#1
ーー『アレは元々ただの社畜、毒にも薬にもなりやしない消費者でしかなかったよ』(故50代・男性)
――文明歴11989年。
人類は、というより知性を有する様々な種族は、暗黒が延々と続く広大な宇宙に足を運ぶための土地を広げていた。
まるで底の見えなかった暗黒は、文明歴という暦の概念が存在する生命の支配権に限って言えばその文明力を遺憾なく発揮し、燦々と輝いて見える。
星々、果ては銀河間をも移動する手段を得た彼らは、その輝きを至るところに咲かせ、また無限にも思える資源の山は彼らの文明力をより一層強めたのだ。
惑星というある種の孤島から抜け出した彼らに、もはや衰退の二文字はないだろう。
あらゆる文化を許容したこの文明はすでに終焉すらをも克服しているかもしれない。
――パタリ。
眩い光源を一つ、皺の目立つ雑誌に当てながら男が寝ころんでいた。
男は幅に少し余裕のある寝袋のようなものに包まれており、男の白い吐息が流れるでもなく空気にそのまま溶けていくくらいには密閉されている。
「……」
閉じたそれの表紙はよく分からない中年に、レッドカーペットの上を幻想的な笑みを魅せる俳優等々。
おまけに様々な色合いやフォントで構成されているその表紙はとにかく情報量の多いものだった。
雑誌というものは、いつの時代も変わらないものらしい。
興味をなくしたのか、男は手元の懐中電灯を消してその雑誌を顔に乗せた。
ついに男の視界は暗闇一色になるが、自身の吐息が顔周りを温めるため距離感などを失ってはいなかった。
ゆったりとした呼吸を置き、目元を手で撫でた男は次にすぐ横に設置されている立方体の機械に触れる。
手探りで何かをサワサワと。
やがて指にゴツリとした突起が当たる。男はそこで手を止めた。
バッテリーのようなそれについていた突起は、目で見ずとも分かるスイッチであった。
上に下に、動かすと微かにカチッと音を出す典型的なアレ。
それが下にあることを確かめ、男はすぐに手を懐に戻す。
それを最後に、男は動かなくなった。
・
「――」
パチリと目を開き、鼻で空気を一気に吸い込む。
それが男の脳を覚醒させ、一気に眠気を消し飛ばすのだ。
目の前には脂肪の乗る脂ぎった中年の顔が広がっている。無駄に顔がでかい。
嫌悪感しか感じないそれをひっぺがし、己の腕で微かに震えているそれを止めた。腕時計型の端末だ。
目覚ましの音などがないのは仕様である。こういった状況も考えての機能だった。
暗闇の中、ついさっきやったかのように手でスイッチを探し、それを上にカチリ。
もう片方の手で頭上のジッパーを掴み、今度はそれを下ろしていった。
すると、開かれた向こうから光が漏れ入ってくる。
懐中電灯のそれよりもっと明るく、そして暖かいものだ。
その眩しさに目を細めながら、周りをじっくり観察する。光は周囲の暗がりに差し込むように入って来ていた。
徐々に目が開いて行くと、ゆっくりと体勢を起こしていく。
男が立ち上がった、その右手には――銃が握られていた。
「ルーザーよりコントロール、起きてるか」
端末を付けている左手首を口元に近付け、見た目の年相応に擦れ低くなった声でそう発する。
だがその向こうから応答はない。
「ルーザー、コントロール」
今一度呼びかけるが、10秒待ってもやはり応答はなかった。
「……」
諦めたのか、男は左腕を口元から離しそのまま首にかかっている双眼鏡を手にした。
流れるように寝袋――というにはいささか大きく厚いものを跨いで、光の先へと歩みを進める。
中腰になり、たった数歩。
そこに広がるのは――広大な赤い大地であった。
木もなければ湖もなく、ただ砂と岩石でできている不毛の地。
枯れ切ったように見える赤だけのこの大地でも、空をみれば青と白があり交互に見れば単色に目を傷めることもないだろう。
「……89年11月15日、明朝。基地の西部外郭地に異常は見られない。移動を再開する」
手に双眼鏡を持ったまま、手首の端末を少しいじった男は今度はそれを口元に近付けることなく胸と同じ高さに留めて声を発した。
先ほどよりも大きいものだ。
再び端末をいじり、そして来た道を戻る。
男が野宿していたのはだだっ広い赤の大地の中でもそこそこに高い山、その中腹にある洞窟だった。
いや、洞窟というにはあまりに小さく、奥行きもない。凹みといってもおかしくはないほどだ。
なにせ、数歩戻れば己が寝ていた寝袋に辿り着く。
男は寝袋についている小物入れの一つから銀色の包みを取り出した。
さっき行ったことは報告、偵察、そして記録。まず男がやるべきタスクはこれだけ。
そして今は朝。
やるべきは、朝食を取る。それだけだろう。
とはいえ男の朝食は楽しいものではない。
一日動くための糧とはいえ袋から取り出したそれは、油とナニカを固形にした見た目のもの。
味は最悪の部類に入るが、これの特徴は喉を通った後にある。
(うっ……早速上がってきやがった……)
その固形は体内の水分によって溶け、広がる。
それは乾燥ワカメをお湯に浸した状態と同じで大きくなり、さらに粘っこい油が加わってくる。
すぐに胃に落ちてくれればいいのだが、水で流すなどしない限りは大抵その手前で溶けだすのだからたまったものではないのだ。
酷い吐き気は男の精神を確実にすり減らしにかかる。
苦い漢方でも口に含んだ時の顔をしながら、水筒の水を軽く飲んで胃に無理やり押し込む。
「ゲフッ」
軽くゲップを一つ。
世間のオヤジが酒を一杯煽った時にするそれによく似たものだが、胃の底から上がってきたガスは油と腐った魚のソレ。
胃が生ゴミの掃き溜めにでもなったかの気分であった。
ちなみにこの固形物の通称は【ゲロ棒】。
各々で味の変わるゲロみたいな味からも、食べきったところでゲロとして出てくるということからも、そう呼ばれているのだ。
からゴミをさっさと小物入れに戻し、男はまた別の部分を開ける。
今度のそれは小物入れではなく、寝袋の端にある口の大きいものだ。
そこから取り出したるは、宇宙服とも作業着とも取れる防護服。
バイクのヘルメットにも似たデザインのヘルメットもあり、その他ゴツゴツとした装備品が並べられている。
手慣れた様子で灰色の分厚い防護服を着こみ、その頭もヘルムで密封した。
他の装備も取り付けて行き、最後のカシュッ、という音を皮切りに、今度は足元に放置されている寝袋へと意識を向ける。
防護服同様、厚い見た目通りにそれは重く融通の利かないものだった。まとめるのに一苦労するも、端をつまめば後は手慣れた様子である。
段ボール程度にまでコンパクトになったそれを抱え、男は洞窟から再び外に出る。
外は変わらぬ光景であるが、ヘルムの端にある温度計はその真を捉えていた。
なんと、その数値は30℃を超えていた。
夜は白い吐息が漏れ出てたにも関わらず、日が出てすぐこれだ。
しかもその数値は微弱ではあるがまだ上がり続けている。
男はそれを流し見ながら、斜面を下る。
ゆるやかなもので、特段気を張ることもないのだが防護服を傷つけたくもないので最低限の気は配るのだ。
ややあって、男の防護服と同色の灰色に染まっているシートの前に来た。
シートはなにかを覆っているようで、男はそれを取り払う。ついでに赤い砂も乗っていたので、バサバサと払ってもやった。
男の目の前に現れたのは車両だ。
装飾は最低限に、機能性を重視したのが目に見えて分かる。
席は操縦席と助手席の二つのみだがそれだけでも窮屈そうだ。
助手席の方に寝袋やシートを投げ入れ、己も操縦席の方に乗り込む。
ハンドルの傍らにあるダイヤルを回してやると、すぐに心地の良いエンジン音が聞こえてきた。
≪――コントロール、ルーザー。定時連絡だ≫
と、防護服に装備されている通信機から野太い声がする。
男が身に着けている腕時計は機能こそ多いが、通信専用のものではない。通信機としては今連携させている防護服に装備されているものの方が良い。
「お前さんの腹時計で定時を決めないでもらいたい」
≪雑誌だって輸送してやっただろ? ちょっとくらい多めに見てくれてもいいじゃねえか≫
男は通話を続けながら車を発進させる。
道が舗装されてないため揺れが大きいが、それがちょうどいいリズムになって逆に心地いい。
「俺が欲しかったのは情勢を知れる情報誌であって礼賛や芸能ゴジップじゃないんだが」
≪おいおい、それを手に入れるのだって苦労したんだぞ≫
「そっちの苦労も想像に難くないさ。だが、女優の写真がデカく映ってるページだけやたら皺だらけだったな。ありゃなんだ」
車両が赤い砂塵を舞いながら、大空の下を駆け抜けていく。
辺りは山や峡谷くらいしかなく、走り出してみればそれが広大な世界がものの数十分で過ぎ去ってくものだから暢気でいられる。
これが歩きでの移動であったら、正反対の思いをしていただろう。
≪な、なんだってなんだよ。なんだってなんないだろ?≫
「お前さんと俺の仲だ、返金しろとは言わない。だがこっちだって金を作るのに散々我慢して稼いできたんだ、また同じ頼みをするだろうからその時は要望通りの現物を用意しろよ」
≪わーったよ、悪かったから……次はしっかりしたもん用意するから手打ちで良いよな?≫
そんな男であり、そんな男を支える車両であるが、その二つには共通してとあるエンブレムが記されていた。
「理解しているならいい。さっさと仕事にかかるぞ」
≪あいよ。大人気のニュースキャスターが今日の天候を教えちゃうぜ☆≫
エンブレムは正面を向いた髑髏。その口は盾で覆われている。
その下には共通言語で【ノルド・ウォーデンカンパニー】という名称が。
男は車内に流れるふざけた通信をクツクツと笑って聞いていた。
しかしその目は笑っておらず、瞳に限っては光の一筋すら灯ってもいない。
それは彼らが、数百億という途方もない数字の内の一つ、たった一つにしか過ぎないから。
今この時を無駄にする心の余裕すら、ないからであった。