養生一日目 1
瞼越しに感じるぼんやりとした白光にうっすらと目を開ける。
薄目を凝らすと、僅かなカーテンの隙間から入ってきた朝日が私の顔を直撃していて、妙な爽快感と不快感が混同して私の頭を乱す。光はうつくしい、だがまだ眠いのに眩しいから少し苛つく。
光から逃れてくるりと身体を反転させると、額にごつりと何かが当たった。
眠くてまだしっかりと開けられない瞼を無理にこじ開けて見やれば、それは立派な人間の鎖骨だった。
思わずぎょっとして、跳ね起きた。
――ように思えたが、私の体は逞しい腕によって簡単に捕らえられていて、結局は身動ぎするだけに留まった。
一気に覚醒した脳髄の内で、昨夜までの出来事を振り返る。
突然の義兄の死、
突然の異世界への誘拐、
突然の致命傷、
突然の投獄、
突然の飢餓地獄、
突然の延命キス。
突発的事故が多すぎる気がしないでもないが。
「あ――……」
情けないと思いつつ間延びした声を上げるしかない。
延命処置――以降「あれ」のことはそう呼ぶとしよう――の後の記憶がないということは、そのまま私は眠ってしまったのだろうか。まだ日も落ちていない時間帯だったはずだが、ユルヤナもその時に一緒に眠っていたようだ。仰々しい紅いローブこそ着てはいないが、上着が一緒だ。
しっかり抱き込まれているため、身体は捻ったり方向転換は出来るものの、ユルヤナの腕から逃れることはできなかった。本当に見た目通り、頑健な身体だ。ぺたぺたと目の前の胸を触ると、しっかり筋肉の気配がある。
ぶ厚そうな胸板は、もういない義兄とほんの少し似ていた。
「よっ、……っ」
どう足掻いても身体に回るユルヤナの腕は解けなくて、数分の格闘の後、諦めた。
体格的に無理がある。腕だけなのにこんなに重たいって一体どんな筋肉のつき方をしているんだ。人種的なものか、はたまた訓練の賜物か。余剰分の生命力を私に軽々と明け渡す位なのだから、何ともはや恐ろしい男だ。少しぐらいは分けて欲しい気もする。
「……起きたか」
低く擦れた、妙に色気のある声が頭上から響く。
少し緩んだ腕の中で見上げれば、今まで眠っていたはずのユルヤナが、口元を僅かに歪めて私を見ていた。
南の海の色をした瞳は優しげに細められていて、いつもはその相貌を隠している黒に近い灰の髪はその役目を果たしていない。見れば見るほど、がたいが良すぎるのを除けば、映画俳優のように見えて何だか居た堪れない。
この様子では、少し前から起きて様子を見ていたに違いない。
「……起きたならそう言ってよ」
「お前が面白くて」
面白がるのは構わないが、その微妙な無表情は何とかならないものなのだろうか。
何となくニュアンスや感情は透けるものの、それならいっそ馬鹿笑いでもしてくれればいいものを。
「はあ……おはよう」
「おはよう」
まだ微かに笑っているユルヤナを置いて、もぞもぞとベッドから這い出す。
昨日の夕方にはあれだけミルク粥で膨れていた腹は、もうぺったりと凹んでいた。腹の音が鳴らないように祈りつつ、クリーム色の少しぼけたカーテンを開ける。と、少しぎょっとした。
窓の外には、あまりに遠大な街の景色が広がっていた。と言ってもビルなどは勿論存在せず、煉瓦や石造りらしい家々や塔がずっと遠くまで並んでいる。前に写真集で見たイタリアの町並みのようだ。
もう一つの驚きは、その高さ。私達がいる階は一体地上何階になるのか、想像もつかない。できれば目線はずらしたくない位には。
「……ここ、どこ?」
様々な意味を混めた質問だったが、ユルヤナには分かっただろうか。
「ここは王城の一角、魔導庁の十五階で、魔導庁副太司の部屋だ」
「はあ」
「太司の部屋はまだ上にある」
「……その、魔導庁とか、副太司とか太司って何」
「魔導庁はアプスブルグ帝国の魔導師、魔女を束ね、監督し、その中でも優秀な者は構成員として取立て、国の政に役立てる機関だ。魔導師を要請する学院もその管轄下に入る――太司というのはその魔導庁の長で、そのすぐ下の役職を副太司という」
「じゃあ、ユルヤナが副太司ってこと?」
「そういうことになる」
随分他人事な物言いだ。しかし、あれだけ大掛かりな――数百年に一度行われるような――召喚をこなす男が副太司というのも不思議な話である。あの行為自体に力は使わないのか、それともユルヤナが力を抑えているのか、はたまた出世に関心の無い面倒臭がりなのか。私としては彼の怠惰な面を推すが。
「…腹は減ったか」
ユルヤナの問いに頷く。と、彼は隣の部屋のソファーにかけてあったあの真紅のローブを目深に被ると、音も無く部屋を出て行った。
牢獄でもここでも、ユルヤナが出ていく時は言葉が無い。その代わりに彼のボディーランゲージとも言えるのが、ローブのフードを被るか被らないか、という動作だった。
基本的に、彼は私と向かい合って話す際はフードを下ろしてきちんと顔を晒す。が、出ていく時はフードを被って表情を全く見えなくしてしまう。これは推測だが、彼はどうも他者と距離を置くというか、他人と交わることを酷く苦手としているようなのだった。恥ずかしがったり、他人が恐ろしい、という接触に恐怖を感じている類ではなさそうだが、どこか距離がある。どうでもよさそう、という訳でもない。直接やり取りを見たわけではないが言葉や動作の端々からそれが伺えた。
なのに、私には構い倒す。もの静かだが、それでも私は何かと気を使われ、構われている。
「……変な男」
呟いた言葉は、誰も居ない朝の部屋に消えた。
待っているだけでもつまらないので、部屋を観察することにした。
私達が寝ていた寝室には、キングサイズのベッドが中央に一つ。ベッドヘッドがついた壁には少し埃のついた金の額縁が吊ってあり、真っ青な海が描かれた絵が収められている。暗い洞窟から覗いたような構図で、どこか寒々しい、見ただけで冷たい北の海と分かるような絵だった。
漆喰で白く塗られた壁は、窓側を机に、反対側の壁と入り口のすぐ傍までを本棚で覆い尽くされている。中にはぎゅうぎゅうに本が詰められているが、所々空いた段もあり、ガラスでできた円柱状の標本箱などが無造作に押し込められてもいた。
床には散らばった紙が絨毯代わりになっていて、足の踏み場が少ない。さっきカーテンを開ける時も、避けて歩くのに一苦労だった。
執務室らしき隣の部屋へ移動する。
どこかの図書室のような雰囲気は昨日と変わらず、しかし朝日のおかげで昨日とは違う爽やかさも含んでいた。
壁を埋める本棚には、寝室と同じように雑然と本や書類、標本類が押し込められていて、やはり博物館の雰囲気を拭えない。博物館と云っても流行らない、人の滅多に来ない部類の方だが。
壁には扉のあるもの以外、天辺がアーチ上になった西洋風の窓が三つずついており、それらも少し曇っていて汚い。どうやらあまり掃除をしていないらしい。
机の上の書類はいくらか減ったようだったが、それでもまだ大量にまとまった書類が乗っている。やはり国家機関のナンバー2ともなれば、そういった仕事も多いのだろうか。どうも向いているようには思えないのだが。
部屋の中にぼんやり差し込む光に照らされた埃を見ていると、昨日とはまた違う鍋を持ったユルヤナが戻ってきた。
冷めてしまってはなんなので、と会話は中断して席に着いた。研究や実験を行うらしい古びた木の机から羊皮紙の巻物や実験器具を固めて脇にやり、鍋を置く。今回は野菜と鶏肉の入った雑炊のようなものだった。
「…何をしていた?」
「観察」
「部屋の?」
「見慣れないものが沢山あるから」
頷くと、ユルヤナは少し嬉しそうに空気を和らげた。
「面白いものがあるだろう」
「うん。石や蟲の標本とか、本とか。好きなの?」
「……だから俺はここにいる。牙無き者の知識は、俺にとっては全てが興味深いから」
「牙無き者?」
「俺の部族の言葉で、ゲルニア人種や東峰人種のことを指す言葉だ。ゲルニア人は…そうだな、この国の人間のような人種のことだ。東大陸の東夏帝国や星洲の大部分が、東峰人種。千隼や神子たちは、東峰人種似だ。濃い色の髪や瞳は、東峰人種特有だから」
「へえ……ユルヤナは、自分達のことをなんて言うの」
どうやら尋ねられるとは思っていなかったらしく、ユルヤナは少しきょとんとした顔をした。
この男はいちいち動作が幼いのだが、別の意味で心配である。筋骨隆々の男が可愛らしく見えてくるのは末期だ。
「私は、日本という国の生まれだ。じゃあ、ユルヤナは?」
「俺は……この大陸の、ずっと北の生まれだ。スオニア、という。帝国民は、俺たちのことを海の民と呼ぶ。だが本当は、俺たちは海の友と言うんだ」
どれもこれも全く聞き覚えの無い言葉なのに、何故か聞き取ることができるし意味も分かる。
不思議といえば不思議だが、世界と世界の壁を越えたのだ、この程度は不思議でもなんでもないのかもしれない。便利でもあるし、悩むだけ無駄だ。
「ふうん。……綺麗な言葉だ」
「…そんなことを言ったのはお前が初めてだ」
「綺麗だと思ったから」
ユルヤナが微かに笑った。
ほんの少し口角が上がるだけのそれは、ひとの好意を促すのには十分で、私もどこか温かな気持ちになる。もっと表情を出せば、きっと――あの、瞳の寂しげな色も褪せて果てるに違いがないのに。
雑炊に口をつける。
じんわりと広がる優しい味は、朝の空腹をしっかりと慰めてくれた。
登場人物が全然出てこんのですよ…
多分次は出てくると思います。ええ、多分…