第1話:蛭の囁きと死神の咆哮
村の外れの草原で、一人の少女が仰向けに倒れている。
労働に駆り出される年齢ではない。昼間は同い年の子供たちと遊んだり、遊び疲れたら原っぱで寝そべっていても、不思議ではないだろう。
だが、彼女の場合はそうではなかった。
「……痛い、よ……」
少女は仰向けに倒れたまま、両手で顔を覆っていた。
手のどこもかしこも傷だらけで、至る所に殴打の痕が痛ましく刻まれている。つい先ほどついた新しいものもあれば、ずっと以前につけられて、消えなくなってしまったものまである。
いずれも暴力によるもので、全てが家族と、それ以外によってつけられたものだった。
つまりは、フィーリアを取り巻く全て。
この小さなセカイの全てが、一人の少女を生贄として選んでいた。
◆
――うちの母さんもっ、父さんもっ……言ってた、ぜっ。
さっきまで存分に、欲望のままに力を振るっていた男の子が言っていた。
――おまえがっ、ぜんぶっ、悪いんだって……さっ!
――おまえがいるから、いつまでもっ、雨が……降らないっ!
(わたしがいるから、雨が降らない)
――おまえがいるから、母さんの病気がっ、いつまでも治らないっ!
(わたしがいるから、病気が治らない)
――だからっ、
(……だから、)
――何したって構わないってさっ!
――フィーリアだけにはっ、何したって構わないって……さっ!
◆
(どうして……?)
"遊び"に飽きた男の子たちがどこかへ行ってしまってからも、フィーリアは草むらの中で仰向けに横たわったままだった。
両手で顔を覆ったまま、枯れかけの雑草に背中を預けている。物言わず、微動だにせず、ただ傷ついた身体を乾いた風に晒していた。
"今の"父親からの唯一の贈り物である汚らしい麻の衣服は、先ほどの"遊び"の積み重ねで、至る箇所が破れてしまっていた。
服のはだけた箇所からは例外なく痛ましい傷跡が覗いている。他の子供たちと比べるとやや色素の薄い、白雪のようだったはずの肌は、今はもうどこにもない。
たくさんの友達と笑い合いながら、金糸の髪を靡かせて原っぱを駆け回った少女はもう、どこにもいない。
「……どう……して……?」
何時間も経ってから、不意にフィーリアの喉からか細い声がこぼれた。
どうして。
何故、他所から来ただけで。何故、少しばかり姿が違うだけで。
(毎日、こんな……)
陽が暮れ始めていた。
冷たい風が傷口にしみる。これからもっと寒くなる。早く家に帰らないと凍えてしまう。
家に帰れば、風は避けられる。少なくとも風だけは。
けれど、家には……"今の"父親が――"あの男"がいる。
◆
――さぁ、こっちにおいで……恥ずかしがることはない。
――いいから、来るんだ。
――来いって、言っているだろ……?
――言うことが聞けないのなら、仕方がない、な。
◆
「いや、だ」
ざぁっと。
ひと際強く、冷たい風が吹き荒ぶ。力なき少女の喉からポツリと漏れた言葉を、覆い隠すかのように。
ここでなら何を言ってもいいのかもしれない。
何を叫んでも、何を願っても、誰からも咎められることはないだろう。
何をどのように叫び、願ったとしても、何も変わらないけれど。
もう耐えることはできなかった。
「――っ……!」
体力と水分の無駄だからと、もう流さないと決めていたはずの涙はあっさりと指の隙間からこぼれ、頬を伝い、枯草の上に落ちていく。
ただ家畜かそこら辺の雑草のように何も感じず生き延びるなど、不可能だ。
限界だった。
一滴の涙が、凍らせてきた感情の全てを決壊へと導いていく。
「ひっ――え、う、ううぅ……!」
あふれ出した嗚咽は、押し殺そうと意識しても止まるものではなかった。
いつの間にか。
フィーリアは声をあげて泣いていた。
「もういやだよ……! 父さん……母さん……」
本当の両親を頭に思い浮かべる。少し前ははっきりと思い出せた顔も名前も、今となってはおぼろげだ。
意識して思い出さないようにしていた。余計に辛くなると思ったからだ。
でも間違いだった。捨ててはならなかったのだ。何故ならそれが――過去の記憶だけが唯一、縋れるものだったのだから。
3年間、過酷な日々を強いられて嫌という程思い知らされてきた。人の世に、希望は永遠に存在しないのだと。
この世界は変わらぬまま、未来永劫ずっと続いていくのだろう。
少なくとも、終りがくるまでは。
◆
――いいか? 俺の言うことにだけは、絶対に従うんだ。
――そうする限りは面倒を見てやる。飯を食わせてやる。
――なぁ、だから……こっちへ来るんだ。
◆
幾度となく味わわされた、拷問の如き記憶が脳裏を過ぎった。
「いやだっ……!」
耳元で囁かれたような感覚に、フィーリアは思わず両手で耳を塞ぐ。
無駄なことだった。形の良い耳がつぶれるぐらいに力強く押し当てても、あの男の声は蛭のように張り付いて離れない。
「父さん! 母さん……ッ! 助けてよっ!」
かき消す為には叫ぶしかなかった。
「なんで自分たちだけで死んじゃったの……!? わたしも連れて行ってくれればよかったのにッ!」
フィーリアの両親は死んだ。
殺されたのだ。
大空から舞い降りた、死神によって。
フィーリアが覚えていることはあまりにも少ない。
闇夜に浮かび上がる、巨大な翼を広げた死神のシルエット。
咆哮。
衝撃、熱。
炭になった母親と、血だらけの父親。
今よりもずっと幼かったフィーリアは、最後の力を振り絞った父親によって馬に括り付けられた。
そのまま何日も高原を移動し、やがてとある村に辿り着いた。それが……この村だ。
父はこの村のことを知っていた。ここの住人たちが善意をもってフィーリアを助けてくれる可能性に賭けた。
それでも。
フィーリアは断じる。
両親の選択は、とんでもない間違いだった。
「殺してよっ……!」
フィーリアは叫ぶ。
「今すぐ殺してっ! 殺して、殺して……! 連れて行って……! わたし……っ、げほっ……!」
慣れていない負荷の為だろうか。フィーリアは咳き込んで、反射的に口元を右手で覆った。
べっとりとして、赤いものが右手に広がっていた。
致命的な何かが、残された時を刻み始めたのだ。
その時だった。
凄まじい轟音がどこからともなく響き渡った。
全身に叩きつけられるかのような音圧は、風の音など問題にならない苛烈さで、周囲一帯の大気をビリビリと震撼させていく。
「なにこれ――」
聞き覚えのある音だった。
数少ない過去の記憶の中にあった要素のひとつ。
咆哮。
「空の死神……」
灰色の空を切り裂いて。
二対の翼を広げた巨大な影が翔けていく。
程なくして、フィーリアを取り巻くセカイは再び滅んだ。