「一晩で戻る」と言った許嫁を、三年待ちました。神様に数えられない空の子なので、神域まで迎えに行きます
「一晩で戻る」
三年前の、桜の夜でした。
白い浄衣の暁人さまは、関の前で紐を結び直しながら、見送りの輪から離れて立つわたしへ、顔を向けずにそう言いました。西の山の上には、星が一つ。花びらが、その肩に落ちていました。
谷の奥の桜の林に、関と呼ばれる古い門があります。戸張の家を継ぐ人は、二十三の春の新月の夜にその門をくぐり、神域で一夜を過ごして、神様に名を告げる習いでした。
「夜が明けたら、朝餉を一緒に食おう。……話がある」
「冷めないように、支度しておきます」
わたしが言えたのは、それだけです。暁人さまの背中が、少し下がりました。うなずいたのでしょう。そして一度も振り返らず、関をくぐりました。関守は門で振り返らない習いなのだと、あとで聞きました。
神域の一夜は、人の世の一年にあたります。継ぐ人は一年後の夜明けに出てくる決まりです。けれど、その夜明けに、暁人さまは出てきませんでした。二年後も。
三年経った今も、いちばん強く覚えているのは、あの白い背中です。
その朝、朝餉の膳を据えるのは、千九十五回目でした。
黒漆の小さな膳に、炊きたての飯、わかめの味噌汁、鰺の干物、梅干しを一つ。盆の縁を持って、廊下を座敷へ運びます。三歩目の板が鳴ることも、目を閉じていて分かります。
座敷の主の席には、誰もいません。床の間の脇の姿見には、白い布がかかっています。暁人さまは、鏡を見ない人でした。
膳を置いて、湯気が立つのを少しのあいだ見ています。それから障子を半分だけ開けておきます。湯気が、外へ行けるように。
台所の土間では、お峰が竈の火を見ていました。
「陰膳の湯気はね、離れた人のところまで届くと申しますよ」
三年、毎朝です。信じているかと聞かれたら、困ります。信じる前に、膳を据えないと朝が始まらないのでした。
戸張の家は、谷で神域に迷った人の名を呼んで、連れ戻す家です。呼べば、呼んだ人の時が、そのぶん神域へ流れます。暁人さまのお父上は、四十八で亡くなったとき六十の顔だったと聞きます。暁人さまは、夜中に谷の人が戸を叩くたび、最初の一声が「今行く」でした。
わたしは斎木の家の末の娘です。神契の家に生まれながら、力を授からなかった子で、空の子と呼ばれます。十二のとき、許嫁としてこの家に預けられました。
上がり框に腰かけて、冷や飯と、鍋に残った味噌汁を食べました。二年だけ、朝は暁人さまの隣でした。若様の膳に使用人が並ぶなど前例がないと叔母さまは言いましたが、暁人さまは「同じ膳で食え」と言って、箸を二膳並べさせたのです。あの人が人に逆らうのを見たのは、あのときだけです。
「お嬢さんは、お料理は何でも上手なのに」
お峰が、味噌をとく手を止めずに言いました。
「若様の握り飯だけ、塩が強いんですよ」
「ぼんやりしているのです」
「ぼんやりで、あんなに決まって強くなるものですかね」
わたしは返事をしないで、梅干しの蓋を閉めました。「話がある」と言われたその中身を、三年、考えないことにしています。考え始めると、米が焦げるのです。
縁側に布団を出していると、襖が開いて、叔母の多喜が入ってきました。週に一度、晴れた日に干すのです。亡くなった人の布団を干すようなものだと叔母さまには言われましたが、亡くなってなどいない人の布団は、干さないと湿ります。
黒い紋付の叔母さまの後ろに、暁人さまの従弟の宗一さまと、榊の枝を持った白髪の神主さま。叔母さまは、すっかり冷めた膳に目を留めて、それからわたしを見ました。
「千草さん」
「さん」で呼ばれたのは、初めてでした。それで、分かりました。
「三年、ご苦労でした」
叔母さまの声は、いつもあたたかいのです。あたたかい声のまま、人を片づける人でした。
「今夜が、三度目の関の夜です。夜が明けても暁人が出てこなければ、あの子の名は神様のものになります。名返しの儀のあと、家督は宗一に移ります。谷では三人が、冬から戻りません。呼ぶ者がいないのです。家は、動かねばなりません」
宗一さまが、うつむきました。
「あなたとあの子の婚約は、今朝、解消の届けを持たせた使いを、爵位局へ出しました。あなたは、斎木さまへお返しします。これは、三年分の心づけです」
白い封筒が、畳をすべってきました。
「あなたには何の落ち度もありません。ただ、この家の数に入っていなかっただけのこと。あなたはまだお若い。これ以上、この家の都合で年を重ねさせるのは、気の毒です」
「叔母上」と、宗一さまが小さく言いました。叔母さまは見ませんでした。
「待つことは、ご立派なことではありません。二十二年待たされた者が言うのです。ただの無駄です。お膳は、下げてください。縁起でもない」
わたしは封筒を取りました。指で触れると、紙の薄さしかありません。三年分の朝は、袋に収まる軽さでした。
「ありがとう存じます」
頭を下げて、畳の目を見て、顔を上げました。
「ひとつだけ、お願いがございます。夜が明けるまでは、そのままにさせてください」
叔母さまの目が、わずかに動きました。
「夜が明けるまでなら」
立ち上がるとき、叔母さまの唇が小さく動いて、調べがこぼれました。歌詞のない、短い調べです。この三年、人のいないところで口ずさむのを、何度も聞きました。ご自分では、ご存じないのでしょう。
台所へ戻って、米を研ぎました。三合。夜が明けたあとの、朝餉の米です。水を替えるたびに研ぎ汁は白く濁り、澄んでいきます。三度目には、もう濁りがないのに、水を替えました。それから水を切って、笊に上げました。
お峰が戸を閉めて入ってきました。割烹着の裾を、両手で揉んでいます。
「お嬢さん。ばあやは、二年、嘘をついておりました」
◇
お峰は、土間の隅の腰掛けに、膝を揃えて座りました。立ったままでは、話せないのだそうです。
「亡くなった爺さんは、関の戸を四十年、あけ閉てしておりました。お酒が入ると毎度同じ話をする人で、わたしは聞き流しておりました」
お峰は両手を握りました。
「六十年前、空の子のお嬢さんが、お一人で関に入って、当主さまを連れて出てこられた。そういうお話です。お家は、恥として語らなかったそうです。当主が空の子に迎えに来られたなどとは」
「空の子が」
「空の子は、神様に数えられません。数えられないから、中で時を取られない。入って、出てこられるのだと」
作り話だと思いたかった、とお峰は言いました。それから、思いたかったのです、と言い直しました。
「お嬢さんまで戻られなくなったらと思うと、口が裂けても言えませんでした。……でも、今夜が最後です」
責める気持ちは、不思議と湧きませんでした。割烹着の裾を揉む手が、小さく震えていたからです。
お峰は指を折って、教えてくれました。ひとつ、向こうのものは口にしない。ふたつ、呼ばれても応えない。みっつ、出口まで、前を行く人は振り返らない。前の人が振り返れば、後ろの人は向こうに残る。
「もしも」と、わたしは言いました。自分の声が小さいのが分かりました。「迎えに行って、あの方の『話がある』が、『お返しする』という話だったら」
「それは、聞いてみないと分かりませんよ」
お峰は、困ったように笑いました。
「三年、聞かずにおいでになった話を」
返す言葉がありませんでした。お峰が黙って飯櫃の蓋を取り、わたしは握り飯を三つ握りました。塩の壺に伸ばした指は、一つまみ、多く取ってしまうのです。お峰は、見ないふりをしてくれました。竹の皮に包んで、風呂敷の端を結びました。
日が落ちるころ、わたしは一人で石段をのぼりました。三年前、あの人が一人でのぼった段です。三月の夕方は、まだ息が白くなりました。
桜の林は、満開でした。人の世の桜は、散ります。風もないのに、花びらが一枚ずつほどけるように落ちて、石段に白く積もっていました。
関の前には、提灯が三つ。叔母さまと宗一さま、榊を持った神主さまが、名返しの儀の支度をして待っていました。黒い木の門は閉じていて、空には月がなく、西の山の上に、星が一つだけ出ていました。
叔母さまは、わたしの風呂敷を見て、すぐ分かったようでした。
「千草さん。どこへ」
「関へ」
宗一さまが、一歩出かけて、叔母さまの視線で止まりました。
「あなたは、空の子でしょう」
やわらかい声でした。
「はい」
叔母さまは、しばらく黙っていました。榊の枝が、かさ、と鳴りました。
「二十二年前、あの人も、そう言いました。一晩で戻る、と」
提灯の火が、叔母さまの顔の半分を照らしていました。
「もう一人は、差し出せません」
わたしは、頭を下げました。
「神様は、数えた人しか、連れていけないのだそうです。わたしは、数えていただいたことが、一度もありません」
神主さまの手が、榊の枝を持ったまま、止まりました。叔母さまは、答えませんでした。
そのとき、西の山の星が、ひときわ強く光りました。黒い門が、音もなく内へ開きました。向こうに見えるのは、薄い紫の色。戸口に、紙の提灯を提げた子どもが立っています。七つほどでしょうか。白い着物の裾が、少しも揺れません。
「数えられない方ですね」
子どもは、少しも驚かない声で言いました。
「お通りください。道の灯りは十二。すべて消える前に、お戻りを」
わたしは風呂敷を持ち直して、草履の鼻緒に足を入れ直しました。
「いってきます」
誰にともなく言って、関をくぐりました。振り返りませんでした。見送りの言葉は、ありませんでした。三年前に見た背中と、同じ形で歩きました。
◇
関の内側は、音のない国でした。
自分の足音が、土に吸われて聞こえません。道は踏み固められて白っぽく、十二の灯りが、背の低い杭の上に、点々と先へ並んでいます。空は薄い紫のまま動かず、星が一つだけ、懸かっていました。動かないのです。空気はぬるく、蜂蜜と古い紙の匂いがしました。
花びらが、宙に止まっていました。散りかけて、ひるがえりかけた形のまま、一枚ずつ。手を伸ばして触れると、紙細工のように、そこにありました。人の世の桜は散りますが、ここの桜は散りません。
道のそばの石や縁台に、人が座っています。若い人も年寄りもいて、どの顔も穏やかでした。誰も急いでいません。誰も、大きな声を出しません。湯気のない湯呑みを、両手で包んでいます。
「お腹が空いたでしょう」
縁台の女の人が、湯呑みと白い団子を差し出しました。冷めてもいないようでした。
「朝餉を待っていますので」
女の人は、眠そうに笑って、うなずきました。
「甘いものばかりです」と、提灯の子どもが言いました。「塩は、ここにはありません。汗と涙の味ですから」
灯りが一つ、すっと消えました。十一。
「ここでは、誰も何も求めません。だから皆、休んでいます」
子どもの声は、何を言っても親切に聞こえました。叔母さまの声に、少し似ていました。
「あなたも、お休みになりますか。ここでは、数えられないことは、欠けではありません」
縁台に座っていた人たちが、いっせいに、少しだけ詰めました。わたしの座る場所を、黙って空けたのです。それが、いちばん堪えました。
縁台の端に、腰が下りかけました。誰にも数えられなくていい場所。数えられないことが、欠けではない場所。十二のときから、いちばん聞きたかった言葉が、そこに置いてありました。膝が半分曲がって、止まりました。
「朝餉を待っていますので」
もう一度言いました。誰に言ったのか、自分でも分かりません。
道が曲がる角の石に、男の人が一人、腰かけていました。三十五ほどでしょうか。藍の羽織の胸に、閉じた門と桜の紋。小さく、何かを口ずさんでいます。歌詞のない、短い調べでした。叔母さまの、あの調べです。
その人の口の端が、片方だけ持ち上がるように曲がっていました。宗一さまと、同じ曲がり方でした。宗一さまは、お父上の顔を知りません。生まれる前に、関に入った人です。
「お名前は」
「さあ」
男の人は、人のよさそうな顔で笑いました。
「何といったかな」
「三度の夜明けを越えると、ああなります」と、子どもが言いました。「もう、お出になれません。不幸ではありません」
わたしは何も言えませんでした。ただ、調べを覚えました。
桜は、山のように大きな木でした。三人で抱えても足りない幹に、満開の花。ここへ来るまでに、灯りは四つ消えて、七つになっていました。桜の根元からも、道の灯りは見えます。
根元に、白い浄衣の背中がありました。
また、背中でした。三年、そればかりを思い出していた背中です。傍らに湯呑みが置いてありました。
わたしの足音は、やはり聞こえませんでした。それでも、その人は振り向きました。
笑っているわけではありません。眉の間の線が、ないのです。この人のこんなに緩んだ顔を、わたしは見たことがありませんでした。二年、毎朝、隣に座っていたのに。
「……千草」
呼び捨てにされたのは、三年ぶりでした。
「背が伸びたな」
「暁人さま」
その人は空を見上げて、星を見ました。
「夜は、まだ明けていないだろう。朝餉の支度には、早い」
「三年です」
「一晩だ」
暁人さまは、少し笑いました。
わたしは両手を出しました。あかぎれが指の関節ごとに切れて、爪の脇が茶色く固くなっています。三度の冬の水仕事の手です。
暁人さまは、その手を見ました。長いあいだ見ていました。
「……夢だな。お前の手は、もっと小さかった」
「夢ではありません」
「夢の中の人は、みんなそう言う」
穏やかな声でした。
「毎朝な、飯の匂いがするんだ。夜が明けないのに、味噌汁の匂いだけが来る。いい夢だ」
湯呑みを取って、また置きました。
「夢なら、覚めないでくれ」
◇
夢の人と議論をしても、夢のままでした。
わたしは風呂敷を解きました。竹の皮を開くと、握り飯は三つとも、握ったときの形のままでした。
「召し上がってください。朝餉の代わりに」
「夢の飯か」
暁人さまはおかしそうに言って、一つ取りました。大きな口で、一口。
噛む顎が、止まりました。喉が、一度鳴りました。
「……しょっぱい」
「申し訳ありません。急いでいたもので」
「夢は、こんなにしょっぱくない」
暁人さまは、握り飯をじっと見ました。それから、わたしを見ました。
「お前は、俺の飯のときだけ、塩を間違える。昔から」
前掛けで手を拭きました。拭くものは、もう何もついていないのに。
「塩が強い日は、俺の前で緊張しているんだなと思った。それが、朝の楽しみだった」
知られていたのです。お峰にだけ知られていると思っていたことを。耳たぶまで熱くなりました。
灯りが一つ消えました。六つ。
暁人さまの目の焦点が、わたしの手に合いました。さっきとは違う、ちゃんとした焦点です。眉の間に、見慣れた線が戻りました。
それから握り飯を半分に割って、片方をこちらへ差し出しました。
「お前も食え。朝から何も食べていないだろう」
わたしは受け取って、二人でしょっぱい握り飯を食べました。水がほしい、とは、どちらも言いませんでした。
暁人さまは湯呑みへ手を伸ばしかけて、やめました。指先が、ほんの少し震えていました。
「……三年か」
「はい」
「叔母上は」
「お家は動かねばならない、と」
暁人さまは目を閉じました。長いこと、そうしていました。
「起こさないでほしかった」
竹の皮の端を、折っては、伸ばしました。三年のあいだに、いろいろな言葉を想像しました。この言葉は、そのどれにも入っていません。
けれど、この人の言うとおりなのかもしれない、とも思いました。ここは、あの人が三年ぶりに肩の荷を下ろせた場所なのかもしれません。起こしたのは、わたしの勝手です。起こすのが親切だとは、わたしには言い切れませんでした。
「ひどい人」
声が、笑ってしまいました。自分でも思いがけないほど、普通の声でした。
「……すまない」
「疲れたのですね」
暁人さまは、しばらく黙って、それから、顎を引きました。
「戸を叩く音が、夜も昼も止まなかった。呼ぶたびに、親父の顔に近づく。鏡は見ない。見れば、そこに親父がいる」
低い、短い声でした。灯りが一つ消えて、五つになりました。
「夜明けに、関の前まで行ったんだ。一度。戸を叩く音が聞こえた気がして、一息、立ち止まった。それで、夜が明けた」
一息だったのです。三年が、一息でした。
「お布団は、干してあります」と、わたしは言いました。「三年、毎週、天気のいい日に。叔母さまは、亡くなった人の布団を干すようなものと仰いましたが」
暁人さまが、声を出して笑いました。この人が声を出して笑うのを、わたしは、はじめて聞きました。
「布団か」
「布団です」
「毎朝の匂いは、お前の味噌汁だった」
笑いのあとの息のまま、暁人さまは言いました。
「冬は具が多くて、夏は茄子だった。夢にしては、季節が正確だと思っていた」
「陰膳の湯気は、離れた人のところまで届くのだそうです」
お峰の言葉を、そのまま言いました。信じているかと聞かれたら、困りますけれど。
「星は、朝を一つ残らず数えています」
少し離れて立っていた子どもが、静かに言いました。
袋に収まる軽さだと思った朝が、ここへ、届いていたのです。
「お前に、三年を負わせた」
暁人さまは、膝の上の手を見ていました。
「……俺に、朝餉を食う資格があるか」
「資格など、いりません」
灯りが、また消えました。四つ。もう、あまり時間がありません。
「わたしは三年、一度も、あなたに何も求めませんでした」
前掛けを握っていました。
「今日、初めて口にします。夜が明けたら、朝餉を、一緒に。それだけです」
「それだけ、か」
「それだけです」
口にしたとたん、指先が冷たくなりました。
「……『話がある』とは、お返しするという話でしたか」
暁人さまが、わたしを見ました。
「朝餉の席で言う。そう決めていた」
答えは、聞けませんでした。聞けないまま、決めました。
「来るか来ないかは、あなたが決めてください。わたしは先に行きます。三つの禁がありますから、振り返りません」
「……呼んで、待つ。引かない」
暁人さまが、つぶやきました。
「親父が、俺に教えた」
「存じません。引っ張ると、こちらが疲れますので」
残りの握り飯二つを、暁人さまの膝に置きました。
「冷めないうちに」
「……冷めないうちに、か」
わたしは草履の鼻緒を締め直して立ち上がり、背を向けて歩き出しました。その間に灯りがまた一つ消えて、三つ。
◇
来た道を戻ります。
灯りは三つ。道の先で、杭の上の小さな火が一つ、ふっと消えました。残りは、二つ。
後ろの足音は、聞こえません。聞こえないのが、来ていないからなのか、音が吸われているからなのか、わたしには区別がつきませんでした。耳は、ここでは役に立ちません。背中は、背中の分だけしか、ものを知りません。
三つの禁を、頭の中で繰り返しました。口にしない。応えない。振り返らない。
最初の声は、小さな子どもたちでした。
「空の子、空の子」
道の両側の暗がりから、笑い声が混じって聞こえます。
「そっちには、誰もいないよ」
「誰も待ってないよ」
呼ばれ慣れていますから、とわたしは思いました。家で八年、毎日呼ばれて、返事をしない稽古をしてきたのです。
次の声は、叔母さまでした。
「あなたのせいで、二人とも失うのですよ。戻りなさい」
わたしは足を止めませんでした。叔母さまの残酷さは、いつも丁寧でした。「戻りなさい」とは仰いません。「お戻りになってはいかがです」と仰る人です。
三つ目の声は、右手の暗がりから来ました。
「こっちだ。道が違う。こっちを向け」
暁人さまの声でした。声だけなら、そっくりでした。
わたしは歩き続けました。あの人は、わたしに「こっちを向け」とは言いません。前を行く人が振り返れば、後ろの人が残ることを、誰よりよく知っている人です。三年前も、振り返らずに入っていった人です。
背後から、やわらかい声がしました。
「暁人。暁人。もう少し休んでいきなさい」
呼ばれているのは、あの人です。呼ばれているなら、そこにいるのかもしれません。でも、声は、ここでいちばん当てにならないものでした。嘘は大きく、本当のことは小さい。
灯りが一つ消えて、残りは一つになりました。
背中に感じていた気配が、ふっと薄れました。止まったのか、遠ざかったのか、分かりません。静かでした。静かすぎて、自分の心臓の音ばかりが、耳の中にありました。
首の後ろが熱くなりました。振り返れば、見えるのです。いるか、いないか。それだけのことが、見えるのです。足の指に力を入れて、草履の鼻緒をつかみました。
もし、いなかったら。わたしは朝餉を二人分、食べるのです。三年と同じように。それでも、歩きました。
わたしは話し始めました。
「梅干しを漬けるとき、お峰が塩を間違えました。若様の握り飯みたいに、しょっぱく漬かりました」
声は、吸われていきます。
「叔母さまが、蔵の鍵をなくして、一日探しました。帯の間にありました」
届いているのか、分かりません。
「宗一さまは、当主に向かないそうです。お茶を点てるのは、お上手です」
それでも、話しました。
「冬は、井戸の水がぬるく感じます。外が寒すぎて、水のほうが温かいのです。毎朝、二つの椀を並べました。冷めたほうは、お峰と半分ずつ食べました。着物の丈を、二度、直しました。あなたが覚えている丈では、もうありません」
確かめられないなら、せめて、届くものを置いていこうと思ったのです。道の端に、一つずつ。
関が、遠くに白く見えてきました。空気が冷たくなりました。朝の前の、あの冷えです。
最後の灯りが、揺れていました。
耳のすぐ後ろで、小さな声がしました。遠くへは届かない声が、そこでは届きました。
「千草。ここにいる」
名前でした。声たちは、わたしを「空の子」と呼ぶだけで、名前は、一度も呼びませんでした。数えた名しか呼べない国の中で、その声は、わたしの名前を呼びました。
返事をしてはいけないのでした。うれしくても、返事をしてはいけない。そうでなくても、返事のしかたを、わたしはまだ知りませんでした。
足も、止めませんでした。
敷居をまたぎました。
最後の灯りが、消えました。
吸われていた音が、一度に戻ってきました。鳥の声。風。遠い川の音。自分の草履が石を踏む音。東の空には、星が一つ、薄く残っています。昨日の夕方に見たのと、同じ星のような気がしました。そして背中の向こうで、いっせいに何かの落ちる音が、雨のように降りました。
「……朝だ」
すぐ後ろで、声がしました。
わたしは、そこではじめて、振り返りました。
陽の中に、暁人さまが立っていました。肩にも髪にも、花びらをのせて。朝の光が、その顔にまともに当たっています。目を細めて、まぶしそうに、三年ぶりの空を見上げていました。背後で、黒い門が、音を立てて閉まりました。
「おかえりなさいませ」
声が、少し震えました。
「朝餉に、間に合いました」
関の前で、神主さまの口上が、途中で止まっていました。「その名を、神に返し」と言いかけた口のまま、榊の枝が手から落ちました。宗一さまは膝から崩れるように座り込んで、「よかった」と、泣き笑いの声で言いました。叔母さまは、立ったまま、動きませんでした。
「ただいま戻りました、叔母上」
暁人さまが頭を下げました。
わたしは袖から、白い封筒を出しました。
「お返しいたします。三年分には、足りませんでしたので」
叔母さまの手が、封筒を受け取って、そのまま止まりました。
わたしは、石の上のあの人の調べを、小さく口ずさみました。一度聞いただけの調べです。音が少し外れました。
叔母さまの唇が、動きかけて、止まりました。
「石に腰かけて、歌っておいででした。宗一さまと、よく似た口の曲がり方で。お名前は、お忘れでした。けれど、穏やかなお顔でした」
叔母さまは、石段の上に、膝から力が抜けるように座りました。声は出ず、口の端だけが、宗一さまと同じ形に曲がっていました。その肩を、宗一さまが抱いています。
神主さまが、まじまじとわたしを見て、言いました。
「空の子は、関の鍵であったか。ならば、これからの代替わりには――」
「千草は、関の鍵ではありません」
暁人さまの声は、低く、はっきりしていました。
「選ばれる側ではありません。選ぶ側です」
朝餉は、座敷ではなく、台所で食べると、暁人さまは言いました。神主さまが「前例が」と言いかけると、「今日から、朝餉を食うまで務めはしない。谷の三人は、朝餉のあとで呼ぶ」と言いました。
「前例は、今日からでございます」と、わたしは言いました。
お峰が、夜のうちに米を炊いておいてくれたのでした。竈の前に立って、割烹着の袖で顔を拭いては、笑っていました。
板の間に、椀が二つ。湯気が立っていました。暁人さまが、わたしの隣に座りました。
「いただきます」
三年ぶりの声でした。
「握り飯は、二つとも食った」
暁人さまは、味噌汁を一口飲んで、言いました。
「食ったら、立てた」
しょっぱかったでしょう、と言いかけて、やめました。
「後ろで、花が一度に散ったんだ。お前は見なかったが。見せたかった」
「来年の春に、見ます」
わたしは言いました。
「人の世の桜は、散りますから」
暁人さまは、少し間を置いて、箸を置きました。
「三年前に言うはずだった話をする」
わたしの箸が、止まりました。
「許嫁は、家が決めたものだ。俺は、あれを解くつもりでいた。お前が、自分で選べるように」
台所は、静かでした。
「叔母上が、先に解いてくださった。解けたままでいい。そのうえで、頼みがある」
暁人さまは、わたしを見ました。
「毎朝、朝餉を、一緒に食ってくれ」
返事のしかたは、もう、知っていました。
「……お塩は、控えめにします」
「いや。そのままがいい」
そのとき、台所の入口に、叔母さまが立っているのに気づきました。宗一さまに支えられて、黒い紋付の裾を握って、どうしていいか分からない顔で。
わたしは三つ目の椀に、味噌汁をよそいました。
二人の向かいの板の間に、置きました。叔母さまは、長いこと動きませんでした。それから、膝をついて、板の間に上がり、箸を取りました。
千九十五の朝を、わたしは数えました。これから先の朝は、数えきれないでしょう。それでいいのです。
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