毒入りチョコレート編-7
サインをする席には、花も飾られ紺色のテーブルクロスもかけられ少々華やかである。
栗子、夕子、空美子がそれぞれ席に着席した。サインを書く為のマジックペンは数本用意され、背後に亜弓や貝塚、円香も控えている。いよいよサイン会が始まると思うと、さすがにメンタルが太い栗子も緊張し始めた。
「なんか、緊張してきたわー」
「大丈夫ですよ。サイン会はコージーミステリあるあるのシチュエーションじゃないですか。あとでコージーミステリ書くときネタにできますよ!」
亜弓に励まされ、栗子もだんだん元気になってきた。窓の外の屋台の方を見ると、幸子も笑顔手を振っている。まるで励ますよう笑顔で緊張感も収まってきた。
石田店長が亜弓や貝塚に行列の状況を最終報告し、時間にもなったのでサイン会がスタートした。
最初の客は島崎だった。
亜弓はため息が出そうになるが、仕方ない。
島崎は熱のこもった目をし、栗子を見つめ、まるで本当に神様からサインを貰ったかのように感動していた。
「ああ、本当にうれしい。生きててよかった!」
大袈裟によろこぶ黒づくめの妙齢な女性は正直気持ち悪いと思ったが、栗子は羊のような顔で微笑んでいた。
島崎は最後にプレゼントボックスにベーカリー・マツダの大きめな袋を入れて名残りおしそうにかえっていった。栗子がベーカリー・マツダのパンが好きであることもリサーチ済みとは、島崎はやはり熱が入っている。
次に真凛や未羽もやってきて、感激して栗子のサインを受け取って行った。この二人もベーカリー・マツダのパンやキムの店の袋をプレゼントボックスに入れている。ベーカリー・マツダはともかく、キムの店の食品をプレゼントに持って来るとは、やはりよっぽどにファンである。亜弓は若干ドン引きしながら、プレゼントボックスの中身も整理しつつ、栗子のサポートに回った。
夕子や空美子の読者も来ていたが、栗子のファンのような熱が入ったものは少ない。夕子のファンの橋本ちゃんぐらいだろうか。半分泣きながら本の感想を言い、プレゼントボックスにケーキ屋スズキの紙袋を入れていた。亜弓は橋本ちゃんが、ケーキ屋スズキにチョコをプレゼントしたいと言っていた事を思い出そた。
しかし、それ以外は夕子や空美子の熱心なファンは少ないようで、プレゼントボックスはスカスカだ。
途中で栗子のプレゼントボックスが満杯になり、円香がいったんバックヤードに置いていくほどだった。あまりにもプレゼントの量の格差が目立ちっていたので、貝塚は円香に指示を出し、他のプレゼントボックスも一旦バッグヤードに置いてと指示。確かにこれでは夕子や空美子も気分上がらないかもしれないし、細な配慮だと亜弓は感じた。
そんなプレゼントの量には差があったが、夕子はファンと触れ合えて、嬉しそうな笑顔を見せていた。
一方空美子はサインを描くのがいっぱいいっぱいと言った様子で、疲れを隠せないようだった。
「よう、シープルおばさん」
そろそろサイン会が終わるという頃だった。最後の客であの陰謀論者の船木陽介が整理券を持って現れた。
「げ、なんあんたがここにいるの?」
今日はずっと羊の皮をかぶっていた栗子は、始めて陽介の顔を見て嫌そうな顔をした。
「いいじゃないか。シープルおばさんが、また変な生贄礼賛小説を書かないか監視しにきたのさ」
「『龍神様の花嫁』の事? あれはもう絶版だし、今度の新作はこの通り大正時代の恋愛ものよ」
「ほぉ、ならいいか。サインくれよ」
陽介は嫌味っぽくニヤニヤ笑っていた。栗子は渋々といった感じでサラサラとサインを書いてあげていた。
「ほぉ、うまいもんだ」
「これでも練習をしたのよ」
「ふーん。ま、ありがとうよ」
こうして陽介はサインをもらって帰って行った。
「全くなんの為にきたのかしら?」
栗子は最後の客があれで、明らかに期限を損ねていた。
「誰? イケメンだったね」
夕子や貝塚が、陽介に色めき立っていたが栗子は不機嫌さを隠せていなかった。
「つ、疲れた…」
空美子はぐったりとしていた。よほど疲れたのだろう。
この後、午後からはこの三人も含めて読書会のイベントもある予定だったが、一旦休憩という事になり、ゾロゾロとバッグヤードに戻った。
「みなさん、お疲れ様!」
バッグヤードには幸子がいて、栗子や夕子、空美子に暖かなコーヒーを配っていた。
「いやぁ、栗子先生意外と人気ですね。外で売ってた先生の本は全部完売してしまったよ。もっと発注しておけば良かったかな」
石田店長も満足気だ。
やはりこうしてイベントをしてよかったと栗子は思いながら、温かなコーヒーを啜った。
「それにしても栗子先生のファンは熱心ね。こんなにプレゼントがいっぱい」
バッグヤードの机の上には、栗子へにプレゼントがぎっしりと置かれて、貝塚が目を見張る。一方夕子へのプレゼントは橋本ちゃんが持ってきたケーキ屋スズキのチョコレートだけで、空美子へのプレゼントも小さな花束が一つだけだった。
「しかし、私も数は少ないけどチョコレートもらえて嬉しいじゃない」
夕子は袋を開けて中を開けはじめた。中には、石畳のような生チョコレートがあり微かにお酒の匂いもした。
栗子へのプレゼントは量は多いが、庶民的なものばかりなので、夕子のプレゼントはちょっぴり高級そうに栗子は見えた。
「いいなぁ…」
そう言ったのは花束しかもらえなかった空美子。栗子達はなんとなく居心地が悪くなり「みんなで食べましょう!と明るくいった。
幸子がお皿を持ってきてくれてあのチョコレートや栗子へのプレゼントだったベーカリー・マツダのシナモンロールなどを盛り付ける。再び幸子が温かいコーヒーも注いでくれ、テーブルの上はちょっとしたおやつパーティー状態だった。
体型通り食い意地がはっていそうな円香やサイン会で疲れ果ててしまっている空美子はちょっとパンを見て、もの欲しそうな表情だった。
亜弓と貝塚はちょっぴり呆れながらも、ここで一息つきましょうと栗子達に提案。石田店長や幸子も頷き、さっそくみんなで食べ始めた。
「やっぱりベーカリー・マツダのシナモンロールおいしいわ。夕子さんも食べてみなさいよ」
栗子は実におばさんぽっく夕子にシナモンロールを進めた。辛いものが好きだという夕子だが、ふわふわのシナモンロールを目を輝かせる。
「あら、おいしいわ。帰りにあのパン屋寄ってお土産買ってかえろう」
「賛成!一緒に買いましょう」
おばさん作家二人は、パンの話で盛り上がっていた。
「このチョコレート美味しそう…」
空美子は、幸子が持ってきた爪楊枝に生チョコを刺して口に運んだ。
「チョコも美味しそうねぇ」
「そうね、栗子先生」
続いて栗子達も石畳のようなチョコに爪楊枝をさして口に入れた。
トロリと濃厚なチョコの味が口いっぱいに広がったと思ったら、強烈な苦味が襲ってきた。
「何、このチョコ…」
同じくチョコを食べた空美子や夕子の顔は白く青くなった。
「栗子先生!」
亜弓の声は聞こえてきたが、だんだん意識が薄まる。
「きゃー、空美子先生が倒れた!」
「夕子先生!」
「栗子先生!」
貝塚、円香、亜弓の叫びが聞こえてくるが、栗子は意識を保つことができなかった。栗子は薄れゆく意識の中で、ベーカリー・マツダのシナモンロールをお腹いっぱい食べたかったと思った。こんな時でもあの味の事を考えてしまうほど、シナモンロールは美味しかった。




