翡翠と予兆
「あうー? あれが、さんかー?」
朝。外はミンミンと蝉が煩く鳴いているが、研究所の中は空調設備が整っているため、どの部屋でも基本的に快適な温度が保たれている。折角だから、前回謎の影出現により断念した噂のカフェスペースとやらに行ってみようと思い立ち、その看板が見え始めた矢先、快活な声に名前を呼ばれた。
「うん。なんか、私酸化っていうみたいなんだよね。あんたは?」
このぶっきらぼうは生まれつき備わったもので、死んで記憶が断片化した後でもまだ健在のようだった。
「えーっとねー、ハロはー、ハロだよー!」
「……うーんと……つまりハロちゃん?」
身体を左右に揺らし、何が楽しいのかニコニコと笑いながら応える。酸化は直感的に彼女には知能が無いのだろうと考え、塩化もまた、酸化はそう思っているのだろうと考えていた。紅蓮の瞳を白銀の睫毛で隠し、ため息混じりにこう呟いた。
「……この子はハロゲン。本当は素直でいい子なんだけど、言うことなすことデタラメだから。あんまり信用しない方が良いよ」
「素直なのに、デタラメなの?」
「素直だから、だよ。思いついたことすぐ口に出す」
塩化はハロゲンの頭をワシャワシャと揉み込む。ハロゲンはそれに応えて軽快に笑う。ハロゲンの薄い白金色と、塩化の白銀が水飛沫のように混ざり合う。二人の近過ぎる距離感は、幼い頃から共に日常を歩んだ過去が伺える。瞳の色は青と赤。金銀の髪。少し赤らんだ鼻先は仲良くお揃い。
「仲良しだなー。こんなとこで惚気んなっての。それよりなんか飯は?」
カウンター席の椅子に座り、キイコキイコと回っている。カウンターには砂時計、本、マグカップだのが置かれているが、どれも酸化の興味を引くものではない。仕方ない、と暇潰しに古い少年漫画へ手を伸ばしたとき、突然、背後で声をかけられた。声の方角へ椅子を回して見れば、どことなく見知った顔がある。
「あ、ヤッパリ。あの後、無事に検査を済ませられたみたいで良かったです。てか自分のこと覚えてます? 自分、昨日初めて会ったんすけど……」
「えーと、あの……翡翠、さん?」
昨日の記憶を早送りで一から上映し、漸く塩素がそう呼んでいたことを思い出した。人懐っこい茶髪と八重歯は、記憶に深く残る程ではないものの、忘れやすい顔という程でもない。平均的な大学生、と言った顔立ちだ。
「あー、覚えててくれてたんすね。改めて、自分は翡翠っす。君は確か、塩化くんに酸化って名付けて貰ったんすよね。一応君の管理者は自分なんで。まああんま話すこともないけど……これからもよろしくです」
「は、はあ……いや、待って。管理者って……」
酸化の腹から、キュルルと低い音が鳴る。顔を赤らめて腹を抑え込み、翡翠の反応を伺えば、彼女の予想通り彼は笑っていた。
「あっはは、やっぱりそろそろご飯にしましょか。ここの料理、たまにヤバいのあるけどマジ絶品っすから、ホントマジ食ってください」
そう言いながら隣に座り、メニュー表を一つ広げた。元は消しゴムを落としても拾ってはくれないような距離感が、教科書を見せ合う学生同士ほどにまで縮まっていたらしい。随分と馴れ馴れしいと言えばそれまでだが、その図太さが酸化には妙に心地よく感じていた。
「今はまだ朝なんで、日替わりメニューは食えないんすけど。その分他のが結構色々あるんで」
あ、ほら。これとかいいんじゃないすか。彼は特徴的な八重歯を晒して笑う。メニュー表には、ホットケーキ、ホットサンド、鮭定食と基本的な朝食が並んでおり、彼が指さしたものは黄金色のホットケーキだった。写真を見る限りでは、記憶にも残っているような、一般的なホットケーキ。見た目は至ってシンプルだが、見ているだけでもバターの匂いが鼻腔を擽る。
「良いですね。これ食べたいです」
酸化のその声を聞くや否や、ニヤリとほくそ笑む翡翠。いつの間にか、両サイドは塩化とハロゲンに挟まれている。
「わ、ホットケーキだってさ、ハロゲン。どうする?」
「ハロも食べる! しおのホットケーキ食べるー!」
はしゃいでクルクルと辺りを舞い回る。無邪気な爪が周りの職員たちに当たろうとお構いなしだ。広げた両手が酸化の髪を靡かせ、指先から短い悲鳴が聞こえた。しかし、どうも塩化には絶対服従のようで、彼が一声掛けただけで容易く動きを止める。
「こーら、ハロゲン。周りの人に当たってるよ。ただでさえキミの服はボリュームがあるんだから」
「あい、めんしゃい……」
塩化に叱られ、群青の瞳を大海のように潤ませた。クネクネと身体を左右に揺らしては、まだじっとしていられないのか今にも走って何処かに行ってしまいそうな勢いがある。結局、他の職員に手を引かれ、遊びスペースへ連行されてしまった。
「ごめんね。あの子。あんまり落ち着いてるのが得意じゃないんだ」
「ああ、良いよ別に。さっきはビックリしただけだし。それよりも、この料理って塩化が作ってんの?」
「たまにね」
得意げに蝶ネクタイを傾け、エプロンの紐を結び直す。目に掛る、絹を割いたような前髪を掻き分けると、普段は重たい白銀で隠されていた、その目鼻立ちが一層際立つ。
「本当は佐藤さんって人がここの管理やってる。でも、あの人も一応は研究者だからね。朝は大体、こうしてボクが手伝ってるんだ」
「へえ……じゃあこれ。ベーコンとセットなの気になる」
そう言って酸化が指さしたのは、赤みのある分厚いベーコン。端は少し焦がされ、塩と胡椒が点々と撒かれている。
「ベーコンか。それならコーンポタージュと一緒もオススメだよ」
「うん、良いね。それにしよっかな」
「分かった、任せて」
塩化がカウンターに上がると、翡翠はニシシと歯を見せて笑う。
「自分はじゃあ、トッピングベリーホイップの……飲み物はミックスベリーソーダで!」
メニュー表を見ることも無く、呪文にも聞こえる文字の羅列を口にする。その瞬間、酸化は若者の間で人気だったが、生涯飲むことは無かったコーヒーショップを思い出していた。
「ここ、裏がキッチンのカウンター席じゃないすか。ここで手捌き見るのがわりと好きなんすよ」
頬杖をつき、塩化の手元を見るその様は宛ら子を見守る保護者のようだ。彼の小さな手足がえっちらおっちらと動く度、秋の景色をいっぱいに集めた瞳がそれを捉えて追いかける。
コンコン、パキ。赤い卵を片手で割り、トロトロの白身に包まれた黄身がボウルの中へ滑り込む。そこに牛乳、バターを流し入れて掻き混ぜる。ボウルを脇に抱え、チャカ、チャカと一定のリズムで軽い音を刻む。生地をフライパンに流し込むと、ほんのりと甘いバターの香りが辺り一帯に充満する。それに釣られ、カップ麺を啜っていた不健康優良児たちも、続々とメニュー表を開き始めている。
酸化はその手つきをぼんやりと眺めていた。記憶の奥底に、小さな塊が胸元で引っかかっていた。じゅわ、ぷつ、ぷつ、と生地が焼ける音。フライ返しでパスンとひっくり返し、面が均等に色付いているのが見える。その横では、ベーコンがジュウと音を立てて焼かれていた。
「うん、なんか懐かしいって感じ。まだ小さいのに上手いんだね。その佐藤って人に教わったの?」
自分の掌よりも一回り小さな指先が忙しなく動いている。小さい頃、母の手伝いで料理をしていたことを思い出し、遠い目をしながら塩化を眺めていた。
「そうだよ。佐藤さんがボクの管理者だった。初めて食べたのは確か唐揚げでさ、それがあまりに美味しくて」
顔を仄かに赤らめて微笑んだ。それに似た色が、いつの間にか皿に乗ったホットケーキの上に盛り付けられている。苺、ブルーベリー、ラズベリー……色とりどりの赤たちが、積み上げられたホットケーキに流し込まれ、溢れ落ちる。
「お待たせ。この前キミがくれたベリーをふんだんに使ってる。キミのベリー愛、いつも助かってるよ」
ベリーで飾られたホットケーキを翡翠の前に置き、冷蔵庫から赤い果実の浮いた炭酸が入った瓶を取り出した。それを透明なガラスにコポコポと注ぐ。カラコロと氷が転がり、青く澄んでいた六角形が、段々と果実の色に染まっていく。
「君のが来たら一緒にいただきますしましょうよ。その方が色々と話しやすいでしょ」
甘酸っぱさに混じったコーンポタージュの匂いがボンヤリと漂い始めたとき、不意に隣から声を掛けられた。目の前に置かれても、彼はまだ料理に手を付けていない。
「……あ、ああ。そうですね。聞きたいこともいっぱいありますし」
しかし、大した時間差もなく酸化の料理も到着した。表面を適度に焦がされたベーコンの塩味や、コーンポタージュの温かさが食欲を刺激する。
パチン、手を叩く音が二つ。
「いただきます」
ホカホカの湯気が揺蕩うベーコンを一口。ベーコンの強い塩味を、ホットケーキの柔らかい甘さが掻っ攫う。
「ん、めっちゃ美味い」
「でしょ? 自分、朝は絶対ホットケーキで始めるって決めてんすよ」
指四つ分はありそうなホットケーキの切れ端を、ホイップにたっぷりと絡ませてパクリ。赤いベリーホイップが口の端から零れたってお構いなし。口いっぱいに頬張り、酸味と甘味のコラボレーションを楽しんでいる。
「んぐぐ…………んで、話なんすけど」
「あ? あ、ああ……そうですね。私、色々なことが気になり過ぎて」
コーンポタージュをズズズと啜りながら頷いた。トウモロコシの嗄れた粒が喉に詰まり、忙しなく咳き込む。
「その、管理者? って言うのとか、裏社会との……繋がり? についても聞きたいし……そもそもここが何処で、何のために私を生き返らせたのか、とか」
「ああ、ゆっくりで良いっすよ。順番に話しますから。まず、ここが何処からっすよね。ここは神奈川の相模原市。まあつまりは日本にある隠れた研究施設っす。んで、周りは樹海に囲まれてる。君と炭素君は、その中で見つかった男女二人組の焼死体ってわけ」
「焼死体……? まあ、それはおいおい思い出すとして……。それで、その管理者っていうのは? ここではどんな研究を?」
「表向きここの組織名は幻想世界研究所。一般人が入れる別の施設があって、そこではファンタジーを現実にってモットーみたいです。実際はマフィアに武器や劇薬、キメラの提供が主ですけどね」
あたかもそれが常識であるかのように平然と話した。酸化は暫く口を聞けずにいたが、何度か顔を顰め、漸く言葉を発する。
「っ、じゃ、私も提供されるキメラで……?」
「ああ違う違う、言葉の綾っす! 提供と言っても協力するだけで、キメラたちの拠点は基本ここ。下手に譲渡して問題にしたくないっすからね。んで、管理者ってのは君みたいに実験事故の副産物や、失敗したキメラを管理する人のこと。本来危険な存在だから、常についてる人がいるってわけです。それで、裏社会との繋がりについてはさっき説明した通りなんすけど……その話、誰に聞いたんすか?」
不思議そうに眉をひそめて問い掛ける。酸化は一瞬躊躇ったが、翡翠には心を許すことにした。
「昨日の夜、蝙蝠を名乗る謎のマントを着た人が話しかけて来たんです。声は野太い男で、背は私と同じくらいの。その人が、お前と研究して酸素の能力を持たないかって」
赤茶色の色彩が静かに揺れる。目を大きく見開き、右手でそっと首飾りに触れた。翡翠色の煌めきが、蛍光灯の光を反射する。
「あの、どうかしましたか……?」
「……酸化ちゃん。本来、管理者がつくような失敗作のキメラは、研究に参加しない。正確には、自身を研究の対象にしない。能力を強くするとかも、筋力を上げるとか色々あるけど、あくまで研究員で、実験体じゃない。ましてや、能力を付与するだなんて」
首飾りを握りしめる手が震えている。筋張った細い指先、ヨレた絆創膏、二本の深い切り傷。
——カラン。
気付けば、塩化がトレンチを表彰状のように両手で持ち、カウンターの向かいに座っていた。
「ボクはその気持ち、分かるけどなあ。昔事件があったらしいけど、そのために新しい発展が出来なくなっちゃうのは違うと思う。勿論、安全はちゃんとした方が良いけど」
テーブルを強く殴る音が、カフェスペース内に響いた。筋張った手が震えていたが、やがて強く叩いた箇所を払うように撫でている。
「……ま、まあ。その安全ってのがだいぶシビアで、結局誰もやれないんすよ。やっぱり危険なものは危険だからね」
パッと表情を上げて、声量も先程より大きい。筋張った手は、いつも通り袖の中に隠されている。酸化や、塩化のよく知る翡翠の姿だった。
「自分、あんま危ないことされると責任負わされちゃうんで、勘弁してくださいよ。……さて! もう食べ終わってお腹いっぱいだし、自分は顧客情報見てくるっす。最近ちょい物騒だから、若干流通良いんすよねー」
さー仕事仕事。大きく伸びをして、ブカブカの白衣を風に靡かせながら、足早に過ぎ去っていく。チェックマークが大きく入ったスニーカーの、革靴とはまた違う足音が廊下にた、た、と響く。その音と反比例するように、やはり革靴。
「え、塩素……さん? そんな顔して一体」
「今すぐお前が必要だ。早く俺に着いてこい!」
スラリと細長い指に腕を掴まれる。折れそうなほどに強く捕まれ、酸化は顔を顰めた。
「ちょ、痛た……何があったんですか?」
大きく溜息をつき、早口で応えた。
「なに、いつものことといえばそうなんだが……炭素の記憶と常識がどこまで残っているのか、対話形式で診断をした。そしたら急に暴れた」
「暴れた!?」
酸化と塩素は急いで炭素のいる部屋に向かい、そこに塩化が後ろで着いて来ている。部屋の中では、確かに数人の怒声や悲鳴が聞こえて来た。塩素は地団駄を踏んで叫ぶ。
「クソ、あんな人畜無害な顔して中身はとんだ狂人じゃねえか! 全く……ダイヤモンド級どころか本物が全身目掛けて飛んでくるぞ。怪我しても治してやるから絶対死ぬなよ!」
小型拳銃を渡され、三人は同時に頷いた。
「すう……はあ……よし、行くぞ!」
何度か深呼吸を繰り返し、息を合わせてドアを蹴飛ばした。