一目惚れしてくれたらしい辺境伯に嫁いで溺愛されていたのだけど、旦那様の元気が無くなっていく。思っていた妻と違ったのかも。
「辺境伯に嫁いでもらおうと思うんだけど、いいかな」
「はい……」
学園を卒業してすぐのこと。
両親が亡くなってから引き取られていた家で、叔父が汗をかきながら言った。
叔父は悪い人じゃない。けれど叔父の奥さんや娘さんにとっては私は邪魔な存在だった。ずいぶんと疎んじられてしまったけれど、板挟みになっていた叔父はずっと困っていた。これでやっと、やっかい払いが出来るのだろう。
「いままでお世話になりました」
身元を引き受けてくれて助かったけれど、三年お世話になったこの王都の屋敷に、私の居場所はなかった。
(辺境伯……)
これはきっと、若い娘にとってはあまり嬉しい婚姻ではないんだろうな。
王都から遠い遠い、北の凍える大地を治める辺境伯からの結婚の打診。
辺境の噂は学園時代に聞いたことがあった。あまりいい噂じゃない。
時折山から魔物が下りて来て村を襲うため屈強な騎士たちが戦っているのだと。生徒たちは、辺境の地を語るとき、いつも現実ではないお伽噺の話をしているようだった。長く戦争もない平和な王都で、魔物も騎士たちの争いもピンと来ないのだろう。
(そんな厳しい土地で……少しでも私にも出来ることがあるかしら)
私にはずっと居場所がない。
両親が亡くなってから、寄る辺なく生きている。
従妹もいる学園で、親しい友人は作れなかった。上手くツテも持てず家を出て暮らせる仕事なども探せなかった。
寂しい、と時々思う。
両親を恋しく思うからなのか、親しい人がいないからなのか、分からない。
(……人の役に立ちたいわ)
もう誰でもいい。誰かに必要だと言われてみたい。そんな風にも思ってしまう。
18年暮らして来たこの王都から、少しの荷物だけで存在を消してしまえるくらい、今の私はちっぽけな存在なのだ。
健康な肉体の、子供を多く産む花嫁を求められているだけなのだとしても。
嫁ぎ先で、少しでも役に立てますように。そう思いながら、私は辺境へ旅立つことになった。
少しでも良い人間関係が築けたらいいのだけど……せめて、辛くあたられた叔父の家より住み心地が良い場所になればいい。
そんなことを悶々と考えながら、数週間の馬車の旅を経てたどり着いた辺境の地で、夫となる人が出迎えてくれた。
「やっとお会い出来た。あなたをずっとお待ちしていました」
アーサー・ホワイトヒルと名乗るその人は、私より三つ年上。
背がとても高く、逞しい体つきをしていた。まさに『屈強な騎士』のイメージ通りの肉体。
だけど、顔立ちがとても整っている。北の地の民特有の白い肌、切れ長の青い瞳、銀色の長い髪を後ろで束ねている。王都の貴公子にだって、これほど美しい人を見たことがない。
思わず、ぽうっと見上げてしまった。
現実感がない。例えて言うならば、物語の中のお姫様の騎士に出逢ったよう。
(こんな素敵な方なのに……噂にも聞いたことがないわ)
彼は優し気に笑うと、恭しく膝を突き、私の手の甲に口づけを落とす。
「デビュタントの夜会でお会いしたときから、あなたに恋い焦がれていました。こうして我妻に迎え入れられるなど夢のようです。生涯をかけてあなたをお守りいたします……ブランカ」
真っすぐに私を見上げる青い瞳に偽りは感じられない。
(……これは一体どういうこと?)
デビュタントの夜会?会ったことはないと思うけれど?
頭の中はハテナでいっぱい。
けれど彼の手は温かくて、外気は涼しくて。ここは、遠い北の地で。……私は彼の妻になる。
少しの現実感もないままに、想像とはまるで違う辺境での生活が始まった。
到着した日は晩餐後すぐ就寝。
結婚式は三日後。それまでに体調を整えておくように、とのことだった。
翌朝はメイドたちが丁寧に敬意を持って身支度を整えてくれた。
「素敵な奥様を迎え入れられて皆とても喜んでおります」
「ええ本当に。どんなことでも申し付けてくださいね」
「こんなお綺麗な方を見たことがありません」
北の色素の薄い民と違い、黒髪黒目、くっきりとした目鼻立ちをしている私はここでは少し目立つようだ。けれどそれにしても、王都では埋もれるような容姿、そこまで言われるほどじゃない。
「あ、ありがとう……」
お世辞なのかしら?気を遣っているのかしら?優しい気遣いなのだとしても、ただただ恐縮してしまう。
朝食の席で伴侶となる人に聞いた。
「あの……私たちお会いしたことがあるんですよね」
「ああ、でもきっと君は覚えていないよ。廊下で少しぶつかってしまってね。その時、君が優しい言葉をかけてくれた。それが忘れられなかったんだ」
廊下でぶつかる?
考えてみたけれど、記憶には何も残っていない。この人のご尊顔を見ていたなら忘れることもないはずだ。本当に一瞬の出来事だったのかもしれない。
「ごめんなさい。覚えていなくて」
「いいんだよ」
ぶつかったときに言うことなんて、謝罪の言葉くらいだろうに。
そんな社交辞令の言葉のようなものが、旦那様の心に残っていたのかしら。
思っていたよりもずっと、運命的な出会いなどからは程遠いようだ。
「旦那様、私に出来ることはありますか?」
「大丈夫だよ。まずはゆっくり休んで。きっと疲れているはずだよ。少しずつここの暮らしに慣れてから……そのあとはそうだね、みんなで冬ごもりの準備をしよう。吹雪の酷い時期は外に出られなくなるんだ。僕は毎日君と居られるようになるから、今から待ち遠しいのだけどね」
満面の笑みでそんなことを言われてしまうと、疑いようのない純粋な好意を向けられているような、そんな錯覚をしてしまう。出逢ったばかりでそんなことはありえないのに。
「でも……何もすることもないですし」
「気負わなくていいんだよ。君が来てくれただけで、皆喜んでいるんだ」
困ってしまった私を見つめていた旦那様は、思いついたように言った。
「これから訓練なんだ。元気そうだったら、良かったら、おいで。ブランカをみんなに紹介しよう」
「はい」
屋敷裏の訓練場に集まるホワイトヒルの騎士たちは、都会では見たことがないような鍛えられた体をしていた。
「団長奥方様ですか!」
「おめでとうございます団長!」
「お綺麗な方ですね。素晴らしい方ですね!!」
騎士たちにも歓迎され、また私は少し困ってしまう。どうしてここの人たちは何も出来ないよそ者の嫁を受け入れてくれるのだろうか。
肌寒いため、日の当たる場所に椅子を置いてもらい、そこで見学をした。
彼らの真剣な眼差しを見ていると本格的な戦闘訓練に思えた。争いに慣れているのだろうか。
「退屈ではないですか?」
「え……いいえ」
訓練を見学していると、副団長であるリチャードさんが話しかけてくれた。茶色の短髪に、精悍な顔立ちの若者だ。にこにこと友好的な笑顔を向けてくれる。
「これは魔物討伐を想定した訓練です」
「魔物……」
「北の山に生息しているのです。けれど心配しないでください。団長……アーサー様はとてもお強いのです。決して魔物をここに近付かせることはありません」
噂に聞いていた魔物は、本当にこの地を脅かす存在らしい。
けれど私は心配になる。騎士たちはみな体に傷跡を残している。魔物とは相当強い存在なのではないだろうか。
「本当に……アーサー様は、他の騎士たちと比べようもなく、お強い。だからこそ、一人、この地を背負われて戦われるお姿を、皆心配しておりました。ブランカ様が、アーサー様の帰る場所になってくださることが、私たちも本当に嬉しいのです」
「……」
私にはまだ現実感がない。魔物。討伐。戦う領主。旦那様の帰る場所に、私はなれるのだろうか。
「私に出来ることならば……」
帰る場所になること。
これが私の、ここでの役に立てることなのだろうか。
彼の親類と、団員や屋敷の人たちに祝福されて、小さな結婚式を挙げた。
「アーサーの想い人を迎え入れられて本当に嬉しいんだ」
「君たちを心から祝福するよ」
「どうか幸せにね」
「困ったことがあったら何でも言ってね。相談に乗るわ」
「ご結婚おめでとうございます!アーサー兄様を宜しくお願いします!」
「団長に祝福を!!ご結婚おめでとうございます」
なぜ大歓迎なのか分からずに、やっぱり終始首を傾げてしまった。
出逢ったこともない彼の親類までも、娘のように接してくれる。使用人たちもとても優しい。にこやかで、私を敬ってくれる。
(アーサー様なら選び放題だろうに……本当に私で良かったのかしら)
何も持たない私ではなく、もっといい人もいただろうにと思えてしまう。
けれど、婚姻はなされてしまった。ならば、健康だけは自慢の私は、妻としての役目を果たさなくては。
その夜、旦那様は言った。
「ブランカと結婚することが出来たなんて、夢のようです」
「アーサー様……」
「どうかアーサーと。ブランカ」
「アーサー……」
「ああ、本当にとても嬉しい。あなたが妻だなんて!恋い焦がれた人と結ばれることが出来る幸福な男がどれだけいると思いますか?僕は急ぎません。少しずつ、望んでくれるというのなら……夫婦になっていきましょう」
「あのアーサー。わたくしは、ずっと夢を見ているみたいで」
「夢?」
「騙されて……いえ、何か都合の良い夢を見ているような気持ちなのです」
「夢ではないですよ。大丈夫です、ゆっくり時間を掛けて……」
「なのでこれは現実なのだと教えてもらいたいのです」
「……え?」
「今夜は初夜です。わたくしが妻なのだと、教えてください」
「え、……いや、いや?えっ!?」
顔を真っ赤にし動揺した旦那様は「待って」「まだ君の気持ちが」「心の準備が」「あの僕も初めてで」「理性が」「抑えられないから」と次々とまくし立てていたけれど、長い夜の間に説得し、無事に初夜を終え、名実ともに私は彼の妻になった。
(とてもとても……優しかった。彼は全身全霊で私を求めていると、私は愛されていると……そう思えた)
それからの日々も、穏やかな時間が続いた。
『都会から来た綺麗な奥様』として、皆が私を歓迎してくれる。毎日、敬ってくれて、大事にしてくれる。それは夫も変わらない。大切な宝物のように私に接してくれるのだ。
「体は大丈夫?寒くないかい?」
「ええ」
「これから冬が来るんだ。少しでも辛いことがあったら言うんだよ」
アーサーは私を抱きしめながらそんなことを言う。
そっと私の頭を撫でる手つきはとても優しい。
彼の腕の中はとても居心地のいい場所で、私は少しだけほっと息が出来る気がした。
それでもいつまで経っても、どうにもこうにも現実感が湧かない。やっぱりなにか騙されているのではないか……と不安がよぎる。
そんなある日のこと。
「魔物が現れました!!」
屋敷の中が騒然として、騎士たちがすぐに山のふもとに発つことになった。
「いいかい、この屋敷には結界が張られている。ここで待っていれば安全なんだ。心配はいらないから、戻ってくるまで、待っていてくれ」
「お気を付けて旦那様……」
魔物とはどのような生き物なのだろう。どれほど強いのだろう。彼らは幾たび戦ってきたのだろう。
苦しいほど旦那様たちの無事を祈りながら、三日ほど過ごしたころ、騎士たちが帰還した。
「ご無事ですか……!」
「奥様」
「はい!魔物は無事討伐致しました!」
みんなぼろぼろの姿で傷を負っている者もいる。アーサーはどこだろうか。そう考えていると、一番後ろから一人馬に乗って戻ってくる姿が見えて――一瞬、ぞっとした。
私はその時……真っ赤な、悪魔の化身を見たのではないかと思ってしまったのだ。
とても険しい顔つきをしていた。今にも人を殺しそうな……冷たい眼差しが、どこか遠くを見つめている。
そして全身が血濡れていた。髪も顔も服も、全てが血に染まっている。
まるで威圧されているかのように、見ているだけで息が吸えなくなる。彼の周りだけ空気が違う。人ではないかのような張り詰めた空気を纏っている。
「――っ」
私がそう感じているだけではないんだろう。団員達も彼を遠巻きにしている。彼はたった一人遅れて馬を歩かせているのだ。
声が掛けらず立ち尽くしていると、副団長のリチャードさんが気遣ってくれた。
「団長……奥様です」
「……ああ」
どこかぼんやりと私に視線を移したアーサーは私を無表情に見つめてから少しだけ表情を緩めた。
「……ただいま」
「お、おかえりなさいませ。あの、お怪我は」
「ああ……心配ない。返り血だ」
心臓が煩いほどに鼓動を打つ。彼が戦士であることを、魔物と戦う領主であることを、今初めて実感したのだ。私が見て来た優しい彼は、きっと穏やかな日々の中だけの仮初の姿だったのだと。
その夜。
旦那様は、いつも以上に私を求め、優しいながらも激しく私を抱いた。朝まで何度も。
荒ぶった心を抑えるように。戦いを終わらせるように。愛と快楽の中で、人の姿を取り戻そうとするように。
やっと旦那様が眠りについてから、私は旦那様の安らかに眠る顔を見つめた。
ふぅ、とため息を吐いてから目を瞑る。体が熱い。切なくて哀しくて。何故こんなにも感情が溢れるのか分からない。
けれど私は、辺境に来てから初めて、やっと現実感を得られた気がした。
ここは王都から遠い……厳しい辺境の地なのだ、と。
その後三日ほど、旦那様は纏わりつくように私を頻繁に抱きしめていた。
抱きしめながら仕事をしたり、本を読んだり。
「だ、駄目ですよ。旦那様。皆さん見てますよ」
「なぜ駄目なんだい?」
「いいえ、奥様、宜しければそのままで。討伐の後に団長がこれほど穏やかだったのは見たことがありません。奥様のおかげです」
「……」
リチャードさんの言葉に、泣きたいような感情が心の中に溢れる。
旦那様の背負って来たもの。国の民はお伽噺のようにしか知らないもの。辺境の民たちにだけ負わされた使命。考え始めると、心の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
「愛している。ブランカ」
そう言いながら、アーサーは私のこめかみに口づけを落とす。その瞳には愛情と信頼の色が見える。
幸せそうに微笑みながら私を抱きしめ、安堵を感じている様子のアーサーを見ていて……私は初めて、騙されているのではなく……もしかしたら本当に愛されているんじゃないかと感じ始めた。
それから私は図書室で調べものをした。魔物についてだ。
『魔物とは。
古くから存在する、魔力を蓄えた生き物。強力な魔法攻撃をしてくる個体もいる。
生息域は年々減少し、今では北の地にのみ生息していると思われている』
(そうね……王都の人でも知っているようなことだわ)
昔は多く存在していたと言われているけれど、その具体的な話があまり残されていないのだ。
恐らく、それははるかな昔のことなのだ。お伽噺よりも前の……。
(お伽噺……)
あれは、もしかして、少しは本当にあったことを元にしたものなのじゃないかしら。
急にそんなことを思いついてしまって、居ても立っても居られず絵本を開く。
『剣の勇者の物語』
それは恐らく数百年は前から語り継がれている、民間の伝承だ。
昔々、凶悪な魔物が人々を襲った。
民が襲われ、国が荒れ、困った国王が、勇者様を召喚したのだ。
召喚できるような魔法が存在していないから、恐らく本当にお伽噺だろうと言われている。
物語の中で、勇者様は魔物を倒し、めでたしめでたし。
(……めでたしめでたし?)
もしも本当だったなら。
この物語の中の勇者様はその後どうなったの?
魔物とは結局、なんだったの?
(……この地に住む人なら、きっと本に書かれていること以上のことを知っているわよね)
旦那様に聞いてみよう。
私が質問したところで、嫌がられることなどないはず。きっといつものように優しく答えてくれるんだろう。
ぱらり、と絵本をめくっていた手を止める。
『お姫様は勇者様に言いました。
民の為に戦ってくださるあなたの為に祈りましょう。
朝も昼も夜も。あなたの健康と幸福を私は願い続けましょう。
安らかなる日も、病める日も、戦地からは遠い場所で過ごしていても。私たちのために戦ってくださるあなたのために、心は共に戦いましょう』
(――あ)
私、これを言ったことがあるわ。
騎士だったお父様に、子供の頃に毎日言っていた台詞。それは絵本が大好きだったからだ。
けれど……お父様じゃない人に言ったことがある。
あれはどこだったかしら。そう、たしか王宮のホールに向かう廊下。
はしゃいでいた私は……廊下で転びそうになったのだ。支えてくれたのが怪我をされていた騎士様だったから申し訳なくて、そうして詫びのつもりで、口癖のようだったその台詞を伝えたのだ。ああ、記憶が遠い。でも……あれは、あれはもしかしたら。
(……旦那様だったのではないかしら)
毎年この時期は、女たちは冬ごもりの支度に励むそうだ。
「吹雪の間は魔物が出ないんですよ」
「その代わりに冬ごもりの前に度々現れますがね」
「ひと月半ほど、皆家から出られなくなりますが、寂しいことはございませんよ」
「ええ、この屋敷には使用人のいくらかは残りますし、食べ物も豊富に蓄えてます」
「日頃の仕事から解放される……ちょっとした休暇のように私たちは考えているんですよ」
屋敷の者たちと村人たちに配る乾物を瓶詰にする作業をしながら、そんな話を聞いていた。
「特に……アーサー様にはゆっくり休んでもらわないといけませんからね」
「あんなに私たちのために戦ってくださっている方はおりません」
「安らいでもらえるために……私たちは楽しんで冬ごもりの準備をするんです」
不思議だな、と思う。
アーサーは、ここでは民に慕われ、恐れられている様子がない。
騎士である父を見て育った私ですら、討伐後のアーサーを怖いと思ったのに。
「魔物とは……恐ろしい生き物なのでしょう?」
私の台詞に屋敷の者たちは笑った。
「そうですよ。とても大きいらしいんです。背丈も私たちの倍以上!」
「ベアよりもずっと恐ろしいらしいですよ」
「防壁がありますからね。そうそう人が襲われることはありませんよ」
「山からは降りてきますけどね。大丈夫です!ホワイトヒルの騎士団はとても強い!」
「アーサー様に倒せなかった魔物などおりませんから!」
「御領主様の血なのです。お父様もお強かった」
「戦士10人でも倒せない魔物を、お一人で倒せてしまうのですよ」
そう、すごいのね、そんな相槌を打ちながら考える。
それは強すぎるのではないかしら。
魔物の恐ろしさを知っているからこその、盲目的なまでの民の信頼があるのだろうか。
「冬ごもりの支度をしてくれているんだってね」
「はい」
夜になり、寝室で二人きりになると、旦那様は毎夜私を抱きしめる。
毎晩、抱かれるわけじゃない。アーサーはむしろ、私をか弱い女性だと思い、気遣ってくれている。髪を撫で、時に頬に口づけを落とし、二人きりで他愛もない話をするのだ。
「私をホワイトヒルの一員として受け入れてくれて……みなさん良くしてくださってます」
「そうか。不自由はないかい?」
「はい」
この地に来て、居心地の悪い思いをしたことはない。
王都ではずっと寄る辺なく生きてきたのに。まるでここで生まれ育ったかのように、まわりが私の存在を受け入れてくれていた。
「吹雪の季節だけはね、自然には太刀打ちが出来ないんだ」
アーサーが穏やかな瞳で語る。
「命がけで魔物と戦うことは出来るのに、吹雪にはね、戦うことも出来ないんだよ」
彼の低い声が、とても心地良いと感じる。私は彼の声が好きだ。
「子供の頃から、冬になるとこの屋敷の中から吹雪を見続けた。屋敷に閉じ込められていると、時折、世界には自分一人しかいないのだと、不思議な錯覚に陥るんだ」
孤独を映す彼の瞳。
アーサーはいつだって孤高の戦士のようだ。
「だけど……」
アーサーは甘やかに笑うと、私をぎゅっと抱きしめる。
「今年は、奥さんと一緒だ!」
「あ、あの……」
「新婚だからね。蜜月を過ごすと言ってある。誰も、僕たちが二人きりで過ごすのを邪魔することはないよ」
「えっと……楽しみにされてますか?」
「もちろん!ああ、だけど、無理させることなんて何もしないよ。君にもやりたいことがあったら一緒にやろう。なんでも言って欲しい。僕が君の嫌がることをするなんて、何一つないのだから」
何から何まで本気で言っているらしいアーサーに恥ずかしくなってしまう。これではまるで愛され新妻のようだ。まるでじゃないのだろうけれど。
「ゆっくり……お休み出来るといいですね。私にも何でも言ってくださいね」
「ありがとう。奥さん。君の為に……僕は頑張れるよ」
「……」
自然に出てくる彼の台詞に、反射的に声をかけてあげたくなるのはなぜだろう。
喉元まで出かかる言葉は、『頑張り過ぎないで』だ。
せめて冬の間だけでも。
穏やかに過ごしてもらいたいな、と思う。
雪が降り出して、少しずつ積もり始めた。
まもなく冬ごもりが始まるだろう、そう言われていた時、また魔物が山から下りて来たとの知らせが届いた。
「すぐに戻ってくるよ。大丈夫いつものことだ。心配しないで待って居て欲しい」
アーサーは優しい笑顔でそう言うと団員たちと馬で駆け出した。
曇り空から世界を冷たく閉ざすように白い雪が降り注ぐ日々。
この天候での討伐が困難なものになることは想像出来た。アーサーはきっと、いつものことのように自分の身を削るように戦っているんだろう。
四日後、戻って来た団員たちに大きな怪我はなかった。
アーサーは前回と同じように、険しい表情をして神経を張り詰めていた。悪魔のような形相。彼の精神はそんなに簡単に戦いの場からは戻って来られないんだろう。それほどまでに過酷な戦いをしているのだ。
私に気付くとじっと見つめてから、一度視線を落として考えるようにしてから静かに言った。
「……ただいま」
優しく声を掛けようと……そう彼が務めているのを感じられた。
彼の心遣いにほっとする。人に戻ってくれたような気がするのだ。きっとそれはとても優しいアーサーだからこそ。
「おかえりなさい……旦那様。お帰りをお待ちしておりました」
翌日から、冬ごもりがやってきた。
戦闘の疲れからか、アーサーは一日ベッドから起き上がらなかった。もちろん私も。
通常の時ならそんなにのんびりとする時間の余裕はないけれど、冬ごもりの時期は特別なのだろう。
アーサーは甘えるように私に頭をこすりつけて、「愛している」と繰り返す。
仕方なく食事を寝室に持ち込んで、二人でだらだらと過ごした。
こんな怠惰が許されるなんて。冬ごもり凄い。そんなことを思っている私の気持ちを知ってか知らずか、アーサーはへにゃりとした幸せそうな笑みを浮かべて「幸せだ」と呟く。
(……本当に幸せ、なのかしら)
そんなことを思ってしまう私は妻失格なのかもしれない。
私の膝の上で、アーサーは安らかに眠っている。美しい銀糸のような彼の髪をそっと撫でる。サラサラとした髪は触れる度に窓からの光で輝く。
「……ブランカ」
アーサーは呟くと私の体に頭を寄せる。どうやら寝言のようだ。
不思議なことだけど……アーサーは私を必要としている。
それを毎日ただ実感する。
私に向けられる、偽りない笑顔。紡がれる誠実な愛の言葉。強く優しく、妻も民も守ろうとしてくれる、領主の心を持つ人。
そうして……無邪気な程に寄せられる信頼。彼はいつでも私を抱きしめると、体から緊張を抜く。ほっと安堵し、安らいでくれる。
(……好きにならない方がおかしいわ)
こんなにも純粋な愛情のようなものを、人から向けられたことなんてない。
必要としてくれる人さえいなかった。居場所なんてなかったのに。
泣きそうになるほど嬉しい。だけど、哀しい。
この人が私を好きになったのは、きっと、ただ通りすがりに祈りの言葉を掛けられたからだ。
誰よりも強いこの人は、領民を背負うように一人戦って生きて来たんだろう。
だからこそたぶん、今では聞きなれない祈りの言葉が彼の心に響いてしまったんだ。
見知らぬ少女の言葉に縋るほど……神経を張り詰めて生きてきたんだろうか。
討伐から帰ってくるたびに見るアーサーの姿を思い出す。
私が居なかったらアーサーはどうなっていたのかしら。一人で耐えて生きていけたのかしら。いつか限界が来たのではないのかしら。私がいても限界が来るのではないのかしら。
……私はずっと嫌な予感に囚われている。
この世界の魔物への脅威は、彼や……領主の血筋のものだけに任せていていいの?
もう、限界が来ているのではないの?
だって……アーサーの精神は……こんなにも疲弊している。
考えすぎなのかもしれない。
けれど、細く儚い光を掴むように私を愛してくれた……この孤独な戦士のことを想うと、愛しくて哀しくて、苦しくて、言葉にならない想いが胸から溢れそうになるのだ。
冬ごもりに入ってから、アーサーはにこにことよく笑う。
彼は私を抱きしめながら、いろんな話をした。
「あるよ。僕にだって苦手なものは」
「本当ですか?」
「南国のフルーツは苦手なものが多いな」
「まぁ……」
「王都では人気だろう?王宮に招かれるたびに出てくるから困る」
「代わりに食べたいくらいです」
「ふふ、僕のものなら何でも君にあげるよ」
「……私もですよ」
「ん?」
「私にあげられるものならなんでも差し上げますから……」
「……」
「一人だなんて思わないでくださいね」
「幸せで死にそう」
「死なないでくださいませ」
ずっと笑顔だったから。
私は少し油断していたのかもしれない。
このまま冬ごもりが、穏やかに過ぎると思っていたのだ。
毎日笑顔で楽しそうにしていたのに。
二週間を過ぎた頃から、笑顔が陰り出した。
アーサーは私から離れ一人過ごす時間が増えて行き、仕事をしているときもあったけれど、無表情に窓の外を眺める時間も多かった。
まるで心がここにないようだった。心が遠い戦地にあるような。
話しかけるとぎこちなく笑顔を浮かべ、優しく私に語り掛ける。無理してでもそうしようと努めているように。
一言で言うと、とてもショックだった。
アーサーには初日から無条件で愛されてきたのだ。何もしてないのに、無償の愛を与えてくれた。それは最初から分不相応のものだったのに、愚かなことに私はそれに慣れてしまっていた。
無意識にでも、好きになっても大丈夫だと思ったんだろう。あっという間に恋に落ちた。夫を心から愛し、大切だと思っていた。
まさか……すっかり心を許した後で、彼の気持ちが移ろうと想像していなかった。
私は馬鹿だ。少し考えれば分かることだったのに。だって、あまりにもまっすぐな愛情を注いでくれていたから……。
冬ごもりの間、魔物との討伐は行われない。
そうして、穏やかな時間の中で、お互いを知る時間を初めて持てた。
一緒に戦うという、祈りの言葉に価値が無くなるこの時期、ありのままの、何も持たない女である私に初めて向き合ったのかもしれない。彼が求めるような伴侶ではなかったのかもしれない。それはそうだろう。強く賢く優しい、どんな人でも求められるはずの彼が選ぶのは、本来私のような女ではないはずだ。
(早合点はいけないわ……)
心を落ち着かせて、慎重に、アーサーに話しかける。
「アーサー。話してくれませんか?どんなお話でも私は聞きます」
「ブランカ」
「ずっと様子がおかしいです。気付かれていますか?この三日、私に触れてもいません。私のことを嫌いになりましたか?」
「……え?ち、違うよ」
アーサーは慌てたように言う。
「僕は、ただ……良く分からなくなってしまって」
「何をですか?」
「困ったな……きっと分かってはもらえない……身勝手な想いだと思う」
アーサーは私をソファに促し、ゆっくりと語り出した。
「……ブランカ、ごめんね」
「どうして謝るのですか?」
「傷付けるような態度を取ってしまった」
「理由を聞かせてもらえますか」
「……うん」
アーサーは語り出す。
「君と結婚して、満たされて幸せで、もう冬ごもりの時期に世界で一人きりのような気持ちにはならないと思っていたんだ。だけど……違った」
「……孤独を感じたんですね」
アーサーは困ったように微笑んだ。
「君が笑っていて、穏やかで、毎日平和で……満たされるだけのはずなのに……どんどん、ここは僕の居場所ではない気がしてきた」
ぎゅっと固く組んだ手に力を入れて、アーサーは語る。
「僕が居てはいけない場所に放り込まれているような気持ちになって、居た堪れなくなった。一人になるとやっとほっとした。窓の外には幼い頃から見て来た、世界に僕だけを取り残すかのように降り続ける雪景色が見えた。そこが僕の居場所に思えた。そう思うと人を好きになる気持ちすらあやふやでよく分からなくなった。愛で満たされない僕は、人を愛することをできるのか?そんな資格のある人間なのか?と」
顔を上げ、懇願するように、アーサーは言う。
「君は何も悪くない。だけど……一人になりたかった。ごめん」
「……」
私に思うところがあるわけじゃない……?いやまだ分からない。
アーサーの心の根深い問題のようにも感じるけれど。
「……いいんですよ。一人になりたいときだってあります。きっと私にだって」
今のアーサーには一人の時間が必要なんだろう。
「だから、遠慮せずに言ってくださいね。無理をしないでください。出来たらお気持ちを話してください。分からないと、誤解してしまいますから」
「……そうだね。申し訳なかった」
二人とも黙り込んでしまうと、部屋の中はとても静かだ。暖炉の火の燃える音以外は何も聞こえない。
「私、思うんですけど」
「うん」
「寂しさってそう簡単に癒えないと思うんです」
「……」
「両親を亡くてしてから三年も経って、結婚して新しい家族が出来ても……気持ちが中々追いつかなかったですから」
「え、……え、そうなの?」
アーサーは目をぱちぱちとさせながら私を見つめる。
「ふふ。だって、知らない土地の、初めて出会う旦那様のところに嫁いで来たんですから」
「そ、そうだね。ごめんね。僕は最初から浮かれまくっていたね」
「いいんです。とても嬉しかったですから……だから、分かるんです。きっと、寂しいぶんだけ、孤独な分だけ、とても時間が掛かるんです」
「……」
「ご家族を亡くされたのはいつですか?」
「母は四つの時……。祖父は十歳の頃、討伐で亡くなった。父も討伐で……四年前だ」
知らなかった。四年前なら、きっと私たちが初めて出会ったころだ。
「お一人で領民を守って来たんですね」
「いや、一人ではない。皆が助けてくれた」
それでも……心から頼れる人はもういなかったはずだ。
「私は……少しほっとしてるんです。お互いに知り合う時間もないまま受け入れてもらえて……少し信じられないような気持ちになっていたんです。だから、素直な気持ちを教えてもらえて、旦那様も同じなんだなって分かって。ゆっくりでいいんです。何年でも……時間を掛けながら、家族になって行きましょう」
「ブランカ……」
夢みたいに愛される時間は終わってしまったかもしれないけれど、これは紛れもなく私の本心だった。
それからも冬ごもりの期間はまだ一月ほど残っていた。
同じベッドで眠っていたけれど、私は一人になりたいアーサーを出来るだけ尊重した。
そんな時私は屋敷に残る使用人たちに冬の間の民の遊びをいくつか教えてもらっていた。
子供の頃はアーサーもやっていたそうだ。いつか子供が出来たときには私が子供に教えてあげられたらいい。
子供……出来るんだろうか。アーサーの気持ちは本当に離れてしまわないんだろうか。
私には分からない。悩まないでもないけれど……彼の台詞を妙に納得してしまったのは、窓の外を見つめる彼の瞳を見てしまったからなんだろう。討伐から帰って来た時と同じ、独りで生きているかのようなあの瞳。
アーサーは以前と違い、毎日私と話す時間を取ってくれた。
お互いの話を少しずつした。生い立ち。何が好きか、どんなことを思って生きて来たか。出逢ったばかりなのだ。話すことは尽きない。彼はどんなことも楽しそうに聞いてくれる。私に興味がないようにはとても思えない。
「魔物討伐は恐ろしいですか?」
「普通ならきっとね」
「普通なら?」
「僕にはさほど恐ろしくはないんだ。どうしてだろうね。倒し方が……弱点が分かる気がするんだ」
「……」
「絵本を知っているかい?」
「剣の勇者の?」
「そうだ。我が家の者はあの勇者の血を……引いていると、そう言い伝えられている」
「そんな」
「お伽噺だ」
「ええ」
「だが……本当なのかもしれないと、思うことがある」
「……」
「他にも言い伝えはあるのだが」
「どんなことですか?」
「そうだね、少しずつ話すよ」
そんな風に過ごしているうちに日々が過ぎて行く。
「吹雪が弱まってきましたか?」
「そうだね……もう数日かもしれないね」
以前よりも晴れ間が増えた気がする。思っていたよりも冬ごもりの期間はあっという間だった。
この冬の間に、アーサーとは沢山の話が出来たのだ。私としては充実していたと思う。
「ブランカには気ばかり遣わせてしまって、申し訳なかった」
「そんなことありませんよ。とても楽しかったです」
「僕の奥さんは優しすぎるよ」
「旦那様ほどじゃありませんよ」
アーサーがそっと私を抱きしめる。以前ほどじゃないけれど、彼が私に触れる頻度が増えて来ていた。いつだって優しく宝物に触れるように接してくれる。
大事にされていないだなんて、そんなことを思ったことはないのだ。
「たくさんの話をしましたね」
「ああ、君のことを知れて嬉しかった」
「私もですよ」
旦那様の胸に顔を寄せて、心からそう言ってから、顔を上げる。
「……だから今なら上手く伝えられる気がするんです」
「うん?」
「私の気持ちを聞いてくれますか?」
「もちろんだ」
不思議そうな表情で私を見下ろすアーサー。
この冬ごもりが終わる前に伝えておきたい。まだ一度も伝えていないことを。
「旦那様」
彼の両手を私の両手で握り締めて、精一杯彼を見上げる。
「民の為に戦ってくださるあなたの為に祈りましょう」
アーサーが目を瞠る。
「朝も昼も夜も。あなたの健康と幸福を私は願い続けましょう」
息を呑むようにして彼は私を見つめ続ける。
「安らかなる日も、病める日も、戦地からは遠い場所で過ごしていても。私たちのために戦ってくださるあなたのために、心は共に戦いましょう」
心を込めて、言葉を綴る。
握ったアーサーの手が震えている気がする。
アーサーは一気に頬を朱に染めた。
(やっぱり……この言葉は、アーサーの心に響くのね)
これは絵本の文言だ。
「……この言葉を、王宮で騎士様に伝えたときのことを思い出しました。父に連れられて行った初めての王宮で、私はまだ子供でした。足をくじくように転びかけて……騎士様が助けてくれて。だけどその方は鎧の下で怪我をされていた。思わずあげられたようなうめき声で分かりました。優しいその方のために私は祈りました。あれは旦那様ですよね」
アーサーは私をじっと見つめてから、ふっと照れたように笑う。
「そうだ。よく覚えていたね。あんな一瞬の出来事だったのに」
「そうですね。兜を被られていましたから。あれでは分かりませんよ」
「あの時は討伐で父が亡くなったばかりで……僕も傷跡が多くてね。あんな晴れの舞台の席でそんな姿を晒すのは申し訳ないかと思い隠していたんだ」
今なら、そんな優しい気遣いはアーサーらしいと思える。
「あの日……一緒にいたのは父なんです。王立騎士団に所属していて、私は両親に愛されて育った幸せな子供で……あの日言った言葉は、絵本が大好きだった私が、父に毎日言っていた言葉だったんです」
「そうなのか」
アーサーは、続けて、なるほどと言った。
「ホワイトヒルの民から聞くことはあっても、王都であの言葉を聞いたときは驚いたよ」
「そうですね……文言を覚えている者は珍しいかもしれませんね」
きっと子供の頃読んだきりの人が多いだろう。
「父はとても強かったけれど……母とともに、馬車の事故で亡くなりました。叔父が引き取ってくれたけれど、その家に私の居場所はなくて……私はずっと寂しくて、とても、孤独でした」
「……」
「結婚が決まったときに思いました。人の役に立ちたい。誰でもいいから必要だと言われたい。だけど、私は結婚して知りました」
アーサーの瞳をまっすぐに見つめて私は伝える。
「ずっと一人ぼっちだと思っていたけれど、孤独に苛まれていた辛かったあの時期も、私の言葉はアーサーの中に残っていたのですね?」
「もちろんだ」
アーサーが強く手を握り返す。
「ずっと忘れられなかった。戦うときも、日常も、心を支えてくれる言葉に思えた。けれどだからといってあの幼い少女を娶ろうとか、そういうことを考えたわけじゃなかった。ただ忘れられなかった。何年経っても心に残る少女のことを調べて、初めて両親を亡くしていることを知り、婚姻を申し込んだんだ」
その……と、アーサーは照れるように続ける。
「経緯を話してあるから、きっと、僕の片思いの相手に嫁に来てもらえたと……皆はしゃいでいたかもしれない」
納得だ。皆さん、最初から微笑ましく見守ってくれていた気がする。
「ふふふ」
「ブランカ?」
「私がどれだけ嬉しいか分かりますか?私は一人ぼっちじゃなかったんですよ?誰かの役に立ててたんですよ?苦しくて辛くて、息が吸えないような気持ちになっていたのに……誰かの役に立てていた!」
「ブランカ、泣いて……」
「嬉しいんです。嬉し涙です」
「ブランカ」
アーサーの剣士の指が私の涙を拭う。優しく、心配そうに。
「もう二度と、父に伝えたようには、心から幸福を願う祈りの言葉なんて誰にも伝えられないかと思っていたのに」
ふふふと笑う。
「あなたを好きになって……私はもう一度、心から、この言葉を紡げるんです」
あなたに届きますように。
「私たちのために戦ってくださるあなたのために、心は共に戦いましょう」
泣き笑いの私を見つめるあなたの心に。
「人はきっとずっと孤独です。全てを分かり合うことまでは出来ません。けれど孤独に堕ちてもいいのです。私を一緒に連れて行ってください。隣で寄り添わせてください。独りだと思わないで。隣にいること。それが私の喜びです。信じてください。私はあなたの役に立てることが、こんなにも嬉しいのだと。どんなときでも、一緒に戦いましょう」
アーサーは呆然とした表情で聞いていた。
「一緒に……?」
アーサーは私の台詞に、顔を歪ませて、泣きそうな表情をした。
ぐっと噛みしめるように表情を引き締めて、それから、瞳に涙を湛えた。
「は……っ、なんだこれ……」
拳でごしごしと目をこすっている。あふれ出る涙に、自分で驚いている。
私も、びっくりした。アーサーが泣くと思わなかった。
厳しく育てられたらしいアーサーは、もしかしたら、泣くことも許されなかったのかもしれない。
泣き顔の私たちは顔を見合わてしまう。どうしようと、困ってるように。
その顔を愛しいと思ってしまう。
好きだわ。
優しくしたい。愛したい。そんな気持ちでいっぱいになってしまう。
「アーサー。私は、世界で一番あなたが愛おしいのです」
私の言葉が、彼の心に届いて良かったな。
一人きりで生きてる彼の心を動かせて良かった。
私はこの人と違って、本当にただの平凡な、何も持たない女だけど……。ほんの少しでも彼を救い上げられるなら、私自身にも価値があるんじゃないかと思えてくる。
私が私であって良かった。彼が彼であって良かった。巡り合えて良かった。
「愛してます」
まだ新婚で。出逢って数か月。夫婦としてはまだまだこれから。
だけどとっくに、私は私の旦那様を大好きになってしまった。たくさんの愛情と優しさを与えられて。
そうしてやっと、私も彼に愛情を伝えられた。
もしかしたら一人で生きて生きた彼は、こんな風に当たり前に愛情を返されることも、想像していなかったのかもしれない。
どうか、この人と寄り添える人生を歩めますように。
今度はアーサーが泣き顔で笑う。
「僕も……愛しているよ」
「ふふ」
「やり直してもいい?」
「え?」
「蜜月を、最初から」
「も、もちろん」
そうして冬ごもりが終わるまでの三日間。私たちは、今まで以上に仲良く過ごした。
日常が戻って来た。
雪は降り積もっていたけれど、吹雪は止み、これまでと変わらない日々が始まっていく。
アーサーは、とても落ち着いているように見えた。
冬ごもりの時期の不安定な情緒はもう垣間見えなくなった。嫁いで来たころのように明るく朗らかで、けれど、以前よりもずっと穏やかだった。
「奥様。春は、リーンの花が咲き誇るんですよ」
「リーン?」
「そうです。この北の地にしか咲かないと言われている、青い小さな花なんですよ」
「この辺り一面に咲き誇りますから、楽しみにしていてくださいね」
「幸福の花、なんて言われていますからね」
みんな春に想いを馳せている。
そうね、見てみたいわ。アーサーの生まれ育った大地の、幸福の花。きっと素敵な光景が見られるんだろう。
そんな風に少しぼんやりと過ごしていたら、国からの急な使者がやってきた。
「王都に魔物だと……?」
使者の知らせに、皆が絶句している。
王都で暮らしていた私は魔物など見たことがない。本来いるはずもない場所に現れたというのだ。
使者は、王宮の魔法使いを連れている。緊急の転移魔方陣で訪れたという。
そうして、討伐部隊を連れて早急に王都に戻るようにとのことだった。
「なぜ、そんなところに。この数百年、王都などに現れなかっただろう?」
「大変言いづらいのですが……。王宮魔法使いに名を連ねている、第四王子殿下が、召喚魔法を使ったのではないかと推測されています。もう遺体が見つかっているのですが」
召喚魔法。それは絵本に書かれていた、勇者様を召喚したという、存在しないと言われている魔法。まさか本当にあったのか。
「馬鹿なことを……支度を!準備が整い次第向かう」
「は!!」
私はアーサーを追いかけて彼の服を掴んで引きとどめる。
「旦那様、私を連れて行ってください」
「……は?」
「旦那様には、私が必要です。独りには出来ません。どうか連れて行ってください」
「何を言って……」
困惑するアーサーに、使者の一人が言った。
「王宮魔導士たちが、王城に魔物を閉じ込めております。城下の民には避難を呼びかけておりますが、まだ危険は及んでいません」
「魔物は、既存のものと変わらないのか?」
「大きさ、形からはそうです」
「僕たちで倒せるものということか」
アーサーは少し考えてから「よし」と言った。
「ブランカ、君を連れて行こう。王家の行いを、君は知っておくべきだろう」
転移魔方陣での移動は、眩暈と吐き気がした。
ふらつく体をアーサーが支えてくれる。一瞬で私たちは王城の前の魔方陣の上に立っていた。
「この先結界が張ってありますが」
「奥様を連れていかれるんですか?」
副団長のリチャードさんが心配そうに言う。
「彼女には顛末を見せる」
「あなたがそう言うのなら……」
結界を潜り抜けるときに、不思議な耳鳴りがした。
本来たくさんの人が行き交うだろう城の中はとても静かだった。
廊下を進み階段を上がると大きな扉の前には、たくさんの魔法使いたちが居た。
「お連れしました」
「この中にいます!魔物一体。死体がいくつかありますが、生きている者はおりません」
「……了解した。魔法使いたちは、ブランカだけを守ってくれ。僕たちのことはいい」
「分かりました。防御魔法を掛け続けます」
「頼む」
扉を開くと、そこには輝く魔法の鎖のようなもので体を固定されている、大きな獣のようなものが居た。真っ黒の巨体で、私たちの三倍ほどの大きさ。ぞっとするほど気味の悪い長い毛を逆立てている。
「拘束されているのか。ならばすぐに片が付くな」
アーサーが一歩踏み出す。
「王の間に巨大な魔方陣。力を欲する者が、この世のものではないものを召喚する。どうして、幾たびも、同じ過ちを繰り返すのか」
彼の声に反応したように、魔物が彼を見つめた。
アーサーが剣を向けると、彼に向かって咆哮を上げる。
「グオオオオオオオォッ」
大きく暴れ、アーサーに襲い掛かろうとするけれど、魔物は動けない。
アーサーは冷静な表情のまま魔物の前に歩き進んだ。
「お前は分かるのか。私が」
アーサーが言った。
「同じ世界から呼び出され、同じようにこの世界に囚われた私のことが。お前が、二度と戻れることはない。これ以上罪を重ねる前に、ここで大人しく死ね」
アーサーの剣が魔物を二つに切り裂いた。剣が輝くようにして、魔物の体に白く光る断面を描く。
魔物は血しぶきを上げて倒れた。一面の赤。
ゆっくり振り返ったアーサーは血に染まっている。銀色の髪も。白い肌も。そうして瞳でだけ、じっと私を見つめた。
「……ブランカ」
そう呼ばれた気がした。とてもとても小さな声で。
討伐は無事に終わり、離宮に部屋を用意してもらった。
ベッドの上で、アーサーは私に教えてくれた。
「魔物も勇者も、かつて王家が召喚した、別の世界の存在なんだ。王家に連なる者や、魔法使い、そうして我が領地の者たちしか知らぬことだ」
あの絵本のお話は、遠い昔、本当にあったことなのだそう。
「魔物を従わせることが出来なかった。元々が寒い世界から来たのだろう。魔物は北へ逃げた。そして獣と結びつき繁殖した。人々が襲われた。けれどこの世界の人間は魔物には太刀打ちできなかった。致命傷を負わせることが難しいんだ。命の源と呼ばれる物を壊せない。だからもう一度呼び寄せたんだ。魔物を倒せる者を。それが勇者と呼ばれた者であり、僕の先祖だった」
ホワイトヒルの領主、そして民のいくらかは、その血を引いているのだという。
「討伐したように思えたが……魔物は絶滅しなかった。血が繋がれてしまった。魔物も、勇者もね。それが今でも残っている。団員達も血は薄まっているけれど、同じ血を引いている者が多い。彼らは魔物討伐に普通の人間よりも優れている。けれど……年々、魔物の数が減っている。僕の代で、お互いに消えていくのではないかと思っていた」
消えて行く……?
不安に思いながらアーサーを見上げると、彼は私の頭を撫でた。
「元々この世界の生き物ではなかったからね。生きるのに適していないんだ。魔物も、勇者も淘汰されても不思議ではない」
それは……アーサーも?
「心配しないで。僕は君の隣で生きるよ……いいかな?」
「ええ。ずっと一緒に居てくださいませ」
アーサーは私を抱きしめて、穏やかな声で言った。
「終わりが見えていたのに……新たに魔物を招き寄せてしまった。けれど、この悪行は、今度こそ民に知れ渡る。愚かなものは罰を受け、そうして、未来への戒めとなることだろう」
優しい声に、だんだんと眠くなる。
「魔物が消え、僕たちの使命が無くなり、長い因縁が終わる。次の世代に持ち越さないことが、僕の目標なんだ」
アーサーは優しく私の頭を撫でる。
「そうなったとき。僕は」
もう起きていられない。
「朝も昼も夜も。ブランカ。君の健康と幸福を願い続けるよ」
おやすみ、とそんな言葉が聞こえた気がする。
春が来た。
転移魔法を使う魔法使いたちが私たちを王宮へ運んでくれた。
王宮にて、ホワイトヒルの功績を称える晩餐会が開かれるのだ。
「私なんかが行っていいのかしら」
「君以上にふさわしい人なんていないよ」
「デビュタントの時しか参加したことがないのよ」
「僕だってほとんどないよ。綺麗だ、ブランカ」
私以上に美しい旦那様に褒められて恥ずかしくなってしまう。
王の間での、表彰、褒美の授与があった。
今回のことは、隠されることはなく、第四王子が魔物を召喚したことが知れ渡っている。
王や他の王子には魔法適性がないそうだ。魔法の才に優れた王子の暴走……ということになっているが、召喚の術式を記録の全てから抹消することが約束された。「とはいえ、今知っている者たちがどうするかは分からないけどね」とアーサーは不穏なことを言っていたけれど。
リチャードさんたちは「今王都では勇者伝説の物語が流行ってるんですよ!」と盛り上がっていた。民たちに、剣の勇者の物語が再び人気になり、その末裔であるホワイトヒルの物語として、新しくお芝居にしたい!という話も来ているんだそう。それはちょっと見てみたい。
晩餐会での主役は私たちであった。
あまり顔が知られていないアーサーはとても注目されていた。若く美しい、誰よりも強い騎士である辺境伯。
私に声を掛けてくれる人には少し話したことがある学友もいた。
「本当はもっと親しくなりたかったのよ。あなたはとても感じが良かったから」
そんな風に言ってくれる人もいた。
あの頃、私は意識して人を避けていた。叔父の家で、肩身の狭い思いをして暮らしていて、従妹は私が目立つのを嫌っていたから。
「ブランカ」
アーサーと一時離れ、一人で佇んでいると、その従妹が私の名を呼んだ。
華やかな容姿の、気の強い従妹。仲良くはなれなかった。
「あなた、その高そうなドレスはなに?どうしていい暮らしをしているの?化け物のところに嫁ぐはずだったじゃない!」
呆気に取られる。化け物?そんな風に思っていたの?
「リリーゼ、何を言っているの?」
「小さなころから、私より上等な服を着て、上等な暮らしをして、どうして今でも!」
「え?」
「みんな、貴方がいいって。貴方の方が好きだって。どうして!」
癇癪を起すのはいつものことだったけれど。従妹がそんなことを思っていただなんて、少しも知らなかった。
「失礼」
アーサーが大きな体を私たちの間に挟み込む。
逞しい肉体と、美しい顔の貴公子が現れて、リリーゼが頬を染める。
「みんなのことは知らないけれど、僕は、僕の奥さんが世界で一番好きだよ」
「アーサー……」
泣きそうな顔で、リリーゼが顔を歪ませる。
長く一緒に暮らしていたのに、彼女が抱えていた劣等感のようなものに、少しも気が付かなかった。
「リリーゼ、私はあなたが羨ましかったわ。優しい叔父様。愛してくれる叔母さま。私にはない社交的な性格。私は持っていないものがとても多いから。あなたの家で暮らしている間、あなたに憧れていたわ」
だけど今は、誰かを羨むことはない。
私が私だったから。この人に出逢えたのだ。この人と……愛し合えたのだ。
「遠くから、幸せを祈ってるわ。リリーゼ」
愛する人と抱き合いながら言う私の言葉は、きっとリリーゼには伝わらないだろう。
だけどいつか、分かってくれると良いなと思う。
領地に戻った。
「素敵ね!素敵だわ!」
「お気に召してもらえて嬉しいよ」
ホワイトヒルにはリーンの花が咲き誇っていた。幸福を意味する花。青く小さな花が一面に広がる丘。幻想的な、美しい光景だった。
「毎年春になるとこの景色が見られるのね。ここに来て良かったわ。とても幸せだわ」
「そうだね。きっと飽きるほど見られるよ」
「押し花を作ってもいい?」
「ああ」
花を摘む私の横で、アーサーは慣れたように花冠を編んでいた。
「上手ね」
「子供の頃から作ってたんだよ」
「誰に?」
「……乳母とかに、だよ」
苦笑しながら私の頭に花冠を載せてくれた。
「綺麗だな……」
彼は目を細めるようにして私を見つめている。
「僕は乳母に言ったんだ。どうしてリーンは幸福の花と呼ばれるの?ご先祖様も幸福を感じられたの?って」
小さなアーサーの無垢な瞳を想像する。どんな気持ちでこの光景を見ていたんだろう。
「乳母は言ったよ。大きくなって、大切な人に花冠を贈るときには分かりますよって」
「まぁ……」
それはまさしく今の状況ではないのかしら。
「……どうでしたか?」
アーサーは破顔してから、私を強く抱きしめた。
「冬が明けて、暖かい景色の中に、僕を見つめる最愛の奥さんがいる!幸せで夢みたいだ!」
彼の言葉に笑ってしまう。
「私もよ。幸せ過ぎて夢みたい。ちゃんと現実なんだって、私に教えてくれますか?」
アーサーは少し考えてから楽しそうに微笑んだ。
「いくらでも。僕にも教えてくれるの?」
「もちろん」
生まれ育った場所から遠い、美しい北の大地で。
夫になった人は、明るい太陽の下で、私に口づけを落とした。
fin