目覚め
殺風景な実験室に、警報がけたたましく鳴り響き、機械は煩わしい作動音をたてて唸る。中央の実験台に集まった研究員たちは脱兎の如く逃げ回り、被検体のみが其処にポツンと取り残されている。被検体がピクリと人差し指を動かす度に、機械は一層激しく唸り声をあげる。
「実験は失敗だ。今すぐ実験室を閉じろ、全体を完全焼却する。このエリアにいるキメラたちは即刻避難させろ」
科学者の一人が声高らかにそう叫んだ。だが、ある若い男の研究員がその声を無視し、実験室のある方向へ走っていく。
「おい、何をしている」
科学者は研究員の腕を掴むが、研究員も負けじと暴れてその手を振り解き、真っ赤に染まった実験室へ侵入した。そのまま奥へ、奥へと突き進み、遂には実験台の前で辿り着く。研究員は其処で立ち止まり、実験台に横たわる、被検体と呼ばれた者に目を向ける。
十二かそこらの、未だ無垢そうな少女の眠れる姿があった。警報の赤が濡鴉の髪を規則的に照らし、柔らかく焼けた小麦の肌にそっと光の影を落とす。心臓を無理矢理に握られて、鼓動ごと身体が急かされているような感覚に耐えながら、研究員は眠り少女の輪郭をなぞる。
「先輩。これ、生きてますよ」
彼は少女を指差し、外で走り回る人たちに向かいそう叫んだ。外からは煩わしい騒音しか返って来なかったので、少し口を尖らせてそっぽを向いた。警報の音も遠く、好奇心の赴く儘に眠り姫の全貌を眺める。
パチリ、と音がした。否、その音は、単なる情景に対して反射的に思い付いたオノマトペだった。
少女の首が、上体が、ゆっくりと動く。モゾモゾと身体を蛞蝓みたいに動かし、鉛のように鈍る頭をえいやと持ち上げる。研究員は目を見開き、二歩、三歩後退した。はち切れんばかりに高鳴る心臓を肉越しに押さえ込み、興奮で震える瞳を恐る恐る現実に引き戻す。
――二つの瞳が、交差した。
「んー、誰?」
仄かに翳りを纏う、眠たげな声がそう囁いた。半ば夢の中を彷徨う意識が、瞳へ肉体へ定着していくごとに、少女の虹彩はより鮮やかな向日葵になっていく。満開の花を咲かせたとき、少女は漸く理性とやらを取り戻した様子だった。
「いや……本当に誰なんですか、貴方は」
少し警戒しながら研究員を見定める。腰抜けて金魚のように口をぽっかりと開けた男の髪型、背丈、年齢、その他隅々を慎重に吟味した。全身に繋がれた機材と、男が着ているまだ新品の幼い白衣とを脳内でこじつけ合わせ、自身が置かれた状況の判断材料とした。
どうやら、己は何らかの被検体らしいことだけが、少女には分かっているようだった。
数秒間の沈黙後、カツ、カツ……と背後で石と革とがぶつかる音がした。研究員は襟を伸ばし、少し緊張した面持ちでその男を迎え入れた。
「して、焼却処分をしなかった結果がこれか?」
科学者が怪訝そうな面持ちでそう尋ねた。ギョロリと蛇のような目に睨まれ、流石の少女も目が冴え渡り、口をキュッと結んで固く背を正した。そんなことは気にもせず、科学者は彼の右目に残る傷跡をなぞり、そしてくるりと背を向けた。
「危険はないようだな……まあいい。一応は検査だ。翡翠、ソイツを第二検査室へ連れて行け」
「は、はい」
翡翠と呼ばれたその若い研究員は、少女に向かって右手を差し出した。
「じゃあ行こうか。一人で立てる?」
「あ、はい。大丈夫です」
遠慮がちにその手を振り払い、少女は実験台から降りて一人でヨチヨチと歩き始めた。科学者は足早に去って行ってしまったため、翡翠と少女は二人で第二検査室と呼ばれた場所へ向かった。
第二検査室に到着し、部屋の扉を開けたとき、中にいた少年に声を掛けられた。
「あ、また新しい人が来た。こんにちは」
そう声を掛ける少年の姿を見て、少女はみるみるうちに青ざめた。その端正な目鼻立ちが、ある記憶を思い出させる。
「ねえ……あんた」
少女が少年に声をかけるより先に、少年は少女に近付き、その柔らかい指先を一回り大きな掌で包み込んだ。
「僕、どうやらここで生まれたキメラみたい。今は仮に炭素って呼ばれてるんだ。君は?」
「わ、私は……ねえ、覚えてないの? 私たち、あの森で……」
そう言いかけて口を噤んだ。その続きを何と言いたかったのか、自分でも良く思い出せなかった。ただ、心臓だのの上に何かが乗っかって、押しつぶされているような感覚だけは覚えていた。
「……お前たちは色々な動物の遺体から作られたキメラだ。特にお前みたいに付与する能力との結合が悪かったとき、遺体そのものの記憶が残っていることがある。……お前たちは、同じ場所で発見された子どもの男女だ」
「のう……りょく? よく分からないっていうか、もう何が何だか……」
科学者は溜め息を吐いてパイプ椅子に腰掛けた。キィ、と心地の悪い音が検査室に響く。
「俺の名前は塩素。と言ってもそう呼ぶしか無かっただけの仮名だがな。そいつは炭素。まあお前たちの想像通り、能力ってのはだな。身体から原子や単体を生成するってものだ。……おまえ、やってみろ」
塩素は炭素を顎で指した。しかし、彼がどれだけ力んでもその物体は出てこない。
「……まあなんだ、ボールをエアーで投げるような感じだと分かりやすくて簡単か?」
言われた通り、炭素は大きく振りかぶってボールを投げる動作をした。
「――あっ」
その瞬間、本来ボールがあれば彼の手から離れる直前だった頃、キラキラと虹色に輝く粉末が炭素の手から降り注いだ。少女はその砂粒を一摘みだけ手に取り、掌で転がしてみた。
「綺麗……」
「……成程、そう来たか。恐らくこれはダイヤモンドだ。同素体を生成出来んのは比較的鍛錬を重ねた後なんだが……お前はどうやら特別らしいな」
興味深そうに砂粒を覗き込む塩素の何気ない言葉が、少女には反響して聞こえた。今もずっと耳に残りこびり付いているようで、少しだけ耳を塞いだ。
「どうした。お前もやってみろ。気体の場合はそうだな……この袋に向かって息を吐かずに声を出すイメージだ」
少女はそれを半分も理解せずに実行した。袋は膨らむこともなく、ユラユラと揺れ動いている。塩素はそれを少女から受けとり、検査室にある機材へ持って行った。
「……これは」
塩素は眉をひそめてそう呟いた。そして、苦虫を噛み潰したような顔をして少女に近付いた。
「何か……やり方が間違っていたのかもしれない。血液検査を行えば全て分かる。塩化はいるか?」
「はい、ここに」
大きな機材の裏側から、ひょっこりと幼い顔が飛び出した。ブカブカの白衣と白銀の髪は、その顔の青白さを一層際立たせる。塩化は髪の結び目を両手で持ったかと思えば左右に引っ張り、ギュッと結びを強くした。
「それで、その人の血液検査をすればいいんですね? それじゃあ左腕を拝借。ボクの注射は痛くないから大丈夫ですよ」
少女は少し顔を顰めたが、予想していた痛みが来ることは無かった。注射器に溜まる己の血液をぼんやりと眺め、目眩にも似た身震いを起こす。塩化はその血液を別の機材で解析し、暫くした後首を横に振った。
「うーん……やっぱり反応無しですね」
「……やはりか。お前は本来酸素を放出出来るはずだったんだが……どうやら失敗みたいだ」
その空間を俯瞰して見ているかのような心地だった。少女には、失敗という言葉をあらゆる角度から眺めても、その意味を理解することは出来なかった……否、したくなかったのだろう。
「ボクは塩化。生まれは違うけど、キミと同じ失敗作。そしたらキミの名前は酸化かな?」
「あ……ああ。酸化。それが私の識別名ってことね、おけ」
突然現実に意識が戻り、しどろもどろになった酸化は驚きながらもそう応えた。
「でも、私。元々……」
そう言いかけて、やはり口を噤む。例の遺体の記憶と言うのがどうやら酸化にはまだ残っているようで、断片的には思い出せるものの、その全てを思い出すことは出来ない。
錆のような空気感の中、科学者は大袈裟に咳払いをした。
「……もう夜だ。そろそろ飯にしよう。何も能力がないからと言ってお前を追い出すわけじゃないし……まあ何とかなるだろう。キメラ用の棟があるから、空いている好きな部屋を使え」
シラケた場を更にシラケさせ、一先ず彼らの検査は終わった。酸化は階段から最も遠い空き部屋におずおずと入り込み、白いベッドの上に飛び込んだ。
「はあ……一旦、何処まで覚えているか書き出そう」
ゴロゴロと何度も寝返りを打ったあと、机上に置かれた本やぬいぐるみの中から、ノートと鉛筆を探し出した。
「さっすが私。こういうの得意なんだから」
お世辞にも読みやすいとは言えない文字の羅列がノートを埋めていく。
神奈川県横浜市。中学生。家族は父と母、姉が一人と犬一匹。犬の名前はジュン。家族と夏に海に行き、スイカを食べた。小さい頃の肩車。母の唐揚げ。ネモフィラ畑。球技大会の競技はバドミントン。炭素は幼馴染。二人で森に行った記憶が最後。炭素は人気者で才能に恵まれていた。私は……
「……一度休憩しよう」
書きかけのノートをそのままに、酸化は地図を見ながらカフェスペースへと向かった。薄暗い、蛍光灯の光がボンヤリと点滅する廊下を渡る。蛍光灯の点滅音や、カツーン、カツーンと歩く音がこだまする。暗がりで遠くはよく見えないが、漸く階段のある廊下へと続く曲がり角へと辿り着く。自分の影がやけに濃いと思えば、廊下の向こうに黒い影が着いて来ていることに気が付いた。
「……あんたも例のキメラ?」
「オレは闇夜の眷属、白昼夢の蝙蝠だ」
「夜なのか昼なのかどっちなんだよ」
黒い影に対しそう強気に応える。それが思いの外効いたようで、黒い影は唸りながら頭を抱えた。
「その……オレは悪夢の蝙蝠だ。お前は例の、能力を持てなかった失敗キメラだな」
失敗、という語句を強調してそう語り掛けた。
「私が失敗作だって笑いに来たの?」
「違う」
黒い影はツカツカと歩み寄り、漸く光の元に姿を現した。黒いマントに、キツネの面。フードや袖は、何処かコウモリにも似ている。
「え、その服かっこいいね。何処で買ったの?」
「今それどうでもいいだろ! ……そんなことより、さ。悔しくない? 知り合いはどうやら能力を持った。でも自分は失敗作。こんな現実、どうにかしたくない?」
身体の内側を這うようにそう語り掛ける。全身を蛇に巻き付かれた獲物の感覚が酸化を襲う。
「それじゃ聞くけどな、コウモリ。それを私にどうこう出来ると思う?」
「出来るね」
自信満々にコウモリは断言した。彼曰く、ここでは何でも揃っている。裏社会の市場や闇組織から仕入れた毒、動物の遺体、放射線物質、武器、どれでも好きなように使っていいのだ、と。
「勿論見つかったら怒られるけどね。それどころか外に見つかればお縄だけど。まあバレなきゃいいんだよ。お前も卑屈にならないでさ。彼奴らが特権使ってのさばるなら、オレたちもその特権ってやつ欲しいじゃん」
「あんたはつまり……何が言いたい?」
クスクスと笑いながら近付き、コウモリは耳元でそっと囁く。
「……なっちゃえよ、キミが酸素にさ」
「私が……酸素に? それってつまり、私が酸素を放出する脳力を得るってことだよね。そんなこと出来るの?」
「前例はない。だからなろうぜ、前例に」
挑発的な声でネットリと絡むように語る。
「……私が初?」
「研究所内ですっごく尊敬されるかも」
「私が……尊敬?」
酸化の心は揺らぐ。彼の発言はコウモリのように軽薄で、信用性の欠片もなかった。それでも酸化は揺らぐ。危ない橋を渡り、栄光を勝ち取るというその欲望に。唆されている。支配されている。
「いいね、それ……やろう」
呪われたような笑みを浮かべて承諾した。彼女の脳は、危険を冒すことよりも、自信が賞賛される承認欲求を優先したのだ。
「きまり」
コウモリはやはりクスクス笑って応えた。薄暗い、蛍光灯の点滅だけが照らす廊下に、二人の決意が床に影を落とす。
翌日、酸化はノートいっぱいに涎を垂らしながら飛び起きた。
「フガッ!?」
豚の鼻息にも似た声を上げ、濡れたノートをタオルで拭く。昨日の情景が、未だ脳内に記憶として上映されている。
「酸素になっちゃえ、って。なあ……」
物足りなさそうに眉を下げてそう呟いた。それよりも、彼の言う裏社会や闇組織の市場というものが気になっていた。ヨレたシャツから配布されたパーカーに着替え、二、三度首を鳴らし、大きく伸びをする。
「まあいいや。とにかく今日から私も研究員ってわけだな。特別になるために、か。……はは、ははは!」
一畳半の狭い狭い空間に、少女の快活な笑い声が響く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。