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第6話

 第6話

 父と息子は、車で少し遠いが施設の整った大学病院へと向かった。

 夢幻も自分の病状に関して、父に問い詰めることは止めていた。

 車中はいつもと違い会話のない重苦しい雰囲気の中、1時間ほど走って病院へと到着した。


「本日は、どのような症状でいらっしゃいましたか?」

「あ……あの……、寝ている時の事なのですが……。」

「寝ている時?ああ、睡眠障害ですか?」

「いや、まあ、そんなところです。私ではなくて、息子なのですが……。」


 受付で病状について問いかけられる。ここで、診察すべき担当科が決まるので、当然だ。

 しかし、まさか寝ている時に体が浮くなどと言ったところで信用されるわけはない。


 ましてや、このような大病院で列を作って並んでいる中で、そんなことを言い出そうものなら、冷やかしか病院の業務の妨害を企てているとして、警備員を呼ばれる可能性もないとは言えない。

 ここは、まず診察を受けて、その時に状況を確認してもらえばいい。


「判りました。過去の病歴とアレルギー等に関する質問票に答えていただきます。

 一応、精神科の診察となりますが、世間が考えているよりも、精神科と言う診療の部門は一般的で特別なものではございません。

 安心して、気を楽にして診察をお受けください。」


 受付の看護師さんが、病院の診察券を作成してくれて、待合の番号を教えてくれた。

 指定された番号の掲示がされている通路へと辿りつくと、そこは精神科の待合となっていて、思ったよりたくさんの患者たちが詰めかけていた。


「せ……精神科って、俺って頭の病気?最近の俺の態度がおかしかった?……わ、分った!3日前に美愛が夜食としてキープしていたアップルパイをこっそり食べてしまった件……あれは勉強中の夜中に無性に腹が減ってしまって、半ば無意識のうちに冷蔵庫へ向かっていき、いつの間にか手が出ていた。


 そりゃあ、晩飯の後に美愛が夜食としてキープしておくから、食べちゃダメと言っていたのは覚えているさ。

 でも……やはり空腹には勝てないというか……、決して美愛の気持ちをないがしろにした訳ではないのだけど……。」


「そうじゃない……精神科と言うのは仮に見てもらうためだけであって、実際の症状とは全く関係がない。

 お前が寝ている時の事なんだ。」


 父は、いつもとは異なり深刻な顔で答えた。

 どんなときにもユーモアを絶やさない父である。

 古臭いオヤジギャグと夢幻や美愛に揶揄されても、いつもなにがしかのダジャレを考えている人なのだ。


 そんな父の深刻な表情は、さすがに物事を深く考えずに常にマイペースでいる夢幻に対しても響いていた。


「いや、だ、だから……あの時はパジャマを着て、寝ぼけ眼で……夢遊病のように全く意識がなく食べたようなふりをしていたけど……実は、わざわざパジャマに着替えてから冷蔵庫へ向かったぐらいで、しっかり起きていたのだけど寝ているふりをしただけで……。


 それとも、そんなこと知った上で、つまみ食いが収まらない俺をどうにかしようと、連れて来たとか?

 なんせ、まだ10時前だったから、バレバレかなあとも感じていたけど……食いものの恨みは恐ろしいからなあ。」


「その件に関して、美愛が相当怒っていたのは知っているが、そんなことでわざわざ遠くの、こんな大きな病院に連れて来たのではない。本当に、お前が寝ている時の事なんだ。

 まあ、お前は寝ているのだから、知る由もないのだがな。」


「えーっ、じゃあ俺は覚えていないけど、寝ている時に、いつもつまみ食いで冷蔵庫の中のものを漁っているってこと?

 どうりで、最近朝起きた時に胃が重いなあって感じる時が度々あったけど……。」


「それは、俺が夜食は軽めのものにしておけと言うにも関わらずに、お前が唐揚げや焼き鳥などを夜遅くに食うからだろう。

 おかげで俺の晩酌が冷奴や枝豆など軽めのメニューになってしまっている……俺だって唐揚げが食べたいよ。」


「それは、父さんが最近メタボ気味だって母さんが言っていたから、献立を考えているだけだ。

 メタボが解消されれば、唐揚げなんかも食べさせてあげるから、それまでは我慢しなさい。」


「そ……、そうだったのか……。

 やはり会社から帰ってからジョギングでもするかなあ……最近運動不足ぎみだからなあ。」


「そうそう、学生と違って、大人は体育の授業もないしね。

 きちんと自分の体は自分で管理して、適度に体を動かさなくっちゃね……っと。いや、だから俺の病状って?」

 話が本題からそれたことに気付いた夢幻は、慌てて方向修正しようと話題を戻した。


「雫志多さーん、どうぞお入りください。」

 丁度その時、診察室の奥から夢幻たちを呼ぶ声が聞こえてきた。


「さっ、気をしっかりと持つのだぞ……何があっても、驚かないように。」

 父は、神妙な面持ちで夢幻の背中を支えながら、診察室へと向かって行こうとした。


「い、いや……。だから、俺の病状って?」

 夢幻が必死で病室へ入るのを遅らせようとするのだが、父に背中を押されて止められない。

 そのまま医者の目の前の椅子の隣に立たされていた。


「えーと、雫志多夢幻さん。どうぞ、お掛け下さい。」

 医者に勧められて、目の前の丸椅子にちょこんと座る。

 父は夢幻の右後方に立ったままである。


「どうされました?睡眠障害という事ですが、寝つきが悪いとか、眠れないといった症状でしょうか?

 高校生ですよね。その位の年じゃあ、受験や恋愛などと言った緊張を伴う感情から、夜寝られないなどと言ったことも珍しい事ではありません。それほど心配することもないのかと考えますがね。」


 医者はカルテに何を書き込むでもないが、机の方に向かったまま夢幻たちを見ようともせずに事務的に話し出した。


「いえ、夜はしっかりと睡眠はとれています。1日8時間は寝る、至って健康体です。」

 夢幻は丸椅子に腰かけたまま、胸を張って答えた。


「ほう、そうすると、一体どう言った症状ですか?」

 ようやく医者は夢幻たちの方に向き直ってから、夢幻と付き添いの父の顔を交互に眺め出した。


「いや、実はですねえ、寝ている時に……。」

「寝ている時に……。ほう。」

「言いにくいのですが……。」

 父は、後頭部を掻きながら、言いにくそうにもじもじとしている。


「寝ている時に……、徘徊でもするという事ですか?いわゆる夢遊病みたいな。」


「いや、違います。3日前のは夢遊病ではなくて、つまみ食いを正当化する為に寝ているふりをしただけで、実際の意識ははっきりとしていました。」

 夢幻が慌てて否定する。


 ところが、それを父親がさらに慌てて制する。

「この子は、寝ているから判っていないので、気にしないでください。でも、夢遊病ではありません。

 ちょっと信じがたい事ですが……。」


 尚も、言いにくそうに言葉を選んでいると……。


「まあ、判りました……最近はそのようなケースは珍しくもなくなってきましたよ。

 私は紙おむつの影響ではないかと考えておりますが……昔の布のおむつだと不快感から目が覚めますし、そうやって段々と覚えていく……。」

 医者は判ったとばかりに、少し前かがみになって小声で話し始めた。


「いえ、別におねしょをするわけではありません……息子はもう高校生ですよ。」

 すぐさま医者の言葉を否定するように、父は冷静に答えた。


「えー、そうですか……いや、でも最近はこのくらいの年の方でも珍しくはなくなってきているのですよ。

 失礼しました。では、一体どう言った症状で?」


「はあ、その……。実は寝ている時に……、浮くんです。」


『浮く?』

 医者と夢幻がそろって、大きな声を上げた。


「浮くと言いますと、寝ている時に体が反ってしまい、仰向けのままで背中が布団から離れてしまうような、いわゆる逆エビぞりですか?まあ、寝ている時に横向きで体を反らすような人は、結構いるようですが……。

 腰痛持ちの方などは、大変の方が腰のあたりに不安を感じていらっしゃるようで……。」


 医者は期待とは外れた病状に少しがっかりとしたのか、すぐさま机に向きなおり、トーンが下がったようにうつむき気味で質問を返した。


「いえ、そう言った寝相の悪さとは違い……、実際、息子の寝相は非常に悪く、ベッドから転げ落ちるのはしょっちゅうで、よくベッドの下に転がり込んで朝起こしに行った妹が、お兄ちゃんが消えたなんて大騒ぎします。

 先日もキャンプへ行った時に、何を考えたのか寝ている最中に木に登ったようで、朝起きたら木の枝に引っかかっていました。そんなことはあったのですが……。」


「ご、ゴホン。息子さんの寝相が悪いのは判りました。

 体が反るわけではないとしますと、では一体どう言った形で、寝ている時に浮いているように見えるのですか?」

 医者は少し焦れたように、話を遮り答えを督促した。


 精神科医が焦って答えを引き出そうと催促するのは適切ではないのだが、今彼が話しているのは患者の父親のようだ。

 患者本人を動揺させるような態度は避けるべきだが、患者の付き添いの父親であれば問題はないであろう。


 まあ、本当に患者が息子であれば……という事だが……。

 実際はこの父親の方が患者となるべき人であるかも知れないと、医者は薄々感じ始めていた。


「浮いたように見えるのではありません、実際に浮くのです。

 昨日は天井に貼り付くように掛け布団ごと浮いていて、天井板にひびを入れたくらいでした。

 驚いて息子をベッドにロープで括り付けたくらいです。」

 父は取り出したハンカチで額の汗を拭きながら、ようやく答えた。


「ベッドに括り付けた?道理で……、今朝はモアイ像にのしかかられて、身動きできない夢を見たよ。

 起きてからも寝返りが自由にできなかったせいか、首の辺りが少し痛いのは変だと思ったんだ……寝ている息子になんてことをするんだよ。」

 夢幻は椅子から立ち上がり、後ろの父の方に向きなおって怒りをあらわにする。


「まあまあまあ、落ち着いてください。

 今、ここで重要なのは、息子さんをベッドに縛り付けたことではなくて、息子さんが寝ている時に空中に浮かんでしまうという事ですよね?そうですよね、お父さん?」


 診察室での突然の親子げんかに、医者は焦って仲裁に入った。

 それでなくても、なかなか本題へと入って行かないのだ。


 息子の体が浮く?これは、ますます、診察すべき相手は息子の方ではなく父親の方ではないのか?

『ご……ごほん』医者は、自分の左後方に居る看護師に目配せし、顎で父親を指し示してから、少し咳ばらいをした。


「は……はい?」

 看護師は焦ってポケットからハンカチとのど飴を取り出し、医者に手渡そうとする。

 ところが医者は驚いた顔をして、急いで看護師を連れてカーテンの向こう側へと消えて行った。


「きみ、困るよ。何で気づいてくれないの?

 私は、君にあの父親に気づくようにと、指示してから咳ばらいをしたんだよ。」

 医者は、カーテンの向こう側へ声が漏れないように、小さな声でささやきかける。


「えっ?そうでしたか。私は、顎をあげて喉を私に見せてから咳払いしたものですから、喉の調子が良くないのだろうと思って、私のお気に入りののど飴をお渡ししたのです。いけませんでした?」

 対する若い看護師は、声も潜めずに平然と答えを返してくる。


「だ……、だから、しっ!」

 医者は、焦って声のトーンを落とすように、自分の唇の前に人差し指を押し当てて見せた。

 ようやく看護師も気づいたようで、身を屈めて医者に尋ねた。


「は、はい。小さな声で話せばいいのですね。こ……、告白ですか?な、何もこんなところで……。

 それに私はこの春にこの病院へ来たばかりで、まだ、先生の事を何も知りませんけど……?」

 看護師は、きょろきょろと辺りを見回した後、顔を赤らめながら両頬を両手で覆った。


「ちがーう!!!

 なんで妻子持ちの私が、しかも娘とさほど年も変わらないであろう、新人の看護師に告白しなければならないのだ?君は何を言っているのかね!


 そうじゃなくて、君も今のやり取りを見ていただろう?息子が寝ている時に体が浮いてしまうなんて、どう見ても異常だろう!」

 医者は尚も声を潜めながらも、看護師に強い口調で問いかける。


「は……、はい。そりゃ、寝るだけで空を飛べるなら、海外旅行も楽ですよね。

 誰でも、寝ているうちに外国へ着いているなんて事になれば、旅行会社はつぶれてしまいますものね。

 あっ!でも、パスポートとか入国審査とかが必要か……その為には、やっぱり飛行機か船ですかね。」


「だから、そうじゃなくて、君は寝ていようが起きていようが空を飛べるか?いや、体が浮くか?」


「いえ、そんなことできたら、こんな病院勤めなんかしていませんよ。

 今日は九州、明日は北海道なんて、毎日旅行ですよ。

 なにせ、国内であればパスポートや入国審査も必要ないですからね。


 あっ、でも、私は最近一人暮らしを始めたし、実家でも一人っ子のせいか一人で寝ていたから、寝ている間に体が浮いているかもしれませんね。

 今度、寮の先輩に、私が寝ている時に体が浮いていないか、確認してもらいますかねえ。いや、それよりも……」


「ああ!君と言う人間が分らなくなって来た。

 本当にこの病院の採用試験を受けて、合格して採用されてきたのかね?

 寝ていようが何をしていようが、人の体が自然と浮くわけはないだろう?」


 医者は呆れたように、若い看護師の言葉を遮った。

 患者がカーテンの向こう側にいるというのに、声を潜めているとは言っても、いつまでもこんなことを続けていられるわけではない。


「は……、はい。そうでした。

 患者さんのお父さんが、余りにも真面目な顔をしておっしゃっているものですから……。」

 看護師は少し肩を落として、頷いた。


「だから、その父親の方が精神科の患者としてふさわしいのではないのか?

 先ほどのは、そう言った合図だよ。判ったかね?」


「は、はい。そうですよね、そんなおかしなことを真面目な顔で、しかも病院まで来て話しているのですものね。」

 看護師は、ようやく医者の言葉の意味が分かったのか、目をきらめかせて頷いて見せた。


「判ったなら、早速総合受付へ連絡して、あの父親のカルテと診察カードを作る様に言ってきなさい。

 本来ならば、奥さんなど呼び寄せたほうがいいのだが、息子さんはもう高校生だから、付き添いとしては十分だろう。


 私から事情を説明するから、変に勘ぐられてこじれないように、それまでは少し話を合わせていよう。いいね。」

 看護師は急いで奥の通路を伝って部屋から出て行った。

 そうして残された医者は、ようやく患者の所へと戻って来た。



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