【1】婚約が決まる(エレイン視点)
バートレット王国第二王子であるグレイアム殿下との婚約を打診されていると父に聞かされた瞬間、感情を表に出すなと日頃から言われているのに驚きの声を上げてしまった。
すぐに口元を自分の手で押さえても、その喜びは隠せない。
ずっと密かに憧れ続けたグレイアム殿下との婚約の話だったのだから。
「お父様、本当なのですか……」
「ああ、陛下直々にこの話を戴いたのだ。グレイアム殿下は側室ミリアナ妃殿下のお子の第二王子でいつも毅然とした表情でいらっしゃる、とても厳しく教育を受けておられる王子だ。
エレインを王家に嫁がせるというのは、我がミッドフォード公爵家にとって誉れではあるが切に望んでのものでもない。むしろ、第二王子の後ろ盾として王家のほうがミッドフォード公爵家のエレインを望んでいるのだ。
私はエレインの気持ちを蔑ろにするつもりはない。エレイン、君はこの婚約についてどう思う」
お父様は優しい眼差しで私の気持ちを尋ねてくれた。
そのことがとても嬉しい。
「今の私がグレイアム殿下の婚約者となるのであれば足りない点が多々あるかと思いますが、ミッドフォード公爵家の娘として恥じないよう努力をしていきたいと思います。私個人としてとても嬉しく、このお話をお受けしたいと思います」
「エレイン個人としても、なのだな。そうか、わかった。王家には承諾の旨伝えることにする。これから忙しくなるが、身体を大事に過ごすように」
お父様は穏やかな笑みを浮かべてそう言ってくださった。
あれは八歳の頃と記憶している。
王宮で開催されたお茶会に母に連れられて行った時、グレイアム殿下と出会った。
大人の女性ばかりの集まりにグレイアム殿下は退屈していたのか、その時近くにいた私の手を取って一緒に駆けまわって遊んだ。
途中でハチに追いかけられた私に、グレイアム殿下は上着を脱いで振り回しハチを追い払ってくださった。お付きの者ではなく殿下自身がそうしてくれたことに私は驚いてしまった。
ハチがいなくなって安心した私が泣き出してしまうと、殿下は真っ白いハンカチを差し出してくれた。
小さな私は絵画の天使のようなグレイアム殿下を、差し出されたハンカチを受け取るのも忘れてみつめた。
金色の巻き毛、透き通った緑色の瞳は美しいだけではなく光を宿して輝いていた。
それからあまり好きではなかった刺繍をたくさん練習して、バートレット王家の紋章とグレイアム殿下のイニシャルを刺繍したハンカチを、また母に連れられて行ったお茶会の時に渡すことができた。
グレイアム殿下は驚いたような顔をしながら受け取り、花が咲いたような笑顔で『大事にする』と言ってくれた。
それが私の初恋だった。
父から婚約の話を聞いて嬉しかったが、喜びと同じくらいの寂しさにも襲われた。
グレイアム殿下には想い人がいて、それは殿下の乳母の娘ジェシカ・ドーソン様だと学園内で噂されているからだ。
第二王子のグレイアム殿下は側室様から生まれた。
王妃様の生んだ第一王子のエリック殿下よりも優秀であれば、陛下はその後継をグレイアム殿下とするかもしれない──そう信じていらっしゃる側室のミリアナ妃殿下が殿下に厳しく教育しているというのは有名な話らしい。
快活だったグレイアム殿下はどんどん言葉も笑顔も少なくなり、その頃から殿下の心の拠り所は優しい乳母だけだったという。
そしてその乳母の娘であるジェシカ様にグレイアム殿下は心を許している──そのように噂されていた。
学園ではグレイアム殿下が生徒会にジェシカ様を誘ったという。
グレイアム殿下はいつもジェシカ様と生徒会の役員たちと一緒に過ごしている。
殿下が『ジェシカ』と、ジェシカ様が『グレイ』と互いに呼び合っていることで二人の仲が噂になっているが、二人とも『ただの幼馴染』と言うだけだ。
生徒会に属している生徒たちも、殿下とジェシカ様は恋仲などではないと言っている。
殿下とジェシカ様は二人きりになったことなどないと。
それでもグレイアム殿下が親しく言葉を交わす女生徒はジェシカ様だけということもあって、噂になっていた。
私はグレイアム殿下を密かにお慕いしていたことで、殿下のお姿をよく視界に収めてしまっていた。
あんなお優しい微笑は、ただの同級生に向けるものではないと感じている。
婚約が決まって喜んだのはきっと私だけだ。
グレイアム殿下はジェシカ様ではない私が婚約者となって鬱陶しく残念だとお思いだろうし、ジェシカ様は私を恨んでいるかもしれない。
それでも、公爵家の娘としていつか誰かに嫁がねばならないのだとしたら、それがグレイアム殿下であることは、途方もない幸せだと感じている。
グレイアム殿下との婚約話に、喜びと不安の両方を抱えることになった。
王室とミッドフォード公爵家との間で正式に婚約が交わされてから、私はひっそりと目標を掲げた。
──グレイアム殿下から婚約破棄をされないこと。
そう思ったのには理由があった。
私には兄と姉がいる。
ミッドフォード公爵家嫡男のアンディ兄様は、学園在学中に隣国へ留学していた。一年の留学を終えて戻ったアンディ兄様は、留学先の学園でのパーティで起きた『婚約破棄事件』を姉と私に話してくれた。
その話を聞いている時、アンディ兄様が婚約破棄をされた令嬢に同情する立場で話しているにも関わらず、どこかエンターテインメントとして捉えている空気を感じた。
私はアンディ兄様が誠実で、他者に対して思いやりがあることをよく知っている。
でもそんな兄様でさえ、婚約破棄された令嬢のことを『冤罪の被害者』と憤慨しながらどこかで見下げているように感じてしまって、私は鳥肌が立った。
私はグレイアム殿下自身が願い求めた婚約者ではない。
殿下の母であるミリアナ妃殿下が殿下の後ろ盾と成り得る公爵家の娘として、私を見出し婚約者に据えたに過ぎない。私という存在を、自分の心に被せた蓋の上の邪魔な重石と感じてもおかしくない。
隣国からの留学生のエンターテインメントにさえなってしまう『婚約破棄騒動の渦中の令嬢』は、このままいけば未来の自分なのではないか……。
私はグレイアム殿下から婚約破棄を突きつけられないように、もしも婚約を無かったものにしたくなった場合、殿下が穏やかにそれを解消してくださるように、注意して日々を過ごそうと決意した。