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ヤンデレ作品集

浮気で「初夜の練習」に励む婚約者を、「傑作だ!」とヤンデレ王子が物理的に処理してくれた。なお空いた席は、彼が埋めるそうです。

作者: 花宵
掲載日:2026/01/18

「愛してるよ、セレナ」


 私の名前を呼びながら、婚約者のマティスは見知らぬ女子生徒と激しく唇を重ねている。

 マティスの首に絡みつく彼女の手は、夕闇の中で不自然なほど白く、まるで吸い付くように縋り付いていた。


 放課後の教室で、私は婚約者の浮気現場を目撃してしまった。


 それだけならまだよかったのだろうか。

 女子生徒の制服は着崩れていて、明らかに事を致そうとしていた所なのは容易に見てとれた。


 よりにもよって、なんでこんな場所で……?


 生徒会長であるレオン殿下に頼まれた、文化祭の準備に関わる山のような仕事。それを片付けた私は、帰るために鞄を取りに教室へ戻ってきた。


 殿下には「少し席を外すけど、僕が戻るまでここを離れないでね」と念を押されたけれど、追加の仕事を増やされたらたまったものじゃない。

 急いで仕事を片付けて、私は生徒会室を脱出した。


 そんな日が沈みかけた夕暮れ時――まさかこんな時間まで、教室に人が居るとは微塵も思わない。

 だから私はいつものように、普通に教室の後扉を開けた。


 その結果が、これだ。

 目の前に飛び込んできたのは、教卓の上で熱を上げる男女の汚らわしい光景で、勿論二人には気付かれた。


「学園規則第五条四項において、学内での不純異性交遊は、禁止されています」


 とても気まずい空気が流れる中――私は風紀委員長として、見過ごせない事実だけを淡々と述べた。


「ち、違うんだ、セレナ! これは……初夜の練習に付き合ってもらってただけで!」


 酷く焦った様子でマティスは弁明してくるけれど、薄ら寒いだけだった。


 昔から優柔不断で、色んな所で詰めが甘いのだ。

 その尻拭いをしてあげるのはいつも私の役目で、気が付けばしっかり者のレッテルを貼られてしまった。


 おかげで風紀委員長なんて面倒な役職を引き受けることになって、帰りが遅くなったというのに。


「どうぞご勝手に。これから一生、本番を迎える機会は訪れないでしょうが。この件については、しっかりとご報告させていただきますね」


 それだけ告げて、私は背面に設置されたロッカーから鞄を取り出した。

 外に出ようとすると、慌てて制服を正した女子生徒に声をかけられる。


「待ってください! マティス様は貴女のために……それなのに、そんな言い方は酷いです」


 目に涙を浮かべて、見知らぬ女子生徒は訴えかけてくる。

 酷いのはこっちなのかと一瞬錯覚しそうになるも、やはり違うとかぶりを振る。


 マティスとは古い付き合いだ。

 互いの実家は共に伯爵家。親同士の付き合いも長く、私たちの婚約は生まれる前に決められていた。


 そうして家族ぐるみの付き合いがあったからこそ、彼がヘタレで情けない所がある人だってのは、私がよく知っている。

 別にそこを責めているわけじゃない。


 剣術も乗馬も勉強も、マティスは人より劣っていたけれど、それを克服しようと努力する誠実さがあった。

 不器用でも懸命なその姿を支えたいと、私も精一杯努力してきたつもりだ。


 ――だというのに、その努力の矛先が、なぜ『夜の練習』に向くのか。


 下手くそでもいい。不器用でもいい。

 私はただ、見栄のために安易な浮気に走ったその精神性が、心底信じられなかった。


 そんな練習をする暇があるなら、嫡男として剣を振れ。馬に乗れ。本を読め。

 私のためにと言うのなら、なぜ一番の魅力だった誠実さをドブに捨てたのか。


 胸を巡るのは、怒りよりも深い、冷ややかな失望だけだった。

 たとえ百歩譲って練習だったとしても、私の尊厳を踏みにじった彼を、もう視界にすら入れたくない。


「マティス。これは私の尊厳を、泥靴で踏みにじる行為です。両家が交わした婚約誓約書の違反項目第六項にあたる不貞行為を、この場で確認しました。よって貴方との婚約は、破棄させていただきます」

「ま、待ってくれセレナ! 君はまだ経験がないから分からないんだ! 愛する人にリードされる喜びを知れば、きっと君だって必死に練習に励んだ俺を見直してくれるはず……!」


 何を言っているの?

 見直す?

 こんな場所で、他の女性と浮気したことを?

 必死に練習に励んだって、これで何回目よ……汚らわしい!


 詰め寄ってくるマティスの体から、女子生徒の甘ったるい香水の匂いが漂ってくる。

 ねっとりと肺の奥まで侵食してくるような、どろりと重い芳香――そこには微かに防虫剤のような薬品臭が混じってる気がした。

 それを吸い込んだ瞬間、視界が急速に色を失い、強烈な目眩が私を襲った。


 思考が白く濁り、意識の端がどこか得体の知れない深淵へと引き摺り込まれそうになった、その時――。


「傑作だ! くくくっ、あーっはっはっは!!」


 鼓膜を震わせるほど鮮烈な、場違いな爆笑。

 その突き抜けるような明るい響きが、私にまとわりついていた不快な匂いと目眩を一気に吹き飛ばした。


「殿下……?」


 いつの間にか戻っていた色彩の中に、レオン殿下が腹を抱えて立っていた。

 額にうっすらと汗を浮かべ、殿下は肩で息をしている……どれだけ爆笑してるんですかと、喉元まで出かかった言葉を、私は呑み込んだ。


「失礼、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……あまりにも傑作すぎて、耐えられなかった」


 殿下は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、未だに事態が飲み込めず呆然としているマティスと女子生徒を見下ろした。


「『初夜の練習』だって? こんな場所で?」


 殿下は鼻で笑い、隠そうともしない侮蔑を込めて失笑した。


「いやぁ、すごいな。古今東西、浮気の言い訳は数あれど、そこまで独創的で頭の悪い迷言は初めて聞いたよ。今年の学園流行語大賞は間違いなく君だ、おめでとう!」


 パチパチパチ、と。

 静まり返った教室に、殿下の送る乾いた拍手だけが響き渡った。


「なっ……⁉」


 殿下の容赦ない称賛(?)に、マティスの顔が一瞬で真っ赤に染まる。


 殿下は愉快そうに口角を上げたまま、ゴミを見るような冷徹な眼差しを女子生徒に向けた。


「で、君は『練習台』扱いされて悔しくないの? 安い女だね」

「…………っ!」


 王族から投げ掛けられた皮肉に、女子生徒の顔から血の気が失せる。

 わなわなと唇を震わせ、悔しさと恥ずかしさに涙を溢れさせるその姿は、あまりにも惨めに見えた。

 けれど女子生徒は、その爪が食い込むほどマティスの腕を強く抱きしめると、何かにすがるように小さく呟いた。


「……れ、練習でも……いま、マティス様が選んでいるのは私ですもの……」


 その歪んだ執着心に、私は背筋がゾクリとするのを感じた。


「…………うわぁ」


 殿下からも、先程までの楽しげな雰囲気は消え失せていた。

 目の前の理解不能な二人を見て、汚いものに触れ底冷えするような視線を向けている。


「面白い道化かと思えば……どうやら、笑えないタイプの怪異だったようだね」


 殿下のその容赦ない拒絶を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。


 この異様な空気に飲まれて気分が悪くなりかけていたけれど、殿下のあまりに真っ当な反応のおかげで、私は正気に引き戻された。


「殿下、彼らはこれでも、()()なのですよ」

「真剣……そうか、真剣なバカか」


 殿下は吐き捨てるようにそう呟くと、鋭い眼光をマティスに向けた。


「自分の欲望を『相手のため』なんて、善意にすり替えるな。それは優しさじゃない、ただの卑怯者の自己満足だ。冷静に考えると、聞いてるこっちがぞっとして、鳥肌が立ったじゃないか」


 マティスがパクパクと口を開閉させるが、言葉は出てこない。

 私の言いたかったことを、殿下が全て言語化して切り捨ててくれた。そのおかげで、胸の奥につかえていた黒いモヤが、一気に晴れていくのを感じる。


「さて、セレナ。こんな希少種(バカ)の相手はもう十分だろう? 外も暗いし、送るよ」

「わざわざ、そのために……?」

「僕がこき使ったせいで、変な害虫がついたら寝覚めが悪いからね。……というのは建前で」


 殿下は悪戯っぽく片目を瞑ると、私の目の前に、すっとその手を差し出した。


「本音は、君を送っていく『役得』が欲しかっただけさ。……構わないかな?」

「……今日だけ、ですよ」


 恥ずかしくて、震える手を私はそっと殿下に重ねた。すると殿下はふわりと嬉しそうに微笑んで、私の手を包み込んだ。


「さあ、行こう。君の隣は、今日から僕の指定席だ」

「……指定席、ですか。残念ながら、予約の手続きは承っておりませんが……」

「おや、これは手厳しい。では今、ここで申請しておいても?」

「――では預かっておきます。ですが……審査は厳しいですよ?」

「ははっ、望むところさ」


 呆然と立ち尽くす元婚約者たちを一瞥もしないまま、私は殿下にエスコートされて歩き出す。


「ま、待ってくれセレナ! 君がいなくなったら、俺はどうすれば……!」


 背後からマティスの情けない悲鳴が聞こえた。


 ――ところであんな女子生徒、この学園に居たかしら?


 ふと、そんな疑問が脳裏をよぎる。頭の中に叩き込んである生徒名簿を手繰っても、彼女に該当する顔が出てこない。


 私が足を止めそうになったその時、背後から、ゾッとするほど甘ったるい声が響いた。


「いいじゃありませんか、マティス様。やっと邪魔者が消えましたわ」

「え……? ●×△?」

「これでこれからは、誰にも邪魔されずに二人きり。……死ぬまでずっと、『練習』できますね?」


 ミキミキと、人体が悲鳴を上げるような不気味な音が聞こえる。


 しかしそれをかき消すように、繋いでいた手をグイッと引かれ、私は殿下の腕の中に閉じ込められる。


「聞かなくていい」


 殿下は私の頭を抱き寄せて、片耳を胸に押し当て、もう片方の耳を大きな手で優しく塞ぐ。

 聞こえるのは、ドクンドクンという殿下の心音だけ。

 私を守るように回された腕の温かさは、マティスなんかよりもずっと頼もしく感じた。


 そうよね。手放したゴミに、振り返る価値など微塵もない。


 けれどこれは、学園規則第五条四項――不純異性交遊の禁止にあたる。

 先ほど私がマティスへ突きつけたその言葉は、今、明白な規則違反として私自身に跳ね返ってきている。


 でも今だけは、この熱に溺れたいと思った。

 耳元で響く殿下の心音――その力強く優しい響きに包まれた瞬間、張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。


 悔しかった。悲しかった。

 どんなに彼が愚かでも、私は私なりに、この婚約に誠実であろうと努力してきたのだから。


「…………っ」


 繋がれたままの私の指先が、小さく震える。

 熱いものが込み上げ、一筋の涙となって殿下の胸元に吸い込まれていった。


 ドクン、ドクン。


 伝わった涙に動揺したのか、その鼓動はさっきよりも速く、痛いほどに強く鳴り響いていた。

 その騒がしいほどに必死な響きは、浅はかな『練習』など介在する余地もないほどに、傷ついた私の心を癒やす音色に聞こえた。



 その後、マティスとあの女子生徒の姿を見た者は誰もいない。


 不思議なことに、それまで学園で頻発していた『仲睦まじい恋人たちが忽然と消える』という七不思議の噂は、あの日を境にぱったりと止んだ。


 その代わり、夜な夜な教室から『助けてくれ』という男の悲鳴と、何かをゆっくりと咀嚼する音が聞こえる……なんて新しい怪談が生まれたけれど、今の私にはどうでもいいことだ。


 あの騒動から、一ヶ月。

 放課後の生徒会室は、穏やかな夕暮れに包まれていた。


「……ふぅ。これでようやく、完全に『悪い虫』を駆除しきれたよ」


 殿下は手元の書類の末尾にさらりとサインを書き入れると、ペンを置いて、深く椅子の背もたれに体を預けた。


 まるで、一ヶ月にも及ぶ長い長い()に勝利したかのような、深く重い安堵のため息が部屋に落ちる。


 執務机の上に投げ出された殿下の手は、白くなるほど強く握りしめられ、小刻みに震えていた。


「お疲れ様です、殿下。……では、こちらの名簿も処理してしまってよろしいですか?」


 私は殿下がサインした報告書の束を回収し、添付されていた『要注意生徒リスト』に目を落とした。

 そこには数名の名前が並んでいたけれど――ある一名の生徒の名を見て、胸がざわめく。


「殿下、この生徒……誰でしたっけ? 『マティス』だなんて、うちの学園に在籍していましたか?」


 字面は読める。けれど、彼がどんな生徒だったのか――思い出そうとすると、頭の中に白い霧がかかったように認識が滑り落ちていく。


 まるで最初から、そんな人間なんていなかったかのように。


「……あまり学園に来れてなかった生徒だ。覚えてなくても仕方ないよ」


 私の問いかけに、殿下はどこか寂しそうに目を伏せた。


「それに彼は、一ヶ月前に退学した。これは事務の記載ミスだね」

「そうですか。ではこちらで修正しておきますね」


 私はそのマティスという名前に、二重線を引いた。

 黒いインクがその名前を塗りつぶし、書類の上から彼という存在を消し去っていく。


 ――その瞬間だった。


 ヒュウ、と。

 胸の奥にぽっかりと空いた巨大な空洞に、風が吹き抜けた気がした。

 白い霧の向こう側。何か、とても大切なものが、そこにあったような……。


「あ……れ……?」


 気がつけば、インクの乾いていない書類の上に、ポツリと雫が落ちていた。

 悲しくない。寂しくもない。

 なのに、勝手に熱いものが込み上げてきて、ポロポロと頬を伝い落ちて、視界が滲む。


「どうして……私、なんで泣いて……」


 得体の知れない喪失感。

 私が忘れてしまった『何か』は、二度と戻らないのだという、魂の欠落感だけが涙となってあふれ出す。


「泣かないで、セレナ」


 ガタッ、と椅子が鳴る音がした。

 顔を上げようとした瞬間、ふわりと温かな何かに包み込まれていた。


「え……殿、下……?」


 いつの間にか机を回り込んでいた殿下が、泣いている私を椅子ごと抱きしめていたのだ。

 驚いて身じろぎしようとすると、さらに強い力で、後頭部を胸元に押し付けられる。


「後ろなんて見なくていい。君が見るべきなのは、空席になった過去じゃない」


 頭上から降ってくる声は、甘く、けれど痛いほどに切実だった。


 そして、私の耳に直接届いたのは――。


 ドクン、ドクン! と、痛いほどに、激しく鳴り響く心臓の音。

 初めて聞いたはずなのに、なぜか魂が震えるほど懐かしい。


「口では格好つけたけど、本当は怖くて仕方ないんだ。……この心音が、僕の本当の気持ちだ」


 ドクン、ドクン。

 その騒がしい鼓動が、寒くて暗い喪失の穴を、みるみるうちに満たしていく。

 ああ、温かい。この音色だけは嘘をつかないと、私の本能が告げている。


「セレナ、愛している。……その空いた心の穴を、僕に埋めさせてくれないか?」


 殿下の腕が、私の体を逃さないとばかりに強く食い込む。


「君の隣に、堂々といられる権利を……僕に与えてほしい」


 ――ああ。

 

 その言葉を聞いた瞬間、霧が晴れるように、胸の奥が震えた。

 記憶はない。約束した覚えもない。

 けれど、魂が知っている。私はずっと、この言葉を待っていたのだと。


「……ずるいです、殿下」


 私は熱い頬を殿下の胸に押し付け、観念したように小さく呟いた。

 喪失の涙を、こんな熱量で、こんなに確かな愛で上書きされてしまっては――もう、降参するしかなかった。


 私は震える手を伸ばし、今度は私の方から、殿下の背中に腕を回す。

 そして殿下の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、涙声だけれど、はっきりとした声で告げた。


「……覚悟は、できていますか?」

「え?」

「その席、一度座ったら――もう一生、逃がしてあげませんから」


 私の言葉に、殿下は一瞬きょとんとして――次の瞬間、顔をくしゃりと歪めて、泣き出しそうなほど嬉しそうに笑った。


「……ああ。望むところだ」


 言葉が終わるよりも早く、殿下の顔が近づいてくる。

 重なる唇が、永遠の契約を結ぶように、深く、甘く、私を溶かしていった。





 焦燥で、心臓が破裂しそうだった。

 教師に頼まれた急用を終えて生徒会室に戻ると、そこは空っぽだった。


「嘘だろう、セレナ……あの量の書類を、もう終わらせたの⁉」


 君を怖がらせたくなくて、わざと無理難題を押し付けて、安全なこの部屋に縛り付けておいたというのに。

 彼女の優秀さは愛しているが、今だけは恨めしい。

 ……いや、彼女を甘く見ていた僕の失態か。


 静まり返った校舎には、『彩りの花嫁ペインテッド・ブライド』の怪異が徘徊している。


 あれは、愛に飢えている。満たされるために、愛される女を喰らい、その立場に『成り代わって愛を得る』化け物だ。

 マティスの重たい愛を得ようとする怪異にとって、正規の婚約者であるセレナは格好の餌食なのだ。


 僕は全速力で駆けた。廊下の向こう、三年の教室から、どろりとした瘴気が溢れ出しているのが見える。


 間に合わないか――そう絶望した瞬間、教室から情けない男の叫び声が聞こえた。


「ち、違うんだ、セレナ! これは……初夜の練習に付き合ってもらってただけで!」


 ……は?

 初夜の、練習?


 あまりの情けない言葉に、僕の思考は一瞬停止した。


 見れば、教室の中では陰の気を放つドロドロとした怪異が、セレナがあの男に愛想を尽かさないよう、必死に説得してるじゃないか。


 ――まずい、このままではセレナが呑み込まれてしまう!


 僕がすべきことは、一つ。

 たとえ何を犠牲にしても、セレナを守ることだ。


 そう覚悟を決めて、僕は笑った。

 腹を抱えて、涙が出るほど、大袈裟に。

 裂けんばかりの爆笑を叩きつけた。


「傑作だ! くくくっ、あーっはっはっは!!」


 腹の底から絞り出した『陽』の声が、僕にしか見えない眩い波動となって、教室に澱んでいたどろりとした瘴気を一気に霧散させていく。


 しかしそれでも怪異は、マティスの腕にべっとりとしがみついていた。

 マティスの愛は、怪異にとってよほど極上の味なのだろう。


 生徒会長の立場としては、出来ることなら彼も救いたかった。しかし今は、セレナを危険から遠ざけるのが何よりも優先だ。

 そのためなら、たとえ愚かな男を生け贄にしてでも、僕はセレナを守る。


 ……いや、訂正しよう。

 これは苦渋の決断なんて、立派なものじゃない。


 そもそも、この男のせいで怪異はここ一ヶ月、ずっとセレナと成り代わろうと、彼女を危険にさらしてきたのだ。

 それを陰で祓い、守り続けてきたこれまでの僕の苦労を思えば――むしろ喜んで引き渡せるというもの。


「で、君は『練習台』扱いされて悔しくないの? 安い女だね」


 気づけ、怪異。

 その男は、練習台として君自身を見てることを。


 誰にも相手にされない、報われない人生を送ってきた『彩りの花嫁ペインテッド・ブライド』にとって、たとえ練習台でも君自身を見てくれる男は貴重だろう?


 僕の言葉に、怪異は気づいた。

 おかげで怪異は、完全に目的を変更したらしい。


「……れ、練習でも……いま、マティス様が選んでいるのは私ですもの……」


 セレナに成り代わる必要性が無くなった今、フリー物件となった目の前の『男』は自分の物だと。


「………………うわぁ」


 薄ら寒さに思わず震える。


「面白い道化かと思えば……どうやら、笑えないタイプの怪異だったようだね」


 この異常事態をセレナに決して悟られないように、僕はあえて二人を悪者にする。


「殿下、彼らはこれでも、()()なのですよ」

「真剣……そうか、真剣なバカか」


 マティスがどこまでも真剣に馬鹿げたことをしてくれたおかげで、僕は一生手に入れることができないと思っていた宝物(セレナ)を手にすることができる。


「自分の欲望を『相手のため』なんて、善意にすり替えるな。それは優しさじゃない、ただの卑怯者の自己満足だ」


 ……よくもまあ、これほど白々しい台詞が吐けたものだ。

 マティスへの言葉は、そのまま鋭利な刃となって僕自身に突き刺さる。


 ああ、そうだ。僕もまた、セレナを救うという大義名分の裏で、どろりとした独占欲を煮詰めている卑怯者だよ。


 でもマティス、君との決定的な違いは、セレナを決して悲しませないということさ。セレナには綺麗なものだけを見せて、僕は墓場まで自分の罪を持っていく。


「冷静に考えると、聞いてるこっちがぞっとして、鳥肌が立ったじゃないか」


 努力の方向性を間違ってくれて、ありがとう。そんな皮肉を込めて、最後にマティスを諭すと、彼はようやく自分の愚かさに気づいたようだった。


 長かった。これでようやく、セレナを狙う悪い虫を駆除できた。


 そう、これでいい。

 悪い虫(怪異)には、お気に入りのマティスを与えておけばいいのだから。


 あとはここから一秒でも早く、立ち去ること。マティスと怪異、二人だけの世界を作ってあげれば、もうセレナに危害が及ぶことはないだろう。


 僕はセレナをエスコートして、教室の外へと連れ出す。


「これでこれからは、誰にも邪魔されずに二人きり。……死ぬまでずっと、『練習』できますね?」


 風に乗って、背後から微かに咀嚼音が聞こえた気がした。


 ――哀れな男だ。彼は今、身を持って知っただろう。歪な愛情を注がれた唯一の男として、捕食される現実を。


 残酷な結末を、醜いものを、セレナに見せるわけには行かない。

 僕は反射的に、繋いでいた彼女の手をグイッと強く引いた。

 勢いのまま彼女の華奢な体を、僕の胸の中に閉じ込める。


「聞かなくていい」


 動揺させないよう、努めて低い声で囁き、僕は彼女の頭を抱き寄せた。

 片耳を僕の服に押し付け、もう片方の耳を手のひらで覆い隠す。


「ひっ……⁉」


 『彩りの花嫁ペインテッド・ブライド』が男を甘やかすのは、伴侶に成り代わって愛を得る価値がある間だけ。

 だが婚約破棄によって『愛を向ける先(伴侶の座)』自体が消滅した今、もはや手の込んだ演技など必要ない。


 普通なら、そうだろう。でも彼は違う。

 残酷なことに、彼は怪異に()()()気に入られてしまった。

 その結果、もう怪異は猫をかぶる必要なんて無い。それどころか、大胆に素の自分をそのままさらけ出せるのだ。


「練習台でもいいから、()()()()()()()()()()()……」


 おぞましい声が聞こえた直後、背後から響いた『ベチャリ』という重い音の振動。おそらくマティスだったモノが、床に崩れ落ちた音だ。


 ジュルリ、ジュルジュルと、何か液体を執拗に啜り上げるような音が、不快に響く。


 あんな醜い音、セレナの綺麗な耳に入れたくない。


 恐怖と緊張が入り交じり、ドクン、ドクンと、僕の心臓が早鐘を打っているのがわかる。

 腕の中にいるセレナは、これを恋のときめきと思ってくれているだろうか。


 ――すまない、セレナ。


 この激しい鼓動は、君への愛ゆえのものであると同時に、君を無事に守り切れたという、極限の緊張から解き放たれた安堵の震えなんだ。


 この温もりを、他の誰にも、()()()譲るつもりはない。


 ――感謝するよ、マティス。


 君が救いようのない馬鹿でいてくれたおかげで、ようやく僕は、セレナの隣という指定席を合法的に奪い取る権利を得たのだから。


 君は本番を迎えることなく、いつまでも終わることのない、練習に励んでてくれ。




ご覧いただき、ありがとうございました。


「マティスの迷言に笑った」

「ラストのホラー展開にゾクッとした!」

「殿下のヤンデレ・腹黒っぷりが良かった!」


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