第四話 『河童の川流れ』
それは朝、学校へ向かっている最中のことだった。
買い替えたばかりの靴を履いていたのだが、その所為か今朝は妙に履き心地が悪く。
どうも今日一日、ろくなことが起こらないような……そんな嫌な予感があった。
──サボりてぇなぁ、畜生。
俺は内心でそうぼやきつつも、親の脛を齧っている学生でしかない以上、本当にサボる訳にもいかず……少しだけ思い足取りで、学校へと向かっていた。
……その所為、だろう。
「いやがったな、てめぇっ!」
朝っぱらから下らないゴミ共に絡まれてしまったのは。
「てめぇ、今日こそは無事に帰れると思うなよ?」
「何黙り込んでんだ。
どうした、びびってんのかよ?」
「土下座して謝ったら、半殺しですませてやるぜ?」
気付けば、周囲には武器を手にした二十人ほどのチンピラによって、俺は取り囲まれていた。
丁度、此処は小さな橋のど真ん中で……この手の連中にしては珍しく頭を使い、橋の前後に十人ずつ伏せていたらしい。
俺が橋の真ん中に差し掛かったところで連中が一気に現れたこともあり……気付いた時にはもうどうしようもなかったのだ。
尤も……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を得てからの俺は、ついぞ警戒感というものを失ってしまったようで、そういう些末な気配を探って生きるような、せせこましい生き方は出来なくなっているのが実情である。
つまり、待ち伏せに気付かなかったのは、別に俺が鈍いからではない、と思う。
しかし……
──誰だ、コイツら?
口々に叫ぶその連中の面は、どこかで見たこと……あるような、ないような。
生憎と顔面を神経痛でやられたのか、それともそういう愉快な顔を見せることで相手より優位に立てると信じているのか……
何やら変な顔をしているので、前に見たことあったかどうかなんて、分かる訳もない。
……そもそも、野郎の面なんざ、覚える価値すらないので、見たことがあっても覚えている可能性は低いのだが。
「何見てんだよ、こらぁっ!」
その癖、ギャラリーを楽しませる気はないらしく、好奇心に駆られてこちらを伺おうとしていた学生……俺と同じ学校の連中を、怒鳴って追い散らしていた。
……訳が分からない。
──この連中は、一体何がしたいのだろう?
まぁ、別に学校に行きたかった訳でもない俺は、珍しく行く手を遮るアホ共を蹴散らさずにのんびりとその顔芸を眺めていた。
……出席日数は確かにヤバいのだが、それでも行きたくない日は存在する。
こんな些細な理由を言い訳に、足を止めるような、そんな日が。
「おぅ、てめぇをボコるために、先輩を呼んできたんだよ」
「そっちの筋じゃ、結構有名なんだぜ?」
「何しろ、八回戦とは言え、プロのボクサーだからな?
まぁ、殴られて大声で泣き叫ぶんだな」
そう口々に囀るゴミ共の間から……痩せぎすの男が一人、前へと歩み寄ってくる。
……連中の言葉が正しければ、所謂プロボクサーと言うヤツなのだろう。
ソイツは黒いグラサンをかけ、黒いスーツにマッシュルームみたいな茶色の頭をした、ヤクザとチンピラを足して二で割ったような男だった。
「ま、お前に恨みはないんだが。
こっちも後輩の頼みを無碍にする訳にもいかないんでな」
男はそう告げると、グラサンを外して胸ポケットにしまうと……軽く両手を上げて、構えた。
見た感じ、慣れた雰囲気のあるその姿は……コイツがボクサーである証明とも言えるだろう。
残りの連中は橋の両脇を固める形で並んでいて、どうやらこのボクサーが一人で戦うつもりらしい。
「ほら、遊んでやる。
好きに打ってきて良いぞ?」
そう言って笑う男は……よほどの自信があるのだろう。
何となくその自信満々の笑みに釣られた俺は、男と同じように拳を握り……ボクシングの真似事をして拳を放ってみる。
「お、お、お。
なかなかやるな、お前っ!」
……だけど。
流石はボクサー、と言うところだろうか?
右で拳を突き出しても、左で拳を突き出しても、右手を振るっても、左右に身体を揺らすだけで、俺のパンチはことごとく空を切るばかりだった。
「ほら、こうやるんだ、よっ!」
そうして避けることで自分の優位性を確認したのだろう。
次に男は右の拳を突き出し……俺の顎1ミリ手前で拳を止めて見せた。
それはまさに拳を使った魔術とも言うべき、凄まじい鍛錬に裏付けされた技能で……
「……どうだ?
勝てないってことが、分かったか?
だったらとっとと土下座して謝れば……」
男は俺の顎寸前で拳を止めたまま、ドヤ顔を見せてそう告げてくる。
……だけど。
──チャンスっ!
それは俺にとってはただ、せこせこと逃げ回る『的』が止まってくれただけに過ぎない。
その隙を逃さず……俺は右拳をバックハンドに大きく振るう。
「っと」
しかしながら、完全に虚を突いた筈のその一撃さえも、男はダッキング……上体を屈める回避動作で、あっさりと拳の軌道から身体を逸らしていた。
そのまま後ろへ三歩ほど軽くステップを踏むと……
「っと、おいおい。
バックハンドはボクシングじゃ反則だぜ?」
何処か芝居がかったポーズで、肩を竦めながらそう告げる。
尤も、幾らそのポーズが決まっていても、この男が日本屈指のイケメンだったとしても……この状況では、格好良く決まる訳もなかったが。
何故ならば……
「せ、せんぱ、い……」
「か、髪が……」
……そう。
俺のバックハンドの一撃は、その男の頭頂部を掠めてしまっていたらしい。
ついでに言うと、上手く避けるところをみて、つい力を込めた所為か……ンディアナガルの権能まで発揮してしまったらしく……
男の頭頂部の毛髪は……どっかの小賢しい小僧の如く、完全に死滅してしまったらしい。
……恐らくは……毛根ごと。
「……ぁあ、あ、あ、あ」
男は自分の身に何が訪れたのかを後輩の視線で悟り……だけど、その現実を認めたくないのか、ペタペタと何度も何度も頭頂部に触れ続ける。
とは言え、手の感触という絶対的な情報源を前に……いつまでも自分自身を騙し続けられる訳もない。
「うわぁあああああああああああああああ」
まるでキリスト教の聖人のような髪型になった男は、そんな奇声を上げると……渾身の力で俺に殴りかかって来た。
正直……髪の仇を取ろうという、その心意気は認める。
俺も「そうする」意図があった訳じゃなく、多少の罪悪感はあったのだ。
とは言え、俺の身体は破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能によって守られている。
その防御力は矢も槍も、鋭利な鋼の剣すらも通さない。
……言ってしまえば戦車の装甲版を着込んでいるのと同じ、いや、それ以上の防御力を有しているのである。
例えそのプロボクサーの拳がヘビー級世界チャンピオン級だったとしても……俺の頬との衝突に勝てる訳もなく……
「う、うぁ、
うぁぁああっ?」
予想通り、男の拳はあっさりと砕けてしまったらしい。
一瞬ではあるものの……手の甲から骨がにょっきりと生えて、血まみれになっているのが見えた。
「お、おい、まさか先輩が……」
「アイツの身体、一体どうなって……」
戦いの顛末を見たアホ共が何やら呟いているが……俺の知ったことではない。
そもそも、俺はこんな連中を相手にするよりも、まず勉強をしなければならないのだ。
──せめて、月末に受けることになっているテストくらいは……
そう考えた俺が、いい加減アホに付き合うのも鬱陶しいのでその場を去ろうと、前へ一歩踏み出した……その時だった。
毛髪を死滅されてしまった禿の頭頂部が、日光の輝きを反射して俺の目を刺したのだ。
その頭を見た瞬間……俺の脳裏にふと閃くものがあった。
──河童、みたいになってんな。
そして……手元の「ことわざ集」に、確か河童を題材にしたページがあった、ような。
「お、あったあった」
探すページはすぐに見つかった。
これでも俺は、この「ことわざ集」を何度も何度も開いては、しっかりと目を通しているのだ。
探し当てるページの、凡その見当くらいはつく。
──河童の川流れ。
相変わらず「ことわざ集」はぐしゃぐしゃに汚れ、何を書いているか判読すら出来やしない。
である以上……試してみるのが一番だろう。
「うぉ、お、うぁあああああああああああああああああっ!」
俺は蹲ったままの河童頭になった男の襟首を掴むと、右腕だけで軽々と持ち上げ……放り投げる。
……すぐ隣にあった、川へと。
水へと落ちた男は、二度三度流れに抗うように水面から顔を出したものの……すぐに沈んで見えなくなった。
「……なるほど。
確かに流れたな」
「せんぱぁあああああああああああいぃぃぃぃっ?」
「て、てめぇっ!
殺す気か、おいぃぃぃぃぃっ!」
「くそっ!
助けに行くぞ、お前らっ!」
さっきまで俺を取り囲んでいたアホ共は、角材や鉄パイプを捨て、必死に川の下流……河童が流れて行った方向へと走り去って行った。
去っていくアホ共の背中を見届けた俺は……少しだけ考えて、頷く。
ようやく、さっきのことわざの意味が分かったのだ。
「河童に似たヤツを川に放り込んだら、あっさりと流れてしまった。
つまり……姿形だけ真似た紛い物に注意しろ、という意味か。
まぁ、確かに、そうだよな……」
俺はそう呟くと……さっきの運動がストレス解消になったのか、少しだけ軽くなった足取りで学校へと向かうことにしたのだった。
注:「河童の川流れ」
河童でも時に水に流されることがあるというところから、その道の名人、達人と言われる人でも時には失敗することもある、という意味。