプ椅子に深く腰掛け、腕を組んで目を閉じている村上。政府との調整に追われ、携帯端末を片時も手放さない岸本。そして、一番近くに座る浩。

彼の顔色は、ここ数日で急激に悪化していた。伸びた無精髭と、目の下に刻まれた濃い隈。恩師である長谷川教授を「世界から消された」という事実は、彼の心を深く抉り、同時に凄まじい執念の火を点けていた。彼は今、溺れる者が藁をも掴むような眼差しで、洋子を見つめている。

その視線が、洋子の背中を押すと同時に、責任の重さとしても圧し掛かってきた。ここにいる全員が、何か突破口を求めている。自分の提案が、それになり得るのか。それとも、間違った方向へ導いてしまうのか。

会議室の空気は重く、誰も口を開こうとしない。沈黙が長く続くほど、その圧力は増していく。洋子は資料を握りしめた手に力を込めた。もう後戻りはできない。

「……洋子?」

沈黙が痛くなる寸前で、浩が声をかけた。声は掠れていたが、そこには信頼の色があった。

「話があるって言ってただろ。……始めていいよ。俺たちは、どんな突飛な理論でも聞く準備はできてる」

その言葉に背中を押され、洋子は深く息を吸い込んだ。肺の中に入ってきた冷たい空気が、震える心をわずかに鎮める。六花結晶の枝が風に揺れるときのように、恐怖と覚悟がせめぎ合っていた。

洋子は目を閉じ、もう一度深呼吸をした。そして目を開けると、そこには決意が宿っていた。科学者として、そして一人の人間として、自分が信じる道を進むしかない。

「うん、話すね。……これは、昨日からずっと考えてたこと。浩くんが教授の痕跡を見つけて、私たちが『消失』の正体に触れた後に……気づいてしまったことなの」

洋子の声は、最初は小さかったが、徐々に力を帯びていった。言葉を口にすることで、自分の中の迷いが少しずつ整理されていく感覚があった。

「新しい仮説か?」

村上が眉を寄せ、身を乗り出した。その目には、期待と警戒が入り混じっていた。長年の研究経験から、彼は洋子の表情に何か重大なものを読み取っていた。

「仮説といえば仮説だけど……ひょっとしたら、私たちの研究の方向性を根本から変える、危険な賭けになるかもしれない」

洋子の言葉に、室内の空気がさらに張り詰めた。岸本は携帯端末から目を上げ、洋子を注視した。浩は背筋を伸ばし、前のめりになった。村上は目を細め、次の言葉を待った。

洋子の声は静かだったが、その響きには退路を断った人間特有の強さがあった。彼女はホワイトボードに、一枚の拡大図をマグネットで貼り付けた。それは、先日岸本の脳内スキャン実験で得られたデータと、外部の降雪データを重ね合わせたグラフだった。赤と青のラインが絡み合い、ある一点で激しくスパークしている。

「これを見てください。脳内の記憶結晶が崩壊する、その瞬間の観測データです」

全員が立ち上がり、ホワイトボードに近づいた。グラフを食い入るように見つめる。そこには、記憶が失われる瞬間の、生々しい軌跡が記録されていた。

洋子は震える指先で、グラフの特異点を指し示した。その指先は微かに震えていたが、声は確かだった。

「記憶結晶が不安定化して崩れるとき……私たちは今まで、雪の力によって『破壊されている』と思っていました。でも、よく見てください。崩れる直前、脳内の結晶構造は、外部の雪の結晶構造と、角度も周期も完全に同期シンクロしているんです」

浩がグラフに顔を近づけた。確かに、赤と青のラインは、崩壊の直前に完全に一致している。それは偶然ではない。明確なパターンだった。

岸本が眼鏡の奥の目を細めた。彼女の表情には、理解と戦慄が浮かんでいた。

「……つまり、破壊されているのではなく、同化されていると?」

「はい。脳内の記憶が、あまりにも強力で整然とした外の雪の秩序に『飲み込まれる』ようにして、自らの輪郭を手放してしまっている。……言ってみれば、強制的な降伏です」

洋子の言葉は、室内に重く響いた。それは、彼らが抱いていた仮説を根本から覆すものだった。敵は外にいるのではない。問題は、内側にあったのだ。


会議室に、納得と戦慄の混じった沈黙が落ちた。誰もが、洋子の説明の意味を咀嚼しようとしている。破壊ではなく、同化。それは、彼らが想定していたよりも遥かに厄介な現象だった。

村上は眼鏡を外し、レンズを拭きながら深く考え込んでいた。長年の研究経験が、この発見の重大性を告げていた。岸本は腕を組み、グラフを凝視している。浩は唇を噛み、拳を握りしめていた。

「だから……」洋子は言葉を継いだ。「昨夜の『干渉実験』のように、外の雪を壊すだけじゃ不十分なんです。いくら外を壊しても、脳内の結晶が『雪に合わせようとする性質』を持っている限り、いずれまた新しい雪に共鳴してしまう」

洋子の言葉は、まるで死刑宣告のように重かった。彼らが積み重ねてきた努力が、根本的な部分で間違っていたかもしれない。その可能性が、室内の空気をさらに重くしていた。

浩が、乾いた音を立てて机を叩いた。その音が会議室に響き渡り、全員が一斉に彼を見た。彼の顔は紅潮し、目には絶望と怒りが混ざり合っていた。

「じゃあ、どうすればいいんだ。雪を止めることもできず、共鳴も防げないなら……俺たちはただ、記憶が吸い出されるのを待つしかないのか?」

彼の悲痛な叫びに、洋子は首を横に振った。その動きは確固たるもので、迷いはなかった。洋子は浩の目をまっすぐ見つめ、静かに、しかしはっきりと答えた。

「違う。方法はある」

そして、もう一枚の図をホワイトボードに貼った。それは、既存の結晶構造の外側に、人工的な「枠」のようなものを書き加えた概念図だった。六角形の結晶を、さらに別の構造が取り囲んでいる。まるで城壁のように、あるいは防護シールドのように。

全員が、その図に釘付けになった。何か新しい可能性が、そこに描かれているのが分かった。

「逆転の発想をするの」

洋子は全員の顔を見渡した。一人一人の目を見て、自分の決意を伝えようとした。

「外の雪をどうにかするんじゃなくて……私たちの頭の中にある『記憶結晶』の方を、強くするの」

「強くする……?」

村上が眉をひそめた。その表情には、興味と懸念が入り混じっていた。

「そう。外部からの強制的な同期圧力に対抗できるくらい、内部の構造を強固に固定してしまう。……雪がどんなに『同じ形になれ』と命令してきても、『私はこの形だ』と主張し続けられるように」

洋子の説明を聞きながら、浩の表情が変わっていった。絶望から、徐々に理解へ、そして希望へと。彼の目が、再び輝きを取り戻し始めている。

洋子は深く息を吸い込んだ。ここからが、最も重要な部分だ。そして、最も危険な提案でもある。彼女は資料を握りしめ、覚悟を決めた。

「私が提案したいのは、脳内記憶の崩壊を防ぐための……『結晶定着剤クリスタル・フィクサー』。生物学的な言葉で言うなら、雪に対する『ワクチン』の開発です」

その言葉が発せられた瞬間、会議室の空気が凍りついた。誰もが息を呑み、洋子を見つめている。ワクチン――その言葉が持つ意味は、あまりにも重大だった。

「ワクチン……」

村上が呆気にとられたようにその単語を復唱した。彼の声は震えていた。何十年も気象学に携わってきた彼にとって、この発想は全く予想外のものだった。

「ウイルスに対する抗体のように、雪の共鳴に対する『抗体』を脳内に作るということか?」

村上の言葉に、洋子は頷いた。まさにその通りだ。病気を防ぐのではなく、記憶の崩壊を防ぐ。そのための、人工的な防御機構を作り出す。

「理論上は可能です」

洋子は浩を見た。彼の目には、既に理解の光が宿っていた。科学者としての直感が、この提案の可能性を捉えている。

「外界の結晶密度指数がどれだけ上昇しても、脳内の構造があらかじめ補強されていれば、共鳴は起きない。記憶は守られる。……でも」

そこで洋子は言葉を濁し、視線を落とした。その先にあるリスクに、彼女自身が怯えていたからだ。この提案は、諸刃の剣だ。人類を救うかもしれないし、破滅させるかもしれない。

視線が岸本とぶつかる。国家の危機管理を担う彼女は、すでにその意味を理解していた。その目には、深い懸念と、そして覚悟が宿っていた。

岸本がゆっくりと、確かめるように口を開いた。その声は低く、慎重だった。

「……つまり、記憶という脳の根幹機能に、人工的な物質や信号を直接介入させるということですね?」

会議室の空気が、さらに重くなった。誰もが、その言葉の重みを理解していた。記憶に介入する。それは、人間の本質に手を加えるということだ。

「……うん」

洋子は自分の言葉の重さを噛み締めながら、頷いた。喉が渇き、声が掠れそうになる。しかし、ここで怯んではいけない。

「そんなことをすれば、記憶の形成や自然な忘却にどんな影響が出るかわからない。人格が変わってしまうかもしれないし、最悪の場合、副作用で脳が焼き切れる可能性もある。……予測不能な劇薬です」

室内の空気が凍りついた。それは、人間が踏み込んではならない領域への招待状だった。神の領域とも言える、人間の精神への直接介入。その危険性は、誰の目にも明らかだった。

だが、窓の外では今も雪が降り続き、世界のどこかで誰かの記憶が、音もなく白紙に戻されている。消失者の数は増え続け、時間は刻々と過ぎていく。このまま手をこまねいていれば、人類は緩やかに、しかし確実に消滅していく。

洋子は窓の外を見た。白一色の世界。美しく、そして残酷な景色。あの雪の下で、今も誰かが助けを求めているかもしれない。

「でも……このままだと、消失は止まらない。大切な人たちが、空席に変わっていくのを止められない」

洋子は顔を上げ、涙を堪えた瞳で訴えた。その目には、強い決意が宿っていた。

「記憶を守るためには……何か異物を"足す"しかないのかもしれません」

沈黙が続いた。誰もが、この提案の重さと、そして必要性を天秤にかけている。リスクは計り知れない。しかし、他に選択肢はあるのか。

浩がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いと、それ以上の決意が宿っていた。彼は深く息を吸い込み、科学者としての冷静さを取り戻した。

「……その『異物』の候補はあるのか?」

彼は科学者としての顔を取り戻し、静かに問うた。その声には、もう絶望はなかった。前に進むための、具体的な質問だった。

「ただ闇雲に脳を弄るわけにはいかない。確実に効果があって、かつ脳を壊さないための『鍵』が」

洋子は資料の最後のページを広げた。そこには、昨日の観測データの中に紛れ込んでいた、ある微弱な波形が拡大されていた。ここからが、彼女の本当の発見だった。


洋子はホワイトボードに貼られた資料の、波形の一部を赤ペンで丸く囲んだ。それは、雪の結晶構造が脳内のニューロンに干渉し、強制的に同期させようとする巨大な波の陰で、蚊の羽音のように頼りなく、しかし必死に逆らおうとしている小さなノイズだった。

全員が身を乗り出し、その微細な揺らぎを凝視した。今まで何度も見てきたデータだ。しかし、誰もその重要性に気づいていなかった。ノイズとして切り捨て、無視してきた。それが、実は最も重要な手がかりだったとは。

「この揺らぎ……私たちは今まで、単なる測定誤差だと思って切り捨ててきました。でも違う。これは『抵抗』なんです」

洋子は熱を込めて語った。その目には、確信の光が宿っていた。何日も何日も、このデータと向き合い続けた結果、ようやく辿り着いた答えだ。

「脳が、自分の形を保とうとする生理的な防御反応。外の雪が『右を向け』と命令した瞬間に、無意識に『左を向こう』とする反作用の力。……これを私たちは『自我』と呼んでいるのかもしれません」

洋子の言葉は、室内に深く響いた。自我――それは哲学的な概念ではなく、物理的に観測可能な現象だったのだ。人間が人間であり続けるための、最後の抵抗の痕跡。

村上が唸るように息を吐いた。彼は何度も波形を見返し、洋子の解釈が正しいかどうかを検証している。長年の経験が、この発見の妥当性を裏付けていた。

「つまり……その『自我の揺らぎ』を人工的に増幅して、脳全体に広げるということか?」

村上の声には、驚嘆と、そして一抹の不安が混じっていた。理論は美しい。しかし、実現可能なのか。そして、安全なのか。

「はい。この微弱な波形を解析して、逆位相の信号――つまり『雪の命令を打ち消すパターン』を作ります。それを脳内に常駐させることで、外部からの強制同期を弾き返すバリアにするんです」

洋子の説明は明快だった。複雑な理論を、誰にでも理解できる言葉に置き換えて伝える。それは、彼女が長い時間をかけて、この概念を自分の中で咀嚼してきた証拠だった。

浩が、食い入るようにその波形を見つめていた。彼の瞳の中で、科学者としての冷静な計算と、失われたものを奪還しようとする情熱が激しく火花を散らしているのがわかった。彼の頭の中では、既に無数のシミュレーションが走っているはずだ。

「……逆同調カウンター・シンク。理論的には音波のノイズキャンセリングと同じだ。雪が奏でる『忘却のメロディ』に対して、脳内で『記憶の不協和音』をぶつけ続ける」

浩の言葉は、洋子の理論を別の角度から補強するものだった。二人の思考が、完全に同期している。それは、長い時間を共に研究してきた仲間だからこそ可能な、無言の協力関係だった。

浩は顔を上げ、洋子を見た。その目には、既に次のステップへの思考が走っていた。

「でも、そのためには……『オリジナルの音源』が必要だ。雪の圧倒的な質量に対抗できるくらい、強烈で、純度の高い『抵抗のサンプル』が」

その言葉に、洋子は頷きかけた。そう、それこそが最大の問題だ。理論は完璧でも、実際に使用できる「抵抗のサンプル」がなければ、全ては机上の空論に過ぎない。

洋子は口を開きかけた。だが、その言葉よりも先に、浩がハッとしたように目を見開いた。まるで電撃が走ったように、彼の表情が一変する。

「……ある。あるぞ、サンプルが」

浩は椅子を蹴って立ち上がり、自分のデスクに駆け寄った。その動きには迷いがなく、確信に満ちていた。彼は昨日回収したばかりのログデータを呼び出し、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

「長谷川教授だ」

その名を聞いた瞬間、室内の空気が張り詰めた。洋子は息を呑み、村上と岸本も一斉に浩の方を向いた。長谷川教授――浩の恩師であり、つい昨日、消失現象の犠牲となった人物。

「昨日、教授が消える直前に送信しようとしていたデータ。……あれは、単なる研究論文のバックアップじゃなかったんだ」

浩は震える手でキーボードを叩き、解析画面を展開した。モニターには、複雑なコードとデータが次々と表示されていく。その中に、何か重要なものが隠されているのだ。

そこに表示されたのは、未完成のファイル群と、その裏コードに刻まれた、凄まじい密度の思考ログだった。通常の研究データとは明らかに異なる、異常なまでに高密度な情報の塊。それは、まるで誰かの意識そのものが、デジタルデータとして結晶化したかのようだった。

洋子は画面に近づき、そのデータを凝視した。そこには、長谷川教授の最後の戦いの痕跡が刻まれていた。消えゆく意識の中で、必死に自分を保とうとした痕跡が。

「教授は、自分が消えつつあることを自覚しながら、最期まで『自分であること』を諦めなかった。雪に同調させられそうになる意識を、必死に論理と数式で繋ぎ止めようとしていた。……このログには、教授の魂の『抵抗』そのものが焼き付いている!」

浩の声は震えていた。それは悲しみではなく、敬意と、そして希望に満ちた震えだった。恩師は、最後の最後まで戦い続けた。そして、その戦いの記録が、今ここに残されている。

岸本が歩み寄り、モニターを覗き込んだ。彼女の表情は厳しかったが、その目には深い感動が宿っていた。科学者の、そして一人の人間としての尊厳がそこにあった。

「……消滅の瞬間に発せられた、最も強い生の執着。それをワクチンの『コア』にするということですか?」

岸本の問いに、浩は力強く頷いた。

「そうです。教授が命懸けで残したこの波形をベースにすれば……雪の強制力に負けない『強い記憶の形』を生成できる」

浩の声は震えていたが、そこには確信があった。恩師の死(消失)は無駄ではなかった。彼が最期に残した足跡こそが、人類を救うための道標になるのだ。それは、浩にとって何よりも大きな救いだった。

洋子は浩の横顔を見た。そこには、もう迷いはなかった。悲しみは消えていない。しかし、その悲しみを力に変えて、前に進もうとしている。


しかし、村上が低い声で警告を発した。彼はゆっくりと立ち上がり、モニターから目を離して全員を見渡した。その表情は重く、深い懸念が刻まれていた。

「だが……副作用はどうなる?」

村上は厳しい表情で洋子と浩を見た。長年の研究経験が、彼に慎重さを与えていた。どんなに優れた理論も、実用化の段階で思わぬ落とし穴がある。それを、彼は何度も見てきた。

「『記憶を固定する』というのは、口で言うほど生易しいことじゃない。人間は忘れることで精神の均衡を保っている生き物だ。もし、このワクチンであらゆる記憶が『結晶化』され、二度と忘れられなくなったら? 悲しみも、恐怖も、永遠に鮮度を失わずに脳に残り続けることになるんだぞ」

村上の言葉は、まるで冷水を浴びせるように、高揚していた空気を一気に冷やした。それは、誰もが考えたくなかった現実だった。忘れられない記憶――それは、時として記憶を失うことよりも残酷な運命になり得る。

それは、忘却という救いを捨てることを意味していた。辛い記憶も、悲しい記憶も、恐ろしい記憶も、全てが永遠に鮮明なまま脳に刻まれ続ける。人間は、そんな重荷に耐えられるのか。

「精神が耐えきれず、狂ってしまうかもしれない。……それでもやるのか?」

村上の問いかけは重く、誰も即答できなかった。会議室には、再び沈黙が落ちた。今度の沈黙は、先ほどまでの期待に満ちたものではなく、深い葛藤を孕んだものだった。

重い沈黙が落ちた。救済か、それとも新たな呪いか。どちらを選んでも、リスクは計り知れない。消失の恐怖と、忘れられない苦痛と、どちらがより耐え難いのか。

洋子は自身の白衣の裾を握りしめた。怖い。誰かの脳を弄り、その人の人生を変えてしまうかもしれない責任の重さに、押し潰されそうになる。もし副作用で誰かが苦しむことになったら、それは全て自分の責任だ。

浩も黙り込んでいた。彼の拳は固く握られ、その表情には苦悩が浮かんでいる。長谷川教授のデータを使うという提案をした手前、この決断から逃げることはできない。しかし、それが正しいのかどうか、確信が持てない。

岸本も腕を組み、深く考え込んでいた。政府の立場として、この決断は極めて重大だ。国民の命を守るためとはいえ、予測不可能な副作用を持つワクチンを承認することは、大きな政治的リスクを伴う。

けれど、窓の外を見れば、今も無慈悲な白が降り続いている。あの中で、今も誰かが「空席」に変わり、誰かの大切な人が「いなかったこと」にされている。このまま何もしなければ、人類はゆっくりと、しかし確実に消滅していく。

時計の針が、カチリ、カチリと時を刻む音だけが、静寂な室内に響いていた。誰もが、答えの出ない問いと向き合っている。

「……やりましょう」

沈黙を破ったのは、岸本だった。彼女は深く息を吸い込み、迷いのない瞳で全員を見渡した。その声には、覚悟が込められていた。

「狂うリスクがあったとしても、存在そのものが消えてなくなるよりはマシです。……それに、私たちはもう知ってしまった。忘れてしまうことが、どれほど残酷なことかを」

彼女の言葉には、自身の家にある「持ち主不明の歯ブラシ」への想いが滲んでいた。誰のものかも分からない、しかし確かに誰かが使っていた痕跡。その持ち主を思い出せないことの虚しさを、彼女は誰よりも深く理解していた。

「痛みを忘れないこと。喪失を抱え続けること。それが、人間が人間であり続けるための最後の砦なのかもしれない」

岸本の言葉に、洋子は顔を上げた。そうだ。記憶こそが、人間を人間たらしめるものだ。たとえその記憶が痛みを伴うものであっても、それを失えば、自分という存在そのものが失われてしまう。

浩がゆっくりと立ち上がり、洋子の隣に並んだ。彼の目には、もう迷いはなかった。長谷川教授の最後の戦いを無駄にしないために、前に進むしかない。

「洋子、お前の着想アイデアだ。お前が舵を取れ。……俺がエンジンになる」

その言葉に、洋子は顔を上げた。浩の目は、もう迷子のように揺れてはいなかった。恩師を救えなかった悔しさを、未来を変えるための燃料に変えて燃やしている。その横顔には、強い決意が刻まれていた。

洋子は浩の目を見つめた。そこには、絶対的な信頼があった。どんな困難が待ち受けていても、二人なら乗り越えられる。その確信が、洋子の背中を押した。

「うん。……わかった」

洋子は深く頷き、ホワイトボードに向き直った。もう迷わない。この道が正しいかどうかは、後になってみなければ分からない。しかし、今できる最善を尽くすしかない。

「これより、対雪アンチ・スノー記憶定着剤のシミュレーションを開始します。コードネームは……」

一瞬考え、彼女はペンを走らせた。その文字は、力強く、迷いなく書かれた。

Mnemosyneムネモシュネ

――記憶の女神の名だ。

その名前を見た瞬間、全員の表情が引き締まった。これは単なる薬品開発ではない。人類の記憶と存在を守るための、神話的な戦いだ。

「フェーズ1、長谷川教授のログデータの抽出と、逆位相パターンの生成。……浩くん、お願い」

洋子の声は明瞭で、指示は的確だった。リーダーとしての彼女の姿が、そこにはあった。

「了解。サーバー全域を接続。解析を開始する」

浩は即座に自分の端末に向かい、猛烈な勢いで作業を開始した。その指の動きは正確で、無駄がない。

「村上さんは、想定される副作用のシミュレーションと、安全域セーフティの設定を」

「……わかった。できる限り、脳が焼き切れないギリギリのラインを探ってみる」

村上も重い腰を上げ、自分の端末を立ち上げた。彼の表情は厳しいが、その目には職人としての気概が宿っていた。

「岸本さんは、政府への報告と、臨床試験の準備をお願いします」

「承知しました。法的な壁は私がすべてねじ伏せます。あなた方は開発に専念してください」

岸本は携帯端末を手に取り、すぐに誰かに連絡を取り始めた。その声は低く、しかし強い説得力を持っていた。

研究室が一気に動き出した。先ほどまでの停滞した空気は消え失せ、代わりに悲壮なまでの熱気が満ちていく。サーバーのファンが唸りを上げ、モニターには奔流のようなデータが流れ始めた。

それは、神の領域への挑戦だった。空から降る「忘却の雪」に対し、地上の人間が「記憶の楔」を打ち込むための戦い。誰もが、自分の役割を全うするために全力を尽くしている。

洋子はメインモニターの前で、刻々と生成される波形を見つめ続けた。画面の中、雪の結晶と同じ形をしようとする波形に、教授のデータから抽出した「乱れ」をぶつける。何度も弾かれ、波形が崩れる。だが、調整を繰り返すうちに、少しずつ、しかし確実に、雪の侵食を食い止める「盾」のような形が生まれつつあった。

(……待っていてください、教授)

洋子は心の中で祈った。画面に映る波形が、まるで長谷川教授の意志そのもののように見えた。

(そして、まだ見ぬ誰かさん。……私たち、必ず間に合わせるから)

窓の外では、雪がさらに激しさを増していた。まるで、地上の小さな反乱を察知し、それを揉み消そうとするかのように。風が唸り、窓ガラスをガタガタと揺らす。だが、その音も今の彼らの耳には届かない。

小さな研究室の中に灯った、青白いモニターの光。それが今、世界で唯一、絶望に対抗できる希望の灯火だった。人類の最後の砦が、ここにある。

「……見えた。安定化の兆候サインだ」

数時間後、浩が低く呟いた。その声は、長い夜の終わりを告げる最初の鳥の声のように、静かに響き渡った。


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