第5話【天使と悪魔の恋路】
その人物は、喫茶店内に漂い始めた甘酸っぱい空気を霧散するかの如く来店した。
「はー、本当にもう散々ッスわ」
間延びした声が喫茶店内に響き渡る。
それまで生暖かくユフィーリアのショウの甘酸っぱいやり取りを眺めていた天使たちだが、来店した人物を物凄い形相で睨みつける。あの天使長ですら厳しい表情で入り口を見つめていた。何事かと思ってしまう。
耳朶に触れた声と天使たちの反応から察して、おそらく学院唯一の悪魔が来店したのだろう。それ以外にあり得ない態度だった。
来店したのは、異常に背筋の曲がった赤い髪の青年である。
地面に届きそうな勢いのある毒々しい色味の蓬髪と、目元を黒い布で覆い隠した異様な格好。裾が引き摺るほど長い真っ黒な長衣を身につけて、両手や両足の露出は一切ない。
猫背気味な姿勢はさながら老人を想起させ、見た目の雰囲気は完全にお伽話に出てくる悪役の魔法使いだ。「ヒッヒ」という引き攣った笑い方も、その雰囲気を増長させる。
足音を立てることなく喫茶店内に足を踏み入れた青年は、
「ここの天使は本当に野蛮ッスね。お里が知れますわ」
「黙りなさい、悪魔め」
天使長が吐き捨てるように言う。
「貴方の来店は許可していませんが」
「副学院長を相手に随分な態度ッスねぇ。普通に飯を食いに来た客を散々追い回した挙句、入店の許可云々とか常識をどこに置き去りにして来ました?」
――ズバチィッ!! と2人の間に火花が散る。
和やかな空気は一瞬にして消え、代わりに今にも正面衝突が始まりそうな一触即発の緊張した空気が張り詰める。
天使も天使で相手にしなければいいのに、余計な挑発に乗るとは短気な連中が多いものだ。悪魔は話術に長けているので、口喧嘩をすれば確実に負けるはずなのに。
息が詰まる空気に晒される問題児はというと、
「まーたやってるよ。副学院長も難儀な奴だよなァ、普通に飯を食いに来ただけで門前払いって」
「もう見飽きたよねぇ。これで何度目のやり取りなのよぉ」
「どうでもいいね!!」
「おねーさんたちには関係ないしネ♪」
「ええー……?」
困惑気味なショウは、
「止めなくていいのか?」
「止めたって無駄だよ、無駄」
2個目の焼きサンドに弾け辛子を振りかけながら、ユフィーリアは呆れた様子で言う。
「だって互いに素直になれない男女の痴話喧嘩なんて、首を突っ込んだら負けだっての。馬に蹴られてこっちが死ぬわ」
「誰が痴話喧嘩ッスか!!」
「誰が痴話喧嘩ですか!!」
バッチリと聞こえていた天使長とヴァラール魔法学院の副学院長――スカイ・エルクラシスが、ほぼ同時にユフィーリアへ叫び返していた。
もうその反応が色々と怪しい気配がある。天使長の側で控えている下級天使たちも、密かに呆れ顔である。
これ以上、彼らの事情に首を突っ込めば邪魔者扱いをされて死ぬ可能性がある。まさに『他人の恋路を邪魔する馬鹿は馬に蹴られて死んじまえ』である。
冗談ではない、まだ死にたくないのだ。
「言いがかりは止めてください、問題児様。私がこんなだらしのなさそうな男をす、好きになるものですか」
「嘘コケ」
天使長の懸命な主張を鼻で笑い飛ばしたユフィーリアは、
「お前この間、副学院長のことを盗撮してたじゃねえか。高性能な転写魔法が込められた高級な魔導具で何枚も」
「はぅあッ!?」
痛いところを突かれた天使長は、頬を真っ赤に染めて膝から崩れ落ちる。
転写魔法とは見ている風景や人物を紙などに転写する魔法のことだ。分かりやすく言えば写真である。
ただし魔法なので紙に転写された風景は動くし、人間はどこかに消えることがある。その場合は固着化という手段を用いて風景や人物を紙面に固定して、完全な静止画にすることも可能だ。
高性能な転写魔法というのは、この固着化の手順も一緒に含まれたものを示す。そんな転写魔法がかけられた魔導具は、かなりの高級品として有名だ。
「えー、そんなことをしてたんスかぁ? これはちょっと事案じゃないんスかねぇ?」
天使長の恥ずかしい一面が暴かれてしまい、スカイは鬼の首を獲ったかのような態度で言う。
しかし、彼にも地獄は待っていた。
自分だけが助かると思ったら大間違いなのだ。お前も道連れである。
「あラ♪ 副学院長も天使長のお尻を追いかけていたじゃなイ♪ 小さな声で『あの緑の目で睨まれたい』とか『綺麗なおみ足で踏まれたい』とか言ってたの、ちゃんと聞こえてるわヨ♪」
「へぐぅッ」
スカイも同様に膝から崩れ落ちた。
アイゼルネが暴露した情報は、彼自身の性癖を疑いたくなるような内容がズラズラと並んでいた。もはや変態の領域に片足、いや両足を突っ込んでいる。
硝子の床に突っ伏してピクピクと痙攣する副学院長に、問題児による次なる攻撃が叩き込まれる。
「あとぉ、俺ちゃんに天使長への贈り物の相談はしないでよねぇ。結局渡せてないじゃんねぇ。愚痴も多いからお腹も膨れないしぃ」
「天使長に似合いそうな髪飾りの相談なんて知らないよ!! 自分で決めろよ!! どうせ渡せなくて部屋のコヤッシーになってんだから!!」
「ハルさん、それを言うなら肥やしだと思う」
「うごえッ」
エドワードとハルアにも1発ずつ重い精神攻撃を喰らい、スカイはもう瀕死寸前だった。起き上がることさえ不可能だった。もうダメだと思う。
下らない喧嘩の理由を察知したショウも、冷静さを取り戻していた。これは首を突っ込んだらダメだと自分でも思ったらしい、彼は食べかけのパンクックをむぎゅむぎゅと口の中に詰め込み始めた。
さて、問題の天使長と副学院長だが。
「傷が少ねえのは天使長の方か?」
だんだんと楽しくなってきたユフィーリアは、2人揃って硝子の床に伏せる天使長と副学院長を見下ろして悪魔の如き笑みを見せる。
これはもう、完全に面白さを見出してしまった証左だ。
面白さを見つけてしまえば最後、他人が止めようと首を突っ込むのが問題児筆頭と名高いユフィーリア・エイクトベルである。楽に死ねると思うな。
「下級天使ちゃんたちよ、天使長の弱味って何か握ってねえか? こう、もっと凄えところを盗撮してましたとか」
「ちょっと!!」
硝子の床に伏せた状態で顔だけを上げた天使長が抗議してくるが、ユフィーリアはお構いなしだった。
「ありませんよ、そんなの」
下級天使たちは互いに顔を見合わせ、それからそんな結論を述べる。
下級とはいえ、天使は天使だ。上司を守るのは当たり前のことか。
ならば仕方がない。多少乱暴な手を使っても吐き出させてやろうと思ったが、
「――ただ、天使長のお部屋の壁には副学院長様のお写真がたくさん飾られておりますし、副学院長の全身が印刷された抱き枕や敷布もありますし、この前は抱き枕にキスを……」
「止めなさい止めなさい!! 止めてぇ!!」
下級天使による裏切りを受けた天使長は、新緑色の瞳に涙を浮かべて悲鳴を上げる。
これは素晴らしい情報を聞いてしまった。2人とも揃って犯罪者予備軍である。由々しき事態ではないのだろうか。
片や暴力を振るわれたい変態で、片や相手の姿を盗撮した挙句に抱き枕や敷布を自作する変質者である。彼らは逮捕されないのだろうか。不思議なものだ。
硝子の床に伏せて啜り泣く天使長に、下級天使の少女たちによる呆れた厳しめのお言葉が投げかけられる。
「ファウエル上級天使様、我々はもう疲れましたよ」
「確かに天使と悪魔は仲が悪いと言われておりますが、今は昔ほどではありませんよ。会話ぐらい交わしますし」
「いつまでも意固地にならないでください。もっと素直になりましょうよ」
「ねえ? 相手も同じ気持ちでしょうから」
どうやら、下級天使たちの方が時代の流れにはきちんと従っているようだ。時代の流れに置き去りにされたのは、天使長のみである。
さあ、もう古い常識に囚われるのは辞めよう。
これからは新しい時代である。犬猿の仲だった天使と悪魔が手を取り合い、仲良くなる時が来たのだ。
ユフィーリアは天使長と副学院長を立たせてやると、
「はい、それじゃ仲直りのキッスでこの喧嘩はお終いな」
「「はあッ!?」」
2人して顔を真っ赤にしてユフィーリアへと振り返るが、その場から絶対に逃してやるものかとばかりにエドワード、ハルア、アイゼルネが周りを取り囲む。
ついでに下級天使たちによる包囲網も展開された。これで絶対に逃がさない包囲網は完成である。
もう逃げ場がない天使長と副学院長の2人に、問題児からの野次が飛ぶ。
「ほら、そこだ。ぶちゅっと行け、ぶちゅっと」
「やっちゃいなよぉ、副学院長。男でしょぉ」
「根性見せろや!!」
「天使長も待ってるわヨ♪」
キーッス、キーッス、と合いの手まで始まる。もう絶対に逃げられないし、逃がすつもりも毛頭ない。
周囲の合いの手にどう怒っていいのか分からずに狼狽える天使長の両肩を、スカイがようやく掴んだ。ようやく覚悟が決まったようだ。
肩を掴まれたことで、さらに狼狽える天使長。頬を赤く染めた彼女が顔を上げれば、目の前には真剣な表情をした密かに想いを抱く副学院長の顔。
「あ、え、ああ……」
思考回路が徐々に混乱してきたのか、言葉すらも発せなくなる天使長。
スカイの唇が、ゆっくりと天使長のものに近づいていく。
吐息が触れ合う距離まで縮まった瞬間、羞恥と緊張感が盛大に爆発した影響で天使長が絹を裂くような悲鳴を上げた。
「ま、まだ早いですーッ!!」
「ぐへあッ!?」
強烈な拳を顔面に受けたスカイは吹き飛ばされ、天使長は顔を真っ赤にして包囲網を無理やり突破して喫茶店から逃げていく。
ユフィーリアは喫茶店から飛び出した天使長の背中を見送り、硝子の床の上で寝転がるスカイに歩み寄った。
ツンと高い鼻はひん曲がり、鼻血も垂れてしまっている。呆然と天井を見上げる副学院長の顔を覗き込めば、彼はすぐにユフィーリアの存在に気づいた。気絶をしていないとは随分と頑丈な身体のようだ。
「ユフィーリア」
「何だよ」
「ボク、甘いキッスより殴られる方が好みかもしれないッスわ」
「そうかい」
もう、どう反応するのが正解なのか分からなかった。
呆れたように肩を竦めたユフィーリアは、雪の結晶が刻まれた煙管を咥えた。
変態と変質者の組み合わせは、さすがの問題児でも手に負えなかった。




