悪魔の誘惑編-5
亜弓は仕事が終わると、メゾン・ヤモメに直行した。
事件の事ももちろんだが、栗子がカルトに勧誘でも受けてしまったらどうそようと気が気でない。
今のところ貝塚や円香は何食わぬ顔で仕事をして、特に何も動きはないが心配な事は心配である。
しかも栗子から電話があり、夕子の事情も聞く。想像以上にひどい話で、しばらく夕子をメゾン・ヤモメにおいておく事には賛成だったが、余計に不安になる。事件の手がかりや、空美子が殺された動機もわかってきた。おそらく犯人は毒を仕込む事もできる貝塚か円香だろう。共謀している可能性も高い。
ただ、栗子も貝塚達に勧誘を受けてもおかしくない状況で、それを断ったとしても作家として干されるかもしれない際どい状況でもある。
こんな時に呑気に寄り道をする気分になれず、商店街のベーカリー・マツダやケーキ屋スズキにもよらずにさっさとメゾン・ヤモメに帰宅した。
「亜弓さん、おかえりなさい」
食卓で夕食の準備をしている栗子をみて、亜弓は心底安堵した。
「ただいま。夕子先生もいらっしゃっい!」
「滝沢さん、急にお邪魔してごめんなさいね」
亜弓は夕子に目を向ける。目の周りは泣き腫らした痕があるが、少し笑顔を見せてルカを抱いたり、背中を撫でていた。やはり、精神が不安定なときに可愛い動物と一緒にいるのは良いことなのかもしれないと亜弓は思う。
「あれ? ところで幸子さんは?」
幸子の姿を見てが見当たらない。
食卓に熱々のグラタンを置いている桃果の聞く。
「幸子さんは、石田書店の店長さんち打ち合わせですって」
「打ち合わせ?」
「また一緒に読書会のようなイベントをカフェでしたいそうなのよ。今回はこんな事になってしまったけど、リベンジするって珍しく燃えてたわ」
桃果は苦笑し、栗子も食卓にフランスパンや水菜とにんじんのサラダ、パンプキンスープを続々と並べ終える。
「ブックカフェみたいのも良いわよね。じゃあ、夕食の準備もできたし、みんなでいただきましょうよ」
栗子が明るく言い、夕食がはじまった。グラタンみもパンプキンスープも熱々で美味しかった。グラタンは去年末以来食べていないので余計に美味しく亜弓は感じた。ご飯の温かさと心の温かさも比例するようだった。
夕子は誰かと食事を取るのが久しぶりのためか、本当に嬉しそうな笑顔を見せ、栗子も桃かも笑っていた。こうしていると、事件があった事や夕子の事情などわすれそうになった。
食後は、リビングで栗子と亜弓、そして夕子も交えてチョコレートを食べた。キムの店でかったハイカカオチョコレートで、食後に食べても若干罪悪感は薄れる。桃果が部屋でルカと一緒に遊び、幸子は石田店長との打ち合わせで疲れたのかさっさと風呂に直行していた。
「このチョコレート美味しいわね。日本のスーパーでは見たことない」
夕子はハイカカオチョコレートのパッケージを見て驚いていた。
「これが駅前の商店街の輸入食品店で買ったのよ。店長も変わり者だけど、置いてるものは結構美味しいのよね。今度夕子さんも一緒にいきましょう」
栗子がそう提案すると夕子は笑顔で頷く。
栗子から聞いた事情ではだいぶ大変そうだったが、この家にいる限りは安心だろうと亜弓は安堵する。あとはこの事件が解決すれば完璧なのだが。
「栗子先生は新作書いてるの?」
ハイカカオチョコレートを食べやすいように砕きながら夕子が言った。
「ええ。もう初稿はどちらも出来ているの」
「どちらも?」
夕子は質問し、亜弓が今栗子は少女小説の新作と並行してコージーミステリの新作を書いている事を説明した。
「コージーミステリって何?」
「もとを辿ると海外のライトミステリで…」
栗子はコージーミステリを何であるかと熱っぽく説明し始めた。あまりにも熱心に説明するので夕子は面食らっていた。この様子ではコージーミステリのヒロインになりきってこの事件の調査しているとはとても言えないと亜弓は思う。ハイカカオチョコレートの苦味が意外とあとを引き、砂糖やミルクがあまり入っていないヘルシーな事を言い訳にしてどんどん亜弓も食べてしまう。
「そっか。栗子先生はコージーミステリが書きたかったんですね…。何か、嫉妬していた私が馬鹿みたいです」
栗子のコージーミステリヲタクっぷりは、夕子をこんな風にちょっと苦笑させていた。
「そうですよ。打ち合わせ当日から栗子先生ってコージーミステリが書きたいってブーブー文句言ってたんですからね」
「はは、そうなの?」
そんな事を亜弓が言うとついに夕子は声を上げて笑っていた。
「だったらコージーミステリ作家になれば良いじゃないですか?」
「そうは言ってもね、夕子先生。殺人事件が起きる女性向きのライトミステリってそんな市場では需要が無いのよね…。今はたまたま企画が通ったけど、運が良かっただけだと思うわ」
「そうですか…」
やはり同業者同士で話がわかるのだろうか。亜弓は2人の会話には入れず、聴く側に回っていた。
「でも、栗子先生は勇気を持って欲しいわ」
「勇気?」
亜弓と栗子は顔を見合わせる。
「私あんなカルトに魂を売ってしまったのは、勇気がなかったせいだと思うわね。自分の作品を信じていれば、そんな勧誘なんて勇気を持って拒否できたんじゃないかなって思うの。私は臆病ね。自分の作品でさえ、信じることができていなかったなんて」
夕子の言葉に亜弓も栗子も何も言えなかった。
亜弓は千尋から教わった悪魔から誘惑を受けるイエス様の事が書かれた聖書箇所を思い出す。確か、千尋はイエス様を心の底から信じていれば、悪魔の誘惑なんてキッパリと拒否できるとも言っていた。こんな風に何かを信じることは、勇気を産むのかもしれない。
千尋目当てという不純すぎる動機で教会に行き始めたわけで、聖書についてもまだまだ勉強不足ではあるが、亜弓はそう思えてならなかった。
「そっか。その点では、私も似たようなものね。少女小説書きたくないと言いつつ20年近くも書いてしまったのは、私も勇気がなかったのかもしれないわね。グズグズと愚痴を言う資格なんて私にはなかったのかもしれない」
栗子はしみじみと呟いた。栗にしては珍しく、自分の悪かった部分に反省しているようで、亜弓はちょっと驚いた。
「栗子先生のそのミステリの新作楽しみね」
「ありがとう、夕子さん!」
栗子は夕子に励まされ、はにかんだ。




