第13話「浩の決意」
深夜の研究棟は、静寂というより"音を吸われている"ような、底のない深淵の底に沈んでいた。分厚いコンクリートの壁と二重窓に隔てられているはずなのに、外で降りしきる雪の質量が、建物の内側にまで圧力をかけているような錯覚を覚える。廊下の蛍光灯は間引きされ、薄暗い空間に青白い影を落としていた。曇りガラスの向こうでは、数億の白い粒子が無言で行進を続け、世界の温度をひやりと下げている。
洋子は資料室で過去の論文の照合を終え、重い足取りで戻ってきた。三時間以上かけて、記憶結晶に関する過去の研究事例を探したが、有益な情報はほとんど見つからなかった。肩には重い疲労が溜まり、目は焦点が合わなくなりかけている。廊下を歩きながら、洋子は何度も瞼を擦った。
研究室の扉の前で、ふと足を止める。中から、硬質な音が響いていた。
カチャカチャカチャ、ッ、ターン。
キーボードを叩く音だ。しかしそれは、いつもの浩のリズミカルなタイピング音とは違っていた。焦り、苛立ち、あるいは何かに追われる恐怖を指先に込め、叩きつけるような乱暴さと、不規則な断絶が混じっている。それはまるで、見えない敵に対してモールス信号で助けを求めているようにも聞こえた。
洋子は扉の前で立ち止まり、その音に耳を澄ました。キーの打音は時折途切れ、数秒の沈黙の後、また激しく再開される。その不規則なリズムが、浩の精神状態を物語っているようだった。
――浩だ。まだやっている。
洋子は小さく息を吸い、冷え切ったノブを回して扉を押し開けた。
部屋の中は、モニターのブルーライトだけが光源となっていた。その青白い光の海の中で、浩が一人、猫背になって机にかじりついていた。彼の周りには、空になったブラックコーヒーの缶が墓標のように数本転がり、走り書きされたメモ用紙が雪崩のように散乱している。中には床に落ちて、足元で丸まっているものもあった。
画面には、目まぐるしく変わる数値の羅列と、複雑なフラクタル図形が表示されていた。グラフが上下に激しく揺れ、時折赤い警告表示が点滅する。浩はそれを凝視し、何かを探し求めるように画面を睨みつけていた。
洋子は部屋の空気が異様に冷たいことに気づいた。暖房は入っているはずなのに、まるで冷蔵庫の中にいるような冷気が漂っている。それは物理的な温度ではなく、浩が纏っている絶望の気配が、空間全体を凍らせているかのようだった。
「……浩」
洋子が声をかけても、彼は反応しなかった。その背中は微かに震えていた。寒さのせいではない。もっと内側から湧き上がる、抑えきれない何かが彼の体を揺らしているのだ。肩に落ちる影は、雪の冷たさとは違う、より濃く、重たい絶望の色を帯びていた。
洋子は浩の様子を観察した。彼の髪は乱れ、シャツの襟元はよれている。いつもなら几帳面に整えている身なりが、今は完全に崩れていた。これは尋常ではない。何か、決定的な出来事があったに違いない。
「浩……また徹夜する気?」
洋子はもう一度呼びかけながら、部屋に入った。扉を閉めると、外界との繋がりが断たれたような静寂が訪れた。浩のキーボードを叩く音だけが、規則性を失った拍動のように響いている。
浩の指は止まらない。画面上のグラフを拡大し、また縮小し、狂ったように数式を打ち込み続けている。彼の目は血走り、まばたきの回数も極端に少ない。まるで画面に吸い込まれているかのように、そこから視線を外すことができないでいる。
「……まだだ。まだノイズが消えない。相関関係の係数が、あと0.01足りないんだ」
うわ言のように呟くその声は、ひどく掠れていた。喉が渇き切っているのだろう。しかし浩は水を飲むことも、休憩することも忘れて、ただデータと格闘し続けている。
洋子はそっと近づき、強張った彼の肩に手を置いた。その肩は石のように硬く、まるで全身の筋肉が緊張し切っているようだった。
その瞬間、浩の手がピタリと止まった。まるで、現実世界からの温もりに触れて、ようやく自分がどこにいるのかを思い出したかのように、ゆっくりと顔を上げる。
モニターの光に照らされたその顔を見て、洋子は息を呑んだ。
憔悴しきっていた。目の下の隈は濃く、頬はこけ、無精髭が伸びている。だが何より、その瞳の奥にある光が、いつもとは決定的に違っていた。科学者としての理知的な光ではない。迷子の子供のような、頼りなく揺れる光。そこには恐怖と、そして何か深い喪失感が宿っていた。
洋子は思わず後ずさりしそうになった。目の前にいるのは、確かに浩だ。しかし同時に、何か大切なものを失って、魂の一部が欠けてしまった別人のようにも見えた。
「……洋子。今は大丈夫だ。あと少しで、消失のプロセスと個人の記憶強度の関連性が掴める」
浩の声は平坦で、感情が抜け落ちているようだった。それは、痛みを感じないように自分を麻痺させている人間の声だった。
「大丈夫じゃないよ。顔色、土気色だよ」
洋子は心配そうに浩の顔を覗き込んだ。近くで見ると、彼の状態はさらに深刻に見えた。唇は乾いてひび割れ、額には冷や汗が浮かんでいる。
「平気だ。……やらなきゃいけないんだ。証明しないと」
浩の声には、強迫観念のような響きがあった。何かに駆り立てられるように、休むことを自分に許していない。
「なにかあった?」
洋子が核心を突くように問いかけると、浩は一瞬だけ視線を宙にさまよわせた。その瞳の揺らぎ方が、顕微鏡で見た六花結晶の"枝のぶれ"のように、ごくわずかで、しかし決定的に異質だった。彼は何かを隠している。いや、認めようとしていない。
数秒の沈黙が流れた。研究室の中には、サーバーのファンの低い唸りと、遠くで吹く風の音だけが響いている。浩は何かを言おうとして、しかし言葉を飲み込み、また黙り込んだ。
洋子は待った。焦らず、ただ浩の隣に立って、彼が話し始めるのを待った。時には、沈黙こそが最良の問いかけになることを、洋子は知っていた。
浩は乾いた唇を舐め、一度大きく息を吐き出した。そして、絞り出すように言った。
「……恩師が、消えた」
研究室の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りついたように感じられた。サーバーのファンの音さえも遠のく。洋子の心臓が、一拍飛んだような感覚があった。
「恩師って……浩くんがいつも話してた、あの長谷川教授?」
洋子の脳裏に、穏やかな初老の男性の顔が浮かんだ。この大学の気象学の権威であり、人格者としても知られた長谷川教授。浩が大学院に進むきっかけを与え、彼の才能を誰よりも評価していた人物だ。つい数日前にも、廊下ですれ違いざまに「頑張ってるね」と声をかけてくれたばかりだった。
洋子はその時のことを鮮明に覚えている。長谷川教授の優しい笑顔、少し皺の寄った目元、落ち着いた声の響き。それらの記憶が、今もはっきりと残っている。だが、その記憶を持っているのは、もしかしたら自分だけではないのか――そう思うと、背筋が寒くなった。
「そうだよ」
浩は、目の奥に乾いた痛みを宿したまま、ゆっくりと頷いた。その動きは重く、まるで鉛でできた首を動かしているかのようだった。
「今日の昼、教授にデータの相談をしに研究室へ行ったんだ。……でも、部屋が変わっていた」
浩の声は抑揚を失い、機械的に事実を並べているだけのように聞こえた。しかしその奥に、激しい感情の波が押し殺されているのが分かった。
「変わっていた?」
洋子は聞き返した。どう変わっていたのか。想像したくないシナリオが、頭の中で次々と浮かんでは消えていく。
「ドアのネームプレートが外されていた。中に入ると、本棚も、デスクも、あの人が愛用していたロッキングチェアも……全部片付けられていた。まるで最初から倉庫だったみたいに、段ボールが積まれていただけだ」
浩の言葉を聞きながら、洋子は長谷川教授の研究室を思い浮かべた。壁一面の本棚に並んだ気象学の専門書、窓際に置かれた観葉植物、デスクの上のアンティークな万年筆――それらが全て消えて、ただの倉庫になっているなんて。
浩は震える手で、空のコーヒー缶を握りしめた。その手は白く、血の気が引いている。指先には、長時間キーボードを叩き続けた痕が赤く残っていた。
「慌てて事務室に行って聞いたんだ。『長谷川教授はどこですか』って。……そしたら事務員は怪訝な顔をして言ったよ。『ウチの学部に、そんな名前の教授はいません』って」
缶が、ミシリと音を立てて歪んだ。浩の握力が、無意識のうちに強まっている。
洋子は息を呑んだ。それは昨日、岸本が説明していた現象そのものだった。消失者は物理的には存在しているが、周囲の人間の記憶から完全に消去される。そして世界は、まるで最初からその人が存在しなかったかのように、辻褄を合わせていく。
「他の学生にも、准教授にも聞いた。みんな同じ反応だ。『誰それ?』『知らない名前だ』……。一緒に研究した記録も、サーバー上の論文データも、シラバスの講義名も、全部綺麗さっぱり消えていた」
浩の声が震え始めた。冷静さを保とうとしているが、感情が溢れ出してくるのを抑えきれない。彼は拳で机を叩いた。鈍い音が響き、モニターが僅かに揺れた。
「確認したんだ。データベースにも、学会の名簿にも、大学の公式サイトにも……長谷川の名前は一つも残っていない。まるで、この世界に最初から存在しなかったみたいに」
浩の言葉には、現実を受け入れられない苦悩が滲んでいた。科学者として、データと証拠を重視する彼にとって、自分の記憶だけが唯一の証拠であるという状況は、耐え難いものだった。
洋子は口元を手で覆った。それは――完全な消失現象だ。昨日、岸本たちが分析していた「認識の不全」ではない。物理的な痕跡と、周囲の人間の記憶が、世界というシステムによって完全に修正されてしまっている。
洋子は思った。もし自分の記憶から、誰かが消えてしまったら、それに気づくことさえできるのだろうか。違和感だけが残って、何が欠けているのか分からないまま、日々を過ごしていくのだろうか。
「でも……浩は覚えてるんだよね?」
洋子は確認するように尋ねた。その声には、すがるような響きがあった。少なくとも浩の記憶が残っているなら、長谷川教授は完全に消えたわけではない。
「忘れられるわけがないだろ!」
浩が声を荒げ、そしてすぐに力なく首を垂れた。その落差が、彼の精神状態の不安定さを物語っていた。
浩は深く息を吸い、震える声で続けた。
「俺が初めて"世界の形は揺らぎやすい"って概念に触れたのは、教授の講義だ。雪の研究に行き詰まった時、六花結晶の初期研究を勧めてくれたのも教授だ。……俺の今の研究の根っこにあるのは、全部あの人なんだ」
浩の声には、深い敬愛と感謝の念が込められていた。長谷川教授は、浩にとって単なる指導者ではなかった。研究者としての道を照らしてくれた師であり、人生の導き手だった。
洋子は浩の横顔を見つめた。その表情には、喪失の痛みと、そして孤独が刻まれていた。大切な人を失うことは辛い。しかし、世界中で自分だけがその人を覚えているという状況は、さらに残酷だった。
浩は顔を覆った。指の隙間から、押し殺した嗚咽のような声が漏れる。肩が小刻みに震えている。彼は必死に感情を押さえ込もうとしているが、もう限界だった。
「その人を……この世界で、俺だけが覚えている。俺の脳みその中にしか、もう長谷川教授はいないんだ」
浩の言葉は、絶望の叫びだった。洋子の胸が締め付けられる。
それは、想像を絶する孤独だった。自分の記憶が正しいのか、それとも世界が正しいのか。その境界線が曖昧になる恐怖。自分以外の全員が「青」だと言う空を、たった一人で「あれは赤だ」と叫び続けるような、狂気にも似た孤独の温度は、外の雪よりも遥かに冷たかった。
洋子は浩の背中にそっと手を置いた。言葉では慰められない。ただ、今ここに自分がいることを伝えるために、温もりを伝えるために、彼に触れた。
浩は顔を上げ、涙で潤んだ目で洋子を見た。その瞳には、助けを求める光があった。
「洋子……俺は、おかしくなっちまったのかな。存在しない人間を、頭の中で作り上げてるだけなのかな」
「違うよ」
洋子は強く首を振った。
「浩くんの記憶は本物だよ。長谷川教授は確かに存在してた。私も覚えてる。……まだ、消えてない」
その言葉を聞いて、浩の表情が僅かに緩んだ。一人じゃない。自分の記憶を共有してくれる人がいる。それだけで、彼の心は少し救われた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。完璧な六角形の結晶たちが、無言で世界を覆い尽くしていく。その美しく、残酷な光景を、二人は黙って見つめていた。
洋子は、押し殺した嗚咽を漏らす浩の背中を、ただ静かに見つめていた。かけるべき言葉が見つからない。「かわいそうに」という同情は、今の彼にはあまりに残酷で、軽すぎる。彼が直面しているのは、自分の正気さえも疑わなくてはならないほどの、根源的な恐怖なのだ。
洋子は深く息を吸った。ここで間違った言葉をかけてしまえば、浩はさらに深い孤独の淵に沈んでしまうかもしれない。慰めではなく、寄り添うこと。今必要なのは、彼の痛みを理解し、共有することだ。
洋子はパイプ椅子を引き寄せ、浩のすぐ隣に座った。椅子の金属が床を擦る音が、静寂な室内に小さく響いた。そして、机の上で強く握りしめられている彼の手に、自分の手をそっと重ねた。
冷たい。氷のように冷え切った指先。まるで長時間雪の中に晒されていたかのような冷たさだった。洋子は自分の手の温もりを、少しでも彼に伝えようと、ゆっくりと手を重ねた。
「……話して、浩くん」
洋子は静かに言った。その声は優しく、しかし確固とした意志を含んでいた。
「長谷川教授のこと。どんな人だったか、どんな研究をしてたか。最後に何を話したか。……全部」
浩が顔を上げ、濡れた瞳で洋子を見た。その目には戸惑いと、そして僅かな希望の光が宿っていた。
「話しても……意味ないかもしれないぞ。世界にとっては、もう存在しない人間なんだ」
浩の声は諦念に満ちていた。世界が認めない記憶を語ることに、何の意味があるのか。それは、存在しない幽霊について延々と語る狂人と、何が違うのか。
「意味はあるよ。だって、私が覚えるから」
洋子は彼の手を、両手で包み込むように握り返した。その手は小さく、しかし確かな温もりを持っていた。
「浩くんが話してくれれば、教授を知っている人間が、世界に一人から二人に増える。そうすれば、それはもう『妄想』じゃなくて『共有された事実』になるでしょ?」
洋子の言葉には、揺るぎない信念があった。記憶は一人で抱えるには重すぎる。しかし、二人で分かち合えば、それは確かな真実になる。人間の歴史は、常に誰かが語り、誰かが聞き、そうやって繋がれてきたのだから。
浩の瞳が、わずかに揺れた。その揺らぎは、閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開き始める兆しだった。
「共有された……事実……」
浩は洋子の言葉を反芻した。その概念が、彼の混乱した思考の中で、少しずつ形を成していく。そうだ、記憶は一人だけのものではない。誰かと共有することで、それは世界に存在する確かな事実へと変わっていく。
「そう。浩くんは一人じゃない。あなたが覚えているその人を、私も一緒に信じる。世界中が忘れても、この部屋の中だけは教授の居場所にするの」
その言葉は、凍りついていた浩の心を、内側から溶かす熱を持っていた。洋子の手の温もりが、彼の冷え切った指先から、腕を伝い、胸の奥へと染み込んでいく。
浩はしばらく呆然としていたが、やがて小さく、何度も頷いた。その動きは最初は弱々しかったが、次第に力強さを取り戻していった。
「……ああ。そうだな。……そうだよな」
彼は涙を手の甲で乱暴に拭い、深く息を吸い込んだ。その息には、決意のようなものが含まれていた。もう逃げない。もう一人で抱え込まない。
「……教授は、コーヒー党でさ。いつも古いミルで豆を挽いてた。雪の研究しかしようとしない俺を、周りの教員は笑ってたけど、あの人だけは『君の視点は面白い』って、いつも研究室に招き入れてくれたんだ」
浩はポツリポツリと語り始めた。最初は途切れがちだった言葉が、次第に流れるように紡がれていく。教授の口癖、愛用していた万年筆の色、議論した気象モデルの欠陥。
洋子はその一つ一つに頷き、自分の脳内のノートに刻み込むように聞き入った。時折質問を挟み、細部を確認し、その記憶を自分のものとして受け取っていく。
「教授は、どんな万年筆を使ってたの?」
「黒檀の軸に金の装飾がついた、モンブランの149ってやつだ。『これは学位を取った時に恩師から貰ったんだ』って、よく話してくれた」
「研究室には何が飾ってあった?」
「窓際に、観葉植物のポトスがあった。それから壁には、世界各地の気象観測所の写真が並んでた。教授が若い頃、フィールドワークで訪れた場所ばかりだ」
言葉にするたびに、浩の表情から悲壮な色が薄れ、代わりに科学者としての理知的な光が戻ってくる。記憶は、言葉にして誰かに手渡すことで、確かな質量を取り戻すのだ。それは単なる脳内の電気信号ではなく、共有された物語として、世界に存在し始める。
浩は語り続けた。長谷川教授との思い出が、次から次へと溢れ出てくる。学会での議論、深夜まで続いた研究談義、時には仕事を離れて語り合った人生観。
洋子はその全てを、心に刻み込んだ。自分が直接体験したわけではない記憶を、浩の言葉を通して受け取り、自分の中に定着させていく。それは不思議な感覚だった。まるで、誰か別の人の人生を、一部だけ共有しているような。
時計の針は、いつの間にか午前三時を回っていた。窓の外の闇は、まだ深い。しかし研究室の中には、二人の存在が作り出す小さな光があった。それは微かだが、確かに闇を押し返していた。
一通り話し終えた頃、浩はふと顔を上げ、モニターを見た。その目には、先ほどまでの絶望とは違う、何か鋭い閃きが宿っていた。
「……待てよ」
その声には、先ほどまでの絶望とは違う、鋭い響きがあった。科学者としての直感が、何かを捉えたのだ。
「教授が消えたのが今日の昼だとしたら……その時間帯の観測データに、痕跡が残っているはずだ」
浩の声には、確信が込められていた。その目は、再び研究者としての鋭さを取り戻していた。
「痕跡?」
洋子は身を乗り出した。浩の思考の方向性が見え始めている。少し前に彼らが発見した原理――消失者は物理的には存在し、その痕跡はデータに残る。
「ああ。少し前に見つけただろ? 認知されなくても、物理的な存在反応は残るって」
浩は憑き物が落ちたような勢いでキーボードを叩き始めた。その指の動きは、先ほどまでの乱雑さとは違い、明確な目的を持った正確さがあった。モニターの光が、彼の顔を青白く照らし出す。
「教授の研究室があった棟の、空調センサー、電力使用ログ、それに廊下の防犯カメラの映像データ……。人間が一人いれば、必ず世界に『負荷』がかかる。世界がどれだけ隠蔽しようとしても、質量保存の法則までは誤魔化せないはずだ!」
浩の声には、興奮と希望が混ざり合っていた。彼は何かを掴みかけている。消失という現象に対抗する、最初の糸口を。
洋子は浩の横で、別のモニターを立ち上げた。「私も手伝う。どのデータを確認すればいい?」
「中央サーバーにアクセスして、研究棟4階の環境データを全部引っ張り出してくれ。温度、湿度、CO2濃度、電力消費、ネットワークトラフィック――全部だ」
二人は並んで作業を始めた。画面に、大学構内の様々なログデータが奔流のように流れ出す。数万行にも及ぶ膨大なデータの海。その中から、一つの異常値を見つけ出さなければならない。
浩の目は血走り、しかし的確に必要な情報を狩り出していく。彼の指は、まるで自動演奏のピアノのように、正確にキーを叩き続けた。洋子もデータを精査し、グラフ化し、パターンを探していく。
時間だけが過ぎていく。午前三時半、四時、四時半――。
窓の外は、まだ暗い。しかし空の色が、ほんの僅かだが明るさを増し始めていた。夜明けが近づいている。研究室の中では、二つのモニターの光だけが、闇を押し返していた。
洋子は目を擦りながら、データの山と格闘していた。疲労が蓄積し、視界が霞んでくる。しかし今は休めない。浩と一緒に、長谷川教授の痕跡を見つけ出すまでは。
「……あった」
数分後、浩が叫んだ。その声には、勝利の響きがあった。
洋子は即座に浩の画面を覗き込んだ。そこには、時系列に並んだ電力消費量のグラフが表示されている。
「ここだ。研究棟4階の電力消費量。昼の12時14分、無人のはずの402号室で、サーバーが一瞬だけ稼働してる。……教授だ。教授が消える直前に、何かデータを外部に送信しようとしたんだ!」
浩は画面を指差した。確かに、そこには小さな、しかし明確なスパイクがあった。他の時間帯は完全にゼロなのに、その瞬間だけ、電力が消費されている。
洋子は息を呑んだ。これは証拠だ。長谷川教授が、その瞬間に確かに存在していた証拠。世界が記憶を消去しても、物理法則は嘘をつかない。
「データを送信……?」
洋子は確認するように尋ねた。教授は、自分の身に何が起きているかを理解していたのだろうか。
「おそらく、ご自分の身に起きている異変を察知して、研究データをクラウドかどこかに退避させようとしたんだ。……最期まで、科学者だったんだよ、あの人は」
浩の声は震えていたが、それは悲しみではなく、敬意と誇りに満ちた震えだった。長谷川教授は、自分が消えていくことを悟りながらも、最後まで研究を守ろうとした。それは、科学者としての矜持だった。
洋子は胸が熱くなるのを感じた。会ったことは数えるほどしかない。それでも、その最後の行動から、長谷川教授がどれほど研究に情熱を注いでいたかが伝わってくる。
浩は拳を震わせた。それはもう恐怖ではなく、武者震いだった。目には、強い決意の光が宿っている。彼は立ち上がり、窓の外を見た。空が、ゆっくりと白み始めている。
「洋子、俺は決めたぞ」
彼は椅子を回転させ、洋子を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「俺は教授を『空席』のままにはさせない。教授が残したデータを見つけ出して、それを楔にして……必ず、この世界に教授の存在を再定義させてやる」
浩の言葉には、強い意志が込められていた。それは、誓いだった。師への、そして消失したすべての人々への。
「うん」
洋子も力強く頷いた。彼女も立ち上がり、浩の隣に並んだ。
「やろう。教授だけじゃない。消えてしまったすべての人を、記憶の墓場から引きずり戻すの」
二人の決意が、研究室の空気を変えた。それまで重く沈んでいた空間が、まるで電流が走ったように活気を帯びる。絶望から希望へ。受動から能動へ。二人は、戦う覚悟を決めた。
二人は再びモニターに向かい合った。しかし今度は、ただデータを眺めるのではない。反撃の糸口を探すのだ。長谷川教授が送信したデータの行き先を追跡し、そこに残された研究を回収する。そして、それを武器にして、消失現象に立ち向かう。
窓の外では、夜明けが近づいているのか、空がわずかに白み始めていた。雪はまだ降り続いている。世界を白く塗り潰し、記憶を均そうとする圧倒的な力。だが、この小さな研究室には、その白さに決して染まらない二つの魂があった。
洋子は窓の外を見た。雪の結晶が、無数に降り注いでいる。完璧な六角形。美しく、そして残酷な形。しかし、その雪に負けるわけにはいかない。人間の記憶と存在を守るために、戦わなければならない。
「浩くん」
洋子が静かに呼びかけた。
「ん?」
浩が振り向く。
「私たちが最後の砦だね」
洋子の言葉には、覚悟が込められていた。この研究室が、記憶と存在を守る最後の砦。ここが陥落すれば、すべてが終わる。
「ああ。……ここからが、反撃の始まりだ」
浩は頷き、再びキーボードに向かった。その横顔には、もう迷いはなかった。
浩の指がエンターキーを強く叩いた。
カターンッ! という乾いた音が、静寂な朝の空気に高らかに響き渡る。
それは、雪に閉ざされた世界に対する、人類からの宣戦布告の号砲のようだった。
モニターには、新しいウィンドウが開かれ、データの解析が始まった。長谷川教授が最後に残したメッセージを追って、二人の戦いが始まる。外では雪が降り続けているが、この部屋の中には、消えない炎が灯っていた。




