いらっしゃいませ、犬神様
夜も更け、来店客もキリが良くなった頃にスッと笑顔のなくなった志乃は「さて……」と小さく呟くと目線をスッと横にずらし明を感情のない目で見た。
「どういうことなの」
「いや、どういうことなんですかね。すいません」
明の背中にヒヤリとしたモノが走った。
本来であれば週の真ん中である平日の夜、ということもあり志乃や明など時間に融通の利かない学生は当然外されていた。
だが、シフトに入っていたぽっちゃり眼鏡の浪人男子が胃腸風邪をひき、二日前からトイレから出られないと連絡があったらしい。
で、何故か休みが知られている志乃が代打に選ばれた。
その日の翌日は志乃が通う学校の創立記念日。学校が休みだ。
だというのに、創立記念日だとどこで知ったのか店長は志乃の携帯に電話を掛けてきた。
シフトを代われないかと。
よりにもよって、久しぶりの丸一日休みにか、と当然思った志乃の返答は「は?嫌です」の一言でブチッと電話を切った。電源も切った。
しかし、店長のしつこさは尋常ではなかった。繋がらないとなると家に電話をかけてきたのだ。
もとより、休みを満喫するつもりでいた志乃は店長からの最初の電話がかかってきた時、携帯画面を見て舌打ちを一つ落としていたが、度重なる嫌がらせ電話にブチ切れた。
それでも引き受けたのは、条件として今月の金曜日と土曜日のシフト変更を約束させたからだ。
もう月末だけれども。
そうして代わりを務める事になった今日のシフト。
本日は志乃と大学生の男子とのペアであったはずだった。
はず、だった。
なのに、来たのは同級生の男子。
それも入ってきた瞬間、奴は音楽を聴き体を揺らしながら意気揚々と出勤してきた。
何しにきやがった、何のために休みをもぎ取ったと思ってんだ。お前、休みだろ。
そんな事を思ってる志乃と目があった瞬間、目には殺意があった、と後に明は体を震わせ語った。
「何で来たの。チャラ男はどうしたの」
「……あー、どうしても合コンに出なくてはいけないらしくて……」
「あのチャラ男の頭髪ど真ん中にバリカンで日の丸を作ってやろうか。って言うか、そもそも、そもそもですけど明さん。相手が私だって知らなかったんですか?シフト表、貴方が出勤していた日には直されてましたケド?赤ペンで」
「……シフト表が書き換わってたことにすら気付きませんでした」
「え?何?聞こえなかった。私、今、耳が聞こえにくくて」
「……すいませんでしたー!」
俺が全面的に悪かったです!と笑っていない笑みを浮かべる志乃に明は全力で謝罪を叫んだ。
涙目である。
腕組み、細めた目で明をただただ無言で見る志乃。
下げた頭を上げられない明。
はぁ、と仕方がなさそうに志乃がため息を吐くと明はそろりと頭をあげた。
「これでもしアレらが来たら対応は全面的に相手してもらうから」
「合点承知!」
「うるさい」
「はい」
そんなやりとりをしながらも、なんやかんやで必ずコンビを組んでいる二人は阿吽の呼吸で仕事を分担して進める。
黙々といつもの仕事をこなしていた二人は集中していて気付かなかった。
いつもの如くいつもの時間が来ていた事に。
「いらっしゃいませ」
愛想の良い笑みを浮かべて二人が顔を自動ドアの方に向けると、そこには割りと背丈のある若い男が立っていた。甘い顔つきの、だが体つきはゴツい男と目が合う。
「あら」
男が花舞うかのような満面の笑みを浮かべると、志乃の眉間に尋常ではない深い溝が浮かび上がり、明の顔色は土気色になる。
その顔のまま親指でクイッと来店客を指す志乃に明は、何も見ていないとばかりにレジの奥へと引っ込もうとする志乃を庇うように、覚悟を決めた顔で約束通り相手をする為にレジへと戻る。
「いらっしゃいませ」
「今日はラッキーだわ。うふふ」
「チッ!!」
「……志乃さん、その舌打ち此処まで聞こえてるよ」
ハスキーな声がうふふと笑った瞬間、かなり奥まで引っ込んだ志乃の大きな舌打ちが聞こえる。
「まさかアナタ達がバイトの日だなんて本当についてる」
何が楽しいのか笑いながらカゴを取ると男はカップ麺が並ぶ棚に行き、豪快にかき寄せるようにカゴの中にそれらを入れ、盛り上がったカゴをそのままレジへと持ってくる。
「明」
「なんですかね」
「チェンジ」
とてもいい笑顔で笑う男に明は志乃が引っ込んだ方から漂う冷気に体を震わせた。
冷房なんてレベルじゃない。業務用冷凍庫並みの冷気だ。まぐろもスゴイ凍る。釘が打てるくらい凍る。
めっちゃ怒ってる。おこ、スゴイおこ。また舌打ち聞こえた。
「……当店ではそのようなシステムは行ってません」
「やぁね、じゃなきゃ帰らないし、払わないわよ」
「……犬神様、ちょっと自重しません?」
「自重?別にアタシは女好きって訳じゃないわよ」
「知ってます」
「ただ、ちょ~っと好みの人から見下されたいって言う気持ちが人より勝ってるってだけよ」
「自重して下さい!」
来店する神様連中の中でもかなりのイロモノの一人である犬神がうふふとまた笑う。
志乃の舌打ちが聞こえる。
犬神が何か言う度に志乃の舌打ちが店内に響く。
志乃の機嫌は既に最低値を叩き出していたが、それに加えて今日の客である志乃と犬神は相性が最悪だった。
志乃と明が初めて深夜のバイトを組まされた時、二人の仕事中に一番乗りしたのがこの犬神で、志乃に濃い印象を植え付けた。
当時の犬神は人を見下した感じの悪い男だった。
志乃たちに18禁ワードは連発するし、ドSな発言をさんざん浴びせまくるという甚だ迷惑な変質し……客であった。
その頃の志乃は大人しくも真面目な女の子と言う印象で、そんな客に心底困り果てているだけで、明も同様で犬神の独壇場に付き合わされ続けた。
だが、初の人外がコレだった事がある意味、志乃を強くした。
きっかけは何だったか、兎に角、犬神は志乃の逆鱗に触れた。
たぶん、その前からもう結構キていた。
レジから出た志乃は困り顔から一転、無表情で犬神の前に立つと右足を振り上げ、体格も身長も違う男のこめかみに蹴りをかまして転倒させ、倒れた犬神の背中に下ろした足を乗せドスの効いた声で一言放った。
「失せろ駄犬」
明はこの時、志乃はガチギレさせたらアカン、と心に刻んだ。
一方、犬神は新しい扉を開かせた。
対局にあったモノへと天秤が移動し、志乃の罵倒や蔑みの視線なんかに一切傷付かない。
寧ろ、もっと引き出そうと煽る。煽りまくる。嬉々とした表情で煽りまくる。
結果、犬神に会うと条件反射的に志乃の顔は歪みまくり、舌打ちが連発するという事態になるのだ。
犬神が来店してからどれくらい時間がたったのか。
断固として出てこないが舌打ちはする志乃と愉快犯的犬神とNOと言える日本人に数分前に生まれ変わった明との仁義なき戦いは続いていた。
「犬神様さ、あんまりアレだと志乃さんに嫌われるよ。割と、ガチで、いや、もう手遅れかもしれない」
「あら、いいのよ?そしたらも~っと構うだけよ」
「チィィィィッ!」
「……こわい」
「志乃~志乃~出てらっしゃ~い!じゃないと居座るわよ~」
「チッ!」
「志乃さんがさっきから舌打ちしかしていない。犬神様、もう諦めて俺にレジを通させてください。そんでお金払って帰って下さい」
「やぁよ。何しに此処に来てると思ってるのよ」
「コンビニに買い物に来てるんでしょ!?」
「プッ」
「何か知らんが今、俺は馬鹿にされた気がする」
「ホントに明ってばお子様ねぇ。ほら、アタシの恋路を邪魔すると憑りつくわよ?」
「恋路って言っちゃった!尚且つヤバイ脅し方してくる!」
「チィィィィィッ!」
「……やだ、俺、もうダメかもしれない」
志乃に嫌われようが一向に構わない犬神はうふふと笑う。
どうやっても犬神が鬱陶しい事実が変わらないことを理解し志乃は舌打ちする。
その両者に挟まれて明は死んだ目で遠くを見る。
もしかして、このやり取りずっとやんなきゃいけない感じ?と明は気付いた。
体感時間、実に一時間、現実の時間は分針どころか秒針すら動いおらず止まったまま。
どうにかして帰ってもらわない事には帰れないどころか、バイトがずっと終わらない。
久しぶりにヤベェんじゃね?これ、通常勤務時間を軽くオーバーするんじゃね?記録残んないけど。
そんな事を考えだした明はチラリと奥に目をやる。
ダメっぽい。
こうなったら覚悟を決めて、と意気込んだ瞬間、目の前の犬神がうふふと笑いにんまりと笑みを浮かべた。
こ、こえぇぇぇぇぇぇっ!何か目ぇ笑ってない!こえぇぇぇぇぇぇぇっ!
「……まぁ、仕方がないから明の粘り勝ちって事で今日は諦めてあげる。でも、次は何時間でも粘るわよ。じゃあまた来るわ」
そう言って犬神が自動ドアを出ていくと秒針が動きだし、明は盛大に息を吐いた。
終わった。今日の山場は越えた。
何も買わないで帰って行ったけど、レジにカップ麺の山が置いてあるけど、床にめっちゃカップ麺落ちてるけど、すげぇ長時間居座られたけ・れ・ど・も!
解放された!
「あの変態、やっと帰ったの?」
「志乃さん」
辛くも勝利にコンビニの天井を仰いでいると天岩戸の如く一向に出てくる気配すらなかった志乃が出てきた。
その顔は申し訳な下げで、志乃らしくない。いや、学校では割とよく見る志乃だ。
「ごめん、私が大人げなかった。チャラ男の合コン如きの為に、少しでもこの時間を減らそうとした私の自己犠牲をぶち壊した事に腹を立てて」
「いや、ソレは俺が全面的に悪かったです。ハイ」
「思いつく限り、激しく罵倒してさっさと追い返せばよかった」
「なんか違うけど、俺はそれでも良いと今なら言える」
「もし次があったら頼りにならない明さんは引っ込んでていいから」
「突然のディスり」
「ごめんね」
「なんでだろう、謝罪を素直に受け取れない」