第二話 『犬も歩けば棒に当たる』
「……長かった」
俺は校門を出た瞬間、万感の思いを込めてそう呟いていた。
敢えて言おう。
六時間目まで延々と椅子に座っているのは、まさに拷問である。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を持っている俺でさえそうなのだ。
……他の連中が耐えられる訳がない。
──だから、だろう。
その拷問に耐えられないクラスメイトの連中が、休み時間が訪れる度に意味もなく席を立ち……訳の分からない奇声を発し続けているのは。
実際、悲鳴を上げることで激痛が去っていく……いや、少しだけ和らぐという話を聞いたことがある。
ああして同級生が騒ぐのは、苦痛を退けるための逃避行動として必要なのだろう。
勿論、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を持っている俺は、そんな逃避行動を行う必要もなく……休み時間が訪れる度に、ただ静かに席に座っているのだが。
「さて、勉強しないと……な」
通学路を五分ほど歩いたところで……俺はふと思い立つとカバンの中から「ことわざ集」という名の本を取り出す。
それはボロボロに破れ拉げ歪み血に塗れ……ホラー映画で使われる小道具とそう大差ない状態になっている、一冊の本だった。
まさかこの本が、僅か一日前まで、新品とそう大差なかったとは……もはや誰も思わないだろう。
正直……こうしてしまった俺自身も信じられないくらいなのだから、それは当然と言えば当然だった。
「さて、今日は……」
俺はその惨状から意識を背けるように、わざとそう呟くと本を開く。
血で固まりボロボロになったその本を破かないように開くのは……人間を握り潰すことの出来る膂力を得た今の俺には、かなり至難の業だった。
正直……そこら辺りに転がっている車をひっくり返す方が遥かに楽だと思う。
軽自動車どころか、普通車、大型車……それどころかバスやロードローラー、10トンダンプに至るまで、何でもいける自信がある。
──尤も、そんなこと出来ても勉学の役には立たないんだけど、な。
俺はそう嘆息すると……ぐしゃぐしゃのページに目を落とす。
そこには……
「犬も歩けば棒に当たる……ねぇ」
ことわざのタイトルをそう読み上げた俺は……そこで困り果て、少しだけ眉に力を込めていた。
何しろ、ことわざの意味を説明する場所が……破け拉げた挙句に血痕が飛び散り、全く読めなくなってしまっているのだ。
である以上……ことわざの意味は、類推するしかない。
「しかし、犬が棒に当たるかな?」
丁度、どっかの若奥さんっぽい女性が犬の散歩をしていたので、そちらに視線を向けると……犬は近くの電信柱に尿を放つことはすれど、棒にぶつかるほど間抜けではなさそうだ。
──だと、すると?
犬に視線を向けた俺が首を傾げ……何故か若奥さんがこちらへと視線を向けたかと思うと、慌てて走り始めた。
恐らく……ダイエット中なのだろう。
──十分、痩せていると思うんだがなぁ。
まぁ、女性のダイエットにかける情熱ってのは、男の俺には分からないモノがある。
俺は軽く肩を竦めると……さっきの悩みを脳内で反芻しつつ、歩き出した。
そうして五歩ほど歩いた時、だろうか。
突如、道路にけたたましいエンジン音が響き渡り始める。
「おいおい。
また辺流歯雲弩の連中か」
「最近、派手になってるって聞いたぞ」
「まだ日も暮れてないってのに、迷惑極まりないわねぇ」
通りすがる人たちの声に耳を傾けてみれば……どうやら暴走族の連中、らしい。
──ったく、やかましい。
この前、暴走族が運転を誤ってタンクローリーに突っ込んで多数の死傷者を出す大事故があったばかりだと言うのに……
あの手の連中の頭には、どうも学習能力という機能は搭載されていないようだった。
そして……いつもならあまり気にならない筈の、暴走族の奏でる騒音とやらが、今日は、妙に苛立つ。
──この俺でさえ、勉強しているってのに、てめぇらはっ!
恐らく……その怒りがあった所為、だろう。
破壊と殺戮の神の権能を得た俺が、こうして苦労しているってのに……この馬鹿連中は人様の迷惑を考えず好き勝手した挙句、この俺の邪魔をしているのだ。
──許せる、筈が、ないっ!
その怒りに任せた俺は、手にしていた本をいそいそとカバンの中へ仕舞い込むと周囲を見渡し……徐々にこちらに近づいているあの連中を殲滅できる武器を探す。
生憎と今日はタンクローリーは近くになく……
「おっ!」
そんな時だった。
近くに立っている電信柱が目に入ったのは。
日本電信○話株式会社に恨みはないのだが……ちょうど良いところに手ごろな武器があったことに喜んだ俺は、その電柱を掴むと……
「……よっと」
ただ膂力まかせに、握り潰し……ねじ切る。
電柱の内部はどうやら空洞らしく、握力を込めるだけで簡単に砕け散ってくれた。
問題は筒状の柱本体を構成している、コンクリートに埋め込まれた格子状の鉄筋で……ちょっと力を込めないと、ねじ切れてはくれなかった。
とは言え……所詮は人間の手で造り上げた構造物。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を前にして、耐えられるモノじゃない。
そうして手ごろな棍棒を手にした俺は、その棍棒を右手で抓むと……タイミングよく先頭が現れた暴走族の軍団に向け、渾身の力を込めて横薙ぎに振り回す。
「きゃああああああああああああああっ!」
最初に悲鳴が上がったのは、当の暴走族ではなく……惨事を目の当たりにした近くのおばさんの口からだった。
それもその筈だろう。
まずあり得ない話だが、彼らが法定速度を守っていたと仮定しても……時速60kmを維持したまま、俺のフルスィングに身体から突っ込んだのだ。
……生身の人間が、耐えられる筈が、ない。
実際、バイクに乗っていた連中は、上半身が粉々に砕け散り……肉片と骨片をまき散らして誰がどれだか分からない、ミンチより酷い有様に成り果てていたし。
ぶん殴った所為でバイクはプラスチックと金属片に分離し、電柱にくっついていた電線とガソリンが触れあった所為か、周囲は炎上。
人肉の焼ける香ばしい匂いが周囲に漂っている。
「うげぇええええええええええええ」
「地獄だ、この世の、地獄だ」
その臭いを美味しそうとは流石に思わないものの……まぁ、嗅いだことがあったお蔭か、近くを通りかかったおっさんみたいに悲鳴を上げたり、アスファルトを吐瀉物で汚すようなことはなかったが。
「そうかっ!」
その惨状を眺めつつも、この暴走族の名前がヘルハウンドとかいうアホみたいな名前だったのを思い出した俺は……不意に閃きに叫びを上げる。
……そう。
この状況こそ、さっきのことわざが言い表している状況に違いない、と。
──犬も歩けば棒に当たる。
即ち……
「偉そうに吠えて走り回る犬っころは、棒にぶん殴られて屠殺され、焼き肉と化す。
即ち、焼き肉にされたくなかったら無駄口を叩くな、という意味だな、うん」
俺は脳内メモリにその意味を刻み込むと……面倒になる前に、その大事故の現場から立ち去って行ったのだった。
注:「犬も歩けば棒に当たる」
……犬が出歩くと、棒で殴られるような災難に遭う。
即ち、じっとしていれば良いのに、余計な行動を起こすべきでないという意味。
でしゃばると災難に遭う、という意味でも使われる。