【2】婚約が決まってからの日々(エレイン視点)
正式に婚約が決まってから、月に一度グレイアム殿下から招待されるという体裁で二人きりのお茶の会が設けられた。
そのお茶の会の間、グレイアム殿下は心ここに在らずといった感じだ。
私はしゃべり過ぎないように、でも会話が途切れないように質問を適度に交えながら朗らかに接し続けた。
小一時間の緊張に耐える私がグレイアム殿下の微笑を見ることができるのは、決まって『では名残惜しいが今日はこれにて』と、少しも名残惜しい風情を見せずにお茶の時間の終わりを殿下が告げる時だけだった。
いつもぴったり一時間で、それより短くなることも長くなることもない。
義務感でやっているといわんばかりのお茶の会だった。
私は学園でも、徹底して婚約破棄をされないことに重きを置いて過ごした。
アンディ兄様から聞いた話に基づき、『取り巻き』と思われそうな特定の友人だけと過ごすことをせず、広く浅く誰とでも言葉を交わすようにした。
成績はトップを狙うことなく、十五位以内を取るようにした。
また、ボランティアのサークルに入って学園内外のなるべく多くの人たちと話すようにもした。
そして一番の懸念である、グレイアムの想い人ジェシカ・ドーソン様との関わりには細心の注意を払った。
関わらないように、接近しないように。
ある日、生徒会室の開け放たれた扉の前を通りかかった私に、同級生のイーデン・ファロン伯爵令息様が声を掛けた。イーデン・ファロン様は生徒会の副会長だと記憶している。
「今、ドーソン嬢が作ってきてくれたクッキーを食べるところだったのですよ。
ミッドフォード嬢もいかがですか?」
「いえ、部外者のわたくしがお邪魔するのは……」
「部外者なんてとんでもない。生徒会室は開かれた場所ですから。学園の生徒は誰だって出入り自由ですよ。是非どうぞ!」
「それでしたら、少しだけ……」
恐る恐る入っていくと、イーデン・ファロン様は私のために椅子を引いてくれた。
生徒会室にはグレイアム殿下もジェシカ・ドーソン様もいらして、同級生のデニス・レミントン様は私が入って来ても顔も上げない。他に二人の下級生もいた。
私は大型犬の檻に入れられたように感じた。
「こんにちは、お邪魔いたします、エレイン・ミッドフォードと申します」
面識の無いジェシカ・ドーソン様や下級生に向けて名を名乗る。
「やあエレイン、君がここへ来るなんて珍しいね」
グレイアム殿下がにこりともせずに言った。
「通りかかったところ、ファロン様に声を掛けていただいたのです」
グレイアム殿下は私の返事に興味はないようだった。
「こんにちは、エレインさん。ぜひクッキーを食べていってください! たくさん焼いてきたんです。失敗作まで持ってきちゃったんですけど」
ジェシカ・ドーソン様が笑顔でクッキーを勧めてくれたが、私は緊張して言葉もうまく返せず、ただ微笑を浮かべることしかできなかった。
「じゃあ僕はその失敗作をもらおうか……っ……これは苦いな……」
「グレイったらわざと失敗作を食べるなんて意地悪ね! きれいに焼けたのを食べてくれればいいのに!」
可愛らしくふくれた顔を見せたジェシカ様に、グレイアム殿下は笑顔を向けた。
「エレインさん、焼くのに成功したこちらのクッキーをどうぞ」
「ではお言葉に甘えていただきます。 ……ほろほろとした食感も、少し甘味が抑えられているところもとても美味しいですわ」
「ええ、母に教わったこのクッキーのレシピは砂糖が少な目なんです。そこをエレインさんに気づいて褒めていただけて嬉しいわ! 男子は美味しいか不味いかしか言ってくれないのだもの。
でもグレイは私が作るクッキーが一番好きだといつも言ってくれるわよね」
ジェシカ嬢はそう言うと、甘えるようにグレイアム殿下を見つめる。
生徒会の他の人たちはそんな光景も見慣れているのか、二人の距離感に特に何も思うところはないようだ。
そしてジェシカ様は私を『エレインさん』と呼んだ。
私の同級生のイーデン・ファロン様ですら私のことをミッドフォード嬢と家の名前で呼んでいるのに、初めて言葉を交わした私をそう呼んだ。
でもそんなことを言葉にしたら大変なことになる。
公爵家の私を男爵家のジェシカ様が家名ではなく名前で呼んだことについて何か言えば、爵位の高さを振りかざして咎めているみたいに思われかねない。
──乳兄弟で幼馴染。
小さい頃、きっと子犬たちがころころと転がるように一緒に遊んでいたのだろう。グレイアム殿下の身分があまり関係しない小さい頃からのお付き合い、その延長線上に今がある。
羨ましいほど特別な時間を過ごしてきたお二人なのだ。
だから私はこんな二人の姿を見ても、何か思ってはいけないと自分に言い聞かせる。
「一番も何も、ジェシカはクッキーしか作ってこないではないか」
「じゃあ今度はカップケーキに挑戦するわ。失敗したって食べてもらうんだから」
気のおけない二人の様子に心が萎んでいくけれど、それを気取られてはならない。
「お母様が教えてくださるなんて素敵ですね」
二人の会話が少し途切れたところに、そっと言葉を滑り込ませるように話しかけるとジェシカ様は朗らかな顔を私に向けた。
「料理も覚えなさいと言われるんですけど、私はお菓子しか作りたくなくって」
ジェシカ嬢は笑うとさらに可愛らしく見えた。
柔らかそうな亜麻色の髪に縁取られた小さな顔は、溌溂とした笑顔が可愛らしくて私もつい笑顔になってしまう。
こんなふうに軽口を言い合えるほど、グレイアム殿下とジェシカ様は仲がいいということを、噂ではなく近いところから自分の目で確認できた。
二人がやりとりするのを見て、胸がぎゅっと苦しくなったがもちろん顔には出さない。
感情を内側に封じることは、公爵令嬢として幼い頃から教え込まれてきたから造作もない。
──『グレイ』と愛称で呼んでいるのね。それは殿下が許しているということ。
それから私が生徒会室を出るまでグレイアム殿下が私に話し掛けることはなく、最初の一言だけだった。
それでもいい。
とりあえず私がジェシカ・ドーソン様に何の悪意も抱いていないことが、グレイアム殿下やジェシカ・ドーソン様ご本人、そして周囲の人たちに伝わればそれだけでよかった。
私には、グレイアム殿下の大切な幼馴染を排除するような気持ちがないことを分かって貰えれば、ただそれだけでいい。
──ああ早く家に帰りたいわ……。
婚約者とその想い人のやりとりを目の当たりにして、やはりどこかみじめな気持ちになった。
こんなに胸が苦しいのに、二人を見て微笑んでいなければならないことが少しつらい。
早く一人きりになりたかった。