鍋と共に
序章 十一月の白菜
白菜の断面が、白くて清潔だった。
切りたての匂いがした。水気を含んだ、少し甘い匂い。今日は鍋にしよう、と思った——いや、思ったのかどうかもよくわからない。気がついたらカゴに入っていた。大きい方の、四分の一カットを。一人暮らしには多すぎることはわかっていた。それでも大きい方を選んでしまうのは、なぜか。自分でもよくわからないまま、私は青果コーナーを離れた。
大根も買った。皮が白くてつるんとした、ずっしり重いやつ。手のひらにくるんと馴染む感触があって、なんとなく気に入った。冷凍ケースに立ち寄り、つみれのパックを手に取る。魚のすり身に生姜が練り込まれていて、袋を透かして見ると丸っこい形が並んでいた。忘れた、とは思っていなかった。でも買わなければ、という気持ちが先に来ていた。
豆腐を二丁。えのきを一袋。ネギを一本。
カゴが重くなった。レジに並ぶ。前の客が値引き品のシールを丁寧に確認していて、少し待った。待ちながら私は、特に何も考えていなかった。頭の中はからっぽに近かった。
「ポイントカードはお持ちですか」
若い女性店員が言った。声がきれいだった。
「あ、はい」
財布から出す。ピッ、という音がした。レジ袋を自分で開きながら、二千円ちょっとの買い物を袋に詰める。白菜が一番かさばった。袋の口がうまく閉まらなかったが、気にしないことにした。
外に出ると、日が落ちかけていた。十一月の夕暮れは、思いのほか早い。マンションまで歩いて七分。重い袋を両手にぶら下げて、私は帰った。
◇
汁海異聞 一「世界の始まり」
まず、虚無があった。
黒い底の平野。何もなく、冷たく、ただ広いだけの場所だった。
天上から光が降り注いだとき、大地が震えた。炎淵の最初の鼓動だった。深い場所から何かが押し上げてくる、規則正しいあの鼓動。次いで、天の割れ目から黄金の海が降り注いだ。熱く、透明で、かすかに磯の香りがした。それが汁海の誕生だった。
最初に落ちてきたのはハクだった。
白銀の葉を幾重にも重ねた老翁は、黄金の海にゆっくりと沈みながら、静かに言った。
「また始まった」
次いで、ダイが落ちた。白い円柱の巨人が海底にどっしりと立ち、動じない顔で周囲を見渡した。それからマルが転がり落ちてきた。球形の若者は着水と同時に「うわあ!」と声をあげ、汁海の中をぐるぐると転がった。ホソたちが群れをなして降ってきた。シロが音もなく着水して、白い体を浮かべた。ミドリが斜めに落ちてきて、きりりとした顔で立ち上がった。
しばらく、誰も喋らなかった。
炎淵の鼓動が、ゆっくりと、規則正しく続いている。世界が少しずつ熱を帯びていく。
「ここは、どこですか」とマルが聞いた。
「汁海だよ」とハクは言った。「わしらが生きる場所だ」
「ここで何をするんですか」
「煮える」
マルは黙った。ハクは穏やかに笑った。白銀の葉がゆらゆらと揺れた。
「怖くはない。煮えることは、たどり着くことだ」
汁海が満ちていく。温かくなっていく。炎淵の鼓動は止まらない。
◇
第一章 火を入れる
玄関の鍵を開けると、部屋の中が暗かった。
当たり前だ、誰もいないのだから。電気をつけながら台所へ向かう。エプロンを腰に巻いて、袋の中身をシンクに並べていく。大根、白菜、えのき、豆腐、つみれ、ネギ。素直に並んでいる。食材というのは、文句を言わない。
鍋を出す。土鍋ではなくて、ステンレスの両手鍋。輝と一緒に買ったものだ、とふと思った。思っただけで、すぐに手が動いた。
まず出汁を取る。鍋に水を張り、乾燥わかめをひとつまみ入れる。鰹節は不織布のパックに入っているやつを使う。沸騰直前で火を弱めて、三分ほど待つ。台所が少しずつ、魚と海藻の匂いで満ちてくる。いい匂いだと思う。毎回そう思う。
大根を剥く。皮は厚めに。そうしないと煮たときに角が欠けやすい。二センチ弱の輪切りにして、面取りをする。この面取りという作業が、私はわりと好きだ。包丁の角をくるりと使って、大根の角を丸くしていく。地味な作業だけれど、丁寧にやると煮崩れない。丁寧にやると報われることが、料理にはある。
出汁の鍋に大根を入れる。冷たいままの大根が、沸いていない出汁の中に沈む。「水から煮る」というやり方を、輝に教わった。違う、輝が教えてくれたのではなくて、輝が「大根が好きだ」と言ったから、私が調べてそうするようになったのだ。どちらでも同じかもしれないし、全然違うかもしれない。とにかく大根は冷たいところから火にかけると、中まで均一に柔らかくなる。
白菜を切る。芯の部分はそぎ切りにして、葉の部分はざく切りにする。芯は火が通りにくいから先に入れる。葉は後で。この順番を守るだけで、白菜は鍋の中でちょうどよく仕上がる。
豆腐は水切りせずにそのまま、適当な大きさに手でちぎる。ちぎった方が切り口がでこぼこしていて、出汁が染み込みやすい気がする。気がするだけかもしれないけれど、そうしている。
えのきは石づきを落として、ほぐす。ネギは斜め切り。つみれは袋から出して、小皿に移しておく。後で箸で形を整えながら鍋に落とすのが好きだ。丸っこいかたまりを鍋の中に沈めていくのが、なんとなく好きだ。
大根が煮えてきた。箸でそっと刺してみると、するりと通った。
ここで白菜の芯を入れる。ネギも。えのきも。しばらくして、葉の部分を入れる。最後に豆腐。つみれは鍋のふちからそっと滑らせて、ひとつずつ落としていく。
炊飯器のランプが「保温」に切り替わった。小さな音がした。
その音を合図にするように、私はカセットコンロをテーブルへ運んだ。
引っ越しのときに処分しようかと思ったカセットコンロを、結局そのまま持ってきた。特に理由はなかった。ただ、捨てるのが面倒だったのかもしれない。今となっては、よかったと思う。
ご飯を茶碗によそう。少し多めに。食べきれなくてもかまわない。茶碗の重さを手に感じながら、テーブルへ持っていく。おたまとお椀を出す。ポン酢を冷蔵庫から出して、テーブルの端に置く。輝が使っていたポン酢立てが、まだ冷蔵庫のドアポケットにある。重宝している。
向かい側には誰もいない椅子がある。
見ないようにして、私は座った。
「いただきます」
声に出して言った。誰に向けているのか、自分でもわからない。仏壇もなければ写真も飾っていない。ただ習慣として、言葉が出てくる。言わないと食べ始められない気がして。
おたまで白菜をお椀に取った。大根もひとつ。つみれを二個。出汁をたっぷり注いで、ポン酢を少し垂らす。
ひと口、すすった。
大根に出汁が染みていた。じんわり、喉の奥まで温かくなった。白菜はとろりとして、噛む前から溶けていく感じがした。つみれは生姜が利いていて、口の中でほろほろと崩れた。
窓の外は暗い。マンションの向こうに街の灯りが見えた。箸を持つ手だけが、温かかった。
幸せだ、と思った。
もうこれだけでいい、とも思った。
それが悲しいことなのかどうか、よくわからないまま、私はポン酢をもう少し足した。
◇
汁海異聞 二「双牙、来たる」
その夜、空が割れた。
湯気天が裂け、巨大な二本の柱が降下してきた。褐色の、節のある、恐ろしいほど速い二本の腕。先端が細く、鋭い。双牙だった。
「来た!」とミドリが叫んだ。「双牙だ!」
ホソたちが波のようにざわめいた。シロは静かに目を閉じた。
双牙はためらわなかった。汁海に降下し、マルの仲間のひとりをつかんだ。球形の体が宙に浮き、壁の果ての向こうへ消えた。消える瞬間、その者は声をあげなかった。ただ、柔らかい目でこちらを見ていた。
「やめろ!」とマルは叫んだが、双牙には届かなかった。
次いで、双牙はハクの葉を何枚かそっと剥いだ。ハクは抵抗しなかった。ただすうっと目を細めて、つぶやいた。
「わしの一部が、先に行った」
「怖くないんですか」とマルは震える声で聞いた。
「怖いとも。でも、これがここの理だ。双牙は選ぶ者ではなく、運ぶ者だ。壁の向こうに何があるか、わしにはわからない。でも——向こうへ行った者が、消えた、とは思えない」
汁海にまた静寂が戻った。炎淵がことことと鳴っている。
「世界は続く」とダイが言った。どっしりとした、重い声だった。「わしらも続く」
マルは何も言えなかった。汁海がゆらゆらと揺れていた。
◇
第二章 鍋は残る
翌朝、鍋はコンロの上にあった。
しまわなかった。昨夜、食べ終わって片付けをするとき、鍋だけそのままにしておいた。特に深く考えたわけではない。ただ、冷蔵庫にしまう気になれなかったのだと思う。蓋をして、コンロの上に置いた。
朝ごはんはトーストとコーヒーにして、鍋には触れなかった。
会社を辞めてから、朝はゆっくり起きる。輝がいたころは七時半には家を出る人だったから、私も七時には起きていた。今は九時近くまで眠っていることが多い。それを責める人は誰もいない。すこし、物足りないような気持ちになることもある。
昼を過ぎたころ、求人サイトを少しだけ眺めた。一般事務、販売スタッフ、介護補助。眺めるだけで、特に応募はしなかった。タブを閉じた。
夕方になって、鍋に火を入れた。
煮詰まって少し濃くなった出汁が、ことこと沸いていく。白菜はふわふわに煮崩れかけていて、もはや白菜の形をほとんど留めていなかった。大根は逆に、じっくり煮えてもまだ形を保っていた。大根は真面目だ、と思った。
余っていた春菊を加えた。冷蔵庫の中で半端になっていた豆腐もひとかけら入れた。春菊はぱっと色よく、しゃきしゃきしていた。昨日の鍋と、今日の鍋は、同じではない。
食べながら、そのことを考えた。
同じ鍋なのに、今日は昨日とは違う。出汁の濃さが違う。白菜のやわらかさが違う。新しく入れた春菊の苦みがある。これは昨日の鍋の「続き」なのか、それとも「別の鍋」なのか。
よくわからないけれど、美味しかった。
翌々日になると、出汁がまた煮詰まってきた。
今度は水を少し足して、えのきと豚バラ薄切りを加えた。豚バラを茹でると白い灰汁が出てきて、すくうのが少し面倒だった。でも灰汁をきれいにすくうと、出汁が澄んでくる。澄んできた出汁の色を見るのが、私は好きだ。
スーパーへ行くとき、鍋のことを考えていた。
あの子は今、コンロの上で冷えているだろうか。帰ったらまず火にかけよう。豚バラで正解だったな。次は鶏もも肉にしてみようか。つみれがそろそろなくなる。今日は追加で買って帰ろう。
横断歩道を渡りながら、ふと気づいた。
私は今、「あの子」と言った。頭の中で、鍋を「あの子」と呼んだ。
少し笑えてきた。笑えたのは久しぶりな気がして、少し驚いた。
◇
汁海異聞 三「新来の民」
二度目の夜明けが来たとき、世界は前日より深くなっていた。
汁海の水位が上がり、色も少し濃くなっていた。ハクはとろりと柔らかくなり、その輪郭が汁に溶け出しているのがわかった。白銀だった葉は、もはや海と見分けがつかないほど薄くなっていた。
「老翁、大丈夫ですか」とマルが聞いた。
「大丈夫とも。わしは溶けながら海になっているんだ。わしの一部はもう、この汁海そのものだよ」
そのとき、天上が割れた。双牙ではなかった。今度は者たちが落ちてきた。
最初に来たのはスイだった。
翠色の葉を幾重にも広げた、少し風変わりな者だった。着水すると、独特の香りが汁海いっぱいに広がった。鋭く、少し苦い。でも不思議と、嫌な香りではなかった。
「なんとも、いい香り……」とシロが、初めて感情らしきものをのぞかせた。
「遅れてごめんなさい」とスイは言った。「私はスイ。前の世界からずっと旅してきました。ここが汁海ですか」
「そうだ」とダイが言った。
「ここでは何をするんですか」
「煮える」とマルが答えた。今度は少しだけ、胸を張って言えた。
同じ頃、ウスたちも降ってきた。薄く、折り重なった者たちで、着水すると白い灰汁が出た。それを汁海が少しずつ吸い込んでいった。
「薄いけど、美味そう」とホソたちがざわめいた。
「失礼な」とウスが言ったが、怒ってはいなかった。
世界は変わる。でも続く。マルはそれを、少しずつわかってきていた。
◇
第三章 誰かのために生きた日々
鍋を食べていると、昔のことをよく思い出す。
考えようとして思い出すのではない。出汁の匂いや、白菜のやわらかさや、湯気の温もりが、記憶の引き出しを勝手に開けていく。
父は食べ物の好き嫌いが多かった。
魚の皮は食べない。セロリは匂いが嫌いだ。かぼちゃは甘すぎる。なすはぬるっとする。母はそれをすべて覚えていて、献立を組んでいた。週に一度くらい、父の帰りが遅い夜にだけ、母は魚の皮ごと煮付けを作った。そういう夜のご飯が、なんだか少し特別な感じがした。
私は好き嫌いがない子だった。
「葵は楽でいい」と母によく言われた。褒め言葉のように聞こえたけれど、今思えば、単に「手間のかからない子」という意味だった。父の苦手なものは出さない。だから私も、父が苦手なものを嫌いだと言う機会がなかった。本当に好き嫌いがなかったのか、それとも好みを持つことを最初から諦めていたのか。大人になってから考えてみたけれど、答えは出なかった。
大学のあいだは、外でよく食べた。友人とファミレスへ行き、居酒屋へ行き、一人のときはコンビニのサンドイッチをかじった。あの四年間は、割と好き勝手食べていた。でも実家に帰ると、毎回なんとなく昔の自分に戻った。父の前では勝手に、おとなしくなった。
輝に出会ったのは、就職してすぐの春だった。
輝は食いしん坊だった。食べることへの欲求が、まっすぐで明快だった。食べたいものがあると、すぐに言った。
「今日の夜、唐揚げ食べたい」
「この前の肉じゃが、もう一回作って」
「冬になったらぜったい鍋ね。うちに来て鍋ね」
輝の食欲は正直で、清潔だった。私はそれを叶えるのが楽しかった。確かに楽しかった。リクエストに応えるたびに、輝は大げさなくらい喜んでくれた。
「葵の作るご飯が一番旨い」
その言葉が嬉しかった。だから私はもっと料理を覚えようとした。輝が好きそうなものを作ろうと思った。輝は牡蠣が嫌いだったから、私は結婚してから牡蠣をほとんど食べなかった。そのことを、不満に思ったことはなかった。少なくとも、意識の上では。
結婚して二年目の十月のことだ。
夕食の準備をしていた。確か、肉じゃがを作っていた。玉ねぎを炒めているところだった。インターホンが鳴った。宅配便かと思いながら出たら、制服を着た男性がふたり立っていた。
警察だった。
鍋の火を消した記憶がある。あのとき、玉ねぎはちゃんと炒めきれていなかった。
その後のことは、断片的にしか覚えていない。病院へ行き、書類にサインをし、連絡をし、式を終えた。自分が何をしているのか、あまりわからなかった。体だけが動いていた。
それからしばらくして、私は台所に立っていた。
なぜだか、それが不思議だった。
悲しみで動けないはずだと思っていた。ご飯を作ろうという気にはなれないだろうと思っていた。でも気づいたら台所にいて、出汁を取っていた。大根を煮ていた。料理をしていた。
誰かのために、ではなかった。自分のために、という実感もなかった。ただ、台所に立つことだけが、自分の体の動かし方としてわかっていた。
悲しまないことが、悲しいような気もした。
でも、食べないと死ぬ。死にたくはなかった。だから食べた。それだけのことかもしれなかった。
◇
汁海異聞 四「なぜわれらは煮えるのか」
炎淵が静かな夜があった。
鼓動が弱まり、汁海も落ち着き、波もなく、民はつかの間の安息を得た。湯気天も薄く、白く、ぼんやりしていた。
マルはハクの隣に浮かんで、ずっと聞いてみたかったことを聞いた。
「ハク老、双牙に連れていかれた者たちは、どこへ行くんでしょう」
「大いなる外へ行く」
「大いなる外とは」
「われらが生まれる前から在る場所だ。壁の向こう。汁海の上。われらが知ることのできない世界。でも確かに在る——気配がするだろう」
マルは黙って、上を見た。蓋天が上がっているとき、微かに何かが見える気がした。巨大な何かの影。温かい何かの視線。
「あれが神ですか」
「神かどうかはわからない。でも、われらはあれのために煮えている」
「強制されているんですか」
「違う」とシロが割り込んだ。静かだが、はっきりとした声だった。「植物が光に向かって伸びるように、われらは煮えることへ向かう本性がある。選べないが、それはわれらの意志がないということではない。煮えることが、われらの在り方なのだ」
ミドリがふんと鼻を鳴らした。
「哲学はいい。俺はただ、美味く煮えてやろうと思ってる。連れていかれるなら、一番いい状態で連れていかれたい」
スイがそっと笑った。その笑いが、苦みの香りとともに汁海に溶けていった。
「こんなにみんなで話せたら、それだけで十分じゃないかな」
しばらく、誰も何も言わなかった。
炎淵の鼓動がまた始まった。世界が少しずつ温まっていく。マルは目を閉じた。温かかった。
◇
第四章 共生という考え方
ある夜、鍋を食べながら、ぼんやりと考えこんだ。
今も誰かの意志に従って生きているのではないか、という既視感があった。
父の意志。母の期待。輝の食欲。
そして今——鍋の意志。
笑える話だ、と思った。鍋に意志があるはずがない。でも、なぜ今日も台所に立ったかと問われれば、「鍋の続きを煮なければならなかったから」としか答えられない。鍋が私を台所に立たせている。鍋が私を買い物へ向かわせている。鍋が私に、明日の食材を考えさせている。
鍋は「食べられたい」という意志を持っているだろうか。
持っていないだろう。当然。鍋は物だ。土と金属と熱と水と、食材が入っているだけの、物だ。でも鍋は、私が火を入れなければ腐る。私が食材を足さなければ尽きる。私があの子をコンロに乗せなければ、あの子はただの冷たい容器になってしまう。
逆もそうだ。
私は鍋がなければ、今日の夕飯を作る理由が見つからなかったかもしれない。鍋が台所にあるから、私は立つ。鍋が続いているから、私は買い物をする。鍋が今夜も煮えているから、私は箸を持つ。
どちらか一方では、存在できない。
それを共生と呼ぶのかもしれない、と思った。
共生——たとえば、植物と光の関係のようなもの。植物は自分が生える場所を選べない。でも根を張り、葉を広げ、与えられた光と水の量に合わせて少しずつ姿を変えていく。鍋も、この台所で、この一人分の食卓で、私に適応してきたのではないか。
一人暮らしの鍋は翌日も続かなければならないから、最初から少し薄めに作る。味が煮詰まりすぎないように、水の量を多めにとっておく。足す食材は、冷蔵庫に残っているものとの相談だ。足し算と引き算を繰り返しながら、鍋は毎日少し変わっていく。私も毎日少し変わっているのだとしたら、それはつまり、私たちはお互いに合わせながら生きているということになる。
私が鍋に合わせているのか、鍋が私に合わせているのか。
おたまでお椀に取りながら、逆転した考えが浮かんだ。
もしかしたら、食べているのは私ではなくて、私が鍋に食べられているのかもしれない。
鍋が私を少しずつ取り込んでいる。私の時間を、私の外出を、私の思考を、鍋が少しずつ吸い上げている。
でも、それでもかまわない、と思った。
食べ、食べられ、明日も生きている。それで十分だ。
お椀の底に出汁が少し残っていた。直接口をつけて、すすった。熱くて、少し塩辛くて、美味しかった。
◇
汁海異聞 五「円鬼、そして新たな始まり」
円鬼が来たのは、その夕暮れのことだった。
天上が大きく開き、双牙とは比べものにならない巨体が降下してきた。黒光りする円形の、巨大な椀。長い柄がついている。滑らかで、冷たく、静かだった。
「逃げろ!」とミドリが叫ぶより早く、円鬼は汁海に突っ込んでいた。
マルは、ダイは、シロは、スイは、ウスは、ホソたちは——汁ごとすくわれ、壁の果てを越えた。
白い陶器の世界だった。
さっきまでの汁海より小さく、丸みがあった。でも同じ温かさがあった。同じ出汁の匂いがした。民たちはそこで顔を見合わせ、なぜか笑った。なぜ笑えたのかはわからなかった。
「また、どこかへ行くんですね」とマルが言った。
「そうだ」とダイが言った。形をまだ保ったまま、どっしりと立っていた。
「怖い?」とスイがマルに聞いた。
「……さっきより、怖くない」とマルは言った。「なんでかはわからないけど」
「それが答えだよ」とハクが言った。もうほとんど形がなくなっていたが、声だけはまだあった。白銀の葉は全部溶けて、いまや汁海の色そのものになっていた。「怖さが薄れたとき、何かになれているんだ」
そうして、彼らは大いなる外へ旅立った。
———
汁海は静かになった。
炎淵の鼓動は穏やかに続いている。底に残滓が漂い、世界はまたゆっくりと冷えていく。
翌朝、天上が割れた。
最初に来たのは、見たことのない者だった。鎧のような灰色の殻。ごつごつとした、黒い輪郭。磯の——海の匂い。汁海とはまた違う、遠い場所の香りがした。
その者は静かに、汁海に沈んだ。
しばらく何も言わなかった。ただ、じっと汁海の温かさを感じているようだった。世界の底へ、ゆっくりと。
やがて、その者は口を開いた。
「カイ、と申します。海の果てから来ました。——ここでは、何をするのですか」
汁海がゆっくりと、そのカイを包んでいった。磯の香りが広がった。異質で、鋭く、でも温かかった。
「煮える」
誰かが答えた。誰が答えたのかはわからなかった。でも声は確かに、汁海から聞こえた。
◇
終章 春になったら
翌朝、ハローワークのウェブサイトを開いた。
ぼんやり眺めていたら、一般事務の求人がいくつか目についた。経験不問、週五日、交通費支給。特に胸は高鳴らなかった。でも嫌な気持ちもしなかった。取り立てて好きでも嫌いでもない仕事を、淡々とこなしている自分の姿が、うっすらと想像できた。それで構わないような気がした。
三社、ブックマークした。
大したことではなかった。でも、それが今日の「自分の意志」だと思った。誰かに言われたわけでも、鍋に促されたわけでもなく、自分の手がマウスを動かした。
冷蔵庫を開けた。白菜の残りが、ラップにくるまれていた。えのきの半端もある。タッパーに入った出汁も残っている。今夜また火を入れよう。
今日の買い物リストを頭の中で組み立てた。豆腐。ネギ。春菊が切れている。つみれも。
それから——少し迷った。
牡蠣を買おう、と思った。
ひとパック。むき身の。牡蠣鍋にしたことが、長いあいだなかった。輝は牡蠣が嫌いだったから。磯の匂いが苦手だと言っていた。だから私は輝と暮らしているあいだ、自分から牡蠣を選ぶことをしなかった。
輝は牡蠣が嫌いだった。でも私は、嫌いではない。
嫌いかどうかさえ、よくわからなくなっていたけれど。
窓の外が明るかった。十一月のどんよりした空とは違う、冬の終わりかけの、少し薄い青だった。
コートを羽織って、エコバッグを持った。玄関の鍵を手に取る。
今夜は牡蠣鍋にする。私が食べたいから。
鍋はきっと受け入れてくれる。鍋は文句を言わない。磯の匂いも、私の我儘も、鍋はただ抱えて、煮てくれる。それが鍋というものだ。いや、それが鍋に私が感じていることだ。
どちらでも同じかもしれないし、全然違うかもしれない。
でも今日は、そんなことはどうでもよかった。
今日は牡蠣を買いに行く。それだけが、今の私のすべてだった。
ドアを開けると、廊下に光が差し込んでいた。
——了




