幸せのありか
『幸せとは、暗い海底に転がる真珠であった。』
物語はそう締め括られていた。はたと本を閉じ、なんとなく外を見やると、いつ降り出したのか、窓枠には水滴が流れ、小さな水たまりをいくつも作っていた。家の人たちは皆出払っているようで、居間にいても誰の話し声も聞こえてこなかった。なんとなく外に出たくなって外套を羽織り、黒い傘を一本、手に取った。
どこへ行こうとも決めず、春雨の降る街を気の赴くまま歩いた。人に流されやすいと他人からもよく評されるように、私はいつだって、気まぐれな猫のように辺りを散歩をしていた。そのためか、知らない場所へ行くのにも別段ためらいはなかった。
そうして歩いていくうちに、これまで通ったことのない道に出た。目の前に真っ直ぐ伸びる通りと左手の細い路地。真昼間だというのに、その路地は妙に薄暗かった。
後から思えば、その時その小さな路地に足を踏み入れたのは、もしかしたら運命のようなものに招かれていたからかもしれない。私はただ一心に、何かに惹かれるように前だけを見て、その路地へと進んだ。
路地には、そこに入るまでのどこか異国情緒を感じさせるような町並みとは違い、奥ゆかしい、それでいてどこかあけっぴろげな感じのする日本家屋が立ち並んでいた。
「あっ。」
思わず声がもれた。行き止まりに突き当たったからではない、女がいたからだ。女は大きく目を見開き、こちらを振り向いた。年の頃は十五、六だろうか、自分より幾分若いように思われる。艶めいた黒髪がうっとうしげに頬にへばりつき、それが女の胸に抱かれたくすんだ白と、鮮やかな対比を成していた。私たちはなんとなく、黙って互いを見つめていた。
その瞬間、トトン、と雨粒が傘を叩く音に、私は何かの始まりを感じたのだった。
その小さな、ともすれば聞き流してしまいそうな音に、女が濡れていることに気づかされた。それから女の胸の辺りに視線をずらし、そこで初めて、女が抱いていたのが猫であったことを知った。
遅いとは知りながらも、傘を差し出す。大丈夫です、と女はやわらかく人好きのする笑顔を見せた。
「では、路地を抜けるまででも、どうでしょう。」
ふと口から出た言葉に女は目を白黒させたが、頬を緩ませて感謝を述べた。
それからの一週間、私は実に奇妙な気持ちで毎日を過ごした。女のことが不思議と頭から離れず、本を読んでみても一心になれず、以前は考え事をする際によくしていた散歩の間さえも、女のことを考えていた。何をしてもどこか落ち着かぬ気分を持て余したまま、私はただ女との再会を心待ちにしていたのだ。
知らぬ間に口をついた一週間後の誘いは、私の幸せを決定づけるものであったことを、この頃の私はまだ知らない。
私はついに居ても立ってもいられなくなり、挨拶もそこそこに家を出た。
女とはこの間別れた路地の入り口のところで落ち合うことにしており、約束の時間まではまだ半刻ほどあった。私は特にすることも無いので、春めいた風に身をゆだね、大通りのほうから聞こえる人々の声だとか、遠くで吠える犬の声だとかを、聞くとはなしに聞いていた。
それから程なくして、女はやって来た。
待ちましたか。いいえ、ちいとも。
一言、二言交わすだけで、心の糸が緩んでゆくような、ぽかぽかと全身が温かくなるような感じがした。
それから私たちは、町をぐるりと大きく一周した。店を見るわけでもなく、食べる物を買うわけでもなく、ただ話して歩いた。
会話の各所に散りばめられる彼女の教養の深さと人の良さに、私は始終驚きを隠さずにはいられなかった。彼女はどこか、旧家の出だと言っていた。
ふと会話が途切れたときに名を尋ねられ、名も知らぬままに言葉を交わしていたのかと思うと、なんだかおかしくなった。申し遅れたことを詫びつつ、名を名乗る。
「昭夫さんですか、素敵なお名前ですね。」
昭夫というのはよく聞く名前ではあるのだが、決して、名前を褒められて悪い気はしなかった。彼女は、和子と名を告げた。一音一音、壊れ物を扱うかのようにそっと心の中でつぶやいてみる。
ふと目があったとき、和子さんがまた小さな花のように笑うものだから、私の頭の中は次第に和子さんの笑顔でいっぱいになっていった。
以前和子さんが抱いていた猫は、その後彼女の家で飼われているらしい。水をかけてやったら泥が落ちて真っ白になったそうだ。今度連れて来てくれないか、と言ってみたが、折角の綺麗な猫を汚したくないのと彼女はやんわり断った。
そのうちに私たちは無言になった。ただ、二人の間に流れる沈黙は決して互いの顔色を読み合うものや、知り合ってすぐの気まずさ故のものではなく、無言のうちに何かを伝えあっているような、心地よいものだった。それを感じ取ってか、彼女の方もまた、無理に話題を作ろうとはしなかった。
「ではまた。」
「ええ。」
幾度かの散歩を重ねるうちに、私たちの別れの挨拶はいつの間にか簡単なものになり、毎週の散歩が私の密かな楽しみとなっていた。
いつもと変わらない夕方、あの路地の入口。傘も持たずちょうど時雨に当たった私は、まるで濡れねずみのようにちょんみりとそこに立っていた。彼女が来るまで近くの家の軒下で待たせて頂いていたが、雨は一向に止む気配も無く、手持ち無沙汰に物思いにふけってみたりした。
それからしばらくしてかけられた挨拶はどこか弱々しかったが、私はそのことに触れて良いのかもわからず、ただ小さく挨拶を返した。
水たまりはただ風に波立つだけで、いつの間にか雨は上がっていたようだった。
その日の彼女はどことなく寂しそうに微笑えんでいて、えも言われぬ居心地の悪い時間が流れた。とうとう別れの岐路に着いてしまうと、それまで俯きがちだった彼女は、何かを決めたように私を見た。
「昭夫さん。」
いつの間にか呼ばれ慣れた声のはずなのに、私は初めて会った人に名を呼ばれたかのように緊張した。
「私、結婚することになったんです。」
一瞬、周りの音が完全に消えたかのように思われたが、その錯覚はすぐに消え失せた。
その可能性を考えたことがなかったと言えば嘘になる。彼女が良い家の出であることは聞かされていたし、佇まいや所作などからも、やはりどこか自分とは身分違いであることを感じ取っていたのだ。
高嶺の花と、ただの居候。
そんな私たちが今まで一緒にいられたのが奇跡みたいなもので、何か。たとえば彼女がお見合いをすることになり、私と会うことがなくなったとしても、それはなんら不思議なことでも、おかしなことでもない。一週間後、彼女に会える確約なんてない。だからこそ、私が彼女から離れるべき折にはきっぱり身を引こうと決めていたのだ。
決めていたのだ。
「……そうかい。それじゃあ、散歩も今日が最後だったんだね、残念だ。」
私はかすかに震える手には気づかないふりをして笑った。彼女がなるたけ清い心持ちで私と別れられるように、私自身が彼女を求めぬように。
「昭夫さんは、何とも言ってくれませんの。」
そう言う彼女の声は平静を保ててはおらず、肩が震えるのが可哀想なほどに見て取れた。冷たい風が頬を打ちつけていく。
「私、ちっとも分からないんです。それなのに、どうして昭夫さんは笑うんです。どうしてですか、どうしてですか。」
これほど乱れた彼女の声は聞いたことがなかった。
「どうして……。」
そう呟いたきり、和子さんは何も言わなかった。いつの間にか空はまた黒雲に覆われ、冷たい雨が私たちを濡らしていた。今にも折れてしまいそうな体に腕を回し、その冷えた体をどうして良いかも分からぬまま、ただ彼女を抱きしめた。
来週、顔合わせがあるんです、とやっと落ち着いたらしい彼女は、私の胸で掠れ気味に呟いた。そうかい、と押し出すように放たれたぶっきらぼうな声に、彼女は私の胸から顔を上げた。白目は真っ赤に染まっていて、なぜだか私は、彼女はどうあろうと綺麗なままでいるべきだと思った。彼女をどんな汚れたものからも遠ざけ、いつか彼女をその姿のまま、永遠に誰も知らない遠い場所へやってしまいたいと思ってしまったのだ。
「昭夫さん、お願いよ。あと一度、あと一度だけ、私に付き合って。ねえ、お願いよ。」
目の前で言葉少なに物事を語る彼女は、この時どこにもいはしなかった。その饒舌さは、彼女がまるで別人になってしまったかのようであった。
私はどうして良いものかと悩みかけたが、いざとなると大変に別れ難く、このままの状態ではどうにも彼女のことを思い出してしまうように思われた。
「いいよ、来週はいつもより少し早くおいで。必ず待っているから。」
彼女は無理やり口角を上げた不器用な笑顔で、こくりと頷いた。
それからの一週間、私は以前にも増して学業に精を出した。立ち止まれば彼女を思い出す気がして、どうにもならないことを思い悩まねばならないように思われて。そうすると、まだあどけない何かが私を問題から遠ざけるように背中を押すのだ。それにかこつけて、私はなにも考えないでしまっていた。
確実に冬が近づいていることを知らせる風が、窓ガラスを細かく震わせる。私はコートの襟を立たせながら足早に往来を歩く人の流れを、気の抜けてしまったサイダアのように眺めていた。
入ってもいいかと襖の外から声をかけられる。ゆるく返事をすると、おかみさんが握り飯と茶を持って来てくださった。
「昭夫さん、あまり根を詰めすぎないで。」
ええ、と私はあいまいな返事をし、それから遠慮がちに口を開いた。
「……あの、土曜日、一日家を空けてもよろしいですか。」
それは私にとって、おかみさんにするたった二つ目の頼み事だった。いいわよ、と思いの外あっさりとした答えが返ってきて、私は拍子抜けしてしまった。頼みごとや願い事というのはもっと難しいものであると、心のどこかで思っていたのだ。昭夫さんたらわがままも言ってくれないんだから、とおかみさんが目を細める。
「気兼ねなく行ってきなさいな。」
その表情に後押しされたように、肩が軽くなるのを感じた。和子さんとの何かがはっきりしたわけではないし、自身の答えを見つけたわけでもない。しかし私は、あどけなさなど当の昔に捨て置いてきたとでも言うような恰幅の良いおかみさんの表情に、確かに背中を押されたような気がしたのだ。
「おかみさん。」
何を言おうとしたのか、自分でもわからずもどかしくなる。ただ一つ、たった一言、私はおかみさんに告げた。
「本当に、ありがとうございました。」
心からの感謝を伝えると、いつのまにか、窓ガラスの音が止んでいたことに気がついた。
約束の日、私は朝の九時からその路地で和子さんを待っていた。どれだけ待とうとそんなことはさして問題ではなく、むしろ彼女になんと言えば良いかを悩み続けていた。
二人とも微笑んだままに別れられれば一番良いが、感極まって泣いてしまうのもまた一つの思い出になるかもしれない。あえて別れは告げずに去っても良い。二度と来ぬ「いつか」を互いに信じるのも良いかもしれない。そんな風にあれこれと思いをめぐらすのはいつぶりか、とても気分がよかった。
冬支度を整えてしまった町は人影もまばらで、数時間のうちで四、五人、私の前を歩いただけであった。時折、身を震わすような風が吹く度、私は外套の襟を正して来る時を待った。
お昼頃になってようやく、彼女が向こうから駆けてきた。
「寒くはないかい。」
「いいえ、ちいとも。」
そうかい、と隣を眺めても、まつげが影を落とすその横顔から、彼女の真意を読み取ることは適わなかった。
正直、この日私たちが何を話し、何を思ったかはよく覚えていない。しかし私がこの時まで考えていたことはおおよそ和子さんの考えには及ばないもので、それを聞いたときはまるで他人事のように、女は秘密があった方が美しいものでして、といつか聞いた口上を彼女に重ねて思い出したのだった。
いくら楽しかろうと、名残惜しかろうと、別れというものはやはりやってくる。いざ別れを告げようとすると、それは大変もったいないことのように思われてしまうのだ。
隣を歩くと手が触れ合うこと、時に重なり合うこと。彼女の手はいつも温かく、その全てが、私の心に温かなミルクを注いでゆくことのように思われていた。
これから先、何があろうと、彼女との思い出があればなんとかやっていけるような気さえした。私の中の彼女は無垢で、ただどこまでも愛おしかった。
「では。」
「……ええ。」
思い残すことなんてこれっぽっちもないはずなのに、自然と幸せな時間が思い出さてしまう。目尻が熱くなるのを感じながら彼女に背を向け、一歩、踏み出した。
「待って!」
思わず立ち止まり、わずかに体がつんのめる。彼女の張った声を初めて聞いた。外套を掴まれ、私はどうにも動くことができなかった。
「一緒に、死にませんか。」
外套がきつく握られるのを感じる。
その台詞に関して私が思ったことと言えば、随分と出来た筋書きだな、と、本気でそれを口にした相手には到底言えないようなものだった。私は、彼女がそのまま永遠になれば良いと願わないわけではなかったけれど、決して彼女のほうからそう提案されたくはなかったのだ。
彼女に対して抱いていた幻想というものはすっかり消えてしまって、ただその姿に、私は彼女の人間らしさを垣間見たような気がした。
ゆっくり和子さんの方へ向き直る。先ほど目尻に感じた熱は、驚きとともに消えていた。彼女のほうはと言えば、俯き私の外套をつかんだまま、耳まで真っ赤に染め上げていた。
沈黙が流れた。ひょっとすると永遠にも思えるほどの時間、私たちは微動だにしなかった。私が何かを言わなければならないのは分かり切ったことだったけれど、私の口はどうにも、言葉を発するという本来の仕事を成そうとはしなかった。
「先方は、どうするんだい。」
私は卑怯にも質問を返した。
「死んでしまえば関係ないわ。」
「そうかい。」
それからまた、私は何も言えずに押し黙っていた。彼女には時間が無いことも、そしてまた自分にも同じように時間が無いのは理解しているつもりであった。
寝覚めのような感覚の中で「死」という単語だけが、ひどく甘やかに心をたたいた。私の心は存外冷めていたが、不思議なほど、彼女の提案に対して嫌な心持ちはしていなかったのだ。
彼女が永遠となり、私はそれを一番近くで眺めていられる。彼女が彼女のまま、非の打ち所のないほど完全なものとなる。そう考えてゆくと、死とはどこまでも崇高で、甘美なものに思われた。
「いいです、一緒に死にましょう。」
私は自分でも気づかぬうちにそう言っていた。彼女と共にいられるのなら、私は何を投げ打っても良いと思えたのだ。私はその返事が間違いだとは、決して思わなかった
彼女がぱっと目を輝かせた。
「本当に、一緒に死んでくれるの。」
「ああ。和子さんとなら、私だってきっと本望さ。」
彼女は一人、恍惚とした表情を浮かべていた。
「ああ、こんな幸せなことってあるかしら。私、死ぬときは昭夫さんと一緒がいいと常々思っていたのよ。」
「なんだいそりゃ、初めっから死ぬ気でいたのかい。」
「ふふ。」
「全く。」
いつもよりずっとおしゃべりな和子さんを見て、私は良いことをしたのだと、私はこの上なく幸せな男であるのだという不可思議な空想に浸った。それからの私たちは幸せそのもので、自分たちの死について想いを馳せてみれば、その幸せは地平線の果てまで伸びてゆくようであった。
「この幸せのままに死ねたら、どんなに良いだろう。」
ふっと言葉がこぼれた。
「きっととても幸せよ。……ねえ、今からナミハマへ行きましょうか。」
ナミハマという響きに、胸のうちに熱いものがこみ上げてきた。わずかな息苦しさを感じる。
「いい考えだ、あすこならお誂え向きだよ。」
ナミハマは言わずと知れた心中所で、そこで死ねば来世で恋人同士になれるという噂は、この一帯に住む者なら誰でも知っているものだった。
善は急げよ、と和子さんが笑う。心中は善じゃないよ、と冗談めかして言ってみた。彼女の瞳は私が知るどの空よりも澄んでいて、私はまた、彼女の瞳に吸い込まれるような思いに駆られた。
「とうとう、着いたわね。」
私たちの住む町から程近い場所にナミハマがあるのはなんの因果だろう。やはり私と和子さんは共に死ぬ運命にあったのだ。そう思うのは、私のエゴイズムであろうか。
冬のナミハマの海は穏やかで、黒光りする波が私たちのすぐ足元まで届いていた。
「手を繋いでもいいかしら。」
「ああ。」
初めて指を絡めあった。今にも外れてしまいそうな力で絡んだ彼女の指は細く、ひどく冷たかった。それは私も同じで、言いようのない不安に駆られ、気づけば彼女を引き寄せ抱きしめていた。唇を重ね合わせると、彼女の唇はひどくかさついていた。不思議なほど心地よいざらざらとした感触が伝わってくる。私たちは波の音を聴きながら、指先や背中、吐息から、ただ互いの存在を確かめ合った。初冬の浜風はすきっとした香りを含ませながら、火照る体を冷やしてくれた。
「寒くはないかい。」
「あなたと一緒なら。」
ゆるく笑んで、彼女は大きな涙を砂浜に落とした。
「悲しいわ、あなたと一緒なのがたまらなく寂しい……。」
怖いわけじゃあないの。なんだか、心を誰かに奪われてしまったようにむなしくて。どうして私たち、こんなところにいるのかしら。寒さに包まれたまま、何のためにここに立っているのかしら。
嗚咽に邪魔されて音にならなかった彼女の声がまざまざと伝わってきて、私は何も言えなかった。
「他に、方法はなかったんだ。」
そうね、そうだったわね、と彼女がうつろにつぶやく。共に生きられないのならいっそ。他に道があったとして、私はその道を進みたいとはどうしても思えないのだ。文字通り、私たちに未来などない。
私は、風除けとなっている近くの岩に外套と足袋をかけ、下駄を並べる。彼女もそれをまねて、ブーツと白い髪飾りを並べて置いた。
「和子。」
「……はい。」
彼女の涙に濡れる手を取り、私たちは水の中へ一歩、また一歩と足を踏み入れていった。波が生まれ、足元で崩れる。死んだ波が去り際、踏みしめた砂を連れてゆく。初冬の海は、波こそ冷たいものの、水の中は意外なほど温かかった。彼女はカナリアのような目で、私の手や足、そして、生まれては消えてゆく波を見ていた。
足を浮かせる度に、背中が引き波に押された。
そうして、砂に足が届かなくなった。潮に流され、このまま海岸から遠く離れたところで、深く、深く沈むのだ。私は妙に冷静な頭で、自身の行く末を悟った。
二人で両の手を合わせ、今度はきつく、指を絡めた。
潮の香りがいっそう強まると、いつしか海水が鼻の辺りまで覆っていた。水面で跳ねた水が目に染みて私が思わず涙を流すと、彼女はさもおかしそうに、愛おしさのこもった目を細めた。
どちらからともなく、水の重さに逆らって互いの背中に腕を回した。熱さも冷たさも、きちんと感じられた。
とぷん、と私の中に水音が響く。目が熱い。体が燃えてしまいそうだ。肺が焼けつきそうだ。涙か水か、あるいは苦しさのせいか、彼女の姿がぼやりと揺らぐ。彼女の表情は、見られなかった。
刹那、私に良くしてくださった方々の顔が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
「私は幸せ者でした。」
水を震わせるには到底足りない空気が、こぽりと一つ、泡となって水面へ浮かんでゆく。
妙に頭が冴えて、とても晴れやかな気分だった。一瞬明瞭になった視界の中で霞みゆく彼女は、幸せそうに微笑んでいた。
彼女の黒髪が水の中に広がり、それはまるで、彼女が自分以外のものを私に見せまいとしているようだった。私はさらに彼女の熱を感じようと、力の入らない腕に感情のありったけをこめた。
水面の明るさが薄れ、水は冷たくなってゆく。どこまで流れてゆくのかもわからない。
それでも水底へと向かう私たちは、ただひたすらに幸せであった。