最終話『覆水、盆に返らず』
「明日が、テストか……」
俺は意味もなく晴天となった空を見上げながら、静かにそう呟いていた。
実のところ、自信はある。
追試を言い渡されてからこの数週間、俺はしっかりことわざ辞典を片手に勉強を続けていたし……追試を喰らったのもちょいとばかり授業中の睡眠を見咎められた所為であり、そもそも俺自身、自分の頭が悪いなんて思ってもいない。
ことわざ辞典がちょっとした事故によって血まみれになってしまい、真っ当に読めなくなったのが少しばかり気になる点ではあるが……それでも人生経験でその辺りは補ってきたので、追試如きを落す心配はそうないだろう。
──俺ほど人生経験を深く積んだ学生はいないだろうからな。
事実、俺としてはそれが自信の源でもある。
他者をぶん殴って黙らせる能力では恐らく世界でトップクラス……戦場に出た記憶ではプロの傭兵たちには敵わないだろうが、近接武器での殺人であれば世界で十指には入るのではないだろうか?
そんな人生経験豊富な俺が、古代日本や中国の「人生経験の積み重ね」から発生したことわざの問題を解けない筈がない。
その妙な自信が俺を支えている。
──不思議な感覚だな。
──前なら、もっと不安になっていたってのに。
……テストを前にしているというのに、まるで凪が訪れたような自分の心に、何となくそんな感慨を抱く俺だったが、まぁ、特に問題ないだろう。
別にテストの点数が悪かったところで殺される訳でもなければ、人生に詰む訳でもない。
最悪、国語教師を殴って殺せば全てが解決する程度の話でしかない。
……そう考えると、不思議とテスト前の緊張を感じなくなるのだ。
──これが、成長ってヤツか。
まるで学生を超越したような感覚で俺はそう呟くと、最後の勉強とばかりにことわざ辞典を開く。
全てを丸暗記した訳ではないものの……追試なのだから五割程度取れば合格するに決まっているのだ。
なのに俺は既に八割ほどを学んでいる。
イコール、次のテストは八割ほどの点数を確保でき……それはつまり追試を完璧に合格できることを意味していた。
「……えっと。
ここも血まみれか」
そうして俺が開いたページは返り血によってへばりついていて……今まで一度も開いたことのないページであることに違いはなさそうだった。
そんな血まみれの辞典を、致命的に破けないよう冷静に開く。
何となく、新しい辞典を買った方がマシだとか、こんな一つの例なんて無視した方が費用対効果が良いとか、そういう意味合いのことを俺の中の『何か』が叫ぶものの……生憎とこのままこのページを開かないことは、俺の負けを意味するような、そんな気がするのだ。
──くそったれ、がっ!
人の頭蓋を握力で握り潰せるようになったとしても、へし折った電柱を振り回す腕力を手に入れたとしても……こういう細かい作業への適性が発生する訳もなく。
俺はイライラとしながら、必死にそのページを開くことに成功する。
尤も……そのページは今までにないほど返り血にまみれていて、真っ当に読むことも叶わなかったが。
「ふくすい……返らず?」
返り血で読めない中を必死に目を通し、光で透かし……何とかそのふりがなだけは読み取ることが出来た。
とは言え……
「ふくすいって何だ?」
ひらがなが分かったところで、ことわざ自身の意味が分からない。
俺は首を傾げて悩んでいる……そんな時だった。
「……死ねやぁああああああああああっ!」
「……ん?」
後頭部に何かがぶつかった感覚と共に……そんな叫び声が聞こえてくる。
振り返った俺の視界には、何処かで見たようなバイクやら改造車両に乗った連中がうじゃうじゃと群れ広がっている様子が写っていた。
どうやらページを開くことに夢中になり過ぎた所為で、この馬鹿共が集まってきたことに全く気付かなかったらしい。
「……誰だ?」
「てめぇに恥をかかされた連中を集めたんだっ!」
「腕力自慢だろうが、この数を相手にどこまで出来るっ?」
「ポン刀にチェーンソー、斧まで用意したぜっ!
楽しんでくれよなぁっ!」
そう叫びながら武器を見せびらかす、百匹近い雑魚の群れがいきり立っているのを、俺は適当に聞き流しつつ、手持ちのことわざ辞書を片づけようと……
「はっ、余裕だな、てめぇっ!」
「……ぁっ」
その時、だった。
自転車のチェーンのようなモノを持ったヤツが、俺の手へとその金属片を叩き付け……さほど注意を払っていなかった俺の手から、ことわざ辞典が手放される。
「ははっ、勉強なんて下らないことしてんじゃねぇよっ!」
ほぼ反射的に拾おうと手を伸ばした俺の眼前で、近くにいたモヒカン刈りの野郎が手にした火炎瓶を投げ付け……
──ああああああ。
その炎に焼かれ、俺のことわざ辞典は炎の中に消えていく。
今までの勉強が炎に焼かれて消えていく訳ではないが、コレは借りていたモノであり……まぁ、血まみれになった時点でアレだとは思っていたが、流石にこうなってしまっては言い訳が出来ないだろう。
「ぎゃはははははっ!
ガリ勉く~~ん、困ったなぁっ!」
「ひゃひゃひゃっ、これからベッドの上でお勉強、頑張ってね~、うひゃひゃひゃひゃっ」
「棺桶の中かもしれないが、なぁっ!」
愕然と燃えることわざ辞典を見つめる俺を無様と思ったらしく、その暴走族とかいうクソ連中は耳障りな笑い声を奏で始めた。
俺は大きく深呼吸して衝動的に湧き上がった殺意を何とか消し去る。
実際のところ、この連中に対して本気で殺したいほどに怒っている訳ではない。
ただ……己の戦闘力も理解せず、数の優位だけで調子に乗って人様を馬鹿にするその態度が、少しばかり気に入らないだけだ。
「……てめぇら。
その笑い声がいつまでも続けばいいな?」
俺はそう呟くと……近くにいたヤツの右腕を握り潰し、もう一匹の胸ぐらを掴むと、大きく力任せに放り投げ。
そして、現代日本に返って来てから最大の戦闘が始まったのだった。
「……いてぇ、いてぇよぉ」
「腕が、腕がぁあああああ」
「母ちゃん、たす、たす、たすけてぇ……」
数十分後……既に戦闘は終わっていた。
いや、そもそも戦闘と呼べるほどのモノでもない。
ただ数が多いだけの雑魚を、一方的に蹴散らすだけの……作業でしかなかったのだ。
斧で頭を殴られても皮膚すらも傷付かず刃の方が丸まり、それほど造りがしっかりしてない日本刀は俺の皮膚を切り裂くことなくへし折れ、チェーンソーは手で受け止めるだけで指の皮すら切れずに止まる始末。
そんな有様で……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を持つ俺を相手に、こんな群れて粋がるクソみたいな連中が勝てる筈がない。
「……はぁ、下らん時間だった」
周囲のほとんどを壊滅させた俺は、ため息混じりにそう呟く。
事実、この数十分間はストレス解消にもならないちょっとした運動でしかなく……むしろ日本国憲法に従って殺さないように気を使っていた分、ストレスが溜まったとも言える。
「……さて、と」
まぁ、暇つぶしにはなったと俺が踵を返そうとした、その時だった。
「ひひぃいいいいいい、死ねぇええええええええええええええええええっ!」
近くにあった車……車種は知らないけど、最近あちこちを走っているハイブリッドカーがライトを全力で照らしたかと思うと、俺に向けて突っ込んで来たのだ。
「……眩しっ」
俺はそのハイライトに思わず目を閉じ……近づいてきた車両の気配に慌て、つい少し強めに足を突き出す。
ガツンと、凄まじい音がして……気付いた時には、その車は吹っ飛んでいき、少し離れた電車の線路の方角へと吹っ飛んでいき……
直後……ぐしゃぐちゃぐじゃという、金属が潰れる凄まじい音が響き渡る。
「……あ~あ。
電車に突っ込んでやんの」
……そう。
俺が軽く蹴飛ばした自動車は、見事に車両が進むべき前進とは145度ほど違う方向へと吹っ飛んで行った挙句、近くを走っていた電車に突き刺さったようだった。
正確には、電車の進行方向にぶち当たって巻き込まれて粉砕され……その衝撃によって電車も凄まじい速度でレールから飛び出していたのだが。
要するに、大惨事である。
尤も、血も臓物も死体も見慣れている俺としては、事故なんてそう驚くべきことでもなく……そして、別に俺が列車事故を引き起こした訳でもないので他人事であり。
適当に野次馬気分でその事故現場へと足を運んだのだが……
──うわ、酷いなぁ。
そこは、まさに現代人が考える「地獄の有様」というヤツだった。
人間が人間の形をしておらず、鉄の焼ける匂いと血と臓物の臭いが充満する……死屍累々という事故現場。
そんな中、俺は特に何の感慨も抱かずに事故の衝撃で電車から飛び出したらしい死体の山を眺め続ける。
幸いにして十数人から三十人程度の死体などでは、今さらどうのこうの感じることもなく、身体の何処かが欠けた死体を適当に眺めていく。
男、おっさん、おばさん、おばさん、ばあさん、おっさん、おっさん、おっさ……
「……ぁ」
そうして眺めていると……不意に気付いてしまう。
──二人目に眺めたこのおっさん……国語教師じゃねぇか。
どうでも良い死体が転がっていようが意にも介さない俺ではあるが……流石に顔見知りとあれば見捨てるのも忍びない。
顔見知りを見つけて慌てた俺は、その死体と思しき肉の塊へと駆け寄っていく。
幸いにしてソレは、死体……ではない、らしい。
腹腔が破れ臓物がはみ出ていて、腹からは血と妙な液体が滴っているが……まだ辛うじて生きてはいる。
「お、おいっ、無事かっ?」
その身体を抱き起こしてそう呼びかける。
……だけど。
こういうのを見慣れている俺だからこそ、分かる。
──コレは、もう、無理だ。
生命力がそもそも足りてない。
腹が破れ、臓物が砕け……身体から命が次々と抜け落ちていくのが分かる。
そして、あまり嬉しくないことに……俺の持つ破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能は基本、殺人と破壊活動に特化していて、人を助けるような能力なんて持ち合わせてはいないのだ。
だから、どんな人間よりも強い筈の俺は、こうして国語教師……名前も覚えていない鬱陶しいおっさん教師がくたばっていくのを、ただ眺め続けることしか出来やしない。
そうしている間にも、教師の腹からは次から次へと血と液体と……命が零れ落ち続ける。
──ああ、コレ、か。
そして、理解する。
──腹水、身に返らず。
破れた腹から零れた水が、身体に戻ることはない……それは即ち、腹を切り裂いた人間が助かることはない。
転じて……やらかしたことは元に戻せない、ということわざなのだろう。
「最期の最期に、身体を張って教えるようなことじゃないだろう。
……教師の鑑かよ、てめぇ」
俺のその言葉が聞こえたのだろうか?
俺の腕の中で教師は息絶え、動かなくなる。
「……くそったれ。
テストがなくなったことだけは、喜べるんだけどな。
こんな終わり方を、望んでいた、訳では……」
俺としては、テストがなくなることは嬉しい反面……今まで勉強していたのだから、その成果を見せつけてやりたかったという気持ちも僅かながらにあったのだ。
とは言え、教師がこうして死んだ以上……もう何をしても仕方ない。
そう諦めた俺は、教師だった肉の塊を放り捨て、とっととその場から離れることにする。
実際問題……事故を誰かが通報したのだろう、パトカーか救急車らしきサイレンが鳴り響いていて、この場にいると面倒事に巻き込まれそうだったのだ。
だからこそ俺は、とっとと踵を返し……周囲に漂う匂いの所為で、焼肉を食べたくなったこともり、食事に向かうことにしたのだった。
……そうして。
ついにことわざ辞典を俺が勉強した成果を発揮する場所は、永遠に失われてしまったのだった。
注:「覆水、盆に返らず」
封神演義で有名な太公望は、貧乏だったのに働かなかったため、妻は愛想を尽かし出て行ってしまう。
後に殷周革命が成功し、太公望が周の偉い人になると、出て行った妻が復縁を求めてくる。
そのとき太公望は盆の水をこぼして「この水を元に戻せたら復縁に応じよう」と言ったという故事からなる言葉。
転じて、一度してしまった失敗は取り返しがつかないという意味。
何故か全く違うアプローチにもかかわらず意味はあっているものの……断じて、人体解剖的な意味はないことをここに明記する。
これにて、最終回です。
まぁ、コレはあくまでもただのスランプ解消のためのお遊びでしたので、本編完了と共に終わらせるだけなのですけれど。
あと、丁度良い点数だったので、記録を残します。
2020/05/04 09:38最終回投稿時。
総合評価 444 pt
評価者数 24 人
ブックマーク登録 109 件
評価ポイント平均
4.7
評価ポイント合計
226 pt




