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雪の哲学  作者: 唯野眠子
10/20

第10話「記憶の物質化理論」

午前九時。

研究棟の第一会議室には、外の雪よりも冷たく、重たい緊張が澱んで漂っていた。

その緊張は、物理的なものではない。だが、確かに感じられる。空気が重い。呼吸をするたびに、その重さが肺に入り込んでくる。

部屋の北側に設けられた横長の窓には、細かい六花結晶がびっしりと貼りついている。曇り空からの鈍い光を受けて淡く、白く光るその群れは、あまりにも均質で、隙間がない。それはまるで、この部屋を外界の現実から遮断し、白い異界へと閉じ込めるための"膜"のようにも見えた。

その光景は、美しかった。だが、不気味でもあった。自然が作り出したものとは思えないほど、完璧だった。人工的な完璧さ。それが、恐怖を呼び起こす。

洋子は、その窓を見つめていた。雪の結晶。自分が研究してきた対象。だが、今は、敵に見える。美しい敵。

洋子と浩、そして村上の三人は、この日の朝、緊急招集された特別会議のために席についていた。

その席は、会議室の奥だった。まるで、傍観者の位置。だが、彼らは傍観者ではない。この現象の中心にいる。当事者だ。

普段は学生たちの活気ある議論が交わされるこの場所も、今日は全く別の空間に変貌している。いつもなら、笑い声や議論の声が響いている。だが、今日は違う。静寂が支配している。

部屋の中央には、政府から持ち込まれた最新式の大型電子黒板が設置され、その周囲には特別班のメンバー数名が、直立不動のまま沈黙を守っていた。彼らの纏う黒いスーツが、白い雪明かりの中で異様なコントラストを描いている。

その光景は、非現実的だった。まるで、映画のワンシーンを見ているような。だが、これは現実だ。自分たちは、その中にいる。

浩は、緊張していた。手が、わずかに震えている。膝の上に置いた手を、強く握りしめる。その痛みで、現実を感じようとしている。

村上は、表情を硬くしていた。いつもの飄々とした雰囲気はない。真剣な顔。覚悟の顔。

「……揃いましたね」

先に到着し、手元の資料に目を通していた岸本が、顔を上げた。

その声は、静かだった。だが、よく通る声。会議室全体に響く声。

昨日の個人的な告白を経て、彼女の瞳には以前のような無機質な冷徹さだけでなく、悲しみを背負った人間特有の、深く静かな光が宿っていた。

その目を見て、洋子は思った。岸本は、変わった。人間になった。弱さを見せた。そして、それが彼女を強くした。

彼女はタブレットを閉じ、三人に向き直る。その動作一つにも、これから語られる内容の重さが滲んでいるようだった。

その動作は、ゆっくりとしていた。意図的な遅さ。何かを伝えようとしている。これから話すことは、重要だ。そのメッセージが、動作に込められていた。

「今日は、昨日から今朝にかけて集積された国際データをもとに、ある重要な『仮説』の共有を行います。まだ確証はありませんが……おそらく、これが現象の核心です」

岸本の言葉は、慎重だった。「おそらく」という言葉。「確証はない」という言葉。科学者としての慎重さ。だが、その奥には、確信があった。

"核心"。

その短い単語が、洋子の喉の奥をひりつかせた。

核心。すべての中心。原因。真実。それが、今から明かされる。

ついに、そこへ触れるのか。雪が人を消す理由。世界が壊れ始めている原因。

洋子の心臓が、早く打ち始めた。不安と、期待が混ざり合っている。知りたい。だが、知るのが怖い。

隣に座る浩が、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。彼の手は膝の上で固く握りしめられている。

その手が、白くなっている。血が引いている。彼もまた、緊張している。恐怖している。

洋子は、そっと浩の手に触れた。その手は、冷たかった。だが、確かな存在感があった。

浩は、洋子の方を見た。その目には、感謝があった。一人ではない。その確認が、二人を落ち着かせた。

岸本は静かに電子黒板を操作した。

その手つきは、慣れていた。何度もこの作業をしてきたのだろう。だが、今日は特別だ。

画面が切り替わり、高精細な顕微鏡映像が映し出された。

その映像は、鮮明だった。細部まで、はっきりと見える。

「まずは、これをご覧ください。現在、世界中の極寒地域――北欧、ロシア、カナダ、そしてこの日本で観測されている雪の結晶の拡大図です」

岸本の説明は、簡潔だった。だが、その言葉が持つ意味は、重大だった。

そこに映っていたのは、美しいが故に恐ろしい光景だった。

洋子は、その映像を見て、息を呑んだ。

六花結晶の枝が、定規で引いたように真っ直ぐに伸び、その角度、長さ、枝分かれの回数に至るまで、すべてが完璧な対称性を保っている。

その完璧さは、異常だった。自然は、完璧ではない。必ず、ゆらぎがある。不規則性がある。だが、この結晶には、それがない。

自然界には必ず存在するはずの「ゆらぎ」や「欠け」が一切ない。まるで機械でプレスされたかのような、異様なほどの均質化。

それは、自然の雪ではなかった。何か、別のものだった。

洋子は、この結晶を研究してきた。だが、このような結晶は、見たことがない。理論上は存在しうる。だが、実際に観測されることは、ほとんどない。

それが、今、世界中で観測されている。同時に。

「見ての通りです。本来、カオス的な大気条件の中で成長するはずの結晶が、なぜか世界中で示し合わせたように、たったひとつの"型"に収束しようとしています」

岸本の言葉に、浩が眉をひそめて身を乗り出した。

その動作は、反射的だった。科学者としての本能が、疑問を呼び起こしている。

「雪が……自分の意思で形を揃えようとしているとでも言うんですか? 物理的にありえない」

浩の声には、否定があった。だが、それは弱い否定だった。ありえない。だが、起きている。その矛盾が、彼を混乱させていた。

「ええ、物理学の常識ではありえません。ですが、これが現実です」

岸本は頷き、さらに別のデータを画面に呼び出した。

その動作は、落ち着いていた。彼女は、この事実を受け入れている。

それは、複雑なネットワークを描く青白い光の図面だった。

その図は、美しかった。複雑で、精緻で、生命の神秘を感じさせる。

「次に、こちらをご覧ください。これは最新の脳科学分野で使われる、人間の記憶定着回路――シナプス構造の模式図です」

その言葉を聞いた瞬間、洋子の心臓が跳ねた。

シナプス。記憶。人間の脳。

なぜ、それを見せるのか。雪の結晶と、人間の脳。その関係は。


洋子は目を凝らした。

その図を、じっと見つめる。何かを探すように。何かを確認するように。

無数の神経細胞から伸びる突起が、隣の細胞へと手を伸ばし、信号を伝達するために複雑に絡み合っている。それは生命の神秘そのものだが、どこか既視感があった。

その形。その構造。どこかで見たことがある。だが、どこで。

次の瞬間、岸本の指先が画面をスワイプした。

その動作は、静かだった。だが、決定的だった。

二つの図が、ゆっくりと並べられ、そして重ね合わされた。

左に雪の結晶。右に脳のシナプス。

青い線と、白い線。

その二つが、並んでいる。そして、重なっていく。

二つが重なった瞬間、洋子は小さく悲鳴を上げそうになり、口元を手で覆った。

その光景は、衝撃的だった。信じられない。だが、目の前にある。

「……同じ」

洋子の声は、かすれていた。その言葉を口にするのが、怖かった。

形が、似ているだけではない。

それは、偶然ではなかった。類似でもなかった。一致だった。

雪の結晶の枝分かれの角度と、神経細胞が記憶を形成する際のネットワークの結合パターンが、恐ろしいほどにピタリと一致していたのだ。

その一致は、完璧だった。誤差がない。まるで、同じ設計図から作られたかのような。

浩も、その図を見て、顔色を失っていた。科学者として、この一致が何を意味するのか、理解している。

村上は、黙っていた。だが、その目には、恐怖があった。

「海外の気象研究所と脳科学チームの合同解析が出した結論は、衝撃的なものでした」

岸本の声が、静まり返った部屋によく通る。

その声は、落ち着いていた。だが、その内容は、落ち着いていられるものではなかった。

「雪の結晶密度指数が"特定の値"――我々が閾値と呼んでいるラインを超えたとき、大気中の結晶構造が、地上の人間の記憶回路と『共鳴レゾナンス』を起こす可能性が高い」

共鳴。その言葉が、部屋に響いた。

「共鳴……?」

浩が呆然と呟く。

その声には、信じられないという思いが込められていた。だが、否定できない。目の前に、証拠がある。

「つまり、雪の形があまりに精緻になりすぎて、人間の脳内データと同じ波長を持ってしまうということですか?」

浩の言葉は、理解しようとする試みだった。科学的に説明しようとしている。だが、その説明は、常識を超えている。

「その通りです。そして、その共鳴が起きた時、何が起こるか」

岸本は画面上の図を指で弾いた。

その動作は、演劇的だった。だが、効果的だった。

重なり合っていた二つの図形のうち、脳のシナプスの方だけが、雪の結晶の強固な構造に引っ張られるようにして歪み、やがて霧散した。

その映像は、ショッキングだった。脳のシナプスが、消えていく。記憶が、消えていく。

洋子は、その映像を見て、胸が締め付けられるような思いがした。これが、消失の瞬間なのか。

「雪という巨大な質量のエネルギーに干渉され、微弱な電気信号である人間の記憶は、その形を保てなくなる。……個人の記憶が、雪の結晶という"物質"の構造データへと上書きされ、吸い上げられてしまうのです」

その説明は、明確だった。だが、受け入れがたかった。

記憶が、物質化される。雪に、取り込まれる。その概念が、あまりにも非現実的だった。

浩は息を呑んだ。顔色が急速に失われていく。

その顔は、蒼白だった。理解が、恐怖に変わっている。

「それが……『消失』の正体……? 結晶密度指数の閾値は、記憶の崩壊を引き起こすトリガーだったのか……」

浩の声は、震えていた。自分たちが見つけた指数が、死の宣告の基準になっている。その事実が、彼を苦しめていた。

「理論上は、そう説明がつきます。雪が降るたびに、世界の記憶容量メモリが空へと回収されているようなものです」

岸本の言葉は、冷徹だった。だが、それは事実だった。

洋子は唇を噛み締めた。血の味がするほど強く。

その痛みが、現実を感じさせた。これは、夢ではない。

だとすれば、あの夜――

結晶密度指数が跳ね上がった瞬間に、あの学生が、あの研究員が消えたことも説明がつく。

そして、自分が感じた「誰かがそこにいた」という微かな気配も。

あれは、錯覚ではなかった。本当に、何かがあった。記憶の残滓が。

「……だから、私だけ覚えていたの?」

洋子の独り言のような問いに、岸本が視線を向けた。

その目には、理解があった。洋子が何を言っているのか、わかっている。

「おそらくは。あなたの感受性は、雪に吸い上げられかけた"記憶の残滓"を、直感的に感じ取っていたのでしょう。消える直前に残る、その人固有の最後の"個別の形"を」

その説明は、洋子の経験を肯定していた。あれは、本物だった。

胸の奥をえぐるような痛み。

あれは単なる感傷ではなかった。物理的に引き裂かれようとする誰かの存在証明が発した、最後の断末魔だったのだ。

洋子は、その痛みを抱えていた。忘れられた人々の痛みを。その重さが、今、洋子の心にのしかかっていた。

腕を組んで黙り込んでいた村上が、ふと低い声で言った。

その声は、重かった。長い沈黙の後の言葉。

「雪が記憶の構造を揺らし、物質化して奪うなんて……それはもう、科学というより哲学の領域だな」

その言葉には、諦めに似た響きがあった。科学者として、この現象を受け入れることの困難さが、滲んでいた。

その言葉に、岸本は淡く、哀しげに笑った。

その笑みは、複雑だった。同意と、悲しみと、覚悟が混ざり合っている。

「その通りです。通常の科学の枠を遥かに超えている。……しかし、現象は現実に起きています。我々は哲学者としてではなく、実務者としてこの現象を食い止めなければなりません」

その言葉は、決意だった。理解できなくても、受け入れられなくても、戦わなければならない。

岸本は一度言葉を切り、表情を引き締めた。

その表情の変化は、明確だった。悲しみから、決意へ。

彼女の中で、迷いや感傷はすでに整理されているようだった。

感情に流される時間はない。行動する時間だ。

「今日の本題は、ここからです」

その言葉が、空気を変えた。

室内の空気が、先ほどまでとは質の違う、より実践的で冷徹なものへと変わった。

理論から、実践へ。理解から、行動へ。その転換が、明確になった。

洋子と浩は、背筋を伸ばした。これから、重要な話がある。対策がある。

「この理論をもとに、政府と国際解析班は、あるひとつの"対抗策"を立案しました」

その言葉は、希望だった。

対抗策。戦う方法。消失を止める方法。

洋子の心臓が、再び早く打ち始めた。今度は、期待からだ。

浩も、身を乗り出した。その目には、希望の光があった。

村上も、顔を上げた。諦めから、希望へ。

三人の視線が、岸本に集中した。

その対抗策とは、何か。

それが、世界を救うのか。


「……対抗策?」

浩が訝しげに眉を寄せた。

その声には、疑問があった。そして、わずかな希望も。対抗策がある。それは、救いになるのか。

現象のメカニズムさえ仮説の域を出ていない段階で、有効な手立てなどあるのだろうか。

浩の理性が、その疑問を呈していた。科学者として、まだ証明されていない理論に基づく対策を信じることができるのか。

だが、同時に、何もしないわけにはいかない。その焦燥感もあった。

岸本は手元のタブレットを操作し、電子黒板に新たなシミュレーション映像を投影した。

その動作は、慎重だった。これから示すものが、どれほど重大かを理解している。

そこに映し出されたのは、上空を覆う厚い雪雲と、地上からそこに向けて照射される赤い波状のエネルギーだった。

その映像は、CGで作られたものだろう。だが、リアルだった。まるで、実際にこれが起こるかのような。

洋子は、その映像を見て、不安を感じた。赤い波。それは、攻撃的に見える。暴力的に見える。

「作戦名は『人工共鳴干渉(アーティフィシャル・レゾナンス・ジャミング)』」

岸本は無機質な声で告げた。

その声には、感情が排除されていた。事実を伝えるだけ。だが、その奥には、何か別の感情が隠されているようにも思えた。

「原理は単純です。雪の結晶が異常なほど整った『均質性』を持つことが記憶との共鳴トリガーなら、その均質性を外部からの力で強制的に破壊すればいい」

その説明は、論理的だった。科学的だった。だが、その言葉に含まれる「破壊」という言葉が、洋子の心を刺した。

画面の中で、赤い波が雪雲に突き刺さる。すると、整然と並んでいた六花結晶の群れが、激しく震え、次の瞬間、バラバラに砕け散って不規則な氷の粒へと変わった。

その映像は、暴力的だった。美しい結晶が、粉々に砕かれる。その光景に、洋子は胸が痛んだ。

「高出力の電磁波を特定の周波数で大気中に照射し、結晶の成長プロセスを阻害します。きれいな六角形を作らせない。無理やり歪なカオスに戻すのです。そうすれば、脳との共鳴は物理的に不可能になり、記憶の流出は止まるはずです」

その説明は、明確だった。理論としては、成り立っている。だが。

理論としては筋が通っていた。

浩も、それは理解していた。科学者として、その論理を否定することはできない。

だが、浩の表情は晴れるどころか、みるみるうちに険しくなっていった。

その変化は、明確だった。理解から、疑問へ。そして、恐怖へ。

「待ってください。それは……あまりにも乱暴すぎる」

浩は立ち上がり、机を両手で叩いた。

その音が、会議室に響いた。その音は、怒りの表れだった。そして、恐怖の表れでもあった。

「雪と脳が今まさに『共鳴』している状態なんですよね? 二つの波長が完全にリンクして、情報が行き来している最中に、片方の構造を暴力的に破壊したら……もう片方、つまり人間の脳側にはどういう影響が出るんですか?」

浩の問いは、核心を突いていた。共鳴している二つのもの。一方を破壊したら、もう一方はどうなるのか。

その問いは、誰もが考えるべきだった。だが、誰も口にしなかった。浩だけが、その勇気を持っていた。

会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。

その沈黙は、答えを意味していた。悪い答えを。

岸本はすぐには答えなかった。ただ静かに眼鏡の位置を直し、浩の非難がましい視線を正面から受け止めた。

その仕草は、時間稼ぎだった。だが、それ以上に、覚悟を決める時間でもあった。

「……浩さんの懸念はもっともです。共鳴している二つの音叉の一方を無理やり止めれば、もう一方にも強烈な反作用バックラッシュが生じる」

岸本の声は低く、沈んでいた。

その声には、罪悪感があった。わかっている。だが、やらなければならない。その葛藤が、声に滲んでいた。

「最悪の場合、現在進行形で雪とリンクしている人々の記憶が……ショックで焼き切れる可能性があります。あるいは、すでに雪に取り込まれた記憶データが、結晶の崩壊と共に霧散し、二度と戻らなくなるかもしれない」

その言葉は、残酷だった。

焼き切れる。霧散する。二度と戻らない。

それらの言葉が、何を意味するのか。洋子は、理解していた。

「焼き切れる……」

洋子は血の気が引くのを感じた。

その言葉が、現実として迫ってくる。人々の記憶が、焼き切れる。消える。永遠に。

それは救済ではない。破壊だ。

これ以上の被害拡大を防ぐために、今、境界線上にいる人々を見捨てるという宣告に等しい。

切り捨てる。犠牲にする。その決断が、ここで下されようとしている。

「そんなの……治療じゃありません。ただの切除手術です」

洋子が震える声で訴えると、岸本は痛ましげに目を伏せた。

その表情には、苦痛があった。わかっている。だが、選択肢がない。

「ええ。これは治療ではありません。トリアージです」

その言葉の冷たさに、室内の空気が凍りつく。

トリアージ。救える者と、救えない者を選別する。その冷酷な判断。

「このまま手をこまねいていれば、いずれ世界中の都市機能が麻痺し、文明そのものが雪に埋もれて終わります。……私たちは、何としても『社会』というシステムを存続させなければならない。たとえ、その過程で一部の記憶データを犠牲にするとしても」

岸本の言葉は、論理的だった。社会の存続。それが、最優先事項。

だが、その論理は、個人を犠牲にする。一部の人々を、見捨てる。

それは、国家という巨大な機構を背負う人間としての、ギリギリの決断なのだろう。

洋子には、その重さがわかった。岸本もまた、苦しんでいる。だが、決断しなければならない。

誰も反論できなかった。論理的には彼女が正しい。だが、感情はその正しさを拒絶して悲鳴を上げている。

浩は、拳を握りしめていた。反論したい。だが、できない。代案がない。

洋子は、唇を噛んでいた。涙が出そうだった。だが、こらえた。

村上は、黙って俯いていた。科学者として、この決断を受け入れるしかないのか。

岸本は再び顔を上げ、事務的な口調に戻った。

その変化は、防衛本能だった。感情を排除する。仕事に戻る。

「作戦の実行は、今夜二十一時。……場所は、この大学キャンパスを中心とした半径五キロ圏内です」

その言葉が、現実を突きつけた。

「ここが……実験場になるんですか?」

浩の声は、かすれていた。

「はい。あなた方の研究室には最高精度の観測機器が揃っている。干渉波を照射した瞬間に、結晶密度指数と消失反応がどう変化するか、リアルタイムでデータを取れるのはここしかありません」

その説明は、合理的だった。だが、残酷でもあった。

自分たちが、その瞬間を見届ける。記録する。それが、役割だ。

岸本は深く一礼した。

その礼は、謝罪だった。そして、依頼だった。

「残酷な役目をお願いすることになりますが、あなた方にはその瞬間の『目撃者』になっていただきたい。……雪が壊れる時、世界に何が起こるのかを記録してください」

その言葉は、重かった。

目撃者。記録者。歴史の証人。

その役割を、引き受けるのか。


夕刻、会議を終えて研究室に戻った二人は、重苦しい沈黙の中にいた。

その沈黙は、言葉では表現できない感情で満ちていた。恐怖、悲しみ、怒り、無力感。それらすべてが、沈黙の中に凝縮されていた。

窓の外は、すでに宵闇に包まれ始めている。

その闇は、深かった。冬の夜の闇。冷たく、重い闇。その闇が、世界を覆っている。

あと数時間もすれば、この空に向けて目に見えない巨大な力が放たれ、静かに降り注ぐ雪の秩序を破壊するのだ。

その想像は、恐ろしかった。何が起こるのか。誰が、何を失うのか。

浩は椅子に深く沈み込み、天井を見上げていた。

その姿は、疲れ切っていた。肉体的にも、精神的にも。

「……悔しいな」

絞り出すような声だった。

その声には、様々な感情が込められていた。怒り、悲しみ、そして無力感。

「政府のやり方は間違ってると思いたい。でも、俺たちには代案がない。雪が記憶を食っているのが事実なら、その口を塞ぐしかないっていう理屈もわかる」

浩の言葉は、自分自身への説得だった。納得しようとしている。だが、できない。

彼は拳をぎゅっと握りしめた。

その拳が、白くなっている。力を込めすぎている。爪が掌に食い込んでいるかもしれない。

「だけど、それは……俺たちが守りたかった『雪』じゃない」

その言葉には、深い悲しみがあった。

雪。それは、彼らが研究してきた対象。美しいと思ってきたもの。だが、今、それは敵になった。そして、破壊される。

洋子は窓際に立ち、ガラス越しに夜空を見つめていた。

その背中は、小さく見えた。細く、頼りない。だが、そこには強さもあった。

街灯の光に照らされて、無数の白い粒が舞っている。

昼間見たときと同じ、恐ろしいほど整然とした、機械的な雪。

その雪は、変わらず降り続けている。何も知らずに。自分が破壊されることを知らずに。

けれど今の洋子には、その一つ一つが、誰かの「忘れたくない」という切実な想いの結晶に見えていた。

その想像は、洋子の心を痛めた。雪の中に、記憶がある。誰かの大切な記憶が。

「ねえ、浩くん」

洋子は静かに口を開いた。

その声は、小さかった。だが、確かに届いた。

「もし、この雪の一粒一粒が……誰かの記憶そのものだとしたら」

その仮定は、恐ろしかった。だが、あり得ることだった。

彼女はガラスに指先を触れた。冷たい感触が伝わってくる。

その冷たさは、物理的なものだけではない。もっと深い、存在の冷たさ。

「今夜、私たちはそれを壊すんだね。誰かが生きた証を、誰かが誰かを愛した記憶を、粉々に砕いて空に撒き散らす」

洋子の言葉は、残酷な真実を述べていた。

それは、殺人に等しい。記憶を殺す。存在を殺す。

「……ああ」

浩の答えは、短かった。だが、その中には、すべての苦しみが込められていた。

「痛いだろうな」

洋子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

その涙は、熱かった。だが、すぐに冷えていく。冬の夜の冷たさに。

「消える時よりも、もっと痛いかもしれない」

その言葉は、想像だった。だが、確信に近い想像だった。

消失は、静かだった。だが、この破壊は、暴力的だ。痛みを伴う。

浩は立ち上がり、洋子の隣に立った。

その動作は、ゆっくりとしていた。重い体を、無理に動かしている。

そして、彼女と同じように窓の外を見つめた。

二人並んで、雪を見る。最後かもしれない、美しい雪を。

「……だからこそ、俺たちが見届けなきゃいけないんだ」

浩の声には、悲壮な決意が宿っていた。

その決意は、苦しみから生まれたものだった。だが、強固だった。

「政府は『現象を止める』ことしか考えていない。でも、俺たちは違う。もし雪が壊される瞬間に、そこから溢れ出す『記憶の断片』があるなら……それを拾えるのは、ずっと雪を見てきた俺たちだけだ」

その言葉は、希望だった。

無力ではない。できることがある。記憶を救える可能性がある。

彼は洋子の肩に手を置き、強く力を込めた。

その手の温もりが、洋子に伝わる。生きている温もり。

「約束しただろ。空席にはさせないって。……もし干渉実験のせいで、誰かの記憶が迷子になりそうになったら、俺たちがデータの中から見つけ出す。そのために、俺たちはここにいるんだ」

その約束は、守られるのか。

洋子は、それを信じたかった。

洋子は涙を拭い、浩を見上げた。

その目は、赤く腫れていた。だが、そこには光があった。

その瞳には、不安と恐怖、そしてそれらを乗り越えようとする強い光があった。

決意の光。希望の光。

「うん。……わかった。目を逸らさない」

彼女は頷き、白衣の袖で乱暴に顔をこすった。

その仕草は、子供っぽかった。だが、それが洋子らしかった。

「この雪が何なのか。敵なのか、それとも悲しい記憶の保管庫なのか。……最期まで見届ける」

その言葉は、誓いだった。

二人の誓い。記憶を守る誓い。

時計の針は、刻一刻と作戦開始時刻へと近づいていた。

その音が、やけに大きく聞こえた。カチ、カチ、カチ。運命のカウントダウン。

外では、何も知らない雪たちが、依然として静かに、美しく降り続けている。

その雪は、無垢だった。何も知らない。自分が何を含んでいるのかも、自分がどうなるのかも。

その完璧な六角形の構造の中に、膨大な人間のドラマを閉じ込めたまま。

愛、憎しみ、喜び、悲しみ。すべての感情が、その中にあるのかもしれない。

キャンパスの遠くで、軍用車両のような重いエンジン音が響き始めた。

その音は、不吉だった。戦争の音。破壊の音。

干渉波照射装置の準備が始まったのだ。

その装置が、雪を壊す。記憶を壊す。

世界を救うための破壊か、それとも取り返しのつかない冒涜か。

その問いに、答えはない。

答えの出ない問いを抱えたまま、二人はモニターの前に座り、その時を待った。

二人の手が、自然と重なった。互いの温もりを確認する。存在を確認する。

モニターには、様々なデータが表示されている。結晶密度指数、気温、湿度、風速。

すべてが、作戦開始を待っている。

静寂な夜。

その静寂は、嵐の前の静けさとは違った。もっと深い、もっと根源的な静けさ。

しかしそれは、嵐の前の静けさなどではなく、世界のことわりが書き換わる直前の、張り詰めた真空のような時間だった。

その時間の中で、二人は待った。

何が起こるのか。

誰が、何を失うのか。

そして、自分たちは、何を救えるのか。

その答えは、まもなく明らかになる。

午後九時。

作戦開始の時が、迫っていた。

浩は、深呼吸をした。落ち着こうとしている。

洋子は、目を閉じた。祈るように。

そして、二人は目を開けた。

モニターを見つめる。

その瞬間を、見届けるために。

記憶を守るために。

時計の針が、九時を指そうとしていた。


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