第12話「消失メカニズムの解明」
気象研究棟の最上階にある観測室には、視界の端にちらつく白いノイズのような、不穏な気配が漂っていた。部屋の照明は落とされ、壁一面に並んだ数十台のモニターが放つ青白い光だけが、暗い室内を鋭く切り裂いている。その人工的な明かりに照らされた研究者たちの顔は、誰もが幽鬼のように蒼白で、生気を欠いていた。聞こえるのは、冷却ファンの低い唸り声と、時折響く乾いたキータッチの音だけ。窓の外では、夜明け前の深い闇の中を、感情を持たない雪たちがしんしんと降り続いている。
洋子は、目の前のメインモニターに映し出された数値の羅列を見つめ、息をするのも忘れていた。画面上のグラフが、生き物のように脈打ち、危険な領域へと鎌首をもたげている。数値は刻一刻と上昇を続け、警告を示す赤いラインを何度も突き破っていた。洋子の視線は、その異常な変動の軌跡を追いながら、無意識に細かく震えている。
「……また、跳ね上がった」乾いた唇から漏れた声は、静寂に吸い込まれて消えた。表示されているのは、ここから数十キロ離れた海沿いの観測点における『結晶密度指数』だ。昨日から断続的に続いていた異常な雪の形成プロセスが、今、臨界点を突破しようとしている。
洋子は眼鏡を外し、疲れ切った目元を指で押さえた。まぶたの裏に、過去二十四時間の徹夜作業で見続けた無数のデータが焼きついている。コーヒーカップは既に三つも空になり、机の端に無造作に積み重なっていた。しかし、カフェインの刺激ももはや意味をなさない。体の芯から湧き上がる、得体の知れない不安だけが、彼女の意識を鋭敏に保っていた。
「ありえない……」隣のデスクで、浩が呻くように声を上げた。彼は別の画面に視線を走らせ、素早く指でグラフを拡大した。マウスを握る手が微かに震えている。「気温はマイナス二度、湿度は六十パーセント台。……ごくありふれた冬の夜の気象条件だ。これなら通常の樹枝状結晶か、せいぜい角板状結晶が混じる程度のはずだろ」
浩の声には、科学者としての焦燥と、未知の現象に対する根源的な恐怖が滲んでいた。彼は立ち上がり、壁に貼られた大きな気象図の前に歩み寄った。そこには過去一週間の気温、湿度、気圧の変化が色分けされて表示されている。どの数値を見ても、異常な兆候は見当たらない。それなのに――。
「なのに、なんだよこれは。六花結晶だけが……不純物を一切排除して、純度100パーセントで濃縮されていく」浩は拳で壁を叩いた。鈍い音が観測室に響き、一瞬だけ他の研究者たちの視線が集まった。しかし誰も何も言わず、すぐにまた自分たちの画面へと視線を戻した。皆、同じ絶望感を抱えていた。
モニターに映し出された顕微鏡映像は、美しくも異様な光景だった。無数の雪の結晶が、まるで工場のラインで生産された精密部品のように、寸分違わぬ完璧な六角形を形成して降り注いでいる。そこには自然界特有の「ゆらぎ」や「遊び」が一切ない。冷徹なまでに統制された、死の行進。
洋子は思わず息を呑んだ。画面の中の結晶たちは、まるで何かに駆り立てられるように、同じ形を、同じ角度で、同じ速度で降り続けている。自然が生み出す多様性は完全に失われ、そこにあるのはただ無機質な反復だけだった。この異常な統一性こそが、何よりも恐ろしかった。
「自然現象じゃない。これはもう、何らかの意図を持った"信号"だ」浩が吐き捨てるように言い、頭を抱えた。彼の髪は寝癖がついたまま乱れ、目の下には深い隈ができていた。
洋子は画面から目を離せなかった。完璧すぎる六角形の群れ。それは美しいはずなのに、どこか禍々しく、悪意すら感じさせる。まるで誰かが、あるいは何かが、この世界に向けて送り続けているメッセージのように――。
部屋の隅で、別の研究員が小さく悲鳴を上げた。彼女のモニターには、別の観測地点のデータが表示されている。そこでも同じことが起きていた。結晶密度指数が、まるで感染するように次々と上昇していく。観測点は日本海側から太平洋側へ、まるで見えない波が伝播するように広がっていた。
村上が、部屋の隅にあるパイプ椅子に座り直した。その顔には深い疲労の色が刻まれているが、瞳だけは鋭くモニターを見据えていた。彼の白髪混じりの髪は、青白い光を受けて銀色に光っている。長年の研究生活で培われた直感が、今、何か重大な局面に差し掛かっていることを告げていた。
「……気象条件が"通常領域"に見えても、分子レベルでの相転移が暴走しているんだ」村上の声は低く、重かった。その言葉は、まるで遠くから響いてくる鐘の音のように、観測室の空気を震わせた。「大気中の微細構造で起きている変化が、我々の知る物理法則とは別次元で加速している。……その結果として、地上にある『記憶結晶』が不安定化する」
"記憶結晶"。
その言葉を聞いた瞬間、洋子の胸の奥がざわついた。昨日の地下実験室での光景が、脳裏に鮮烈に蘇る。岸本の脳内スキャン画像に浮かび上がった、雪の結晶と瓜二つの神経回路網。そして、それが雪と共鳴して崩れ落ちていく様。あの映像を見た時、洋子は言葉にできない戦慄を覚えた。人間の記憶が、こんなにも脆く、儚いものだったとは。
洋子は無意識に自分のこめかみに指を当て、机の端を強く押した。自分の脳の中にも、今この瞬間、無数の記憶結晶が存在しているのだろうか。それらは安定しているのか、それとも既に不安定化の兆候を見せ始めているのか。確かめる術はない。ただ恐怖だけが、じわじわと心を蝕んでいく。
「村上さん……つまり、こういうことですか?」彼女は震える声で確認するように問うた。言葉を紡ぐことさえ、今は勇気を必要とした。口に出せば、それが真実になってしまうような気がして。「外の世界の雪の"形の場"が強まりすぎると……私たちの脳内にある記憶結晶が、その強力な磁場に引っ張られて、安定を失って……昇華してしまう?」
洋子は自分の声が、まるで他人のもののように遠く聞こえた。その仮説を口にした瞬間、頭の中で何かが繋がっていく感覚があった。中谷宇吉郎が雪の結晶を研究し、その形成過程を解明したように、今、自分たちは人間の記憶という別の「結晶」の秘密に近づいているのだ。
「ああ、その通りだ」村上が静かに頷いた。その表情には、真実を知ってしまった者の重苦しさが刻まれていた。「氷が熱を受けずに直接気体になるのと同じ現象だ。ただし、物質として消えるんじゃない。"形"という情報だけが昇華して、空へ還っていく。……形を失えば、記憶は支えを失い、霧散するしかない」
村上の言葉を聞きながら、洋子は机の上に置かれた雪の結晶の写真集に目をやった。数日前まで、それは美しい自然の造形物を収めた、ただの学術資料だった。しかし今、その一枚一枚が、人間の記憶と存在そのものを脅かす脅威の姿に見えてくる。完璧な六角形は、もはや芸術ではなく、警告だった。
「そんな……」洋子は想像してしまった。頭の中にある大切な思い出たちが、ドライアイスの煙のように音もなく気化し、頭蓋骨の隙間から白い雪となって空へ吸い上げられていく光景を。母と訪れた海辺の記憶。浩と初めて出会った日の記憶。研究室で仲間と笑い合った日々。それら全てが、形を失い、ただの情報の断片として宙に散っていく――。
洋子は両手で頭を抱えた。想像するだけで、耐え難い喪失感が押し寄せてくる。記憶を失うということは、自分という存在の一部が欠け落ちることだ。いや、それどころか、記憶こそが自分自身を形作っているのではないか。記憶を失えば、自分は一体何者なのか。
「じゃあ……消失した人たちは……?」洋子の問いが、重苦しい室内に波紋のように広がった。記憶を吸い上げられ、形を失った彼らは、一体どこへ行ってしまったのか。肉体ごと消滅したのか、それとも別の次元へ転移したのか。
誰も答えを持っていなかった。あるいは、考えることを恐れて口を閉ざした。観測室には、モニターの光と冷却ファンの音だけが満ちていた。研究者たちは皆、自分の画面に視線を落としたまま、沈黙を守っている。その静寂は、まるで真空のように重く、息苦しかった。
浩は窓の外に目をやった。空はまだ暗く、街灯の明かりが雪の降る様を照らし出している。あの中に、消失した人々は存在しているのだろうか。それとも、もう完全に――。
沈黙が支配する観測室。その静寂を破ったのは、電子ロックが解除される無機質な音と、重いドアが開く音だった。冷たい外気と共に、一人の人物が入ってくる。
特別班の岸本だった。
黒いウールのコートには、外の激しい降雪を物語るように、細かい雪片が無数に付着していた。彼女はそれを払おうともせず、真っ直ぐに洋子たちの方へと歩み寄ってきた。その足音は規則正しく、まるで時計の針のように正確だった。観測室の全員が、一斉に岸本の方を振り向く。
その表情は、昨日の実験直後に見せた脆い人間らしさを完全に封印し、再び冷徹な"管理者"の仮面を被っているように見えた。だが、その瞳の奥には、確信めいた強い光が宿っていた。何か重大な情報を持ってきたのだと、洋子は直感した。
洋子は息を呑んだ。岸本の纏う空気が、いつもと違う。それは、決定的な何かを知ってしまった者だけが持つ、覚悟のようなものだった。
「……岸本さん」浩が立ち上がりかけたが、岸本はそれを片手で制した。その仕草には、無駄な時間を費やしている余裕はないという切迫感が滲んでいた。
「分析は進んでいるようですね」彼女はモニターを一瞥し、そこに表示された異常な数値の群れを確認した。そして静かに、しかし部屋の空気を一変させるような声で告げた。「その仮説の先にある答えを、お伝えしに来ました」
洋子は息を呑んだ。岸本の視線が、洋子、浩、そして村上を順に射抜く。その視線には、同情と、そして冷徹な事実を伝えなければならない者の責任感が混ざり合っていた。
部屋中の研究者たちが、手を止めて岸本に注目した。誰もが、今から語られる言葉が、全てを変えてしまうことを予感していた。時間が凍りついたように感じられる。外の雪だけが、変わらずに降り続けていた。
「先ほど、洋子さんは尋ねましたね。消失した人たちはどこへ行ったのか、と」岸本の声は静かだが、明瞭に室内に響いた。
「……はい」洋子は喉の奥が渇いているのを感じた。
「結論から申し上げます」岸本は一呼吸置き、残酷な真実を突きつけるように言った。「――彼らは、存在しています」
時間が止まったような錯覚を覚えた。
「……え?」洋子の思考が停止する。存在している? 行方不明になり、誰も見つけられないのに? その矛盾した言葉が、頭の中で渦を巻いた。
「どういう……ことですか」浩が掠れた声で問い返す。「存在しているなら、なぜ見つからないんですか。警察も、家族も、誰も彼らを見つけられない。カメラにも映らない。それは『いない』のと同じじゃないですか」
浩の声には、困惑と苛立ちが混ざっていた。科学者として、論理的に説明できないことを受け入れることは苦痛だった。存在と非存在の境界が曖昧になる――それは、物理学の根幹を揺るがすような話だ。
「いいえ。物理的には、彼らはそこにいます。今も、彼らの部屋に、あるいは街角に、確かに肉体を持って立っています」岸本は断言した。その声には一切の迷いがなかった。「消失者は"消えた"わけではないのです。ただ、その人に関する『記憶結晶』が……彼らを観測する周囲の人間の脳内から、完全に消去されているだけです」
洋子は混乱の中で、必死に言葉を紡ごうとした。頭の中で様々な可能性が高速で回転し、そして一つの恐ろしい結論へと収束していく。
「周囲の……脳から? じゃあ、本人が消えたんじゃなくて、私たちが……」
「そうです」岸本は残酷なまでに淡々と続けた。「私たち観測する側の脳から、『彼ら』という存在を認識するためのパターンファイルが欠落しているのです。だから、たとえ網膜に彼らの姿が映っていても、脳がそれを『意味のある情報』として処理できない」
「記憶がないから……見えない?」洋子の声は震えていた。透明人間になるのではない。そこにいるのに、誰の意識にも引っかからない「風景の一部」になってしまうということか。
洋子の背筋を、冷たいものが走った。それは物理的な消失よりも、ある意味で遥かに残酷な運命だった。そこに存在しながら、誰にも認識されない。声を上げても、誰の耳にも届かない。触れようとしても、誰も反応しない。生きた幽霊として、この世界を彷徨い続けるということ――。
「正しくは、"見えても、認識できない"のです」岸本は自身のこめかみを指差した。「脳の認知フィルターが、彼らをただのノイズ、あるいは背景として処理してしまう。……それが『消失』の正体です」
「見えていても……認識できない?」洋子は、岸本の言葉を何度も頭の中で反芻したが、その意味を咀嚼しようとするたびに、脳が拒絶反応を起こすようだった。「そんな馬鹿なこと……あるはずない。だって、目の前に人が立っていたら、避けるでしょう? ぶつかるし、声だって聞こえるはずだし」
洋子の声には、必死に現実を否定しようとする響きがあった。人間の認知というものが、そこまで脆弱で不確かなものだとは信じたくなかった。自分が見ている世界、触れている世界が、絶対的な真実であってほしかった。
「ええ。物理的には接触します」岸本は表情一つ変えずに答えた。「ですが、脳はそれを『人との接触』とは認識しません。『自動ドアが開かなかった』『風で物が当たった』『ただの空耳』――そうやって、瞬時に都合のいい解釈(ノイズ処理)を行って、対象の存在を意識の外へ追いやってしまうのです」
岸本の説明を聞きながら、洋子は自分の記憶を辿った。最近、妙な違和感を覚えたことはなかっただろうか。誰かとすれ違った時に、一瞬だけ感じた奇妙な感覚。風でもないのに何かに触れられたような気がした瞬間。それらは全て、消失者との接触だったのではないか――。
浩が、乾いた笑いを漏らした。「ハハ……なんだよそれ。まるでホラー映画の『幽霊』そのものじゃないか」
その笑いには、恐怖を誤魔化そうとする空虚さが滲んでいた。浩は机の端を掴み、立ち上がろうとして、しかしすぐに力が抜けて座り直した。彼の顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。
「科学的に言えば、そうです」村上が低い声で補足した。「幽霊とは、死んだ人間の魂じゃない。生きている人間が、脳のフィルターエラーによって『存在しないもの』として処理された結果のバグだ。……今、世界中で増えているのは、そういう生きた幽霊たちなんだ」
村上の言葉は、まるで重い鉛のように観測室の空気を沈ませた。研究者たちは皆、自分のモニターから目を逸らし、床を見つめたり、天井を仰いだりしている。誰も、この残酷な真実を正面から受け止める準備ができていなかった。
洋子は窓の外を見た。闇の中に降り注ぐ雪。その景色のどこかに、今も誰かが立っているのかもしれない。寒さに震えながら、助けを求めて叫んでいるのに、道行く人々にはその声が「風の音」にしか聞こえない。誰かの服を掴んでも、その手は「木の枝が引っかかった」程度にしか感じてもらえない。世界から断絶され、透明なカプセルに閉じ込められたまま、ゆっくりと凍えていく孤独。
洋子は思わず自分の腕を抱きしめた。体の芯から冷えていく感覚が、まるで自分が消失者になったかのようにリアルに感じられた。もし自分がそうなったら、どうやって正気を保てるだろう。誰にも届かない声を、いつまで叫び続けられるだろう。
「……残酷すぎる」洋子の目から、涙が滲んだ。「死ぬよりもひどい。世界中の全員から無視されて、たった一人で雪の中に放置されるなんて」
洋子の声は震え、最後の方は嗚咽に変わっていた。彼女は両手で顔を覆い、静かに泣いた。感情が堰を切ったように溢れ出し、止めることができなかった。理不尽すぎる。人間が、こんなにも簡単に、世界から切り離されてしまうなんて。
浩は立ち上がり、洋子の肩に手を置いた。何も言わなかったが、その手は温かく、確かな存在感があった。少なくとも今は、自分たちは互いを認識できている。この繋がりを失わないようにしなければ。
岸本は、痛ましげに目を伏せた。「だからこそ、今夜の作戦が必要なのです。雪の結晶構造を破壊し、脳への干渉を断ち切れば……人々の認知フィルターは正常に戻り、彼らの姿が再び『見える』ようになるはずです」
岸本の声には、僅かな希望と、そして強い決意が込められていた。彼女もまた、この現象を止めるために、全てを賭けているのだ。昨日の実験で見せた人間的な脆さは、今は鋼のような意志の下に封じ込められている。
浩がバッと顔を上げた。「……待てよ」彼は何かに気づいたように、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。その動きは、まるで憑かれたように激しく、キーの打音が観測室に響き渡った。
「どうした、浩くん」村上が訝しげに尋ねた。
「脳が認識できないなら……機械を使えばいい」浩の指先が走る。画面上に、大学構内のサーモグラフィ映像と、高感度マイクの音声波形が表示される。「人間の脳は雪に騙されてるけど、センサーは嘘をつかない。もし彼らがそこに物理的に存在しているなら、熱源反応や、音声データには必ず痕跡が残ってるはずだ!」
浩の提案に、観測室の空気が一変した。それまで諦めと絶望に支配されていた空間に、一筋の光が差し込んだような感覚があった。そうだ、人間の目が騙されても、機械は騙されない。物理法則は、人間の認知の外側にある客観的な真実を捉えることができる。
「確かに……!」村上が身を乗り出す。「だが、雪の冷気と風音でノイズだらけだぞ。見つけられるか?」
村上の懸念はもっともだった。外は吹雪いている。気温は氷点下で、風は激しく吹き荒れている。そんな環境の中で、人間一人の微弱な体温や声を検出することは、砂漠で一粒の砂金を探すようなものだ。
「見つけるんです。ノイズの海の中から、人間一人の心音を」浩の目は血走っていたが、そこには確かな光があった。諦めない、という強い意志が燃えていた。「洋子、手伝ってくれ。お前の感覚が必要だ。……機械的なデータの中から、『人間らしい揺らぎ』を探してくれ」
「わかった」洋子は涙を拭い、浩の隣に座った。彼女は深呼吸をして、気持ちを切り替えた。今は泣いている場合じゃない。救える命があるなら、全力で探し出さなければ。
二人はモニターに食い入るように向き合った。画面には、吹雪くキャンパスの赤外線映像が映し出されている。一面が青い冷気の色に染まる中、無数の白いノイズが走っている。雪と風が作り出す混沌としたデータの海。その中から、たった一つの命の痕跡を見つけ出さなければならない。
洋子は目を凝らした。画面上を縦横に走る無数の熱反応。それぞれが何なのかを判別するのは、想像以上に困難だった。建物から漏れる暖気、換気扇の排熱、地面に残る余熱――全てが混ざり合い、カオスを形成している。
「ここ……違う。これは排気口の熱」洋子が画面の一点を指差す。
「こっちは野良猫だ。……くそっ、雪が強すぎて視界が効かない」浩が悔しそうに呟いた。
二人は画面を次々と切り替え、キャンパスの隅々まで確認していく。図書館の裏、中庭、駐車場、研究棟の周辺――どこを見ても、人間らしい熱源は見つからない。あるいは、見つかったと思っても、それはすぐに別の何かだと判明する。
時間は残酷に過ぎていく。岸本も後ろで固唾を飲んで見守っていた。もしここで「彼ら」を見つけられなければ、今夜の破壊作戦で、彼らを救えるという確証も得られないままになる。理論は正しくても、実証できなければ意味がない。
村上も立ち上がり、別のモニターで音声データの解析を始めた。彼の表情は厳しく、疲労の色が濃い。しかし、その目には諦めの色はなかった。何十年も気象学に携わってきた彼にとって、この現象は自然科学の範疇を超えているが、だからこそ解明しなければならないものだった。
観測室の他の研究者たちも、それぞれのデータを見直し始めた。誰もが無言で作業に没頭している。キーボードを叩く音、マウスをクリックする音、時折漏れる小さな溜息――それだけが室内に響いていた。
数十分が経過し、諦めの空気が漂い始めたその時。
「……待って」洋子が鋭く声を上げ、画面の一角を指差した。「この音……聞こえる?」
彼女が指したのは、マイクが拾った風の音の解析データだった。ゴーッという暴風音の裏側に、一定の間隔で繰り返される、極めて微弱な周波数。それは他のノイズとは明らかに異なる規則性を持っていた。
洋子の直感が、何かを捉えた。雪の結晶を見る時と同じように、彼女は混沌の中から秩序を見出す能力を持っていた。自然の中に隠れたパターンを、理屈ではなく感覚で感じ取ることができた。
「風の音じゃない。……規則的すぎる」洋子は画面に顔を近づけた。
浩が即座にその周波数帯を抽出し、ノイズキャンセリングをかけた。彼の指は正確に、迷いなく必要な操作を実行していく。二人の息はぴったりと合っていた。まるで何年も一緒に研究してきたパートナーのように。
スピーカーから、ザラザラとした雑音が消え、クリアになった音が流れ出した。
最初は何も聞こえなかった。静寂だけが続く。しかし耳を澄ますと、そこに確かに――
『……だれか……』
小さな、震える声だった。
『……ここだよ……わたしは、ここにいるよ……』
その場にいた全員が、息を呑んだ。時間が止まったように感じられた。スピーカーから流れる声は、絶望と希望が入り混じった、魂の叫びだった。
「……!」洋子は口元を押さえた。涙が再び溢れそうになるのを必死に堪えた。「これ、あの時の……」
名前は思い出せない。けれど、確かに聞き覚えのある声。廊下ですれ違った時の挨拶。研究室で交わした他愛ない会話。その断片が、洋子の記憶の奥底から浮かび上がってこようとして、しかし霧のように掴めずに消えていく。
「一週間前に消えた、理学部の女子学生だ」村上が呻くように言った。彼の声は震えていた。「彼女は……まだ大学にいたのか。一週間も、誰にも気づかれないまま、この寒さの中で……」
村上の言葉は最後まで続かなかった。想像するだけで、あまりにも過酷すぎる。一週間。七日間。百六十八時間。その全てを、彼女は一人で、誰にも認識されないまま、雪の中で過ごしてきたのだ。
浩は素早く赤外線カメラを操作し、声のした方向――中庭のベンチ付近を拡大した。彼の手は震えていたが、操作は正確だった。画面がズームされ、より詳細な映像が表示される。
青い画面の中に、雪に埋もれるようにして、かすかに赤く光る小さな熱源があった。それは、膝を抱えて座り込む、人の形をしていた。体温は低く、周囲の冷気に侵食されかけている。しかし、まだ生きている。確かに命の炎が、細く、弱々しくだが、灯り続けていた。
「いた……」浩の声が震えた。「そこにいる。俺たちの目の前に、ずっといたんだ」
モニター越しに見るその姿は、あまりにも心細げで、今にも消えてしまいそうだった。だが、確かに命の熱を放っていた。彼女は諦めずに、助けを呼び続けていた。届くはずのない声を、それでも発し続けていた。
洋子は画面を見つめながら、心の中で呼びかけた。ごめんね、気づいてあげられなくて。でも、もう大丈夫。あなたはもう一人じゃない――。
「岸本さん!」浩が叫ぶように振り返る。「彼女は生きてます! 認知を取り戻せば、助けられる!」
浩の声には、確信と興奮が混ざっていた。理論が実証された。消失者は物理的に存在している。ならば、脳の認知フィルターを正常化すれば、彼らを救い出せる。
岸本は深く頷き、その瞳に涙を溜めながらも、力強く答えた。「ええ。……証明されました。彼らは生きて、私たちの助けを待っている」
彼女は手元の通信機を握りしめた。その手は僅かに震えていたが、声は毅然としていた。「全ユニットへ通達。作戦開始時刻に変更なし。……ただし、目的を追加します」
岸本の声が、凛と響き渡る。
「これは現象の抑止ではない。……大規模な『救助活動』である」
その宣言に、観測室の全員が顔を上げた。絶望に沈んでいた空気が、一気に希望の色を帯びる。作戦の意味が変わった。これは単なる科学的実験ではない。今も雪の中で震えている人々を、世界から救い出す戦いなのだ。
洋子は、モニターの中の赤い影に手を触れた。冷たいガラスの向こうにいる、名前のない友人へ。
「もう少しだけ、待ってて」心の中で呼びかける。「今、壁を壊すから。あなたを閉じ込めている、きれいすぎる雪の壁を」
窓の外、空が白み始めていた。夜明けの光の中で、雪は相変わらず美しく、残酷なほど整然と降り続いている。だが、その完璧な支配も、あと数時間で終わる。
二人は顔を見合わせた。言葉は要らなかった。互いの瞳に映る決意だけが、凍える世界で唯一の、確かな熱源だった。
「行こう、洋子」
「うん、浩くん」
二人は観測室を飛び出し、最後の戦いの場――干渉装置が待つ屋上へと向かった。雪との、そして忘却との決着をつけるために。




