第三話 『泥棒を捕えて縄をなう』
軽く一薙ぎするだけで騒音公害の元凶を駆除してから十五分後。
俺は少しだけ考え直していた。
──このままじゃ、勉強は出来ない、な。
……そう。
軽く一撃かますのに使っただけとは言え、この「ことわざ集」はもはや本とは言えず、ただの紙クズと大差ない有様へと変貌してしまっている。
本とは、書かれてある文字を読み取ってこそ意味がある。
即ち、コレは……もはや本とは言えないだろう。
という訳で、俺はこの「ことわざ集」を新しく買い替えることにしたのだ。
──ったく、要らん出費を。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を持ち、無双の膂力と無敵の身体を有し、異世界ではハーレムを有したり、貴族階級である機師だったりと、色々な経験をしている俺ではあるが……
生憎とこの現代日本においては、ただの学生に過ぎない。
そして、学生である以上……わずかな小遣いのみで生きていかなければならないのは、世の摂理である。
──くそったれ。
──なんで、こんな本如きに千円近くも使わなきゃならねぇんだよ。
俺はそうぼやくが……得てしてこの手の参考書の類ってのは高い物だと相場が決まっているものだ。
俺は財布の中身と今後の小遣い額を計算し、買うのを諦め、思い直し、それを何度も繰り返し、悩み悔んだ挙句……この本を買い替えると決めていた。
それほどまでに……一学生でしかない俺の懐事情は寂しいのである。
──ったく。
──飯の量が減っちまうじゃねぇか。
そもそも俺の小遣いが窮迫した要因は、異世界で質素な生活を……真面目に何やら良く分からない肉と果物を塩漬けにしただけの食事とか、知らず知らずの内に蟲を食べて暮らす日々を送った所為だろう。
俺は、この現代日本に帰って来てから……普通に食べられる食事の数々が美味しくて美味しくて仕方なくなっていた。
その所為か、こちらに戻ってからは小遣いの殆どを食事に費やす毎日である。
昨日もちょっとアイスが食べたくなって、ファミ○アのバニラとチョコのダブル味を丸々平らげたところである。
ちょっと食べ過ぎだと両親からは言われたが……俺としては食べ足りない程度でしかない。
──もしかして、ンディアナガルの権能の所為、かもな。
真っ当な食事をただ摂るだけじゃ、カロリーが全く足りないのである。
ひょっとしたら、そういう……神がかり的な何かが関与しているかもしれない。
まぁ、考えても仕方のないことではあるし……このンディアナガルの権能ともいい加減長い付き合いだ。
俺はそこで思考を打ち切ると、「ことわざ集」の値段で買える食事量を思い浮かべ……その所為で、またしても購入の決断が揺るぎ始めていた。
「くっ!」
そうして食べ物を考え始めて、三十歩ほど歩いた頃だろうか。
ふと気付くと、丁度道の片隅にたい焼きの屋台が居座っていて……その甘ったるい香りによって人様の空腹を煽るという、罪深くも無慈悲な迷惑行為を行っていた。
異世界で、たい焼きどころか砂糖すら見当たらない生活を送っていた俺にとっては……その誘惑はベッドの上に横たわる美少女と同等、もしくはそれ以上に相当し……
「たい焼きを、かっぱらう、か?」
空腹に耐えかねた俺は、小さくそう呟く。
それが一番容易く空腹を満たす手段に思えたのだ。
だけど……俺はすぐに首を横に振り、その誘惑を断ち切る。
「いや……ちょいと、そこいらのおっさんを締め上げれば、金なんざ……」
直後には空腹に任せ、近くを歩くおっさんに視線を向ける俺だったが……流石に窃盗やら恐喝やら強盗やらを行うつもりはない。
だって……それは「犯罪」である。
犯罪ということは……悪い事だ。
悪い事は、してはいけないのだ。
社会的に、そう決まっている。
──だから、我慢、我慢と。
そう思い直した俺は、香ばしく誘惑的な香りを放つたいやき屋台から視線を逸らすと……歩き出す。
夕暮れが迫っている所為か、あちこちの街頭には光が灯り始めている。
──今日の晩飯、何だろうな。
空腹に耐えかねた俺が、内心でそう呟いた……その時だった。
「ひったくりよ~~~~~っ!」
そんな叫びに振り返ってみると……道端で座り込んだおばちゃんが、この世の終わりのような悲鳴を上げていた。
そのおばちゃんの前には、フルフェイスのヘルメットを被った大柄な男が、片手にバッグを掴み……スクーターに乗ってこちらへと走って来ている。
……周囲に人気がなくなった所為だろう。
ひったくりや強盗など……そういう社会のゴミ共も、動きを活発化させてしまう時間帯なのだろう。
──ったく、俺様が我慢しているってのに。
──この、クズがっ!
決断は一瞬だった。
俺はそのクズを潰そうと決意すると……右足を、ちょうど隣を走り去ろうとするスクーターの前輪に突っ込む。
何の躊躇もなく、抉り込むように。
……効果は、絶大だった。
「うぉおおおおおおおあああああああぁぁっ?」
装甲しているバイクの前輪、何か異物を突っ込んだらどうなるか?
その答えを、このフルフェイスのヘルメットを被った男は、その身を持って実践してくれた。
答えは簡単で……バイクが前輪を中心として、そのままの勢いで円弧を描く、である。
要は、前につんのめった挙句、バイクごと乗り手が注を舞うという怪現象が起こる訳だ。
「うぉ、ぉ、ぉ、ぉおおゎぁぁぁぁぁ」
「ったく、泥棒なんて下衆な真似、しやがって……」
とは言え、流石はヘルメット。
交通事故の死亡率を著しく下げるのに、伊達や酔狂で一役買っている訳じゃないらしい。
男は思いっきりアスファルトに叩きつけられたというのに、まだ生きていた。
それどころか……くぐもった悲鳴を上げてはいるものの、手足が折れている様子もなく、衝撃と痛みで動けないだけらしい。
「このままじゃ、逃げられてしまう、な」
折角俺が手間をかけた……と言うか、足を出したのだ。
こんな下衆な悪人に逃げられて、何のお咎めもなしなんて……そんなの、許せる訳がない。
そう危惧した俺は、せめて逃がさないように手足を縛ってやろうと周囲を探すが……生憎と手錠や縄や紐になりそうな物すら存在しない。
「ったく、どうすれば……」
少しだけ考えた俺は……一番手っ取り早い手段を行った。
……即ち。
「うぎゃあああああぁあああああああああああああああああああああああああああああっぁぁぁああああっ、ぁぁあああっ、ぁあああああああああああっ!」
……手足で、手足を縛る、だ。
今までの戦闘経験で学んだのだが、人間の皮膚ってのは結構伸びるし、弾力があって千切れにくい。
骨がちょっと硬くて加工し辛いんだが……生憎とこの俺、破壊と殺戮の神ンディアナガルの膂力をもってすれば、加工が簡単なくらいに砕くことは容易である。
だからこそ俺は、軽く窃盗犯の右腕を握り潰して骨を砕き、その柔らかくなった腕を引っ張って、左腕へぐるぐると結びつけたのである。
腕だけじゃ逃げられるかもしれないので、次は足でも同じことをしてやる。
「~~~~~~ッッッ!」
もはや悲鳴すら忘れたのか、窃盗犯はジタバタと暴れるばかりで、大した悲鳴すら上げなかった。
そうして手足を上手く結び終わった俺は、窃盗犯の紫色に変色した腕と、その腕が絡まった肌色の腕を眺め……頷く。
──まるで、縄を編んだみたいになってるな。
そう内心で呟いた瞬間、またしても俺の脳裏に天啓が舞い降りてきた。
確か、あの「ことわざ集」に、それに近い文章があった、ような……
「っと、あったあった」
ソレはすぐに見つかった。
──泥棒を捕えて縄をなう。
まさに……この状況に相応しいだろう。
「泥棒を捕えた後で、手足をへし折って縛りつけ、逃げられないようにする。
即ち……泥棒を捕まえたら、逃げられないように痛めつけるのが正解、という意味か」
俺はそう呟くと……もう逃げられなくなったひったくり犯を放置したまま歩き出す。
周囲の人目が気になったのではない。
──畜生、靴が……
……そう。
衝動的に、とは言え……バイクの前輪に突っ込むなんて無茶をした所為で、俺の靴はズタズタに痛んでしまっていたのである。
幾ら破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能によって、俺の身体が無敵モードになっているとは言え……衣類までも無敵になっている訳ではない。
「……しゃーない、か。
まず、靴、買い替えなきゃなぁ」
俺は大きくため息を吐くと……「ことわざ集」を買い替えようとしていた金で、靴を買い替えるために、靴屋に向けて歩き始めたのだった。
注:「泥棒を捕えて縄をなう」
泥棒を捕まえてから、慌てて泥棒を縛るための縄を作ること。
事が起きてから慌てて準備する意味として用いられる。
例え窃盗犯であっても、現行犯逮捕以外の……所謂『私刑』を行うのは法律によって禁じられておりますので、ご注意ください。