36 勝負
家の前まで来た。傘を柚佳に渡し、玄関の鍵を開ける。
「ただいま……」
「お邪魔しまーす」
いつものように家族は、まだ帰っていない。父は仕事。母はパート。弟は学校帰りに友達と遊んでいるのだろう。
「これ借りるね」
居間に部屋干しされていたタオルを慣れた手付きで外し、オレの頭やら肩やらを拭いてくる。
「よかった、思ったより濡れてない。制服脱いで。ハンガーに干しておくから」
「大丈夫。自分でする。着替えて来るから少し待ってて」
隣の部屋に移動して上着とシャツを脱いだ。
「お待たせ」
部屋着に着替えて居間に戻った。下はカーキ色のやや大きめのズボンに、上はくすんだ水色のトレーナー。いつも家で着ているやつだ。特にトレーナーは着た時の肌触りがよくて、色違いをもう一枚持っている。
柚佳は居間の畳に正座していた。今しがた開けた襖を閉めて振り向いたところで、彼女と目が合う。
「制服じゃない海里、久しぶりに見た」
柚佳が微笑む。彼女の笑った顔は、心に春の木漏れ日が降るようにオレの気持ちも明るくしてしまう。
「その服、着心地よさそうだね」
隣に腰を下ろすと、トレーナーの素材を確かめるように腕の布を摘んでくる。
「着易くて、ずっとこればっかり着てる」
「私も、こういうの欲しいな」
服を見ていた柚佳が不意に顔を上げたので、近距離で瞳を見合わせる姿勢になる。
先に彼女が視線を逸らした。
「えっと……」
柚佳は呟き、動揺したように小さく後方へ身体を離す。
その腕を掴む。
「嫌?」
視線を上げずに聞く。
「……や……じゃない……」
「本当に?」
柚佳の答えに念押しする。もう一度、瞳の奥を覗きながら。
腕を掴んでいた左手を滑らせる。畳に彼女の右手を縫い留めるように上から握った。花弁のように色付く唇へ、浅く口付ける。
「キスやその先の事も……、篤とはしてないよね?」
ずっと抱いていた疑念が、はっきりと言葉になって漏れた。
柚佳の目が、今まで見た事がない程に大きく開かれる。
さっき外で話していた時の彼女の態度から、それはないと分かっていても。
信じたいけど、どうしても気になってしまう。
柚佳は可愛いから……二人きりになったりしたら男が放っておく筈がないと、変な考えが頭を過る。
やがて、相手の目がニヤニヤするように細まってきた。
「フフッ。どうしよっかな。ここは敢えて、言うのはやめておこうかな?」
嬉しそうな様子を見て閉口する。恐らく彼女は、篤とは何もないのだろう。オレが気にしているのを喜び、浮かれている雰囲気を感じ取る。
柚佳は自分が可愛いという自覚が薄いのではないかと思う時が、たまにある。
「何なの。言って」
不満顔をして話の先を促す。しかし彼女はにっこり笑い、逆に挑発してくる。
「いいけど、キスで私をイチコロにできたらね。そしたら海里の言う事、一コ聞いてあげる。反対に私が海里をメロメロにできたら、海里が私の言う事を聞いて!」
「何それ」
思わず笑ってしまった。何を基準に勝敗を決めるのだろう。どちらかが負けを認めるまでとか? 既に柚佳にメロメロになっているんだけど、これ以上メロメロにされる訳? 最高だな。
それらの思考は表に出さず、微笑んでいた。ただ「キスがしたい」と、おねだりされているだけの気もするが。それにしても煽り過ぎだろう。
やんわり微笑んだまま窘めようとしていた筈なのに。鋭く見返す。
「生意気」
唸り声のように低く、挑発に応じていた。
追記2024.5.19
「外す柚佳。」を「外し」、「拭き始めた」を「拭いてくる」に修正しました。
追記2024.6.1
「柚佳に手を引かれて連れて来られたオレの家の玄関ドアの前。傘を柚佳に渡し、鍵を開ける」を「手を引かれ家の前まで来た。傘を柚佳に渡し、玄関の鍵を開ける」に修正しました。
追記2025.11.4
改行を調整しました。
「、」(十七カ所)「……」「。」を追加、「合った」を「合う」、「きた」を「くる」、「なった」を「なる」、「呟いて」を「呟き、」、「離した」を「離す」、「聞いた」を「聞く」、「掴んだ」を「掴む」、「見開かれた」を「開かれる」「細まった」を「細まってきた」、「柚佳」を「相手」、「彼女を」を「様子を」、「取った」を「取る」、「促した」を「促す」、「きた」を「くる」、「、」を「。」に修正、「オレが」「左手で」「彼女を」を削除しました。
「見返していた」を「見返す」、「応じていた」を「応じる」に修正しました。
「応じる」を「応じていた」に戻しました。
「手を引かれ」を削除しました。




