Ⅳ
「あれ? 雪、でしょうか?」
——不意に。
ルチが空を仰ぐ。何の前触れもなく降り注いだ白に手を掲げた。それは羽根。鳥のものとはまた違う、真白で大きな羽根。それを見た瞬間に、ジリ、と視界にノイズが走ったような気がした。
ピリピリと脳を刺すような痛みに不快感を覚えながら、空を見上げる。
確実に、何かが落ちてきていた。それも凄いスピードで。落ちてきている物の正体を探ろうと目を凝らしてみた。
人、のように見えた。真っ白な何かを背負った人。アレだとちょうど俺らのすぐ側に落ちてきそう。……幻覚だ幻覚。こんな街中でスカイダイビングする馬鹿でもいなければ生身の人間なんて落ちてくるわけがない。
驚いたように固まるルチの頭を撫でまわして、歩き始める。早くこの場から離れよう。じゃないとろくでもないことに巻き込まれる気がする。……見てみぬフリ上等。
不意に後ろから形容しがたい音が聞こえてきた。……幻聴だ幻聴。間違えても振り返るなよ。自分に言い聞かせるようにして歩みを進めようとした。
「て、天使っ!?」
ルチが声を上げる。悲鳴にも近い声だったが、惨劇でも目撃してしまったのだろうか? 確実にトラウマ物だろうに……そう考えていたらルチがいっそう強く俺の服を引っ張った。なんか震えているような気がする。仕方なく振り返ってみればルチが一点を指差して震えていた。
その指先を視線で辿った先、そこには金の糸が広がっている。
でも目を刺すような色彩は無く、小さな少女が地面に転がっているのが見て取れる。パッと見る限りは五体満足、外傷もないように見えた。そして、何よりも目を引かれるのは、その背の一対の翼。
真白なそれは如何にも天使ですと主張するようで、ジリ、と脳が焼けるような不快感が滲んだ。
……関わるのはよそう。踵を返して歩き始めようとする。
「おいおいおーい!! このきゅーとな天使ちゃんを無視とはいい度胸なの!!」
後ろから凄い勢いで襟首をつかまれた。やめろ、首が絞まる、死ぬ、死ぬって。手に持っていた鞄を放り投げて、俺の襟首をつかむ相手に抵抗するので精一杯。ルチが心配げな視線を寄越すが、答える余裕はない。
やっとの思いで引っぺがした相手を放り投げて、肺一杯に空気を吸い込む。
ジトリと視線を向ければ、空のような澄んだ青と目が合う。小学生ぐらいだろうか。小さな体躯に真白な翼。太腿まである金の髪は細かく、日の光を浴びてキラキラと輝いている。頭の上には温かな光の環。なるほどこれが天使かと納得してしまう容貌。
着ているのは短い真っ白なワンピースであった。左の胸元には小さな石の埋め込まれた十字架が輝いている。って、俺は一体何がしたいんだよ。何でこんなに小さい子をまじまじと観察してんだよ!? 明らかに変態だろ。危ない人の仲間入りだろ……。
どうしたものかと、ルチに視線を向ければ、微かに怯えたような仕草の後、警戒するかのように鋭い目つきで少女を睨み付けている。それがあまりにも予想外で、俺は余計にどうしていいかわからなくなる。
ルチのことだから興味津々でやさしく接するだろうと思っていたのだが、どうやらそれは見当違いだったらしい。まぁ背中に翼が生えた怪しい子供ならば仕方がないのだろうか? 俺には良く分からない。
さて、困った。元々小さい子の相手をすることがなかったこともあるが、何よりも相手は翼を生やしたいかにも怪しい子。下手に機嫌を損ねれば、なにやら珍妙な力で殴り殺されそうな気さえしてくる。
白い翼と先ほど言った言葉に反せずに慈悲深いキュートな天使様なら大いに助かるのではあるが。……相手の口調から感じるにそんな希望は通らないような気がした。
「……お前、は?」
俺の問いに、目の前の少女はニコリと笑みを浮かべる。
そして、少女は一呼吸置いて、胸元に手を当ててぺこりと頭を下げた。少しわざとらしいくらいに仰々しい動きだ。
黙ったまま少女を見つめていれば、少女は口を開く。ゆっくりとした調子だが、別に苦になるほどのものではない。……関わらないつもりだったのにどうしてこうなった。
「ボクはステッラ・スペランツァっていうの! 君たちは?」
ゆったりとした口調で告げられたのは少女の名前らしい。にしても言いにくそうな名前だな。早く名乗れよとでも言うような視線を向けられて、俺はため息をついた。まぁ、相手も名乗ったのだから仕方がない。
「……櫻井 葵」
頭を下げる必要はないかと思って、真っ直ぐ相手、ステッラを見つめてやる。しかしそんな熱い視線を無視してステッラはルチのほうに顔を向けて、早く名前を言うようにと笑顔で促している。妙な威圧感を感じた。ゴゴゴゴゴなんて効果音が似合いそうだ。
「……ルチアーノ。ルチアーノ・クローチェ」
ポツリ、酷く素っ気無く呟いた名前。なんかここまでルチのテンションが落ちてるのって珍しい。初対面の俺にだってやたらとハイテンションで話しかけてきたのに。それに、普段のルチは基本的に笑みを浮かべているし、それが嘘だろうと相手に悟らせないようなところがある。しかし今回はそれが感じられなかった。
基本的に他人に気を遣っているルチが本気で不快感を露にしているのである。ルチも人間だ。完璧ではないし、隠し切れないことがあるであろうことも認める。まぁそもそもそんなに付き合いは長くないのだけれど。
ただ、あまりにもいつもと違うルチに驚いたのは事実であった。そんなこと知ってか知らずか、ステッラは満足そうに笑った。それはもう子供のような無邪気な笑みだった。
ステッラは言う。自分は天使で、探し物をするために来たのだと。やって来たと言うよりは落ちた、ように見えたが本人は断固としてやって来たと言うのだからそこに突っ込むのもやめた。なんというか面倒だった。
天使だ、と言われても信用できないことがある。それこそコスプレなんていうようなものみたいに、実際は違うのにそれになりきっている可能性も否定できないの。
確認すれば良いと言うが、さて、どう確認すればいいのだろうか? それが分からずにただただ首をかしげた。この際、翼の付け根を見れば早いのだろうが、なんと言うか気が引ける。……と言うか俺、何でコスプレを例に出したし。
……ああ、いや。でも上空から落ちてきて無傷なのは証拠なのか。
「天使だと言う証拠は? それなりのものがあるんですよね?」
ルチのその問いは、疑っているというよりは何か別の思惑がある様な響きがあった。わかり切った結果の確認作業を見ているような、そんな小さな違和感。語調が普段のルチに比べてやけに強いのも気になった。
俺たちの様子にステッラは笑みを浮かべて、その翼を広げ浮き上がった。大体俺の身長の倍ぐらいの高さで、規則的に翼を動かしてその場に留まっている。
抜け落ちて降り注ぐ羽根はまるで雪のようで、地面に落ちる寸前にふわりと光に溶けて消えていく。念のためにと確認するが、こんな街中で少女を吊り下げるような大仰な仕掛けなんてあるはずもない。
仮にワイヤーアクションヨロシク少女を吊り下げているとすれば、相当揺れて、その場に留まるなんて難しいだろう。風のない室内ならまだしも、ここは街中なのだから。
それに、俺はまずあんな高くまでジャンプできないし、留まることなんてもってのほかだ。他の人間でも身長の倍以上飛んでそのまま空中に留まっているようなやつは見たことがない。こうなると信じるしかないのである。
それにほら、街中スカイダイビングのこともあるし……。
ルチは納得するのを拒むように、難しい顔をしている。
「まだ、足りない?」
ニコッと笑うステッラに、ルチは目つきを鋭くする。それを見れば、ステッラはふわりと手を動かした。現れたのは無数の光。 そして、その光が俺に触れた瞬間、ブワリと体が浮いた。飛ぶというよりは、見えない何かに持ち上げられているような感覚。
ふと横を見れば、ルチも浮んでいた。その目はただただ真っ直ぐとステッラに向けられている。
ふわり、ステッラが手を動かすと、俺たちは静かに地面に下ろされる。ステッラの背中の翼も静かに折りたたまれる。
「信じられない、というよりは信じたくないって感じだね? それとも、都合が悪い? 何を企んでいるの?」
射抜くような視線だった。さっき降ってきたときとはまるで別人のように、静かに地面に立つ。なんだか俺、蚊帳の外。
無言の睨み合い。どうやら俺のことなんて気にも留めていないようだった。ルチをおいてさっさと帰るわけにも行かず、じっとその光景を眺める。
やがて、フッとステッラが笑った。ゆっくりと俺の方を見るその目に心の底を見透かされたような気がして、背中に悪寒が走る。
無意識に逃げ出そうとした足が動かないことに気付いて、そこでやっと理解する。身体の自由が利かない。何とか視線を落として気づく。俺の胸元に突き出された小さな手。淡い光が纏わりつくその手を、俺はただただ見つめている。
……気持ちが悪い。
ぼんやりする頭に漸く言葉が浮かんだころ、漸くその手の光が吸い込まれるかのように消えた。何が起ったのかわからずに固まる俺にステッラが屈託もなく、笑った。
ステッラの視線が俺に向いたことでルチが僅かに表情を緩めるのが見える。それでもいつもと比べると大分警戒の色が見えてしまっているのだけれど。
俺たちの様子なんて意にも介さないように、目の前の天使は話し始める。
この世界……天使達は下界と呼ぶらしいが、ここに来た理由。探し物について話し始めた。探し物は“欠片”と呼ばれているものらしい。
簡潔に言えば、その欠片とやらは天使達の世界のバランスを保つためのものだったり、上位の天使に与えられる力の結晶だったりするらしい。欠片と言われて俺たちがイメージするものとは違うもののようだ。
とにかくその欠片が何らかの異常で下界に散らばってしまっていた、とのことだ。それは人間からすれば膨大な力を秘めているために危険、だとのこと。
「使い方を間違えればどうなるかわからないものもいっぱいあるの。使い方さえ間違えなければ恩恵もあるけど……好ましいことではないの」
「そもそも人間が天使の使うものの正しい使い方を分かるわけが無いと思いますけど」
憂うようなステッラに、ルチは如何にも文句がありますと言いたげな顔をして抗議する。ごもっともだ。説明されたとして、理解できる人間なんて一握りだろう。そんな異能染みたものなんて。
ステッラは人間ならまだいい、と言葉を区切って表情を曇らせた。悪魔なんかに使われたら大変なことになる。その呟きに実感らしきものを持てないまま、俺は話を聞いていた。
なんか大変なんだなぁ、そう思うだけだ。
そこで、射抜くような空色がまた、まっすぐ俺を捉えた。
「で、アオ兄が欠片に選ばれちゃってるんだけど……」
申し訳なさそうな顔をしながら目の前の天使が言う。選ばれた、その言葉の意味を瞬時に理解することができず、首をかしげる。ステッラの説明を聞いてなお、頭に浮かぶのはガラスの破片のようなもので。
俺の混乱を察したように、ステッラはため息を吐いて言葉を吐く。
「選ばれるって言うのはええっと……わかりやすく言えば取り憑かれる、みたいな感じなの」
選ばれた、そう言われればなにやら特別な感じがするというのに、一言、取り憑かれたに変化しただけで随分と印象が悪くなるものだ。言葉って大事だな。




