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雪の哲学  作者: 唯野眠子
11/21

第11話「実験の開始」

研究棟の最深部に位置する地下実験室への道のりは、まるで異界へと通じるトンネルのようだった。

エレベーターが地下三階を示すランプを点灯させ、重い扉が開いた瞬間、肌を刺したのは冬の季節風とは質の異なる、古く淀んだ冷気だった。そこには太陽の匂いが一切なく、コンクリートの壁が長年吸い込み続けた科学者たちの緊張と、行き場のない沈黙だけが堆積している。

その冷気は、物理的なものだけではなかった。心理的な冷たさもあった。この場所は、普段は使われない。特別な実験のときだけ、開かれる。そして、今日は、その特別な日だった。

エレベーターのドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。その音が、地上との繋がりを断ち切ったかのように感じられた。

洋子は、白衣の袖を無意識に握りしめながら、長い廊下を歩いた。

その廊下は、まっすぐで、長かった。両側は白い壁。何の装飾もない。ただ、白い壁が続いている。その単調さが、かえって不安を煽った。

カツ、カツ、という靴音が、無機質な白い壁に反響して吸い込まれていく。隣を歩く浩も、背後を固める村上も、一言も発しない。昨夜、政府による「人工干渉実験」が決定されたという重圧が、それぞれの肩にのしかかっていた。

人工干渉実験。その言葉の重みを、三人は理解していた。自然現象に、人為的に介入する。それは、科学者として、越えてはならない一線かもしれない。だが、選択肢はない。

洋子は、浩の横顔を見た。その顔は、緊張していた。眉間に皺が寄り、唇は固く結ばれている。彼もまた、この実験の重大さを理解している。

村上は、後ろを歩いていた。その足音は、重かった。彼は、普段は軽口を叩く。だが、今日は違う。完全に、沈黙している。

今日行われるのは、その干渉実験の前段階となる検証――"記憶結晶"の実在証明だ。

記憶結晶。理論上は存在する。だが、実際に観測されたことはない。それを、今日、確認する。

人間の脳内で記憶が形成されるとき、本当に雪の結晶と同じ物理構造が現れるのか。それを確かめることは、パンドラの箱を開けることに等しいと、洋子は本能的に感じていた。

知ってはいけないことがある。見てはいけないものがある。その境界を、今、越えようとしている。

「……ここです」

先導していた特別班の岸本が、重厚な金属扉の前で足を止めた。

その扉は、他の扉とは違っていた。より厚く、より重厚に見える。まるで、何かを閉じ込めるための扉のように。

電子ロックを解除する音が、静寂の中で不吉な銃声のように響く。

ピッ、ピッ、という電子音。その音が、運命の到来を告げているように感じられた。

扉がゆっくりとスライドし、その奥にある空間が露わになった。

ゴォォォ、という重い音を立てて、扉が開く。その音は、地獄の門が開くような響きを持っていた。

そこは、完全な「白」の世界だった。

洋子は、その光景に目を細めた。あまりにも明るい。目が痛いほどだ。

床も壁も天井も、影を拒絶するように白く磨き上げられ、強力なLED照明が空間全体を均一に照らしている。

その部屋には、温度がないように感じられた。温かさも、冷たさもない。ただ、無機質な白だけがある。

その部屋の中央に、巨大な棺のような装置が鎮座していた。

その装置を見た瞬間、洋子は息を呑んだ。

円環状の巨大な磁気コイルがベッドを取り囲み、無数のケーブルが蛸の足のように制御コンソールへと伸びている。

その装置は、威圧的だった。まるで、生き物のように見える。人間を飲み込む、巨大な生き物。

「脳内微細構造解析用・高分解能スキャナー……」

浩が呻くように機種名を呟いた。

その声には、畏怖があった。この装置の能力を、彼は知っている。

「本来なら重度の脳損傷や、未知の神経変性疾患を解析するために使われる代物だ。まさか、これを大学の地下に持ち込んでいたなんて」

浩の言葉には、驚きがあった。この装置は、通常、大きな病院にしかない。それが、ここにある。その事実が、事態の深刻さを物語っていた。

「この事態に備えて、昨夜のうちに搬入させました」

岸本は装置の縁に手を触れた。

一瞬だけ、その指先が止まる。冷たい金属の感触を確かめるように、わずかに力がこもった。

装置の冷ややかな金属の光沢が、彼女の表情をより硬質に見せている。

その手つきは、慣れているようだった。まるで、何度も触れたことがあるかのように。

「この装置を使えば、神経細胞ニューロンの発火パターンだけでなく、その瞬間にシナプス間隙で形成されるタンパク質の立体構造まで、ナノレベルで可視化できます」

岸本の説明は、専門的だった。だが、その意味は明確だった。記憶の形が、見える。

彼女は浩と村上を見据えた。

その目は、真剣だった。冗談ではない。本気だ。

「あなた方の仮説が正しければ……記憶が定着するその瞬間、脳内の分子配列は"あの形"をとるはずです」

その言葉は、確認だった。仮説の検証。それが、今日の目的だった。

「雪の……六花結晶の形に」

洋子が言葉を継ぐと、岸本は静かに頷いた。

その頷きは、重かった。肯定。そして、覚悟。

村上が手元のクリップボードを開き、少し躊躇いながら尋ねた。

その躊躇いには、理由があった。次の質問は、重要だった。そして、答えにくいものだった。

「装置の準備は完璧ですが……肝心の被験者は誰がやるんですか? これほどの高磁場をかける実験だ。脳への負担も未知数ですし、何より、記憶の深層を覗かれる精神的ストレスは計り知れない」

村上の問いは、倫理的なものだった。誰が、この実験の犠牲になるのか。

政府が用意した特殊部隊の兵士か、あるいは志願した学生か。

誰であれ、他人の脳の中身を覗く罪悪感は拭えない。

洋子も、その答えを恐れていた。誰が被験者になるのか。その人は、どんな思いで、この装置に入るのか。

しかし、岸本は迷いのない声で短く答えた。

「私です」

その言葉が、部屋に落ちた。

言い切った直後、岸本はわずかに息を整えた。その仕草は、誰にも見せないはずの迷いを、ほんの一瞬だけ外に漏らした。


その場にいた全員の動きが止まった。

時間が止まったように感じられた。岸本の言葉が、空中に浮かんでいる。「私です」。その言葉の意味を、理解するのに時間がかかった。

「えっ、岸本さんが……?」

洋子は思わず声を上げた。国家の危機管理を担う重要人物が、リスクの高い実験台に立つなどあってはならないことだ。

その声は、驚きと、そして反対の意思を含んでいた。岸本が、この装置に入る。それは、危険すぎる。

浩も、村上も、同じことを思っていた。その顔には、困惑が浮かんでいた。

「他に適任はいません」

岸本は淡々と、しかし拒絶を許さない響きで言った。

その声は、決意に満ちていた。議論の余地はない。そう言っている。

「この実験には、強く明確な『記憶の喪失感』を持っている人間が必要です。雪の干渉を受け、空席を抱えながらも、まだ自我を保っている人間でなければ、鮮明なデータは取れません」

言葉は即答だったが、視線は一度だけ、床に落ちた。

岸本の説明は、論理的だった。確かに、その通りだった。消失現象の影響を受けている人間。だが、完全には消えていない人間。その境界線上にいる人間が、最適な被験者だった。

そして、岸本は、その条件を満たしていた。歯ブラシの話。誰かを忘れている。だが、感情は残っている。その状態が、実験に必要だった。

彼女は一度言葉を切り、少しだけ表情を緩めた。昨日、研究室で見せたあの人間らしい弱さが、一瞬だけ垣間見えた。

その表情は、柔らかかった。官僚の顔ではなく、一人の人間の顔。

岸本は一度、喉を鳴らした。ここから先は、立場ではなく、個人の領域だった。

「それに……確かめたいのです。私の家の洗面所にある、あの見知らぬ歯ブラシの持ち主が……私の中でどんな"形"をして残っているのかを」

その言葉は、個人的なものだった。任務ではない。個人的な願い。知りたい。忘れた人を。その形を。

その言葉には、誰も反論できなかった。

それは任務であると同時に、彼女個人の切実な祈りでもあったからだ。

彼女は、知りたい。そして、その権利がある。自分の記憶なのだから。

洋子は、胸の奥が熱くなるのを感じた。この人は、冷徹な官僚である前に、失われた誰かを想う一人の人間なのだ。

その思いが、洋子の心を打った。自分も、同じだった。忘れた誰かを、思っている。その痛みを、共有している。

「……わかりました」

浩が静かに言った。

その声は、落ち着いていた。反対はしない。受け入れる。

「僕たちがオペレーションを担当します。……必ず、あなたの記憶の形を見つけ出します」

浩の言葉は、誓いだった。約束だった。岸本の願いを、叶える。その決意が、言葉に込められていた。

村上も、頷いた。無言で。だが、その頷きには、同意があった。

実験の準備は、厳粛な儀式のように進められた。

その動きは、静かで、丁寧だった。まるで、神聖な儀式を執り行うかのように。

岸本は上着を脱ぎ、検査着に着替えて白いベッドに横たわった。

その検査着は、薄く、白かった。病院の患者服のような。その姿は、普段の彼女とは全く違って見えた。

頭部には無数の電極センサーが装着され、その上から巨大なドーナツ状のスキャナーが覆いかぶさる。

その作業は、特別班のスタッフが行った。慣れた手つきで、一つ一つの電極を、正確な位置に配置していく。

洋子は、その様子を見守っていた。岸本の顔が、徐々に装置に覆われていく。その光景は、まるで、棺に入っていくかのようだった。

閉ざされた空間の中で、彼女は小さく、しかし深く息を吸い、目を閉じた。

その横顔は、祭壇に捧げられた生贄のように無防備で、そして美しかった。

洋子は、その美しさに息を呑んだ。岸本は、恐れていない。覚悟を決めている。その姿が、美しかった。

制御室に入った浩と村上は、並んだモニターに向かい、次々とパラメータを設定していく。

その作業は、機械的だった。だが、その手つきには、緊張があった。

「磁場強度、正常。冷却システム、安定」

村上が、数値を確認しながら報告する。

「脳波モニタリング開始。……α波、優位です。驚くほど落ち着いている」

岸本の指先が、ベッドの縁を探るように動いているのとは裏腹な数値。

浩の声には、感嘆があった。この状況で、落ち着いている。岸本の精神力を、彼は評価していた。

浩の指先がキーボードの上を走る。その手つきは正確だったが、額には脂汗が滲んでいた。

その汗が、彼の緊張を物語っていた。冷静に見えるが、内心では緊張している。

洋子は浩の隣に立ち、岸本の心拍数を示す波形を見守っていた。

その波形は、規則正しかった。上下に揺れる線。その線が、命を示している。

トック、トック、トック……。

規則正しい電子音が、彼女の命がそこにあることを告げている。

その音は、心強かった。生きている。まだ、大丈夫だ。

これから、この鼓動の奥にある"心"の形を、無理やり暴き出すのだ。

その行為の重さを、洋子は感じていた。心を覗く。それは、侵入だった。だが、必要なことだった。

「岸本さん、聞こえますか?」

マイク越しに浩が呼びかける。

その声は、優しかった。被験者を気遣う声。

スピーカーから、落ち着いた声が返ってきた。

『ええ、クリアに聞こえています。始めてください』

岸本の声は、変わらず冷静だった。恐怖は感じられない。

「これより、記憶刺激シーケンスを開始します。……用意された音や香りを使って、あなたの海馬にある長期記憶を呼び起こします。リラックスして、浮かんでくる情景に身を委ねてください」

浩の説明は、丁寧だった。被験者を安心させるための説明。

音や香り。それが、記憶を呼び起こす。プルースト効果。特定の感覚刺激が、記憶を蘇らせる。

洋子はガラス越しに、装置の中の岸本を見た。

そのガラスは、厚かった。防音のため。だが、視覚的には繋がっている。

彼女は今、暗闇の中で一人、失われた記憶の淵に立っている。

その孤独を、洋子は想像した。暗闇の中。一人。記憶を探す。その恐怖。

「……怖くないのかな」

洋子の呟きに、浩がモニターから目を離さずに答えた。

「怖いさ。……でも、知りたいっていう欲求が勝ってるんだ。科学者としても、人間としても」

浩の言葉は、理解を示していた。恐怖はある。だが、それを超える欲求がある。知りたい。その欲求が、人を動かす。

「準備完了」

村上が合図を送る。

その声は、緊張していた。いよいよだ。

室内の照明が一段階落とされ、モニターの青白い光だけが研究者たちの顔を照らし出す。

その光は、不気味だった。顔が、青白く見える。まるで、幽霊のように。

静寂。

その静寂は、重かった。誰も、声を出さない。

聞こえるのは、冷却ファンの低い唸りと、全員の緊張した呼吸音だけ。

その音だけが、生命の存在を示していた。

「記憶刺激、フェーズ1。……お願いします」

岸本の静かな声が引き金となった。

その声は、覚悟を決めた声だった。始めてほしい。そう言っている。

浩はスキャナーの出力レバーに手をかけ、ゆっくりと押し上げた。

その動作は、慎重だった。急激な変化は、危険だ。ゆっくりと。

「刺激を入れます……3、2、1」

浩のカウントダウンが、運命のカウントダウンに聞こえた。

3。

2。

1。

そして、実験が始まった。


「刺激信号、到達します」

浩の声と共に、制御コンソールのモニター上に激しいスパイク波形が走った。

その波形は、鋭かった。まるで、心臓の鼓動のように。だが、これは脳の活動だった。

無機質な電子音が高まり、部屋中の空気がぴんと張り詰める。

その音は、緊張を呼び起こした。何かが、始まった。その予感が、部屋を満たした。

ガラスの向こう、巨大なドーナツ状のスキャナーの中に横たわる岸本の体が一瞬、小さく跳ねたように見えた。瞼の下で眼球が急速に動いている。彼女は今、強制的に呼び起こされた過去の記憶の海を泳いでいるのだ。

その動きは、REM睡眠のようだった。夢を見ているときの動き。だが、これは夢ではない。記憶だ。

洋子は、その様子を固唾を呑んで見守っていた。岸本が、苦しんでいないか。痛みはないか。その不安が、洋子を襲った。

「海馬領域、活性化。……血流増大」

村上が食い入るようにサブモニターの数値を読み上げる。

その声は、興奮していた。科学者として、この現象を目撃している興奮。

「すごいな……。長期記憶の保管庫がフル稼働している。彼女は今、過去の風景を『今ここにある現実』として再体験している状態だ」

村上の説明は、驚嘆に満ちていた。人間の脳が、過去を現在として再生している。その驚異。

「画像処理、かけます。ノイズを除去して、神経回路の結合パターンだけを抽出」

浩の指先が高速で動き、メインモニターの表示を切り替える。

その動作は、正確だった。何度も練習したかのように。だが、これは初めての実験だった。

最初は、砂嵐のような無秩序な光の点が画面を埋め尽くしていた。

その光景は、混沌としていた。何も見えない。ただのノイズ。

それはただのカオスに見えた。数十億の神経細胞がランダムに明滅する、生命活動のノイズ。

洋子は、その画面を見つめた。何が見えるのか。記憶の形とは、どんなものなのか。その期待と不安が、胸の中で渦巻いていた。

しかし、数秒後――。

画面が、変化し始めた。その変化は、微妙だった。だが、確実にあった。

「……あっ」

洋子の喉から、声にならない息が漏れた。

その変化に、最初に気づいたのは洋子だった。彼女の感受性が、それを捉えた。

彼女は無意識にモニターに指を伸ばし、ガラス面に触れた。

その指が、震えていた。信じられない。だが、目の前にある。

「浩くん、見て……。ノイズじゃない。これ、集まってる」

洋子の声は、興奮していた。発見の興奮。

画面の中央、光の嵐が徐々に静まり、ある一つの秩序に向かって収束し始めていた。

その動きは、美しかった。カオスから秩序へ。その移行を、目の当たりにしている。

散らばっていた光の点と点が、見えない線で結ばれ、幾何学的なネットワークを形成していく。

その形成過程は、有機的だった。まるで、生き物が成長していくかのように。

その角度。その分岐の法則。

洋子は、その法則を知っていた。研究してきた。雪の結晶の法則。

「嘘だろ……」

浩が呻き、眼鏡のブリッジを押し上げた。

その声には、信じられないという思いが込められていた。

「60度……120度……。すべての分岐角が、六花結晶の成長則と完全に一致してる」

浩の声は、震えていた。仮説が、証明された。その衝撃。

モニターに浮かび上がっていたのは、紛れもなく「雪の結晶」だった。

その光景は、圧倒的だった。美しく、そして恐ろしい。

ただし、氷でできた結晶ではない。神経細胞の電気信号が織りなす、青白く輝く光の結晶だ。

それは、幻想的だった。まるで、宇宙に浮かぶ星座のように。だが、これは人間の脳の中だった。

「六角形……!」

洋子の声が震える。

その声は、畏怖に満ちていた。自然の神秘を目撃している畏怖。

「六花結晶そのものだよ……! 脳の中に、雪が降ってる」

洋子の言葉は、詩的だった。だが、それは比喩ではなかった。文字通り、脳の中に雪があった。

枝の角度は等分され、中心に向かって均質な形で鋭く伸びている。

その形は、完璧だった。自然の法則が、そのまま脳の中に再現されている。

記憶が鮮明になればなるほど、その結晶はより複雑に、より美しく、より鋭利な構造へと成長していく。

その成長を、三人は息を呑んで見守っていた。時間が止まったかのように。

「なんてことだ……」

村上が呆然と立ち尽くす。

その声には、恐怖があった。科学者として、この現象の意味を理解している恐怖。

「記憶が形成されるとき、脳の物理構造そのものが、六花結晶のパターンへと再構築されているのか? まるで、脳みその水分が瞬間的に凍りついたみたいに」

村上の説明は、的確だった。だが、その意味は恐ろしかった。

その美しさは、圧倒的だった。

洋子は、その美しさに魅了されていた。だが、同時に恐怖していた。

人間一人の人生、喜びも悲しみも、すべてがこの精緻な幾何学模様の中に封じ込められている。

その事実が、洋子を震撼させた。人生が、パターンになる。記憶が、構造になる。

だが、次の瞬間、浩がマイクに向かって叫んだ。

「岸本さん、聞こえますか! 今です。そのイメージを……『失われた誰か』の記憶に向けてください!」

その声は、緊急だった。今、この瞬間が重要だ。

スキャナーの中の岸本の眉間に、深い皺が刻まれる。

その表情は、苦痛に満ちていた。彼女は、苦しんでいる。

彼女は今、必死に探っているはずだ。

洗面所に残された歯ブラシ。隣にいるはずなのに、顔も名前も思い出せない誰か。その空白の輪郭を。

失われた記憶を、探している。その努力が、顔に刻まれている。

直後、モニター上の美しい結晶に異変が起きた。

その変化は、突然だった。

「うわっ……!」

浩がのけぞる。

その反応は、反射的だった。衝撃的な光景。

画面に映し出されていた完璧な六角形の一部が、突如として激しく歪んだのだ。

その歪みは、不自然だった。まるで、何かに侵食されたかのように。

まるで、そこだけ高熱のバーナーで炙られたかのように、結晶の枝が溶解し、黒く焼け焦げたような「穴」が開いた。

その穴は、恐ろしかった。美しい結晶に、醜い穴。

「……壊れてる」

洋子が悲鳴に近い声を上げた。

その声は、恐怖に満ちていた。記憶が、壊れている。視覚的に。


「違う、最初から『無い』んだ。……本来あるはずの枝が、根こそぎ奪われてる」

浩の声は、冷静だった。だが、その奥には恐怖があった。

その「穴」は、不気味なほど滑らかな断面を晒していた。

その断面は、人工的だった。自然に欠けたのではない。切り取られた。

ただ忘れたのではない。物理的な構造として、そこにあったはずの情報が、外科手術のように綺麗に切除されている。

その精密さが、かえって恐ろしかった。何かが、意図的に記憶を奪っている。

そして恐ろしいことに、その「欠損した形」さえも、逆説的に美しい六角形の一部を成していた。

完璧な切除。まるで、パズルのピースを抜き取ったかのように。

洋子は、その光景に言葉を失っていた。美しさと恐怖が、同居している。

「これが……『空席』の正体……」

浩が震える手で、その欠損部分を拡大する。

画面に、欠損部分が大きく映し出される。その詳細が、明らかになる。

「雪が記憶を奪うっていうのは、比喩じゃなかった。僕たちの脳内にあるこの結晶構造の一部を、空から降ってくる雪が『共鳴』して引き剥がしているんだ。……同じ形だからこそ、パズルのピースみたいに吸い上げられてしまう」

浩の説明は、明瞭だった。仮説が、証明された。記憶と雪は、同じ構造を持っている。だから、共鳴する。そして、記憶が奪われる。

その理論は、完璧だった。だが、その完璧さが、恐ろしかった。

実験室に、重苦しい沈黙が落ちた。

誰も、何も言えなかった。この現実を、どう受け止めればいいのか。

モニターの中で、傷ついた光の結晶が、主の悲しみを訴えるように明滅を繰り返している。

その明滅は、まるで泣いているようだった。記憶が、泣いている。

「……実験、終了します」

浩が静かに告げ、スキャナーの出力を落とした。

その声は、疲れていた。この実験が、彼に与えた衝撃の大きさを物語っていた。

青白い光が消え、モニターは再び黒い静寂に戻った。

その静寂は、深かった。すべてが、終わった。

数分後、スキャナーから出てきた岸本は、ひどく消耗していた。

その姿は、痛々しかった。体力的にも、精神的にも、限界に達している。

顔色は青白く、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。洋子が慌ててタオルと水を渡すと、彼女は震える手でそれを受け取った。

その手は、冷たかった。まるで、氷のように。

「……見えましたか?」

岸本の第一声は、掠れていた。

その声は、弱々しかった。だが、その奥には、強い意志があった。知りたい。その欲求が、彼女を支えていた。

「はい」

浩は沈痛な面持ちで、先ほどの画像データのプリントアウトを渡した。

そのプリントアウトは、まだ温かかった。プリンターから出たばかり。

「これが、あなたの記憶の形です。そして……ここが、あなたが探していた『誰か』のいた場所です」

浩の説明は、慎重だった。この事実を、どう伝えるべきか。その配慮が、言葉に表れていた。

岸本は、六角形の一部が黒く欠け落ちたその画像を見つめた。

その目は、動かなかった。ただ、まばたきを忘れたように、視線だけがそこに縫い止められている。

しばらくの間、彼女は動かなかった。

時間が止まったかのように。その静止が、永遠に続くかのように感じられた。

やがて、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、プリントアウトの上に染みを作った。

その涙は、静かに流れた。音もなく。だが、その重みは、計り知れなかった。

「……ああ。やっぱり、いたんですね」

彼女は泣きながら、安堵したように微笑んだ。

その笑顔は、複雑だった。悲しみと、安堵と、そして愛が混ざり合っている。

「私の脳が壊れたわけじゃなかった。……ただ、奪われただけだった」

その言葉は、悲しみよりも深い、ある種の救いを含んでいた。

自分が狂ったのではなく、確かに愛する人がそこにいて、その証が「傷跡」として自分の中に残っていることが証明されたのだから。

洋子は、その姿を見て、涙が溢れそうになった。だが、堪えた。今、泣くべきではない。

岸本は、孤独ではなかった。誰かを愛していた。その証が、今、示された。

「……証明終了です」

声は平静を装っていたが、その直前まで、彼女の手は胸元を離れていなかった。

岸本は涙を拭い、顔を上げた。その表情には、再び強い意思が宿っていた。

その変化は、驚くべきものだった。弱さから、強さへ。一瞬で。

「これで確定しました。雪の結晶と記憶は、物理的に同じものです。……ゆえに、今夜の『干渉実験』は有効です」

岸本の声は、力強かった。もう、迷いはない。

彼女は自分の中の傷跡を抱きしめるように、胸元に手を当てた。

その仕草は、優しかった。失われた誰かを、思っている。

「雪の構造を破壊すれば、記憶との共鳴は止まる。これ以上、誰かの心にこんな穴が開くのを防げるはずです」

その言葉は、決意だった。戦う決意。守る決意。

洋子は、その決意の重さに言葉を失った。

雪を壊すということは、空に浮かぶ無数の「誰かの記憶」を壊すことでもある。

その矛盾。記憶を守るために、記憶を壊す。

けれど、それをしなければ、地上の人間はみな記憶を失い、空っぽの抜け殻になってしまう。

究極の二者択一。

どちらを選んでも、何かが失われる。完璧な解決はない。

「行きましょう」

岸本が白衣を脱ぎ捨て、出口へと歩き出した。

その足取りは、しっかりとしていた。迷いはない。

「作戦開始まで、あと六時間。……この世界を守るために、私たちは空を撃たなければなりません」

その言葉は、宣戦布告だった。雪に対する。

浩と村上、そして洋子は、無言で彼女の背中を追った。

その背中は、小さかった。だが、強かった。

地下室の冷たい空気の中に、岸本が見た「傷ついた結晶」の残像がいつまでも漂っている気がした。

その残像は、美しく、そして悲しかった。

今夜、この大学から放たれる光が、あの美しい雪たちを粉々に砕く。

その行為の重さを、洋子は噛み締めていた。

それは、人類が生き残るための戦いであり、同時に、かつて人間だったものへの弔い合戦でもあった。

雪の中には、記憶がある。誰かの記憶が。それを壊す。それは、誰かを二度殺すことだった。

外の世界では、依然として雪が降り続いているはずだ。

その雪は、美しい。だが、敵だった。

二人は重い扉をくぐりながら、覚悟を決めた。

その覚悟は、重かった。だが、必要だった。

どんなに残酷な結果になろうとも、その瞬間から目を逸らさないと。

その誓いを、心に刻んだ。

エレベーターが、上昇し始めた。

地下から、地上へ。

そして、やがて空へ。

戦いの場所へ。

洋子は、浩の手を握った。

その手は、温かかった。

生きている温もり。

その温もりを、守る。

それが、彼らの戦いだった。

エレベーターの数字が、上がっていく。

1階。

2階。

3階。

そして、地上へ。

扉が開く。

光が、差し込んできた。

外の世界。

雪が、降っている。

美しい、敵が。

洋子は、その雪を見つめた。

今夜、決着をつける。

その決意を、新たにした。


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