悪魔の誘惑編-4
翌日、栗子が朝から夕子の退院祝いパーティーの準備をしていた。
リビングを掃除し、花を飾り、「退院おめでとう!」と書かれたカードを作ってテーブルの上に置く。
幸子も亜弓も仕事に行ってしまった。
亜弓からは昨日、空美子の彼氏と接触した事を聞いた。
空美子は彼氏や貝塚からカルトの勧誘を受け、断ったため逆恨みされた可能性が高いとの事。
栗子はため息をつく。
あの編集長の貝塚もカルト信者だったとは。世に中カルトだらけじゃないかと錯覚しそうになる。
亜弓からは、貝塚に勧誘を受けるかも知れないから気をつけろと口すっぱく注意される。
断ったら干されたりするのだろうか。自分はそう目立ったヒット作もなく、ファン向けの作家と言っていいだろう。少女小説を書くのにストレスを溜めながらの、コツコツと努力はしてきたつもりだが、こんな事実を知ってしまうと残念でならない。
ネットで調べると、草生教信者はごり押ししてもらったりそれなりの特典はあるようだった。事件の事も気になるが、このような事実を知ってしまうと、執筆活動のモチベーションは上がらない。まあ、少女小説もコージーミステリの方も初稿は予定よりもだいぶ早く上がっているので余裕はあるのだが。
「シーちゃん、そろそろケーキ焼かない?」
「いいわね」
どんよりと暗い気持ちだったが、桃果と一緒にケーキを作ったり、ベーカリー・マツダで退院祝いパーティーの為ににカレーパンやガーリックトーストなどのパンを購入していると気がそれた。
ちなみに桃果は夕子退院パーティーには参加しない。幸子のカフェで、工藤や工藤の妻の絢子とお茶する約束をしているそうだった。一緒にベーカリー・マツダで買い物はしたが、途中で分かれて栗子はメゾン・マツダに帰って引き続きパーティーの用意をした。
ケーキを切り分けたり、お茶を作ったり、パンを盛り付けたり細々と働いていたらあっという間に夕子がくる時間になった。
「いらっしゃい。夕子先生」
「わぁ。本当に栗子先生のおうちは大きいわね」
「まあ、シェハウスですし」
「私がお邪魔しても本当にいいの? 本当にお邪魔じゃない?」
「ええ。今日はみんな仕事で、大家も友達とお茶しているのよ」
そんな事を言いながら、二人一緒にリビングの入る。花をいけたため、いつもよりちょっとリビングは華やかである。
「あら、可愛い猫ちゃん!」
夕子はソファに寝そべっているルカび気づき、黄色い声をあげる。普段は落ち着いているタイプなので意外だった。
「うちは一人暮らしじゃない? 今回みたいに突然入院しちゃったりする事を考えると迂闊にペットなんて飼えないのよ」
ちょっと寂しい事もいわれ、栗子の胸はちくんと痛む。
「どうぞ、座って!」
「ええ」
夕子はルカの隣に座り、もふもふとした背を撫でた。ちょっと幸せそうな笑顔を見せたので、栗子は安心した。
「改めて、退院おめでとう!夕子先生!」
「ありがとう、栗子先生」
まだ昼間なのでお酒は控えて、ジュースで乾杯する。聞くと夕子はお酒が飲めないそうなのでそれで良いだろう。
「それにしても私達、命拾いしたわよね。助かってよかったわ」
栗子はベーカリー・マツダのカレーパンを食べながら呟いた。もう揚げたてではなかったが、それでも衣がサクサクとして美味しい。スパイシーな中身と無糖のアイスティーとも相性最高だった。
夕子も美味しそうにカレーパンを食べていたが、表情が固まったようになり、俯く。
「空美子さんは残念だったけど、夕子先生は助かって良かったわね」
栗子はにっこりと笑って言う。紛れもない本心だった。もし毒のせいで亡くなっていたと思いと、居た堪れないし、サイン会を企画した自分をせめていた事だろう。事件についてはまだ何もわかっていないが、その点は良かったと思う。
「そんな、私なんか死んじゃった方がよかったんです…」
「ちょっと、夕子先生! なんて事を言ってるのよ! 何か悩みでもあるの? お願いだからそんな悲しい事を言わないでよ」
夕子はどうもマイナス思考に陥っているらしい、パンも食べずに下を向き、不安そうにルカの背を撫でていた。
「きっと私が悪いんです…」
「何が?」
「私、実はずっと栗子先生の事が嫌いだったんです」
その告白に栗子は驚く。信じられず、落ち着かせるようにアイスティーを飲み込んだ。しかし嫌われるような心当たりが無い。
「私のどこが嫌いだったの?」
「先生はいっぱいファンがいて、ネット書店でも絶賛レビューばっかりで、羨ましかったんです」
「なんだ、そんな事」
何か夕子を傷つけるような態度をしてしまったのかと心配したが、蓋を開けて見ると単なる嫉妬のようだ。そうは言っても栗子本人としては一番叶えたいコージーミステリを書くという願望が長年果たせなかったので、ファンが多い事や絶賛レビューは嬉しく無い事はないが、満足できるものでも無いので、嫉妬されていたと知っても戸惑う事しか出来ない。
「私はずーっと売れなかったんです。出しても出しても一巻打ち切りで」
「そうね。私だって最近そんなものよ。今回出した大正時代の新作も、一巻で終わる予定よ」
「そ、そうだったんですか…」
夕子はびっくりしていたが、再び俯いた。
「でもいいじゃない。今はあなたの方が売れっ子作家よ。コミカライズの宣伝もいっぱい見たし、アニメ化の噂だって聞いたわよ」
実際今は夕子の方が売れているのだから、何を気に病んでいるのか不思議でならない。栗子は夕子の悩みはたいした事が無いと思い、再びカレーパンに手をつけた。
「いえ、そうじゃないんです」
「え? どういう事?」
「私、魂を売ってしまいました…」
「まさか、夕子先生、子供を誘拐して生贄儀式でもやってた?」
真凛の事件の事を思い出す。犯人は社会的に成功を得るために生贄儀式に熱中し、子供の誘拐を繰り返していたのだ。
「いえ、そんな事はしていませんけど、似たようなものです…」
夕子は本当に辛いのか、目に涙まで浮かんでいた。側にルカがいるため、どうにかパニックにならず落ち着いているようだ。可愛い動物の側にいると心が落ち着く事は栗子はあると思う。
「何? 夕子先生が何かしたの?」
「実はあまりにも作品が売れなくて、自殺未遂をしてしまったんです…」
栗子はあまりにも驚いてしまい、口をあんぐりと開けてしまう。よっぽど辛かったのだろうと思い、心が痛い。さっき、大した悩みではないだろうと思ってしまった事を反省した。
「それで、貝塚編集長に言われたんです。草生教に入ったら、ごり押ししていっぱい売ってあげるって。草生教は力があるから、作家一人ぐらい売るのは簡単って」
「それで、受けたの?その話」
確か聖書にもそんな話があった事を思い出す。イエス様が悪魔から誘惑を受けて、自分を拝むなら地位や名誉をあげると唆される。しかし、イエス様がそんな要求を聖書の言葉を言って跳ね返す。
最近、千尋が目的とはいえ聖書勉強会に通っている亜弓が「この聖書箇所は印象に残りますね!」と笑って言っていたのだ。確かに悪魔の誘惑をものともしないイエス様は完璧な存在で神様である事がこの箇所からも伝わってくるものだ。
「ええ。私はどうしても売れたかったんです」
やっぱり人間は弱いのだろう。夕子はその誘惑に乗ってしまったのか。栗子はあまりにも驚く事を続いて言われるので、次何を言われても動じない気分になる。実は私が犯人だと言われてもそうかもしれないとも思う。
「それで、教団の施設にも通うようになって。なぜか私の事を教団の幹部が気に入ってくれて、あれよあれよと言う間に私の作品のごり押しが始まって、売れ始めて…」
希望通りの事になったのに夕子の顔は暗い。涙をこぼし、辛そうだ。栗子は夕子にティッシュペーパーの箱を渡す。
夕子は鼻をかみ、涙をふいた。ルカの顔をながめ、深呼吸して多少落ちつきを取り戻していた。
「でも売れたんだから良かったじゃない?」
「よくないです…!」
夕子はきっぱりといった。栗子のようにハッキリと言うタイプでも無いのにこう言うのはよっぽどの事ではないか。
「教団に入って、変なお経を毎日唱えないといけなくて。人を呪うようなお経です。でもそれをしないと、酷い目に遭うぞって脅されて!」
自業自得とはいえ、脅されるのはつらいだろうとっ栗子は思った。
「あのお経を聞いていると気が狂いそうになりました。悪夢も見て、精神科にも通うように…。結局前よりひどくなってますね…」
栗子は可哀想だとは思うが、こんな状況になった事をどこか夕子は受け入れているようにも見えた。
「そんな教団やめればいいじゃない。うちの近所にキリスト教会があるけど、そこはなんだか楽しいみたいよ」
亜弓は千尋目当てとはいえ、日曜礼拝が意外と楽しいらしく、讃美歌をじ鼻歌しながら帰ってくる事がよくあった。よく知らないが、あそこの教会の行くのだったら安心できるが。
「ええ。何度も止めようかと思いましたし、貝塚編集長にもその事を伝えたんですけど、恨まれてしまって‥」
「恨まれる?」
物騒な言葉である。少女小説の語彙にはで滅多に出てこない言葉でもある。
「ええ。イタズラ電話がかかってきたり、家の周りに信者が来たり…」
「それってストーカーじゃない!」
栗子は夕子に取り巻く環境があまりにも過酷で同情心しか持てなかった。確かに迂闊に教団に入った事は咎められる事かもしれないが、こんな風に被害を受けてもいいわけでもない。
「あなた、家に一人でいて大丈夫? しばらくこの家にいなさいよ。どうせ部屋も余ってるし、うちの住人はみんないい人だから大丈夫」
栗子の優しい提案に夕子は再び泣き始めてしまった。
「本当ごめんなさい。でも退院してからは全く嫌がらせもなくて。逆に怖いんです」
「どう言う事? もしかして事件と関係ある?」
夕子は戸惑いながらも頷く。
「空美子さんの事はわからないけど、毒は教団の人間がやった可能性があると思います。栗子先生まで巻き込んでししまって、申し訳ないです…」
「警察にはこの事言った?」
「言えませんよ。そんな事言ったら、教団にまた逆恨みされて、今度こそ殺されそうです」
夕子は怯えきっていた。やはり一人暮らしの家に帰すのは危険だ。しばらくメゾン・ヤモメのに夕子をおいておく事にしよう。
しかし、事件の事も考える。
毒入りチョコレートのついては教団の人間の犯行で間違いないだろう。おそらくカルト信者である貝塚か円香が犯人だ。橋本ちゃんのチョコレートから毒入りのもののすり替えるチャンスもある。ただ、栗子や空美子までも同じチョコを食べたのは予想外の出来事だったのだろう。
もしかして同じようにカルトの勧誘を受けていた空美子は何か感づいた?
口封じの為に殺された可能性も大いにあるだろう。夕子は恨まれていたが、空美子は勧誘を断ったぐらいでそれほど強く恨まれていたわけでも無い。夕子のように一度信者になったものが抜けるなどといった方が裏切られたと感じて逆恨みするだろう。
「まあ、もう夕子先生、泣かないで。ケーキもあるし、美味しいカレーパンもある。可愛いルカもいるし、この家の中にいれば誰もあなたを傷つけないわよ」
「うぅ、ありがとうございます。栗子先生。先生の事を嫉妬して逆恨みしてごめんなさい」
夕子はしばらく泣き続けたが、ケーキを出して一緒に食べ始めりるとようやく落ち着いたようで涙をこぼす事はなくなった。やはり甘いものの力は偉大である。ネコのルカはちょっと悔しそうにニャーとないた。




