第八話『鎧袖一触』
それは、俺が肉まんを啄みながら、いつもの如く返り血に汚れて判読が難しい『ことわざ辞典』に目を通している時のことだった。
「おっ?」
基本的に俺は勉強ってヤツが苦手である。
だからこそこうして追試のための勉強なんてしている訳だが……そういう訳で、勉強するのはつい後回しにしてしまう傾向にあった。
だからこそ、次に覚える「ことわざ」を何にしようかと、あまりやる気なくぺらぺらとページをめくっていた訳だが……
「このページ……まだ生きてやがる」
珍しくその中で、それほど返り血に汚れていない……流石に全ては読めないものの、意味までなら普通に読めるページを見つけたのである。
だけど……
「袖が触れただけで相手が倒れる。
……んな馬鹿な」
俺はその書かれてある内容を見た途端、肩を竦めて笑い飛ばす。
事実、そんな人間がいるとは思えなかったのだ。
何しろ、俺はふとしたことから、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身として無敵の膂力を手に入れ、数多の戦場を駆け抜けた……ある意味では人類最強を名乗ってもおかしくないレベルの戦闘力を誇っている。
そんな俺でも、袖が触れただけで相手を斃すことは出来やしない。
──いや、袖を握りさえすれば……
後は力任せに地面に叩きつけるなり、遠くに遠投するなり、そのまま袖そのもので相手を絞め殺すなり……まぁ、何とかなる自信はある。
だけど、対して質量を持たない袖そのものを凶器に誰かを斃すなんて真似は、流石の俺でも出来そうもないのだ。
──いや、待てよ?
──袖に鉄アレイを縫い付ければ……
──むしろ、トンファーを暗器として仕込めば、相手にそれと悟らせずに殺すことも可能か?
もしかしたら「袖が触れただけで相手を斃せる」という直接的な意味だけじゃなく、『裏の意味』があるかもしれないと、俺は必死に推理力を働かせ……まず如何にして袖で相手を斃せるかをシミュレートし始めた、そんな時だった。
「うぉわぁっ!」
「……っと、悪い」
考え事に没頭しながら歩いていた所為、であろう。
気付けば、俺の小指が引っかかってしまったのか、着流しとかいう浴衣に似た服装をした、巨大な男を一人、見事にひっくり返してしまっていた。
俺の小指が引っかかったのが相手の袖だったのは、何というか……良く出来た皮肉という気がしないでもない。
尤も、考え事をしていて前を見ていなかったのは俺だったのも事実なので、何となくそう謝ってみたのだが……
「て、てめぇっ!
悪いで済むと思ってんのか、こらぁっ!」
生憎と俺にすっ転がされた男は、素直に謝罪を受けてくれるような人間ではなかったらしい。
──でけぇ。
身長二メートル以上、体重は百キログラムは軽く超えているだろうか。
血まみれにの般若が描かれた着流しを身に纏い、その被服の隙間から見える身体は凄まじい筋肉に覆われている。
……どう見ても堅気の素人じゃない。
プロレスラーくずれか、ドロップアウトした相撲取りという感じだろう。
いや、相撲取りにしては身体が縦に長過ぎるので、プロレスラーくずれだろうか……少なくともその男は、暴力で生計を立てていた感じの雰囲気を放っていた。
「素人が粋がればどうなるか……教えてやらぁっ!」
俺の推測は正しかったようで、その巨漢は突然、俺の胸倉を掴むと……そのまま力ずく俺を振り回し、近くの商店街のシャッターへと叩きつけやがった。
その動きには全く躊躇いというモノがなく、この男がこの手の殺傷行為に慣れていることは、最早疑いようもないだろう。
「……おっとっと」
尤も、たかが人間の膂力で何かに叩きつけられたところで、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能に護られた俺にダメージなどある訳もない。
いきなり振り回された所為で、ジェットコースターに乗った後みたいな酩酊感にも似た三半規管へのダメージが発生している程度である。
「う、うわぁああああああああっ!」
「け、喧嘩だぁああああああっ!
警察を呼べぇえええええええっ!」
その一撃の迫力が凄まじかった所為だろうか。
それとも、その巨漢の体格と人相があまりにも凶悪だった所為だろうか。
周囲を歩いていた筈の通行人は、誰一人として俺を助けようともせず……そのまま背を向けて逃げ出してしまう。
野次馬になろうというヤツもいないのだから、よほどこの男は凶悪に見えるのだろう。
尤も、皮膚を容易く突き破る矢が飛び交い、皮膚も骨も臓物をも叩き斬る真剣を振り回し合い、昨日の戦友が物言わぬ肉塊へと化す地獄を……戦場を幾つも経験した俺は、外見や体格などで脅えるようなヤワな神経など持ち合わせていなかったが。
「……ははっ。
これに、懲りたら……ぁ?」
男は、その一発で俺の戦意を削いだと確信していたのだろう。
弱者を嬲った後の愉悦にその顔を歪ませながら、俺の胸倉から手を外し……次の瞬間、俺がその手を掴んだことに疑問の声を上げる。
「プロレスなら……
次は、俺の番、だなぁっ!」
「ぅ、ぉおおおおおおおおおおおおおっ?」
そのまま俺は袖を掴んで振り回すと……俺がやられたことのお返しとばかりに遠心力を利用して放り投げる。
尤も、俺はコイツのように力ずくのように見せながらもその実、相手の正中線を崩して放り投げるという器用な「技」など使える訳もなく……文字通りただ「力任せ」の投擲だったのだが。
──あ。
そのまま巨漢が真横にすっ飛んで行き、十数メートル先の宝石店へとガラスをぶち破りながら突っ込んでいったのを見て、俺は思わずそんな間の抜けた声を上げてしまう。
正直に言うと……俺の前方不注意でこの巨漢をすっ転がしてしまったのは事実なのだから、少しくらいは悪いとは思っていたのだ。
だから、大怪我を刺せない程度に手加減をしたつもりだったのだが……それでも、ちょっとばかり手加減を間違えてしまったらしい。
「きゃぁああああああああああっ!
強盗よぉおおおおおおっ!」
「け、警察をっ!
早くアラームをっ!」
「ち、違うっ!
俺は、強盗なんかじゃっ!」
そして、流石に宝石店は警備状況が厳重だったようで……突如としてガラスを叩き割って押し入り、ショーケースを打ち砕いた、明らかに堅気とは思えなかったその巨漢は、当然のように強盗犯の疑惑を受けていた。
俺が手加減をした所為もあるだろうが、ガラスケースに叩きつけられた直後に立ち上がれるほどのタフネスを迂闊にも持ち合わせていたのも、彼の不幸と言えるだろう。
直後にけたたましい防犯ベルの音が響き渡き……
正直、もう救いようがない。
──すまん。
──が、俺はやり返しただけだからな?
俺は眼前で強盗扱いされている巨漢に向けて内心でそう詫びると……すぐさまその場から踵を返す。
ただの学生でしかない俺としては……公権力に逆らって目を付けられるような羽目に陥る訳にはいかなかったのだ。
そうして強盗現場から走り去って三分ほど経った頃、だろうか。
脳に送られる酸素が足りなくなってきた所為か、不意に俺の脳裏に天啓が舞い降りてきたのだ。
「……ぁ、なるほど。
鎧袖一触ってのは、袖が触れたからって喧嘩をすれば、酷い目に遭う。
だから……些細なことで喧嘩を売ると人生に失敗するから、人生慎重に生きようって意味か。
……俺もこのことわざの通り、暴力に頼らずに平和に生きないと、な」
俺はそう呟くと……また一つ賢くなった自分へのご褒美として、近くのコンビニに肉まんとカレーマンを買いに足を向けるのであった。
注:「鎧袖一触」
鎧の袖が軽く触れただけで相手が倒れるという意味。
つまり、それほど力量に差がある弱い敵を容易に打ち倒すこと。
今回の主人公がやらかしたことそのものであるが、やっぱり解釈は間違っているのでご注意を。