第十話『骨折り損の草臥れ儲け』
「そろそろテストか」
今日も今日とて『ことわざ辞典』を眺めながら、不意に小テストの日程を思い出した俺は、知らず知らずの内にそんな言葉を呟いていた。
……そう。
追試に向けて長々とことわざを勉強してきた俺だったが、その日々もそろそろ終わりが見え始め……つまりは、あの国語教師が出してくる月末の小テストが近づいてきているのである。
自信のほどは、まぁ、言うまでもない。
何しろ、ここ半月ほどの間、珍しく体力気力を勉強に費やした甲斐もあって、俺の脳内に幾つものことわざがインプットされているのは紛れもない事実であり……付け加えるならば、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身となってから物覚えは良くなっていて、実際のところ、ちょいと前に学んだことわざは意味を含めてしっかりと覚えているのだ。
つまり……小テスト如き、恐るるに足らないとはっきりと分かる。
「骨折り……儲け?
何だこりゃ?」
それでも勉強を怠る訳にもいかないと、半ば義務感に駆られるように新たなページを開いて眺めるものの……相変わらず『ことわざ辞典』は半分以上血に汚れ、真っ当に読むことも叶わなかった。
取りあえず、骨が折れた関係で儲ける何かがあるのだろうけれど、今まで俺が歩いてきた戦場では骨を折って何かを儲けたヤツなんている筈もない。
骨折した誰しもが激痛に悲鳴を上げ、そのままトドメを刺されて死んでいった覚えしかないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「……ま、意味は後から考えるか。
さぁて、今日は何を喰おうかな?」
合格への展望が見えてきた所為……という訳ではないが、俺の意識は訳の分からないことわざよりも、未来の小テストよりも、自然とリアルタイムで迫っている「小腹が空いてきたこと」へと向いてしまう。
言い訳をするならば、今日覚えた単語と食事とを関連付けることで記憶野に云々かんぬんというのをテレビか何かで見た覚えがあるので、それを実行に移そうと考えた訳だ。
尤も、その所為で周囲への注意が散漫になってしまっていたのだろう。
「……っ」
不意に俺の右肩に何かがぶつかった感触が走る。
感触的には偶然ぶつかったのではなく、悪意を持ってぶつかりに来た感じなのだが……
「いってぇ、骨が折れたぜぇ?」
「おいおい、重ちゃん、大丈夫かよぉ」
「こりゃぁ、重傷だ。
びょーいん、行かなきゃなぁ」
俺にぶつかったヤツと、その周囲の二人は何やら俺の前に塞がってそんなことを喚き始めていた。
「なぁ、兄ちゃん。
治療費、出すよなぁ?」
「そうだぜ~?
てめぇの所為で重ちゃんの骨が折れたんだ?
分かってるよな、おい?」
呆気に取られたままソイツらの言葉を聞いていた俺は、思わず内心で呟きを零す。
──何言ってんだ、コイツ。
事実、不細工な面を更に歪めて、しかも顔面なんて急所を無防備に俺に向けてくるという愚行をリアルタイムで行っているこの三匹のアホ具合にも閉口するが……それよりも折れてもない肩を折れているなんて嘘を吐いているのが良く分からない。
何しろ、戦場で幾度も殺し合いを経験している俺は、本当に骨が折れたらどうなるかを良く知っている。
一度骨折してしまえば、こうして肩を触ってうだうだ言える筈もない。
戦場に出たこともなく、矢を受けたことも剣で斬られたことも鈍器で殴られたこともないコイツらは、本当の痛みを知らないのだろう。
だから、こうして平然と骨が折れたなんて嘘を吐けるのだ。
まぁ、中には死んだふり、というか重傷のふりをして相手の油断を誘うなんて奇策めいたことをやらかすヤツもいるのだろうが……生憎とコイツらはこのアホそうな面構えを見る限り、策なんかに頼りそうな知能指数をしていない。
「……ああ、分かった分かった。
ちょっと待ってろ」
要するに……コイツらは何も知らないからこそ、こんなアホな真似が出来るのだろう。
周囲に人影もないのを骨折した筈の重ちゃんとやらが確認しているのを視界の縁で捉えた俺は、コイツらは何度もこういうのを繰り返しているのだと悟る。
それを理解した俺は、手に持っていた『ことわざ辞典』を畳むと……学生鞄へと仕舞い込む。
「へぇ、物わかりが良いじゃんか」
「そうそう。
賢いヤツは痛い目を見ずに済むんだよな」
俺が鞄を開いたのを何かと勘違いしたのか、骨折野郎の友人たちはニヤニヤと嫌らしい顔で笑いながらそんな言葉を吐き始めた。
その見るだけで不愉快になる顔を眺めた俺は、右手をゆっくりと伸ばし、ソイツの顎を掴む。
「……ぁ?
舐めてんのか、お前?」
「ははっ、まさか。
誰がこんな汚い面を舐めるかよ。
それよりも……教えてやるよ、骨が折れる痛みってのを」
顔に触れられたことが不愉快だったのか、何やら顔を更に歪めたその男に向けて、俺はそう静かに告げると……その右手へと僅かながらに力を込める。
直後、ミシリという音が響いた……ような気がしたが、具体的に骨が折れたらどんな音がしたのかは分からない。
何故ならば……
「ひふぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ?」
顎の骨を砕かれた男が、屠殺された豚のような悲鳴を響かせていたからだ。
……まぁ、顎を砕かれては上手く声を上げることも出来ないのだろうが。
ちなみに、豚が屠殺されるシーンなんて俺は目の当たりにしたこともなく……何となく漫画で見た形容詞を使ってみただけである。
「て、てめぇええええっ!
突然、何しやがるんだよぉおおおっ?」
相方の顎が砕かれ、血と歯を吐きだしながら悶え苦しむ様を目の当たりにした所為で動揺しているのだろう。
肩骨折疑惑のある重ちゃんの友人Bがそんな叫びを上げながら俺に掴みかかってくる。
まぁ、身体を鍛えてもない中柄のチンピラに掴まれたところで、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たる俺がどうにかなる訳もなく……そのままその両腕へと手をかける。
「……お、おい?
まさか?」
そうして両腕……具体的には尺骨の半ば辺りを握られたことでソイツは自分の身に何が起こるかを何となく予期したのだろう。
血が上り真っ赤になっていた顔が真っ青になるその姿は、まるで信号機のようだった。
「だから、言っただろう?
骨折する痛みがどういうことかを教えてやるって」
俺はそう静かに呟くと、ゆっくりと両手に力を込め始める。
「ひっ、離せっ、離せぇえええええっ!
あ、ぐ、ぁぁぁあああぎゃぁああああああああああああああっ!」
最初の方は暴れていたその重ちゃん友人Bではあるが、チンピラ如きが全身の力を振り絞っても俺の握力から逃れることなど出来る筈もない。
罵声が悲鳴に、悲鳴が絶叫に変わるのに五秒ほどもかからなかった。
そして、俺の指の間から血と肉片……握力を込め過ぎた所為で肉が絞られ潰れて皮膚の間からはみ出したモノがあふれ始める。
両腕をプレス機に挟まれたのと同じ激痛を味わった友人Bさんは暴れる体力も叫ぶ体力も失い、ただ痙攣するだけのモノへと化してしまった。
「ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ」
そんな友人二人の末路を見た、肩を骨折した疑惑のある重ちゃんは腰を抜かして首を左右に振って怯えきっている。
「おいおいおい。
重ちゃ~んさん。
そう怯えるなって。
骨が折れる痛みを知っているお前には、俺は何をしやしないさ」
まるで血に飢えた猛獣を前にした女の子のように怯え切った、さっきまでチンピラでしかなかった重ちゃんに向けて、俺は意識して優しげな笑みを向けてやる。
我ながら詐欺師か宗教家か、アイドルか政治家になったような気分になったが、まぁ、嘘くさい笑顔は近代社会なら誰だって身に着けるスキルの一つだろう。
「ほ、ほほほ、本当だろうなっ?」
「……ああ。
本当に肩が骨折しているなら、なぁ?」
地獄の底で蜘蛛の糸を見つけたような、涙と鼻水にまみれて恐怖に顔を歪める重ちゃんの顔に一瞬の喜色が浮かび……そして俺の声で絶望に変わるその瞬間はまさに一見の価値があると言えるだろう。
──ま、骨折が嘘だと分かってたんだけどな。
所詮はチンピラ……感情を隠す術もなければ、自分より強い相手に歯向かおうとする気概もなく、だからこそこうして圧倒的強者である俺の言葉に一喜一憂して、それが妙に楽しくて仕方ない。
雑魚をいじめて喜ぶ趣味はないのだが……まぁ、弱者から金を巻き上げるチンピラ業を営んでいたコイツらにはいい薬だろう。
「や、やめ、やめろぉぉ……」
抜けた腰で必死に逃れようとする重ちゃんに、俺はゆっくりと歩いて近づき、静かにその肩へと手を伸ばす。
「待てっ! 待ってくれっ!
これでっ、これでっ!
これで許してくれぇええええええっ!」
そういって重ちゃんは必死に俺の前に財布を突き出してくる。
何気なくそれを手に取ったところ、中身をちらっと見た感じ諭吉さんが十数枚ほど入っていて、コイツらのチンピラ業はそれなりに儲けているらしい。
──俺は千二百円ちょっとのスタミナ太郎代にも困窮してるってのになぁ?
最近になって食費が増大を続け、もうお小遣いでは全く足りない始末なのだ。
そういう訳で、コレは教育料として頂くことにして……財布は要らないので札を適当に掴むと、何となく悪いことをしているような気がした俺は、慌ててポケットへとねじ込んで隠す。
「へ、へへっ。
これで、俺は、許して、くれる、んだろう?」
俺が金を受け取ったことで許されたと思ったのだろう。
重ちゃんは俺に向けて醜いとしか思えない歪み媚び諂った笑みを浮かべ、そう問いかけてくる。
そんな重ちゃんに向け、俺はもう一度詐欺師のような笑みを浮かべると……
「何を言ってるだ?
これから行うのはただの教育的指導。
そしてコレは教育費ってやつだろう?」
そう告げてやる。
直後の重ちゃんは、もう一度信号機を逆に……蒼褪めた顔から、騙されたと理解したのか恐怖を忘れて激昂して叫び始めた。
「ふざけんなぁあああああああああっ!
てめぇっ、何様のつもりだよ、おいぃひぎぃいいいいいいっ!」
血が上った所為か、唾を吐き散らしながらの重ちゃんのその叫びがあまりにも鬱陶しかったこともあり、俺はその言葉を遮ってその右肩へと少しずつ力を込めてやる。
最初に、骨が折れた。
「みぎゃぁああああああああああああああっ?
肩がっ、肩がっ、肩がぁあああああああああっ!」
次に、折れた骨の破片が皮膚を突き破って跳び出て来た。
「ひぎっ、はがっ、へぎっ。
ひふっひひっへほぉっ……おごっおごっ」
そして、残った骨も砕け、肩がゲル状物質と皮膚の残骸という有様になったところで俺の『教育』は終わり、重ちゃんの肩は自由を取り戻したのだった。
ちなみにその頃になると重ちゃんの悲鳴はもう声にもならず、重ちゃんだったモノはただ痙攣と血のあぶくを噴き出すだけのオブジェと化していた。
……いや、死んではいない。
これでも数多の戦場を歩んだ俺は手加減をしっかりと学んでおり……殺意を持って襲いかかってこないヤツには、こうして『教育的指導』くらいで済ませてやっている。
お互いがお互いを殺そうとする戦場でもないし……大体俺は、無駄な殺生をして喜ぶようなサイコパスじゃない。
こうしてきっちりと最低限の『教育』で済ませてやる常識くらいは持ち合わせているのだ。
「ま、これに懲りたら次からは一般市民を脅すのなんて辞めることだな。
あと……骨が折れるってのはそれくらい痛いんだ。
軽々しく使うなよな?」
砕かれた顎の痛みが未だに治まらないのか悲鳴を上げようとして声が出ず、ただ血反吐をまき散らしてのたうち回っている友人Aと、両腕を砕かれ既に意識もなくなったのか時折思い出したかのように痙攣する友人B……そして、肩が砕かれて原型を留めなくなった所為か、たただ痙攣を繰り返して血の泡を吹いているだけの人形と化した重ちゃんに向けて俺はそう説教してやると……そのままその場を立ち去ることにする。
人気のない路地裏だったお蔭で人目にはつかなかったようだが……目撃者がいてもあまり面白い結果にはならなかっただろうというのは、流石の俺にでも予測は出来る。
──意外に、儲けたな。
そうして路地裏を離れたところで俺はポケットにねじ込んであった、連中から受け取った『教育費』を数え、内心でそう呟く。
やったことと言えば人の骨を折っただけだが……それでも儲けになるものだ。
──ああ。
──アレは、そういう意味なのか。
そして、気付く。
あの重ちゃんとかいうチンピラに絡まれる前に見ていた『ことわざ辞典』のことを。
「骨折り教育、ぼろ儲け……ってところか」
社会のルールを理解出来ない輩に、骨を折るほどにしっかりと教育してやることで、教育者は教育費を儲け……社会の側もルールを理解出来ない輩がしっかりと社会秩序を護るようになって儲ける。
つまりが反社会的分子をぶん殴ってやるような人間は社会に有益だから咎めることもなく、しっかりと厚遇しましょうね、という意味だろう。
「当たり前と言えば当たり前の話、だよな」
そういう意味では、現代日本は明らかに間違えていると思われる。
何しろ、社会ルールを守ろうとしない暴走族が逃げて事故死しただけで、骨を折ってあげた側……警察を批判する声が上がるのだから。
本来ならばあの手の連中は骨が折れるまで……激痛にのたうち回って反省し、二度と社会のルールを破ろうと思わなくなるまで教育してあげる必要があるのだ。
ちょっと間違えて死んでしまった程度など、ちょっとした誤差の範疇に過ぎない。
その労苦を背負っただろう警察官の人たちは、大昔の人たちがことわざに残すくらい大事だというのに……それを人権だの下らない発想で批判するなんて。
「ま、警察が出来ないなら俺がやるしかないって訳か」
またカツアゲをしたり、弱い者いじめをしているようなチンピラを見つけたら、骨が折れるまで徹底的に説教してやって、軽く『教育費』を得ることとしよう。
俺はそう決意を新たにしながら……別のことわざを覚えるべく、またしても固まった血に汚れた『ことわざ辞典』を開くこととしたのだった。
注:「骨折り損の草臥れ儲け」
本来は「苦労するばかりで利益はさっぱり出ることなく、疲れだけが残る」という意味です。
チンピラを殴って金が入るなんて、某車泥棒ゲームで警察に追われているヤツを殴り倒して金が貰えるナイスガイって案件じゃあるまいし、現代社会でやるのはあまりよろしくない行為だと思われます。
一応、刑法36条1項に生命身体財産の危機には相手を害しても問題ないとされていますが……恐らく、過剰防衛になるんじゃないかなぁと。




