岸澪―2
そして、事実上は第3の人生と言える、ヴェルダン近郊の民宿から始まった異世界生活では。
最初は、自分はそれなりの生活態度を執って、夫の野村雄の帰還を待つつもりだった。
だが、悪気は無かったのだろうが、村山愛ではなかった、あの世界では村山キクの態度が、私にこの世界は間違っている、と考えさせることになり、ある意味では暴走させることになったのだ。
勿論、村山愛が悪いとは言い難い。
何しろ私の方が何倍どころか、何十倍も酷いやらかしをしたのだから。
だが、あの時は村山愛の態度に、私は本当にキレてしまったのだ。
私の方がもっと酷かったが、村山愛は21世紀での安楽な生活に少しでも近い生活をしたくて、私に金銭援助を求めてきたのだ。
更にその根拠として、自分が産んだ村山幸恵の嫡母に、私が成るから養育費を払え、と言われては。
かつての記憶、篠田千恵子の嫡母義務を、私が果たさなかったことから叩かれた記憶が、私の脳内で蘇って、この世界を変えてやる、と私は息巻くことになったのだ。
(とはいえ、村山愛の要望だが、私とて気持ちは分かる、と言いたい状況だった。
何しろ貧困にあえぐ余り、炭も満足に買えず、一日二食で、更に粟飯か、稗飯に具がほぼ無い味噌汁だけという食生活を、ほぼ毎日送らざるを得ない状況にあるのを、村山愛から聞かされては。
私はよく栄養失調で、史実の村山キクが死ななかったモノだ、と考えざるを得ず。
同情心もあって、村山愛に金銭援助をすることにしたのだ)
そして、村山愛の示唆から、篠田りつの下に乗り込んで、夫の野村雄の実家の離散を防ぐのに成功する一方で、篠田りつの一家を、私は事実上、引き取らざるを得なくなった。
何しろ、大正時代だ、横須賀と会津の距離を考える程、会津にまで自分の目が届く訳が無く、危険極まりない篠田りつ、とその家族を横須賀に私は呼び寄せるしか無かった。
それから、夫の欧州からの帰還を、私は大人しく待つべきだった。
だが、村山愛の一件から、私はこの世界はオカシイ、と息巻くことになり、この世界では完全に違法行為の政治活動にのめり込むことになった。
更に母や村山愛の諫言に、私は耳を貸さず、又、父や夫からの大人しくしろ、という忠告からの手紙に対して、オカシイものはオカシイ、と反論の手紙を書く有様だった。
そして、私は正妻なのだ、子どももいる私の下に夫が帰ってきて当然、と慢心していたら。
夫は、こんな過激思想の妻とは一緒に暮らせない、元街娼とはいえ、改心して家庭的なジャンヌ・ダヴ―として暮らす、として離婚届を一方的に私に送り付けて、フランスに居座ってしまった。
更には、両親や村山愛からも非難されてしまい、私はへそを曲げることになった。
どうして、男女平等という当然のことが、夫には分かってくれないのか。
そして、浮気をして愛人に子どもを産ませる夫からの求めに応じて離婚すべきとか、それこそ正妻を踏んだり蹴ったりの目に遭わせることだ、として私は離婚に応じないことにしたのだ。
だが、それは後になって私が振り返ってみればだが、却って私自身が許せなくなり、惨めな想いを更に高めるだけのことだった。
ジャンヌ・ダヴ―は、この当時ならば理想の妻として行動し、それこそ村山幸恵や篠田千恵子まで、内妻の身で身銭を切って、学資等の援助をする有様で。
この世界ならば、私こそそういうことをすべきでは、と言われては、私は俯くしか無かった。
(この当時の民法上、嫡母は庶子を我が子として、積極的に援助し、可愛がるのが当然なのです)
そういった果てに、ジャンヌは色々な意味で夫の事実上の正妻として異世界生活を送り、12人の子宝に恵まれる生活を送ったのだ。
何で正妻が、夫の愛人の子を我が子として可愛がらないといけないのか、と現代ならば、疑問を持たれて当然ですが、この当時の家制度では、嫡母庶子関係上、正妻にしてみれば、夫の愛人の子も我が子になり、可愛がるのが当然なのです。
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