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焔の記憶

【短篇・外伝】ミンナの香る夜

――南森域・ルメ樹の庵にて

樹上棲家マレラ(吊り橋で繋がった木造の巣状住居)では、その夜、香の煙がゆるやかにのぼっていた。




 深い森に抱かれたこの集落では、夕食時になると、家々の軒先に吊るされた小さな香炉に火が入る。香炉に焚かれるのは、香草“アミナ”と蜜木の樹脂とを合わせたものに、ほんの少しだけ、家ごとに異なる“想い出の香り”。それらが合わさると、やわらかく鼻をくすぐるような煙となって立ちのぼり、集まった人々の心を静かにほどいていく。




 この村では、そうして香を焚くことで、「語り」を始め、夕食にするのが習わしだった。香りと煙は、語られる昔話や思い出の“橋”となり、聴く者の心を遠い記憶へと連れてゆく。話し手にとっても、煙が満ちてはじめて、ようやく語る準備が整うのだった。




 この森域は、帝国の地図では“未開地”と呼ばれ、行政区画の外にある扱いを受けている。だが実際には、村人たちは世代を重ねてここに暮らし続けてきた。森域の民は“焔を宿しやすい血”を持つとされ、帝国の施政官たちは時折「徴集」の名のもとに若者を連れ去ってゆく。連れ去っていくと言えばまだ聞こえが良い。実際には、誘拐し、帝国のために死ぬまで利用され、捨てられる。




 そうして森の奥へ、奥へと隠れ住む者が後を絶たず、このルメ樹の庵もまた、帝国の目から逃れてきた者たちの集まりのひとつだった。




「姉ちゃん、もう火つけていい?」




イトが小さな香炉を抱えて、ラミィの袖を引いた。




「まだよ、ミンナが出来てから」




 ラミィは鍋の縁から顔を上げ、焦げぬようかき混ぜながら微笑んだ。鍋の中では、森の実と蜜をゆっくり煮詰めた“ミンナ”が、とろりと泡を立てていた。 果実の甘みを引き立て、祭りや語りの夜に欠かせない森域の菓子だ。 香ばしく、甘い、そしてどこか切ない匂い。




「語りには、語りに相応しいものが要るの。カリュス爺の昔語りには、ミンナが欠かせないわ。甘いものに目がないから」




「“ほむら”の話かな?この間は“赤い牙”の話だったし、今度は空を飛ぶ焔術士とか…」




「ふふ、それはどうかしらね」




ラミィは鍋から火を下ろし、木の皿にそっとミンナを移す。 その瞬間、戸口の揺れ板がかすかに鳴った。




「──ああ、帰って来た」




木の扉を開けると、杖を突いた老狩人、カリュスが立っていた。




「今宵も、語りの番を預かっておる」




満面の笑みで、かっか、と笑いながら、肩にかけた袋からユーバ(乳酒)の壺を取り出す。




「飲んで、香って、話そう。──語りの煙は、腹に香りが染みたころが相応しい」




大仰に、舞台俳優のようにもったいつけるのが、カリュス爺の癖でもあった。







 ミンナの甘み、サモロ(香焼獣肉)の香ばしさ、そしてユーバのまろやかな香気が、樹上の小さな棲家に満ちていた。




 カリュスは炉の前にどっしりと腰を下ろし、煙の流れを見ながら口を開いた。




「さて、今日は何の話をしようか」




「焔の話!」




イトが食い気味に答える。




「イト、いつもお前のリクエストばかり聞くわけにもいかん。ラミィ、お前はないか」




「私は…特にない。カリュス爺の話なら、なんでも」




「ふむ…そうか、じゃああの話をしよう。わしが、どうしてラミィにミンナをいつも用意してもらうのか。…むかし、お前たちに出会うよりももっと前、旅の『焔持ち』に出会ったことがある。若い女でな、『焔』を見せはせなんだが、手にしていた木剣が、普通の木とは違って、光るように赤かった」




「それって、焔術士ってこと?」




特殊な力、超常的な力に男の子が憧れるのは、いつの時代も変わらない。イトが身を乗り出す。




「いや……実際に『焔』を見たわけではないし、帝国章もなかったから、焔術士かどうか、それは分からん。あえて焔術士の称号を“持たぬように”してたのかもしれん。──だがな、面白いのはそこじゃない。その女が焼いた“蜜煮の焼き餅”の香りが、それはそれは、忘れられん匂いでな」




「焼き餅の話?!」




「そうだ。“蜜煮の焼き餅”の話。そう、帝都から、東にざっと4日間の道のりをな、知り合いの商隊の護衛をすることになってな。その護衛の一人に、その女もいたんじゃ」




「名前は?」




ラミィがミンナを渡しながら聞く。




「あぁありがとう。いつも、ラミィのミンナを食べすぎてしまうな。おかげでもう護衛なんて出来なくなってしもうた。──あぁ名前な、名前は──最後まで聞けなかった。今も分からんままだ。だがな、大切なのは名前が何だったか、ということではない。その証拠に、その時、同じ護衛団にいた男たちとは名前を聞きあった。じゃが、一人の名前も今は思い出せん。だが、女の焼き餅、あれは“魂”に残っておる」




「焼き餅なんて、どうでもいいよぉ」




イトは今日の見込みがすっかり外れて、炉の薪をいじくりはじめた。




「一日目、二日目と順調だったのじゃが、三日目、明日いよいよ到着という夜に、雨から霧に変わってな。視界は狭いし、かといってまとまって野営できるような場所も見つからず…というときにな、盗賊が襲ってきたんじゃ」




「盗賊!!」




イトが顔を上げる。




「わしは狩人じゃし、弓は得意じゃが、接近戦となると短刀くらいしか扱えん。おまけに視界も悪いんじゃ弓は扱いづらい。じゃが、辛うじてわしが弓をつがえ矢を1本放ち、短刀に持ち替えたとき―盗賊はすでに全員倒れておった。何が起きたか分からず、わしはおろおろしてしまって、“いったいなにがあったんだ”って周りに聞いたんじゃ。じゃが誰も分からん。少し風が吹き、霧が晴れて──ただ一人、例の女がな、一人赤く光る木剣を右手に下げて、立っておった。それが“焔”なのか、それとも修行を重ねた剣術なのか、それも分からん。ただ、彼女が盗賊を倒したということだけ、その場の皆が一瞬で理解した」




「すごいすごい!凄腕の女剣術士の話だ!」




イトは火かき棒を炉の中で振り回す。




「イトやめて、火が移る!」




「姉ちゃんも、剣術やりなよ!女剣術士、かっこいいじゃない」




「私は剣なんてやらない。人を傷つけるようなもの、やらない」




「まぁ、まぁ。イト、ラミィの言う通り、火がルメ樹に移ったら、森域にはいられなくなるぞ。──ラミィ、父と母のこともあるが、だからと言って剣そのものは道具。剣術は手段。誰かを守るためにも使うし、獣と戦い畑を守るのにも使う。目的と、手段は別のものだということも、覚えておくとよい。もちろん、無理に使えってことではないぞ」




「…うん」




諭す、優しいカリュス爺の言葉に、ラミィは俯いた。




「──さてさて、語りに戻ろう」




カリュスはミンナを頬張りながら続ける。




「彼女は、盗賊を倒したことを誇るでもなく、“当たりまえ”のように振舞っていてな、どこか神秘的でもあった。とにかく、霧も晴れ、盗賊もおらなくなったことだしと、宿場に着いてから、護衛主が宴会を催してくれることになった。だいぶ飲んで、気が付くと、彼女がいない。おや?と思って、宿場の外に出たら、何とも言えない甘い香りが漂っていてな、ついふらふらと、匂いのする方へ、匂いのする方へ、引き寄せられていったんじゃ」




「まるで犬みたいじゃない」




ふふっとラミィがほほ笑む。




「本当に何とも言えぬ甘い、良い香りなんじゃよ。それで、それこそ犬のようにな、鼻を鳴らしながら、こっちかな、こっちかな、と匂いの元を辿ったら、街の中央の水場にな、彼女がいた。こっちに背を向けておったんじゃ。わしが来たことに気が付くと、はっと振り返り、“なにか用か”と、こう言うんじゃ。“いやなに、甘い良い香りがしてな、ここまで来たんだが…”わしがそういうと、彼女はおもむろに懐から包み紙を出してな、わしに差し出したんじゃよ。“食うか”と一言だけ言ってな。手に取った包み紙はまだほんのり温かくて、紙をひらくと、ふうんと、さっきの甘い香りに包まれてな。酒を飲んでいたせいもあって、まさに夢見心地。生きながらにして、母なるフィレイアに溶けてしまったのかと、そう思ったもんじゃ」




ユーバをなみなみと注ぎ、一気に飲み干してから、カリュスは続けた。




「彼女に“これは何ていう食べ物か”と聞いたんじゃ。“私が作った…このあたりで採れる特別な蜜木があるんだ。それを煮詰めて、バオロの実を挽いた粉に合わせて…な。名前なんてないよ”と言うんだ。あの剣の達人、もしくは焔の使い手が、菓子作りをする。しかも、この世のものとは思えない香りをさせた、素晴らしいものを。一口食べたら、さらに驚きじゃった。ただ甘いだけじゃない。いくらでも食べられる…というものとはまた違う。この一枚、たった一枚で、心から満足できる。懐かしさと新しさ、何かそう感じたよ」




話を聞きながら、ラミィは父と母のことを思い出していた。母は、『焔持ち』だった。あとからカリュスに聞いたことだが、植物の声が聞こえる、そんな『焔』だったそうだ。その力を帝国に狙われ、森域の奥へ逃げる途中、父ともども、帝国兵によって殺された。父は息絶える最後まで力を振り絞り、知古の間柄である“森域の狩人カリュス”に娘と息子を託した。カリュスはこのルメ樹の庵へと二人を連れてきた。そして我が孫のように、慈しみ、育ててくれたのだった。




 そのずっと一緒に暮らしてきたカリュスにも、私が知らない過去がまだまだあったことを聞きながら、カリュスにとって『懐かしいこと』が、自分にとっては『新しいこと』というおかしみを、聞きながら感じていた。




「生涯で、あの一枚を超える菓子に出会ったことはない。いや、ラミィのミンナは、外の世界に出したら、帝都の菓子店よりもうまいと思う。これは本当だ。だが、すまん、噓はダメだと言ってきたからの、嘘はつけぬのでな…あの一枚は、菓子と言っていいかも分からぬものだった」




ユーバの甕をカラにして、カリュスは満足げだった。




「菓子は間違いなくうまかった。その香りを思い出すたびに、わしは“あの女は焔を持ってた”と思うんだ」




「どういうこと?だって、赤く光る木剣を持って、盗賊を倒せるくらいの剣術なら、焔を持ってたんじゃないの?」




ラミィが目を細める。




「カリュス爺が言いたいのは…焔を見ていなくても…その人の本当の焔が剣に関するものだったとしても、その女の人の焔は、“お菓子の焔”だった、そう思うってことじゃないかしら」




 カリュスは頷く。




「焔は、“魂が持つ強き願いが、形になったもの”と言われる。わしは焔を持たん。魂からの強い願いがなかった、ということなのか、形作る才能がなかったのか、それは分からん。だから焔に関して、分かっていることは少ないが──だが、そういう、人の作ったものを口にして、その夜を忘れられなくなる。形作られた菓子に魂が震える──それも“焔”の一つじゃないかと思う」




 イトがミンナを一口かじり、ぽつりと言った。




「姉ちゃんの作る匂いも、たぶん、ぼくが大人になっても忘れない気がする」




ラミィの手が一瞬止まり、笑みが浮かぶ。




「それなら、今日のミンナには焔が灯ってるわね」







 夜が更け、語りが終わっても、香の煙はしばらく宙を漂っていた。




 カリュスは立ち上がり、扉の外で風に当たる。




「誰かの焔は、誰かの記憶に宿る。持たぬ者であっても、誰かを温めることがある。──それが、“焔”ってもんさ」




 ラミィが戸口に並び、静かに言葉を重ねた。




「焔って…ただの火のことじゃないのよね。母さんは、植物の声を聞いてた。そして、それで、森を守ってきたって聞いた」




「そう。だが、森域の民は、これまでも、焔がなくとも、森を守ってきた。そう願い、子々孫々にそう紡ぎ、語ってきたからの」




「焔がなくても、焔になる……か」




 その呟きに、カリュスはただ笑ってうなずいた。







 朝、煙の名残がまだ鼻に残る頃。




 ラミィは朝食の終わりに、蜜壺から一匙だけトフ(剥くと白い果実)に垂らす。




「はい。今朝の“焔”よ」




「姉ちゃんの焔は……甘いな」




 イトが笑ってトフを頬張った。




 風が通る。森の梢に朝日が射し、小さな棲家に光が満ちる。




 焔がなくても、魂に灯るものがある。香りと、記憶と、小さな願い。それがまた誰かの願いを紡ぎ、包むこともあるのだ。




──ミンナの香る夜。それは、焔を持たぬ者たちの、やさしい焔の夜だった。

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