ある魔導師と魔女の不運と災難について
夕陽を受ける飴色の古い時計台で、黄金の鐘が鳴っていた。
荘厳な音色は、巨大都市の隅から隅まで時を報せる。ぽつぽつと灯りの燈りだした街の中央には、黄緑色に輝く『魔法の塔』。それらを見下ろす南の高台に、影が二つ並んでいた。公園にもなっている高台の人影はまばら。
「僕がいつ、こんなの頼みました?」
黒髪の魔導師は、木の手すりに寄りかかって街を見ろしながら言った。
「ううん、頼んでない」
手すりに腰掛けた朱鷺色の髪の魔女も街を見下ろし、首を横に振る。
緑と桃色の模様で縁取られた華やかな白の長衣。その下の白いミニドレスの煌びやかさは、踊り子にも負けない。すらりと伸びた脚を、凪いだ風に晒していた。気だるげに揺れる足の先には、臙脂色のショートブーツ。
「じゃあ何で」
問い質す魔導師は、黒衣の中から茶色の分厚い封筒を取り出した。
この高台まで、彼女を引き摺ってきた理由。
「何ですか、このお見合い話は。アホですかあなたは」
「だって、すごくいい話だって……」
湖のティリンス公国。水上に浮かぶ首都メディア。
『緑魔晶の魔法の塔』に名を連ねる、一等魔導師様にびしびし言われ、魔女は紅い唇をひん曲げている。額には魔女の印であり魔力の結晶である、真紅の宝石の欠片に似た『魔女の目』があった。
「良いかどうかは僕が決めることです」
「そうだけど、オルランド伯爵夫人にはお世話になってるしさ。『是非一度、勧めてみてちょうだい』って言われたら断われなかったんだよ。それにアタシも、ザイファートにはこういうお見合いが必要なんじゃないかな? って……」
彼女の言い分を聞き、髪も長衣も靴も喪服のように黒一色の魔導師は、唯一の有彩色である水色の瞳へ苛立ちを浮かべた。
「怒りますよ」
「もう怒ってるじゃん……」
魔女が項垂れると、朱とも緋とも見える髪が、細い肩を滑り落ちていく。
とても長くて真っ直ぐで、夕暮れの風にさらさら揺れる髪は金糸となって光っていた。
「何考えてるんですか」
溜息まじりで呟いたザイファートの声は、疲労を隠していない。
忙しい一等魔導師が、今日は早めに仕事を終えて自宅へ帰る途中。
賑やかな街角で呼び止められ、振り向いたら魔女ロスワイセ=ラジーがいて、「はい、これ!」と渡されたお見合い話。何を食べるか考えていた夕食についての情報処理は、初期化されてしまった。
ちなみにさっき一応確認した封筒の中身で、『お見合い』の相手である某ご令嬢が、外見、身分、資産のどれも申し分ないとザイファートも認めている。
「……アタシね。こういう関係、もうやめようかなって思ってたの」
手摺りに腰掛けた魔女は、遠くに輝く山吹色の雲の峰を瞳に映して言った。
花のような横顔が、赤紫の空と同じ色に染まっていく。
「こういうって? ……買い物に行ったりとか?」
「そう。ザイファートと一緒にご飯食べたりさ。家に転がり込んだりとか、色々あるでしょ?」
「まあ、そうですね」
「ザイファートは何もしなくていいけどね。アタシが家に行くの、やめればいいだけのことだから」
「そうですね」
「言い方!」
魔導師から冷徹な答えがあって、朱鷺色の髪の魔女は怒っているのと困っているのと、半々の表情で睨んだ。振り向かれた側は、全く同じタイミングで目を逸らす。逸らした状態で話しを続けた。
「何でいきなり、そんなこと考えたんですか?」
「いきなりじゃないの。前から考えてたのよ」
「じゃあ、何で実行しようと思ったんですか?」
「タイミングよタイミング! 何となく!」
「誰かに何か言われたんでしょう。ロスワイセさんのことだから」
「言われてない」
「本当に?」
「んー……まぁ、『ザイファートさんと付き合ってるの?』、『彼女?』とかは訊かれたけど」
「誰に」
「知らない子。後どっかのおばさん」
「言わせておけばいいじゃないですか。みんな暇なんですよ……」
「でも今日だけで五回も言われたのよ!? 多過ぎでしょ!」
「そういうもんですか?」
口ではそう言いつつ、ザイファートは殆どどうでもいい気分だった。
社会的地位も名声もある『魔法の塔』の若い魔導師。独身でうろうろしていれば、噂の一つ二つ降ってきてもおかしくないのが現実である。
「それで、何ていうか……やっぱりアタシの立ち位置おかしいよね~? って思ったのよ。この街に居る数日間だけ、アンタの隣を占領してさ。またすぐ旅の生活でしょ?中途半端だよねーって」
長い髪を靡かせ、ロスワイセはまた夕暮れの彼方を見て言った。
「じゃあ、僕と付き合いますか?」
「無理よ。アタシは魔女で旅はやめられないもん。ザイファートも、ここの魔導師でいたいんだよね?」
「……ええ」
固い声で呟いた一等魔導師は、足元の自分の影へ視線を落とす。
「それじゃーやっぱ無理ってこと、でしょ?」
鳩の血と似た紅い瞳が、魔導師の水色の瞳を見て微笑んだ。柔らかな白い頬が濃い薔薇色に染まるのを、魔導師は黙って見ている。
『魔女』は旅をするもので、定住しない。
定住どころか、名前も年齢も性別も、容姿や生物的種目さえ、好みや気分でころころ変えてしまう種族だった。
個体として魔力が強過ぎる彼ら彼女らは、いつも単独で動き、世界のどこへでも行ってしまった。今は人の姿でも、数時間後には蝶や蜥蜴になっていたりする。外からの操縦や拘束はおろか、本人達にもその衝動は制御できない。人の世界で罪とされる魔法にも、容易に手を染めてしまう。
そのため魔女は、『魔族』や『背徳の魔物』とも呼ばれた。
法や国が定めた魔法の倫理や規則に縛られず、支配もされない。
この大陸では女大公の統治するここティリンス公国だけが、魔女を受け入れている。それも罪科に抵触していない者に限られる。
『魔導師』が俗世の政治権力と肩を並べる『魔法の塔』に属すのとは、根本的に異なっていた。
「何が不都合なんです? 僕は文句言ったことないでしょう」
「だから悩んでるんじゃない」
「え?」
ぽろっと零れた彼女の小さな声で、黒尽くめの一等魔導師は顔を上げる。
「ザイファートは拒否しないじゃない。犬でもネコでも鳥でも人でも。迷い込んだり頼ってきたら、嫌がっても結局は受け入れてくれるでしょ。それ利用してるじゃない。アタシはそんなのイヤなのよ」
透明なメゾソプラノで言い、風に乱れる朱鷺色の髪を撫で付けた左手には、色とりどりの指輪と刺青があった。
「今さら何言ってるんですか……親切ぶられても遅いですよ。さんざん便利に使っておいて。僕の人生なら、もう既に半分以上メチャメチャですよ」
「そこまで言わなくてもいいでしょ!」
「事実ですから」
若き魔導師は、手摺りにもたれて再び溜息をつく。
去年の春。満月のまどろむ夜だった。
閑静な集合住宅の七階。静かに夜食をとっていた魔導師の部屋へガラス窓をぶち破り、箒にしがみついて飛び込んできた赤い髪の魔女。
追突事故で壊した窓を弁償しようにも、魔女は金など持っていなかった。
しかも復元の魔法どころか、基礎中の基礎である魔法の箒もまともに扱えないポンコツ魔女。方向音痴で、しょっちゅう迷子になり、時計塔の天辺に上るだけ上って、降りてこられなくなったりする。そして何故か街の数少ない知り合いとして、ザイファートが呼び出されたりする暮らしが始まった。
彼の持って生まれてしまった面倒見の良さが、仇となっているにしても。
「違うの! ザイファートには、ホントに幸せになって欲しいんだよ」
「……大きなお世話です」
「また何その言い方~ッ!」
無表情魔導師の言い草に、ロスワイセは天を仰いで嘆いていた。
これまで魔導師として着々と進んできた、ザイファート=マルグットの人生。
十年以内に大魔導師へ昇進し、貴族公家さえ見下ろす『緑魔晶』の塔で暮らす予定だった。それを聞き知っていた魔女は黒髪の魔導師の幸せを願い、伯爵夫人から『お見合い話』を預かってきたのである。しかし魔女の無神経な健気さが、魔導師の繊細な自意識を逆なでするという、不毛地帯となっていた。
「あなたはこんな風に、たまに僕の前へ飛んできてくれたらそれでいいんです。変な例えですけど、そういう感じなんです。飛び回ってる姿が一番似合うんですから。二部屋しかないような、狭い鳥籠は似合いませんよ」
自虐を交えて魔導師が呟く。するとロスワイセは僅かに俯いた。
「でもさ。一等魔導師様の鳥籠で暮らしたい子は、他にきっといるよ? そういう子が来たら、アンタは置いてあげるでしょ? それでいつか、アンタの鳥籠にその子が住むようになったら、どうしたらいいのよ」
「どうしたら?」
しょげたような赤い魔女の言葉に、黒髪の魔導師は問い返した。
「たまにアタシが飛んできたら、その子は困るでしょ。そんなアタシって、ひどいじゃない。これでちょうどいい機会よ。もう窓を閉めてほしいの。アタシがとまれないように」
ロスワイセの伏せられた真紅の眼差しは弱々しい。
魔女なんぞというものは、衝動とひらめきだけで生きていると思っていたのに、そんな後先を考える頭があったのかと、水色の瞳の魔導師は驚いていた。
「いやです」
「ちょっとお!」
言下に頼みを却下された赤い魔女が「でも」と食い下がったのを遮り、ザイファートは溜息をついた。
「僕の勝手でしょう。家の窓、開けるのも閉めるのも」
『魔女』であるロスワイセは、渡り鳥のようにひらりとやって来て、挨拶もなしに去っていく。明日までここにいる保証はなく、人の形を保っている約束さえ出来なかった。だからこの魔女は『鳥籠』の主と、そこでの幸せを求める可愛い小鳥のために、今まで安心して羽を休めていた軒先を撤去してくれと、また我がままを言っているのである。
「そんなこと言うなら、僕のところへ来なければいいじゃないですか。さっきの窓の話しじゃないですけど、ロスワイセさんに窓辺にとまって欲しいと思っている奴なら、他にいくらでもいると思いますよ。お世辞じゃ無しに」
投げやりな早口で言う。
実際に魔導師はあちこちで「てめーこんちくしょー」と、何度か謂れのない非難を浴びていた。
「……ずるいわ、そんなの」
ぴょんと手摺りから飛び降りたロスワイセは赤い髪を翻らせ、拗ねたみたいに口を尖らせる。
「お互い様でしょう。いっそあなたが、もう来ないと言ってくれたら僕だって楽になります」
『楽になる』のは偽らざる本音だった。しかし言ってしまってから広がった沈黙。
「嘘ですよ」
「嘘なの?」
「嘘じゃないですけど、信じないで下さい」
右手で顔を撫で、自分でどんどんこんがらがっていく様に、黒髪の魔導師は無表情の奥で呆れている。
「じゃあもう、どうしたらいいの!?」
魔女も、魔女なりに困っているらしかった。
「どうもこうも、今までの僕らのままでいいじゃないですか」
「だからそれはおかしいじゃん!」
ちょっと泣き顔になったロスワイセは話しの起点へ戻り、華奢な手を握り締めていた。
「しょうがないじゃないですか。僕らはおかしいんですよ。初めて会ったときから、おかしくなっていたんですよ。今さら軌道修正しようとしたところで、うまくいくわけないでしょう」
黒尽くめの魔導師は、瞳に冷めた色を取り戻して言う。
「……アタシは、魔女だから」
「わかってます」
「だからうまくいかないってことでしょ」
「そうじゃない」
「同じだわ」
魔女は下を向き、喉の奥で「きゅう」と泣いた。
魔導師達の築き上げてきた緻密なシステムによって構築され、膨大な魔力を運用し、安定的に動作維持されている『魔法の塔』。
ティリンス公国の誇る『緑魔晶の塔』という、魔導師の中でも一握りしか入れないそこへ、熾烈な競争を勝ち抜き辿り着いた。今後も塔での生き甲斐と生活の糧を得るならば。鳥籠で歌いながら帰りを待っていてくれる小鳥こそ、愛すべきものとザイファートもわかっているのだが。
青紫の夜風にもつれる朱鷺色の絹糸へ、手を伸ばして抱き寄せた。
魔女が逃げないのを確かめる。ふと見た鳩の血色の瞳が潤んで、眦に水の玉が膨らみ頬を転がり落ちていった。
「もう遅いですよ」
囁いて涙と一緒に紅い唇をなめる。呼吸がぬるく溶け合って、ロスワイセがまた何か喉の奥で啼いた。握った手はほどけないまま、弾力と湿度と皮脂の甘いにおいがまじりあう。
か細い三日月が照らす高台には、影が一つあるだけだった。