まもるべきこども 2
気が緩んだのか、ぐうと腹が鳴る。
ここ数日、ろくに食べていないツケだろう。自覚して急にぎゅうぎゅうと胃を捻りはじめた空腹感に、さて夕飯は何を作ろうか、と思案する。
確かベーコンがまだ残っていたし、卵ももう消費期限はぎりぎりだろう。それはスクランブルエッグにして。そういえば袋の焼きそばも残っていた。キャベツを炒めて、キャベツ焼きそば。あとは適当に、野菜室に残ってるもので野菜のスープを。肉が少し足りない気もするが、久しぶりなまともな食事で肉肉しいものは重たいだろうから、それでいいか。
首とお腹に抱きついている瑠璃と由鷹をぶら下げたまま、立ち上がる。
義兄ほどではないが、私も同年代の女性にしたら力がある方だろう。米?40キログラム持って来い。
今日のメニューを告げると、ふたりのお腹も可愛らしく鳴った。
待ってなさい、今かあさんがおいしいもん作っちゃるから。
スーツを傍らのソファに無造作に置いて、滅多に着ないシャツの袖を捲り上げる。
実はスーツはあまり好きではない。ただでさえ乏しい女性らしい脂肪が隠されて、性別不肖になってしまうからだ。一緒の短大に入学し式を共にした友人には、年齢査証して入学した男子中学生に見えた、と言われた。勿論即刻ドロップキックを食らわせたが。
包丁を握りながら、冷蔵庫を開ける。
冷たい空気が気持いい。
「あたしも手伝うよ、」
そう言ってセーラー服の袖を捲くる瑠璃に頷こうとして――息を呑んだ。
瑠璃の顔のすぐ横から、赤い手が出ていた。
気付いていないらしい瑠璃は無邪気な、少し儚さのある笑みを浮かべている。
由鷹は私の尋常ではない顔と視線で気が付いたのか、彼もまた驚愕に目を見開いている。
「……瑠璃!!」
私が叫ぶと、赤い手は私を嘲笑うように瑠璃の右腕を引っつかんだ。
「え、」
まだ何も分かっていない瑠璃が、自分の腕を見た。そして血の様に真っ赤な腕を視界に入れると、呆然として目を見開いた。
それを合図に、手が出てきていた根元の空間が、ぴしぴしと亀裂が入り、硝子のように割れた。
中は、手と同じように赤く、光っている。毒のような光と、嵐の如く吹き込んでくる灼熱の風に顔を顰める。風が強くなるほどに赤い腕の力は増して、みしみしと軋む瑠璃の骨の音が聞こえてくるようだった。
「ちはや、ねえちゃんっ…!!」
瑠璃が叫ぶ。
今まで半ば呆けていた意識が突然弾けて、私は瑠璃に向かって走り寄った。
反対側の瑠璃の腕を取り、瑠璃の身体を肩の上と腰に手を回して抱きしめる。瑠璃も空いた方の手を私の背中に回して、ぎゅっとシャツを握り締めた。
「痛っ…!!」
瑠璃が痛苦に喘いでも、私は瑠璃の身体を離さない。駆け寄ってきた由鷹も私の服を掴んで、しがみ付いていた。
大岡越前の故事など知ったことか、これは私の家族だ。
わたしの姪と甥で、わたしの妹と弟で、わたしの娘で息子なのだ。
――このこたちは、わたしの宝だ。
「――離せ!!」
左手に逆手に握っていた包丁を、そのままかの腕に振り下ろす。ざくり、と刺さった嫌な感触に背筋が粟立つ。
硬い骨が無い。しなやかな筋肉がない。ただ刺さったという事実だけが脳に伝わった。戸惑わず、何回も振り下ろし、刺し貫く。貫いた後からは毒々しい黒い液体を夥しく垂れ流し、足元に池を作る。裸足に伝わる生温かい液体が、ただただ気持ちが悪かった。
「離せ、離せ、ちくしょう、離せ!!」
私の刺殺行為にも構わず空間の中に向けて引っ張る手は、獲物を変えたのか、今度は数本の別の腕を空間から生やし、傍らの由鷹の手首を掴んで、思い切り引っ張った。
「姉貴っ!!」
「由鷹!?」
思わず瑠璃を支える片方の手を離し、空間に飲み込まれようとする由鷹へ手を伸ばす。
しかし、指先の感触だけを残して、由鷹は泥沼に沈むように赤い亀裂の空間へ飲み込まれていった。
「由鷹、由鷹、返事しろ、由鷹!!」
半ば半狂乱になって叫ぶ私を、赤い闇は嘲笑するように耳障りな風の音を立てた。
吹きつける風は、ほとんど嵐だ。前を睨みつけることもできない。なのに周囲の家具はうんともすんとも言わないまま、ただ静かにその佇まいを崩していなかった。こんなにも凶悪で、強烈な風が吹いているというのに。
由鷹を引きずり込んだ腕が戻ってきて、今度は瑠璃を引っつかんだ。
「やだ…やだやだ、やだ!たすけ、たすけて、姉ちゃん!!」
「るり、手を、瑠璃っ!!」
今度は簡単に、奪い去られる。
腕の中から離れた体温の主に、必死になって追いすがる。今にも引きずり込まれそうな瑠璃の腕を強引に取って、自分の首に回してやる。ぎゅうとしがみ付かれて、少しほっとする。油断は出来ない、したくもない。
瑠璃に絡みつく腕たちに舌打ちする。掌の中で包丁を回転させ、先程よりもっと強く、今度は断ち切るように切りつけた。彼女に首に絡みつく腕を両断すると、力を失ってぼたりと堕ちた腕が黒い血だまりに溶けて消えた。
ずるり、と亀裂から這い出してきたひときわ大きい赤い手が、瑠璃の頭を掴んだ。
「あ、」
息を呑む声が耳元で聞こえる。
そのまま瑠璃は、抗うことさえ許されずに赤い闇の中に沈んだ。
「るり、」
風が止む。
私だけが、そこに立ち尽くしていた。
まるで最初から、私だけが一人芝居をしていたように。
――なんだ、これは。
何も分からない。
あの手は何だ。
あの亀裂は何だ。
何故、由鷹を。
何故、瑠璃を。
何故、私は。
何故、
何故、
なぜ、
あの赤い、
――何も、分からなくていい。
ただ、取り返さなければならないと思う。
赤い亀裂はもうどこにも見当たらなかった。
ただ名残である、黒いねばついた水溜りが足元を汚している。ぶよぶよと少しうねるような動きをしているのは、気のせいではないだろう。私は無意識に、水溜りの中で足を進めた。
ごぽり、と気泡の浮かぶような音を残して、体が膝まで沈む。
――クルノカ。
どこからか声が聞こえる。
くぐもった醜い声だ。いや、明瞭であればもしかすると低く、美しい声であるのかもしれなかった。
――クルノカ。
また声だ。
私は、いくのだ。どこに、なんて愚問。あのこたちのもとへ、私はいかなければならない。
他でもない、私のために。
取り残されて、ひとりで立って。私はそんなことは望んじゃいないのだ。
――オマエはフコウにナルカモシレヌ。
不幸がなんだ。
あの子たちがいないほうがよっぽどの不幸だ。
――オマエはカナシムかもシレヌ。
今更だ。
――オマエは、
五月蝿い。五月蝿い。黙れ。
――ナラバ、コイ。
また、歩を進める。
今度は腰まで。
――いかなければ。
今度は身体を動かしてもいないのに肩まで闇に沈んだ。
あのこたちがいないと、わたしは。
――わたしは。
目の前まで粘つく闇に沈んで、私は目を閉じた。
盲目にも程がある。