第8話【優しい魔女】
運動場に氷のお城を建築して怒られて、新人を歓迎する細やかなパーティーも開催して、どんちゃん騒いだその日の夜。
魔法の世界に放り込まれた異世界人の少年に、再び悪夢が忍び寄る。
それは音もなく、意図すら感じさせない。その日を存分に楽しんだはずの少年を痛めつける、精神的な暴力。
――嗚呼、憎たらしい。
――年々、お前は兄貴に似てくるなぁ。
忌々しげに自分を見下ろす冷たい瞳。頬を殴られる衝撃。
崩れ落ちたところへ追い討ちをかけるように、何度も何度も胸や腹を蹴り飛ばす。ボールになったような気分だ。
息が吸えないほど暴力を振るわれて、密かな自慢だった長い髪の毛を掴まれて、押し倒されて、服を剥かれて。
――だから汚してやる。
――兄貴に似たお前を汚してやる。
――いい気味だ。
下卑た笑みを浮かべて痩せ細った自分の身体を撫でる手つきに怖気を感じ、それでも悲鳴を上げることも相手を拒絶することも許されない。
下手をすれば自分の命がない。殺されるのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。
だから言われた通りに、彼の兄である自分の父親のフリをする。痛くても、苦しくても、辛くても、この男の手にかかって死ぬのだけは嫌だ。
――愛している。
――嗚呼、兄貴。愛してる。
組み敷く自分に何を見たのか、男は何度も泣いた。痣だらけで痩せ細った自分の身体を抱いて、愛する兄を想って泣いた。
彼の頭に手を伸ばし、ボサボサの髪を撫でてやる。
そうすれば痛いことも苦しいことも早く終わるし、相手も満足すると思ったから。
「――私も愛しているよ、×××」
叔父の名前を口にすれば、彼は歪な泣き笑いを見せて。
☆
「――――ッ!!」
悪夢を振り払うように飛び起きたショウは、ドクドクと脈打つ心臓を押さえる。額には脂汗が滲み、まるで全力疾走したかのように呼吸が早い。
薄暗い部屋にはベッドが4つほど並んでおり、ショウが寝ているのは長椅子だった。4つのベッドには先住民たちがそれぞれ眠っており、中には布団すら跳ね除けてベッドから転げ落ちん勢いの最悪な寝相を披露している者もいる。
最初は気を遣って誰かが長椅子で寝るか話し合っていて、ショウが自ら進言したのだ。元の世界ではまともに寝ることすら出来ず、安眠が保証されるのであればどこでもよかった。
それなのに。
「ふぅッ……ふッ……」
カタカタと震え始めた手を握りしめ、ショウは背中を丸める。
眠ることが怖い。あの悪夢が、再びショウを苦しめようとするから。
せっかく叔父夫婦の虐待から逃れられたと思ったのに、何故異世界までやってきて苦しまなければならないのか。
もう嫌だ、こんな悪夢に苦しむのは。
ショウだって安心して朝を迎えたいのに、どうしてそれを許してくれないのだろうか。そんな細やかな願いすら神様は聞き届けてくれないのか。
「助けて……ッ」
祈るように呟けば、その声へ応じるようにポンと誰かの手がショウの頭に乗せられた。
「眠れねえか?」
降ってきたのは、聞き覚えのある優しい魔女の声。
顔を上げると、暗闇でもなお輝きを失わない銀髪がまず目に飛び込んでくる。次いで炯々《けいけい》と光る色鮮やかな青の双眸、そして真っ黒な部屋着から伸びる華奢な手足。
黒い長手袋に覆われた冷たい手のひらでショウの頭を撫で、銀髪の魔女――ユフィーリアは言う。
「怖い夢でも見たんなら、起こせばいいだろ」
「……出来ない」
ショウは否定する。
他人の安眠を妨害できる度胸など、持ち合わせていなかった。
だって、彼らはとても優しいから。迷惑をかけたくないと、心の底から思っていた。
ユフィーリアは「そっか」と穏やかな声で言うと、
「ほら、おいでショウ坊」
ポンポンと軽く2度ほど頭を叩いてから、ユフィーリアはショウに手招きしてくる。
手招きされるがままに部屋を出れば、ちょっと散らかった様子の居間がショウとユフィーリアを迎え入れる。
料理で使われる大皿がひっくり返り、空っぽの酒瓶がそこかしこに転がっている。まるで部屋の中に嵐がやってきたかのような荒れ模様だったが、ユフィーリアが魔法を使ってあっという間に片付けてしまう。
使用済みの皿は流し台に突っ込み、空っぽの酒瓶はひとまとめにして部屋の隅へ。ピンと立てた銀髪の魔女の指が振られれば、彼女の意のままに荒れ果てた部屋が綺麗になっていく。
居間の片付けが終わると、ユフィーリアはショウへ振り返る。
「ショウ坊。お前、紅茶は好きか?」
「……嗜好品の類はあまり飲ませて貰えなかった」
高価な紅茶などお前には勿体ない、という叔父の声が脳裏をよぎる。
ユフィーリアは戸棚から紅茶用のカップと陶器製の薬缶を取り出し、食卓に並べる。魔法で生み出された水を陶器製の薬缶へ投入し、さらに魔法を使って温度を操作すれば、すぐに紅茶用のお湯が作られた。
手際良く紅茶の準備をしていくユフィーリアは、次いで紅茶のカップに藍色の小さな立方体を入れる。角砂糖にも似たそれはコロンと乾いた音を立ててカップの中を転がり、陶器製の薬缶からお湯を注がれて溶け出す。
指先の動きだけで椅子に座るように促され、ショウは何も言わずに大人しく椅子へ腰掛ける。差し出された紅茶のカップを受け取れば、小さなカップの中に広がる光景に驚いた。
「うわあ……」
花柄があしらわれたカップの中には、満天の夜空が広がっていた。
紺碧の空に散りばめられた白銀の星屑。元の世界でもなかなかお目にかかれない美しい星空が、紅茶のカップの中を揺蕩っている。
これが本当に紅茶なのだろうか。だとしたら、一体どういう原料を使っているのか気になる。
「いつもは高いから開けねえんだけど、今日は不眠症の坊ちゃんがいるからな。特別だ」
ニヤリと笑ったユフィーリアが戸棚の奥から取り出したものは、小瓶に入った琥珀色の液体だった。
蜂蜜によく似た液体はキラキラと輝いていて、明かりのついていない部屋をぼんやりと照らす。この小瓶単体で明かりに活用できるのではないだろうか。
小瓶の液体を匙で掬い上げ、とろみのある琥珀色の液体をショウの紅茶カップに流し入れる。線を引くように流し込まれた液体は、カップの中で揺れる星空へさらなる変化を与えた。
「天の川……」
「天の蜂蜜っていう調味料でな。この紅茶に合うんだよ」
ユフィーリアも自分のカップに琥珀色の液体を流し入れると、星空の紅茶を啜る。
ショウも彼女に倣って、紅茶のカップを傾けた。
温度に注意して星空の紅茶を口に含めば、ふわりと花の香りが広がっていく。今までの悪夢の記憶が途端に薄れていき、ちょっと落ち着くことが出来た。
「熱ッ」
紅茶を口にしたユフィーリアが、その熱さに呻く。どうやら舌を火傷してしまったらしい。
痛む舌を出して顔を顰める彼女は、パチンと指を弾いて小さな氷を生み出す。それを夜空の紅茶へ投入して冷まし、ようやく飲めるようになった。
「猫舌なのか?」
「ちょっと語弊があるな。似たようなモンだけど」
冷めた紅茶を啜るユフィーリアは、
「得意な氷の魔法を何百年と使い続けてたらな、ちょっと強めの冷え性みたいな体質になっちまったんだよ」
「冷え性」
「普段は煙管で平熱にしてるんだが、煙管を吸わないでいると体温がどんどん下がってきちまう」
やれやれと肩を竦めたユフィーリアは、言葉を続けた。
「でも悔やんだことは1度もねえ。そりゃ確かに面倒な体質にはなったけど、夏は涼しいから便利だしな」
「確かに便利そうだ」
「そうだろ? 夏になったら特別に張り付いてもいいんだぜ?」
ニヤリと不敵に笑うユフィーリアに、ショウは思わず笑ってしまった。
彼女の話は楽しくて、非常に興味深い。元々が面白いことや楽しいことを求める性格だからこそ、話が上手いのだろう。
深夜のお茶会はとても穏やかで、先程の悪夢など忘れてしまうほど楽しいものだ。このまま、ずっとこの時間が続けばいいのに。
「悪夢の内容は忘れたか?」
「え――」
見れば、対面に座るユフィーリアは綺麗な微笑を浮かべていた。
「苦しい記憶も痛い過去も、今すぐに忘れることは出来ねえ。でもアタシが何度だって忘れさせてやる。お前が悪夢に魘されれば、こうして深夜のお茶会を開いて話ぐらいには付き合ってやるさ」
やや温度が下がった紅茶のカップを両手で包み込むようにして持ち、ショウは俯いた。
視線の先にある紅茶のカップでは、美しい夜空がゆらりと揺れる。
紺碧の空に浮かぶ白銀の星々。カップの中央を流れる天の川を見ていると、自然と口が緩んでしまう。
「話を、聞いてくれるか」
――そうして、ショウは叔父夫婦から受けた虐待の話をした。
生まれた頃に母親を亡くし、四歳の時に父親が行方知れずとなったこと。幼いショウを育てられないと言い、親戚中を盥回しにされた挙句、子供のいなかった叔父夫婦に預けられたこと。
それが全ての始まりだった。
叔父は自分の実兄であるショウの父親に強いコンプレックスを抱いていて、父親の子であるショウを虐めることで優越感に浸り、また兄に対して隠し持っていた歪んだ愛情の捌け口に使われた。眠るショウに覆い被さり、何度も何度も組み敷いた。
夜に安心して眠れなくなったのは、それが理由。目を閉じれば、あの時の光景が瞼の裏側で再生されてしまう。
叔母はショウに無関心だった。元々子供が嫌いなのか、暴力を振るわれるショウを助けることもしなかったし、幼いショウを育てようとすらしなかった。
碌に食事すら与えようとせず、娯楽も許さない。顔を合わせるたびに舌打ちをし、ネチネチと嫌味や文句を言われた。髪も無理やり切られ、少しでも機嫌を損ねれば部屋に閉じ込められることさえあった。
叔父も叔母も外面だけはよく、警察も児童相談所の職員も彼らの言葉を信じてしまうので、虐待についてはショウの被害妄想で片付けられた。通報したその日には暴力が酷くなり、食事を抜かれて部屋に閉じ込められた。
誰もショウを助けてくれず、自死をしようにも勇気が出ない。「助けて」と誰にも訴えられず、毎日の暴力に耐えるしかない日々だった。
ショウの話を静かに、何も言わず耳を傾けていたユフィーリアは、
「そっか」
それから、ポンとショウの頭を撫でてくる。
「よく頑張ったな、辛かったろ」
彼女の声はとても穏やかで、それでいて優しいものだ。
頭を撫でる手つきも乱暴さはなく、ゆっくりと移動してショウの頬を指先でくすぐった。長手袋に覆われた指先は、ほんの少しだけ冷たい。
「ショウ坊、お前は十分に苦しんだ。十分に頑張った。だから今度は幸せになれ。腹一杯に飯を食って、馬鹿みたいに騒いで、一緒に怒られ――たくはねえだろうが、まあそこは受け入れろ」
いつのまにか腫れの引いた頬を撫でるユフィーリアは、
「これからは、アタシがお前を幸せにしてやるよ」
その言葉を受けたショウは、
「……プロポーズみたいだな」
「好きに受け取っていいぜ。これから一緒に過ごすんだし、もう家族みたいなモンだろ」
嗚呼、どうして彼女はショウの望む言葉をくれるのだろう。
虐待された果てに衰弱死する最悪の未来から助けてくれただけではなく、右も左も分からない世界へ放り込まれたショウに手を差し伸べてくれた。
決してそれは正しい判断とは言えないだろうけど、ショウは彼女の手を取ったことを後悔しない。今後、絶対に。
「ありがとう、ユフィーリア」
口元を緩ませて笑みを作ったショウは、
「貴女に出会えたことが、俺にとっての幸せだと思う」
少しだけ驚いた表情を見せたユフィーリアは、ややあってから「そうかい」と応じる。
「なら、もう少し面白い話でもするか」
「何の話をしてくれるんだ?」
「この前あった話なんだけどな、グローリアの奴が――」
深夜のお茶会はまだ続く。
ショウは、2度とあの悍ましい悪夢を見ない自信があった。
すぐ側には、世界で1番優しい魔女がいてくれる。彼女の存在があれば、もう恐れることなど何もない。
今まで起こしてきた悪戯の話を聞くショウは、楽しさのあまり時間を忘れて笑った。




